A氏とりんごの木

悠戯

A氏とりんごの木

わたしはりんごの木。


 とある若夫婦の住む家の庭に生えている。


 この家の奥さんが種を植えてわたしが生まれた。


 まだ小さな苗木だけれど、やがては大きな木になりたいものだ。




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 わたしはりんごの木。


 たくさんの日差しを浴びて、地面から栄養を吸い取って、わたしはぐんぐん成長している。


 この家の奥さんが毎日ジョウロで水をくれるのがとても心地良い。


 しかし、奥さんにはおっちょこちょいなところがあって、たまに水やりを忘れることがある。


 そういう日は旦那さんが苦笑しながら水をくれるが、もっと注意してほしいものである。


 わたしに口があったら奥さんに抗議しているところだ。




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 わたしはりんごの木。


 苗木だったわたしもだいぶ大きくなってきた。


 もうすぐ奥さんの身長を追い越せそうだ。


 じきにのっぽの旦那さんよりも大きくなるだろう。


 もっともっと大きく、いつか家の屋根よりも高く伸びてやろう。




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 わたしはりんごの木。


 毎日この庭の同じ場所から世界を眺めているが、同じように見える景色にも日々変化があるものだ。


 庭に来る鳥や、どこかの家の猫や、小さな虫たちの営み。


 それらの小さな変化を見ているとまるで飽きるということがない。


 そういえば、この家の奥さんにも変化があった。


 まだそんなに目立たないがお腹が少し大きくなってきたのだ。


 きっとしばらくすれば赤ちゃんが生まれてくるんだろう。




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 わたしはりんごの木。


 最近のわたしには新しい楽しみができた。


 もうすぐ生まれてくるであろう赤ちゃんを早く見てみたい。


 いつもは物静かな旦那さんも、ここ最近はそわそわと落ち着きなくすごしている。


 奥さんのほうは落ち着いていて、旦那さんと一緒に赤ちゃんの名前を考えたりしている。


 ああ、楽しみだ。


 男の子だろうか、それとも女の子だろうか。


 その子が大きくなる頃にわたしの実が生っていたら食べさせてあげよう。




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 わたしはりんごの木。


 奥さんのお腹はいよいよ大きくなってきた。


 もういつ産まれてもおかしくないんだろう。




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 わたしはりんごの木。


 いつもは旦那さんと奥さんの二人だけの家に急に何人もの人がやってきた。


 二人のお父さんとお母さん、つまりは赤ちゃんのお祖父ちゃんとお祖母ちゃんになる人たち。


 それから産婆さんだというしわくちゃのお婆さん。


 庭からだと見えないけれど、お湯を沸かせだの、布を用意しろだのという声が聞こえてくる。


 きっともうすぐ赤ちゃんが産まれるのだろう。




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 わたしはりんごの木。


 庭に生えているわたしのところにまで、家の中からおぎゃあという産声が聞こえてきた。


 きっと無事に赤ちゃんが産まれたんだろう。


 ああ、よかった。


 旦那さんも、奥さんも、お祖父ちゃんやお祖母ちゃん達もみんなが赤ちゃんの誕生を喜んでいる。


 わたしも嬉しい。


 どうか健やかに育ちますように。




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 わたしはりんごの木。


 産まれた赤ちゃんは元気な男の子だった。


 赤ちゃんはAちゃんと名付けられ、毎日よく寝て、よく泣いて、お母さんのお乳をたっぷり飲んでいる。


 たまに旦那さんか奥さんに抱っこされてわたしの生えている庭にも来るが、とても可愛らしい。


 子猫や小鳥もそうだが、小さい生き物というのはなんであんなに可愛いのだろう。




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 わたしはりんごの木。


 Aちゃんは毎日すくすくと成長している。


 わたしもいつの間にか旦那さんよりも背丈がずっと高くなっていた。


 もうすぐ屋根の高さにも追いつきそうだ。




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 わたしはりんごの木。


 ついこの間から、Aちゃんはハイハイができるようになった。


 色んなところに勝手に行ってしまうので、旦那さんと奥さんはいつもヒヤヒヤしている。


 一度、庭に出てきてわたしの根元に来たこともあった。


 こんなに小さいのにびっくりするほどの行動力だ。




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 わたしはりんごの木。


 わたしがこの庭に植えられてから何年も経って、ようやくわたしは実をつけるようになった。


 まだ小さい実が多く、形も不揃いだが、来年からは毎年実をつけることができそうだ。


 ちなみに今年の実はまだ渋い上に酸っぱくて美味しくなかったらしい。


 味見と言って、もいだ実をかじった旦那さんが顔をしかめていた。




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 わたしはりんごの木。


