誇りまみれの竜賭博 第14話 春天に星は瞬き
Ⅰ
五大国の臨時通信が行われ、五人の盟主が再び顔を合わせたのは、グリオーディアのハルフノール来襲から、十五日後のことであった。
黒竜王はハルフノールに向け漆黒に燃え滾る【息吹】を一つ放った後、海上いずことも知れずに去った。当然ながら、追いすがるようなことができるはずもなく、後ろ姿を見送ることすら叶わず。その場の誰もが人類の非力さ、無念を噛み締め切った上での会合である。簡単な挨拶、定例的な報告事項を終えたあと、本題に進行していく。
「続きまして、ハルフノールにおける竜襲来による被害報告。調査担当である、デュミエンド国よりお願いいたします」
皆が前のめりになったようだ。グリオーディアの【息吹】が円蓋に直撃した直後から通信は完全に途絶え、現在の島の状態は全くの不明であった。調査隊の帰国当日に合わせ、会議が設定されたため、みな興味深々の体である。デュミエンド首脳部を含む誰もが、人類と竜との戦いの結果を知りたがっていた。果たして、人は竜に抗し得るのか。
デュミエンドの会議場に現れたのは、まだ旅装を解く間もない男である。ハルフノールがどうなっているか不明のため、【転送】法術も使えず、ようやくに船旅を終え、今まさに帰国したばかりである。埃まみれの姿は、全ての国の画面に映し出されていた。
「報告します」
唾を飲みこむ音が聞こえる。
「グリオーディアに対し、我々五ヵ国連合は円蓋の発動を許可、さらに女神ハルの顕現により過去最高の志力密度による防御を発動しましたが……黒竜王の息吹は円蓋を突破、ハルフノールの国土及び主だった街に甚大な被害をもたらしておりました」
列王達が息をのみ、続いて落胆のため息のさざ波が起きていた。
「やはりグリオーディアには対抗できなかったのか……」
あの瞬間、人類がひとつとなった熱狂の余韻を引きずっていた一部の人間達は舌打ちしつつ、あるいは物にあたりつつ、やり場のない思いをさまざまに散らしていた。再びの敗北感から立ち直るまで、しばし沈黙が満たされる。ようやくにカメタインⅡ世が発言した。
「島を残すだけで精一杯、だったということかな」
「被害総額は?算定できるのか」
「現時点では何とも……デュミエンド金貨にして数百万枚を下ることはないと思われます」
デュミエンドの国家予算一年分に匹敵する金額である。ハルフノールが復旧するのに、果たしてどれだけの時間が必要になるというのであろうか。そもそも、果たして復旧などできるのだろうか。
「グリオーディアとは、そこまでの存在か……!」
果たしてグリオーディアが五大国のいずれかにて本格的な襲撃を実施したとしたら……誰もが想像せずにはいられない。
「盤石と思っていた防御機構でしたが、まだまだ改良が必要なようね」
「ああ。ハルフノールの教訓、というのも申し訳ないが、何かの形で生かさねばな」
【円蓋】の強化、柱の増加、集中防御などの議論がはじまる。詳細は技術者達の分野となろうが、傷病者の優先順位のつけ方や避難方法にいたるまで、口やかましい議論が始まろうとする中、エスパダール国王ティベルが口を開いた。
「皆、ハルフノールが終わったかのような言葉だが……人的被害は?」
「は、はい。驚くべきことに、人的被害はごく軽微。これほどの混乱にも拘らず、不明者を含め、死者一〇〇人を下回る見込みとのことです」
再び各国がざわつく。
「馬鹿な。それだけの被害をだして、たった一〇〇人未満だと?」
「はい。被害者のほとんどは、内部に現れた未確認の怪物によるもので、住民は【円蓋】に守られ、黒竜王の【息吹】を回避したとのことでした」
「早く、それを言え!馬鹿もの!」
「も、申し訳ありません!」
列王達の背後で沸き起こる喚声が画面越しに伝わってくる。抑えようとしても収まるものではなかった。
「やったぞ、グリオーディアに勝ったんだ!」
「俺達人類全体の勝利だ!」
「静粛に!」
周囲に対し、そう言って叱責する秘書官たちも、笑みを隠すことができない。自分達が偉業の一旦を担ったことを誇りに思わない者はいないだろう。一人、デュミエンドの報告者は、必死に捲し立てる。
