偏差値79の男

御神 十夜

第1話

 五月に入って最初の水曜日。昼下がりのキャンパス内にあるカフェはゆったりとコーヒーを楽しむ者や、パソコンを持ち込んで課題に勤しむ者などで相応の混み具合を見せている。

 

 その一角、中庭に面した良席に二人の男が向かい合っていた。その片方はカフェの小洒落た雰囲気に慣れずに視線を泳がせている。――実はこれ、俺自身のことだ。

 

 対照的に俺の正面でホットコーヒーを味わっている彼は蓮水さん。なんでも彼は社会人入試の制度を使ってこの大学に来たらしい。新しい講義で席が隣り合い、会話を交わすうちに昼休みやほかの講義も共にするような仲になった。依然、彼には不明な点が多いが、なりたての友人関係とはこんなものなのだろうか。


「いやぁ、ごめんね。お友達になってくれて早々に迷惑をかけちゃって」

 詳しい年齢は聞いていないが、自称アラフォーには到底見えない若々しい笑みを蓮水さんは見せた。

「いえ、構いませんよ」

 そう言って俺は彼が休んでいた分の授業プリントを渡す。

「それにしても大変でしたね。確かおじいさんが亡くなられたんでしたっけ?」

「うん、父方の……、祖父にあたるかな。親族が少なくて人手がなくてね。色々やらなきゃで大変だったよ」

 うち、祖父以外は比較的短命の家系なんだよね、と蓮水さんは笑った。

「シャレになりませんよ……」

 俺は冗談に返し慣れていないから、とりあえずそう言ってコーヒーに手を付けた。

「やだなぁ、そんな苦い顔しないでよ。ねっ?」

「いや、これは……。……、そうですね」

 本格的なコーヒーなんて飲んだことがないからこんなに苦いとは思わなかった、という格好悪い本音は隠すことにした。



「そうだ、おもしろい話、してあげようか?」

 微妙な沈黙に居心地を悪くしていた俺を知ってか知らずか、蓮水さんは唐突に話題を振る。

「帰省先での話ですか?」

「うーん、まぁそうだね。地元にいたおじいさんの話、とでも言っておこうかな」

「自分から振ってきた割に随分ぼやかすんですね」

 そう言ってから俺は少しハッとなった。

 

 仏頂面で思ったことをストレートに言ってしまうのは俺の悪い癖だと日頃から両親や、片手で数えるに事足りる友人に言われてきた。きっと俺に自覚があまりないのも

問題なんだろう。

 不安になって蓮水さんの顔を窺うが、彼はどこ吹く風、といったようにいつもの温和な笑みを浮かべていた。

「はぐらかしているわけじゃないんだよ?」

 

 時折、蓮水さんの真意が見えなくなる時がある。俺をからかっているのか、それともこれが大人の余裕なのだろうか。

「まぁ、聞いてよ。そのおじいさんはね、小さな頃から神童って言われてきたんだ。友達とかけっこしても絶対一番になるし、勉強だって学校一、おまけに今で言うイケメン、だったんだって」

 思いがけない自慢話に、はぁ、と俺は気の抜けた返事をしてしまう。

「彼は勤勉な人でね、通っていた旧制大学、それが当時の東京帝国大学らしいんだけど。そこの先生の目に留まって、卒業後はそのまま教師として働くことになったんだ」

「東京帝国大学ですか……。でも、旧制ってことは戦前ですよね?」

 なんでも帝国大学から改称したての頃みたいだから相当古いよね、と蓮水さんは話を続ける。


「それが彼、何かの研究に没頭しちゃったらしくて、ずーっと研究室に籠るようになっちゃったんだ。それからあの情勢不安に戦禍でしょ? 落ち着いた頃にはみーんな彼のこと忘れていたんだ」

 蓮水さんの話からざっと計算すると、東京帝国大学への改称は一八九七年。その頃二十五、六歳と考えると終戦の頃には七十歳近いことになるか……。

「それで、皆が忘れきった頃にやっと出てきた、ってオチですか?」

「うーん。正確に言えば不正解、かな」


 予想外の蓮水さんの返事に戸惑う。

 てっきり俺は戦禍にも気づかず研究に熱中した、ある意味馬鹿な男の話だと思っていた。

「いや、ちゃんと出てはきたんだよ」

 神妙な顔で蓮水さんはテーブル越しに身を乗り出してくる。心なしか口調もゆっくりだ。



「それが若い時と何一つ変わらない容姿で、終戦から三十年後にね……!」



「ふっ……、あははははははは」

 場所も忘れて俺はひとしきり笑った。だって一体どんな結末を伝えるのかと思ったら、百歳近い爺さんが若い頃そっくりそのままの姿で現れた、なんてあまりにも幼稚すぎるじゃないか。