 Aちゃんは一人で歩けるくらいにまで大きくなった。


 旦那さんと一緒に庭でボール遊びをしたり、奥さんと一緒に絵本を読んだりしている。


 Aちゃんは、もう屋根より高くなったわたしの枝に登ろうとしたこともあった。


 慌てた旦那さんが急いで下ろしたけれど、Aちゃんの目はまだ登ることを諦めていないようだった。


 せめて落ちて怪我をしないといいのだけれど。




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 わたしはりんごの木。


 とある年の秋のこと、わたしに生った実を使って奥さんがパイを焼いた。


 Aちゃんも旦那さんも大喜びで、おいしい、おいしいと何度も言っていた。


 わたしに鼻はないけれど、わたしの実が褒められてとても鼻が高い気分だ。




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 わたしはりんごの木。


 Aちゃんはもうすっかり大きくなった。


 これからはAちゃんではなくA君とでも言うべきだろう。


 A君は今年から学校というところに行くらしい。


 なんでもA君と同じ年頃の子供たちが集まって勉強したり遊んだりするのだそうだ。


 A君は最初は少し不安そうだったけれど、何日かすると楽しそうに学校に出かけるようになった。




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 わたしはりんごの木。


 三人家族のA君の家に今日は珍しいお客さんがやってきた。


 A君が学校のお友達を家に呼んで連れてきたのだ。


 男の子も女の子も、みんな元気な良い子たちだ。


 奥さんは彼らをもてなそうと、スコーンと一緒にわたしの実で作ったジャムを出したそうだ。


 ジャムはとても好評で、瓶詰にしたのをお土産として彼らに持たせてあげたらしい。


 喜んでもらえたようでわたしもうれしい。




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 わたしはりんごの木。


 ますますヤンチャになってきたA君は、わたしの枝に登って遊ぶようになった。


 もうすっかり屋根より高くなったわたしの上のほうまで行くと見晴らしが良いのだそうだ。


 元気なのはいいが、落っこちやしないかと心配である。




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 わたしはりんごの木。


 ある年の夏、とても酷い嵐がやってきた。


 家の窓ガラスがガタガタと揺れ、屋根が飛んでいってしまいそうな強い風だ。


 そして、あまりに風が強かったせいだろう、わたしは幹の途中からぽっきり折れてしまった。




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 わたしはりんごの木。


 折れて背丈が縮んでしまったが、どうにか生き延びることができた。


 旦那さんが落ちた枝や葉っぱを片付け、奥さんがわたしの折れた傷口に何かを塗ってくれた。


 折れた木はそこから病気になって枯れてしまうこともあるのだが、それを防ぐ薬だという。


 折れてしまって内心では落ち込んでいたのだが、なんだか元気が出てきた気がする。




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 わたしはりんごの木。


 少し縮んでしまったが、再び枝が伸びて葉も付きはじめた。


 このままいけば、じきにまた実が生るようにもなるだろう。


 そういえば、最近また奥さんのお腹が膨らみはじめた。


 A君の弟か妹が出来たのだ。


 お兄ちゃんになるA君と一緒にわたしも生まれるのを楽しみにしている。




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 わたしはりんごの木。


 今年は残念ながら実が付かなかった。


 A君たちも残念そうだったが、来年こそは期待に応えたいものである。




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 わたしはりんごの木。


 A君が生まれた時と同じように色々な人がやってきて、奥さんは無事に新しい赤ちゃんを産んだ。


 元気な女の子らしい。


 A君の妹だけあって、おぎゃあという産声がそっくりだった。


 この子もきっと元気に育ってくれるだろう。




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 わたしはりんごの木。


 新しい赤ちゃんの名前はCちゃんという。


 旦那さんと奥さんはCちゃんの世話に毎日かかりきりで、構われなくなったA君はすねているみたいだ。


 でもなんだかんだでCちゃんが可愛いのか、両親がいない時にCちゃんに色々話しかけたりしている。


 抱っこしたり、オシメを替えるのを手伝ったり、ちゃんとお兄ちゃんしているみたいだ。




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 わたしはりんごの木。


 Cちゃんが歩けるようになった頃、A君は上の学校に行くことになった。


 新しい学校には寮があって、A君は今度からそこで暮らすらしい。


 お休みの日には帰ってくるそうだけれど、両親やCちゃんも寂しそうにしていた。


 わたしも寂しい。




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 わたしはりんごの木。


 毎週末のお休みに帰ってくるA君はどんどんと子供っぽさが抜けていくみたいだ。