「ちょっと! 笑うところじゃないよ? それに本当の話だからね?」

 蓮水さんは少しいじけたような顔になる。

「それに、この話はまだ続くんだから」

「はいはい、分かりました。聞かせてください」

 からかってるでしょ、と言いたげな蓮水さんの視線には気付かないふりをした。

 続きがあると言うのなら面白い、聞いてやろうじゃないか。

「彼はもちろん周りの変化に戸惑ったんだけど、それ以上に好奇心が優ってね。当時の、――今で言う全国模試みたいなものかな。それに参加したんだ。結果、どうだったと思う?」

「そりゃ、まぁ、語り継がれるくらいですから平均点くらい余裕で取ったんじゃないですか?」

「ニヤつきながら言うんじゃありません」

 思わず感情が顔に出てしまっていたようだ。

「驚くことに彼、偏差値が七十九もあったんだよ!」

 頭も運動神経もおまけに顔面まで偏差値七十九ってね、と決め台詞のように蓮水さんは言った。

「でも彼、それで悪目立ちしちゃってね。田舎での隠居生活を決め込んだんだ。そこで若い奥さん――見た目上はあまり変わらないんだけどね――をもらって、子供もできた」


 そうか、その田舎とやらが蓮水さんの地元なのか。

 しかし、こんなにも伝説のように語られては隠居の意味が無いのではないか……?

「でも不思議なことにね、その子供たちの家系はなぜか短命になっちゃったんだ」

 おじいさんに寿命を吸い取られちゃったのかな? と蓮水さんは笑う。


 短命の家系……、さっきの蓮水さんの言葉を思い出す。


「まさか、蓮水さんはその子孫だったりするんですか?」

 半分冗談で、でも半分はおとぎ話を信じ込む子供の気持ちで俺は尋ねた。

 しかし蓮水さんは何も答えることはなく、ふっ、と目を細めて話を続ける。

「おじいさんの最期は静かなものでね、看取ったのは都会から駆け付けた孫たった一人だけだった」


 伝聞調じゃない、蓮水さんのその口調が引っかかった。

「それって……」

 恐る恐る蓮水さんの顔を窺う。相変わらず表情は読めない。このままだったらきっと、蓮水さんはこの話の重要な部分は決して明かさないだろう。でも俺はなぜかちゃんと聞けば蓮水さんは素直に教えてくれる気がした。

 子供騙しの作り話、と高を括っていたさっきの自分も忘れて、とにかく追及せずにはいられなかった。

「蓮水さんのお祖父さん、何歳で亡くなられたんですか……?」

 正解、と彼の目が言ったような気がした。

「俺、祖父さんが生まれた年だけははっきり覚えているんだよ」



 彼の唇がゆっくり数字をなぞる。



 「一八七二年……?」

 


 享年にして百四十四歳。


「偏差値七十九の男は寿命においても例外なし、ってね」

 蓮水さんはカップの残りをくい、と流し込み立ち上がった。

「さぁ、もうすぐ講義が始まる時間だね。行こうか」

 そう言われて俺はようやく我に返った。慌ててコーヒーを飲み込む。その強い苦みでもこの戸惑いは上書きできなかった。

 

 プリントのお礼、とまとめて会計をしてくれている蓮水さんの後姿を見ながら、ふと一つの疑問が浮かんだ。


「蓮水さんって今、いくつなんですか?」

 彼は財布を胸ポケットにしまいながら振り返った。

「やだなぁ、歳なんて恥ずかしい。言ったでしょ、アラフォーだって」 

 


 「お祖父さんが親族から吸い取っていた寿命、今度は誰のものになるんでしょうね……?」

 

 きっといつもの笑みで、そんなことあるわけないじゃない。と返してくれると俺は前を歩きだした蓮水さんの背中を見て思った。

 いや、きっと、答えがそうであるように望んだんだ。

 


 初夏の風が蓮水さんの髪を撫でていった。それと一緒に蓮水さんは振り返るとそっと唇を動かした。


 

〝言わなくても分かってるくせに〟

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偏差値79の男 御神 十夜 @Mikami_Tohya

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