 どんどん背が伸びてきて、もうすぐのっぽの旦那さんよりも高くなりそうだ。


 新しい学校では運動をやっているそうだからそのせいかもしれない。




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 わたしはりんごの木。


 もうすっかり折れた傷も治って、わたしはまた実を付けるようになっていた。


 学校に通い始めたCちゃんが昔のA君と同じようにお友達を呼ぶこともある。


 わたしの実を使ったパイやジャムは相変わらず好評で、褒められるたびに誇らしい気持ちになる。




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 わたしはりんごの木。


 しばらくぶりに見たA君はもうすっかり立派な青年になっていた。


 勉強も運動も頑張って、もう少ししたら大学というところに行くらしい。


 なんでも将来はお医者さんになりたいのだそうだ。


 帰ってくることが少なくなるのは寂しいけれど、頑張っているようでなによりだ。




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 わたしはりんごの木。


 Cちゃんも上の学校に上がって寮に入り、この家はまた旦那さんと奥さんだけになった。


 二人とも髪に白いものが増え、顔には少しシワが出るようになったみたいだ。


 休みの日に子供たちが帰ってくることはあるけれど、それでもやっぱり寂しがっている。


 わたしも寂しい。




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 わたしはりんごの木。


 しばらくの時が経ち、A君が大学を出てこの家に帰って来ることになった。


 近くの病院でお医者さんとして働くことが決まり、これからはまたこの家で暮らせるのだという。


 学校がお休みで帰省したCちゃんも一緒になって、四人でご馳走を食べてお祝いしていた。


 わたしもまたA君と暮らせるようになって、とても嬉しい。




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 わたしはりんごの木。


 A君……いやもう立派な大人になったA氏は新しい職場で頑張って働いているようだ。


 わたしの枝に登って遊んでいたヤンチャな少年が随分と立派になったものだ。


 もうすぐCちゃんも学校を卒業するらしい。


 卒業したら小学校の先生になりたいのだそうだ。


 この家の近くで仕事が見つからないか探しているらしい。


 また家族四人で暮らせるようになるといいのだけれど。




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 わたしはりんごの木。


 ある日の事、いつもニコニコしている旦那さんが新聞記事を見て浮かない顔をしていた。


 なんでも隣の国との仲が悪くなって戦争になるかもしれないのだそうだ。


 心配である。




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 わたしはりんごの木。


 世相はどんどんと戦争へと向かっているらしい。


 世の中の雰囲気が暗く、重くなっていき、それに異を唱えることもできないそうだ。


 ある日、家に届いた一通の手紙を読んだ奥さんが泣いていた。


 お医者さんをしているA氏に軍隊からの召集がかかったのだ。


 逆らえば家族ごと逮捕されてしまうので行かないわけにはいかない。


 どうか無事で帰ってきてほしい。




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 わたしはりんごの木。


 その年、A氏は一度も帰ってこなかった。




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 わたしはりんごの木。


 次の年もA氏は帰ってこなかった。


 帰りを待つ三人はとても心配して、時には心配するあまり夜中に泣いていることもある。




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 わたしはりんごの木。


 A氏が出征してから三年目のこと、彼は家に帰ってきた。


 ようやく長い戦争が終わったのだ。


 心配して泣いていた三人は今度は嬉しくて泣いていた。


 それを見たA氏も一緒になって泣いていた。


 ああ、無事に帰ってきてくれて良かった。




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 わたしはりんごの木。


 A氏はお医者さんの仕事を再開し、Cちゃん改めCさんも近くの学校の先生になった。


 二人ともとても忙しそうだが、充実した日々を送っているようだ。




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 わたしはりんごの木。


 ある日のこと、A氏が見知らぬ女の人を家に連れて来た。


 髪の長い、とても綺麗な人で、若い頃の奥さんに少し似ている気がする。


 なんと二人は結婚を考えているのだそうだ。


 A氏の家族の三人もお嫁さんになる女性と仲良くなったみたいだ。


 久しぶりにこの家に家族が増えそうでわたしも嬉しい。




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 わたしはりんごの木。


 A氏の結婚式は教会で執り行ったらしい。


 庭から動けないわたしは直接見ることができなかったが、写真に映った花嫁さんはとても綺麗だった。


 A氏とお嫁さんは式の後で新婚旅行に出発した。


 行き先は外国だそうだ。


 外国のりんごはどんな風だろう?




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 わたしはりんごの木。


 なんとA氏に続いてCさんもお嫁に行くことが決まったらしい。


 お婿さんになる男の人を家に連れてきたが、若い時の旦那さんにちょっと似ている。


 優しそうな人で、A氏も奥さんもすぐに気に入ったみたいだ。


 でも、A氏の時には素直に喜んでいた旦那さんがCさんの時には泣いていたのがちょっとおかしかった。




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 わたしはりんごの木。


 A氏のお嫁さんの時には見れなかったけれど、Cさんの花嫁姿は見ることができた。


 本番の式の前にこの家でドレスの衣装合わせをしていたのだ。


 白い花が咲いたようなドレスで、Cさんはとても綺麗だった。




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 わたしはりんごの木。


 Cさんがお嫁に行ってしまったので、一度は五人になった家がまた四人になってしまった。


 でも、もうすぐまた五人に戻りそうだ。


 なぜかというと、A氏のお嫁さんに赤ちゃんができたからだ。


 ついこの前まで赤ちゃんだったA氏が今度はお父さんになると思うと感慨深い。


 みんなで赤ちゃんに必要な物を買い揃えたり、名前を考えたりして楽しそうに過ごしている。




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 わたしはりんごの木。


 無事に赤ちゃんが生まれたが、どうも難産だったらしい。


 A氏が産婦人科のお医者を大急ぎで呼んできて事なきを得たが、処置が遅かったら危なかったそうだ。


 が、結果的には母子共に健康であった。


 終わり良ければすべて良しである。


 赤ちゃんは男の子で、aちゃんと名付けられた。


 昔のA氏と瓜二つの可愛らしい赤ちゃんだ。




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 わたしはりんごの木。


 aちゃんは毎日すくすくと育っている。


 ハイハイをしている姿などA氏の小さい時そっくりだ。


 A氏の両親も同じように思ったようで、A氏にそう言ったら少し照れた顔をしていた。


 お祖父ちゃんとお祖母ちゃんになった旦那さんと奥さんは孫が可愛くて仕方がないらしい。


 わたしも同じ気持ちである。




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 わたしはりんごの木。


 ある日、わたしの実を使ってお嫁さんと奥さんが離乳食を作っていた。


 りんごの実には滋養があるので育ち盛りの子にはいいのだそうだ。


 すりおろした実をミルクやパンと一緒にトロトロになるまで煮た物をaちゃんにあげていた。


 aちゃんは離乳食の味を気に入ってくれたようで、自分でスプーンを握り締めてもりもり食べていた。


 喜んでもらえて良かった。




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 わたしはりんごの木。


 それからは、ずっと穏やかな日が続いた。


 aちゃんは昔のA氏にそっくりで元気に大きくなっていく。


 もうすぐ学校に行き始めるのだそうだ。




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 わたしはりんごの木。


 時は流れる。


 ある時、お嫁に行ったCさんがお婿さんと一緒に久しぶりに帰ってきた。


 しばらく顔を見ていなかったが元気そうでなによりだ。


 今でも学校の先生をしているらしい。


 なんと、今度から受け持つクラスにaちゃんがいるのだそうだ。


 まったくの偶然らしいがA氏は随分と驚いていた。


 この庭しか知らないわたしが言うのもなんだが、世間とは狭いものである。




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 わたしはりんごの木。


 aちゃんがわたしの枝に登って遊ぶようになった。


 aちゃんのお母さんは心配そうにしているが、A氏は複雑そうな表情で見守っている。


 きっと自分も同じように遊んでいたのを覚えているのだろう。




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 わたしはりんごの木。


 aちゃんが学校のお友達を連れてきた。


 パイやジャムで彼らをもてなすのも、昔を思い出すようで懐かしい。


 すっかり髪が白くなった奥さんも昔を思い出したのかニコニコ微笑んでいた。




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 わたしはりんごの木。


 a君が上の学校に上がることになったが、その学校には寮がないので今のまま家に住むらしい。


 家族が減るのは寂しいのでわたしも安心した。




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 わたしはりんごの木。


 a君は新しい学校でも楽しく過ごしているらしい。


 A氏も相変わらずお医者の仕事を頑張っているようだし、みんな充実した生活をしているようだ。




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 わたしはりんごの木。


 悲しいことがあった。


 とても悲しいことがあった。


 旦那さんが泣いていた。


 A氏もお嫁さんもa君も泣いていた。


 ただ一人、奥さんだけが、穏やかに微笑むような表情で安らかに眠っていた。


 とても良い人生だった、と最期にそう言ったそうだ。




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 わたしはりんごの木。


 旦那さんは最近身体の調子が良くないらしい。


 昔の若々しい姿からは想像もできないような老け込み様だ。


 A氏が診ているが、寂しさからくる心因性のものらしい。


 心配だ。




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 わたしはりんごの木。


 久しぶりに明るい報せがあった。


 よその家にお嫁に行ったCさんが、双子の赤ちゃんを産んで、顔を見せにきたのだ。


 落ち込んでいた旦那さんも明るい表情を見せてくれた。




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 わたしはりんごの木。


 ここ数年、わたしが実を付ける数がじょじょに減ってきたようだ。


 いつかの嵐の時のように折れたりはしていないから、これはわたしが老いてきたということなのだろう。


 人間と違って髪が白くなったりシワが増えたりはしないので分かりにくいが、どうもそのようだ。


 わたしはあと何年生きられるだろうか。




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 わたしはりんごの木。


 ある日の朝、旦那さんが亡くなった。


 起きてこないのを不審に思ってA氏が見に行ってみたら息を引き取っていたそうだ。


 老衰だったらしく、苦しんだ様子がないのがせめてもの救いだろうか。


 A氏もお嫁さんもa君も泣いていた。


 報せを聞いて駆けつけたCさんも泣いていた。




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 わたしはりんごの木。


 またしばらくの時が流れた。


 若かったA氏ももう中年を過ぎるような年齢だ。


 a氏は大学を出てから貿易会社に勤めているらしい。


 外国を飛び回っているとかで、最近はあまりこの家には帰ってこない。


 あれだけ賑やかだった家には今はA氏とお嫁さんの二人だけだ。


 寂しいけれど仕方ないのだろう。




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 わたしはりんごの木。


 もうわたしの枝が実を付けることもなくなった。


 もっとも、若い木のようにたくさんの実を付けても、そんなに食べる人はもうどこにもいないのだが。


 赤ちゃんだったA氏も今ではすっかり髪が真っ白なお年寄りだ。


 わたしが老いるのも無理のないことだろう。




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 わたしはりんごの木。


 ある日、杖をついたA氏が庭に出てきた。


 そのままゆっくりとわたしの幹に触れて呟いた。


 「お互い年を取ったものだなぁ」


 もうこの庭で何十年も生きてきたけれど、こんな風に語りかけられたのは初めてのことだ。


 もちろん口のないわたしに返事はできない。


 A氏のほうも返答を期待して言ったわけではない、ちょっとした気紛れみたいなものだろう。


 だけれど、A氏のほうからもわたしを家族だと言ってくれたかのようで、なんだかとても幸せだ。




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 わたしはりんごの木。


 わたしが枯れるのも間もなくのことだろう。


 庭ではA氏のお孫さんが遊んでいて、A氏はお嫁さんと一緒にニコニコと眺めている。


 この子にわたしの実を食べさせてあげられないのが残念だ。




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 わたしはりんごの木。


 どうやらわたしが天に召される時がきたようだ。


 木の場合は動物と違って生き死にが分かりにくいのだけれど、意識がだんだんぼんやりしてきた。


 この意識が消える時がわたしが死ぬ時なのだろう。


 薄れかけた意識の中、家の中から人の声が聞こえてきた。


 誰かのお葬式をしているらしい。


 誰が亡くなったのだろうか?


 もう物を考える力もなくなってきたけれど、なんだか悲しい気持ちになった。




***************




 わたしは……何だっただろう?


 何も分からない。


 何も覚えていない。


 だが、そんなわたしに誰かが声をかけてきた。


 「おや、お前も向こうに行くのかい?」


 聞き慣れた声がどこからか聞こえる。


 「さあ、一緒に行こうか。父さんと母さんも待っているよ」


 これは誰の声だったろうか?


 「お前の実で作った母さんのパイは絶品だったからなぁ、向こうに着いたら久々に作ってもらおう」


 ああ、そうだった。


 わたしはりんごの木。


 わたしは幸せなりんごの木。


 どうか、いつまでもいつまでも、愛する家族と共にあれますように。

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