「スクエア・ニルグ女王の無事を確認、宰相としてロイ・ジグハルトを迎え、復旧に尽力しておりました。国民も女神ハルの顕現に成功し、自分達を守り切った女王への信頼厚く、一丸となって国難に立ち向かおうとしています!」
「本当に、女神ハルが目覚めたのか……」
「グリオーディアに、勝った!」
「今回の避難計画を立案した、我らがモルガン将軍と、エスパダール西方教会デリクス・デミトリウス司祭長は両名とも健在!国民は皆彼らの知略、胆力を称賛しきりでした!」
ラマムが大きく息をつく。エスパダール陣営からはわっと声があがる。
「ふん。たまたまだわい」
「大したものね」
発言者の口の端々に、複雑な思いが見え隠れするような態度である。ルンバーグ法王は渋面を隠そうともしない。皆それぞれの表情でいるなか、エスパダール国王ティベルは、いつもの鉄面皮で発言した。
「私から一つの議題を提案する。ハルフノールに対して、正式な列国会議への参加要請だ。ハルの加護のもとに、六カ国の円蓋協定を速やかに締結したい」
彼の一言は、エスパダールとして、公式にハルフノールの存続を認めたに等しい。各国で水面下に交わされていたハルフノール分割統治の話は、ここで立ち消えとなる。
数刻後、ティベルの提案は五大国の満場一致で可決される。その後は議論をする環境にないとして会議の延期が即決され、直ちに全ての国家で祝祭が催されることになった。
Ⅱ
やけに視界の開けた街に、活気のある声が響き渡る。瓦礫の山は一向に片付く気配はなかったが、人々の顔は一様に陽光の如く輝いている。
ハルフノールは、ついに竜の襲撃に耐えきった。
襲撃からはすでに一月が経過しようとしていたが、仮設の住処を作り終え、ようやく本格的な復旧作業が開始されたところである。
「二匹の竜を同時に撃退した国なんざ、俺達だけだぜ」
「女神ハルもよみがえったし、何とかなるわね」
「ちげえだろ、ハルじゃなくてスクエア陛下だろ!」
「なんでえ、私はハルにしてスクエアだって、陛下御自身がおっしゃってたじゃないか!」
何より、国民の笑顔を蘇らせたのは、スクエア・ニルグの存在である。グリオーディアが去ったあと、ハルの志を皆へと届ける存在と称し、僅かに残った作物を芽吹かせ、収穫させるなどの奇跡を起こし、現人神としての力を見せつけている。さらに、被害後すぐに、支援物資を満載した五隻の船がスクエアの名のもとに現れ、国民の胃袋と支持をつかむことに成功していた。ニアコーグとグリオーディアという竜二体からハルフノールの市民を守り抜いた功績は、過去にさかのぼっても並ぶもののない栄誉であり、熱狂的に支持されるに足る栄光である。国民もまた、自身が成し遂げた偉業を誇りとして胸に満たし、前を真っ直ぐに向く。再建までは相当の時間を要するだろうが、未来は明るいと誰もが確信していた。
復旧工事の指示を出すジグハルトの元へ、ファナが訪れる。ファナはあの辛苦の避難行の末に失神した後、しばらくの間危険な状態が続くほど消耗していたが、周囲の献身的な看護により事なきを得ていた。彼女の意識が戻った時にはすべてが終わっており、目覚めた瞬間から、彼女自身が全く別の存在となっていることを知ることになった。
「お疲れさまです宰相閣下。少しお休みになっては?」
「これはこれは、『早春の聖女』からのお声がけとは、光栄この上ない」
「やめてください」
ファナ・イルミは心底困ったかのように笑う。いかにも楚々として、その上艶を秘めた笑顔は、ジグハルトですら心惹かれるものであった。避難民を先導し、励ましつつも叱咤し、竜や鬼の暴威から最後まで守り抜いた英雄の一人として、ファナはハルフノール中の市民から持て囃されるようになった。その容姿の美しさもあいまって、ついたあだ名が『早春の聖女』である。今では道行く人々までもすれ違い様に祈りを捧げるほどだ。特に少年少女への受けが良いらしく、常に周囲には元気な声が響き渡る。本人は内心、さすがに辟易しているところでもあったが。
「スパッダへの改宗をやめるそうですね、閣下」
「おや、お耳が早い。ええ、その通りです。あなたから教えを頂けないのは、何とも残念なことですが」
余裕たっぷり、残念さの欠片も無い顔で、ジグハルトはファナに笑いかける。一々癪な男である。権力を得たジグハルトの活躍は目覚ましく、都市基盤整備と同時にハルフノール国内の統治機構の再編を始めていた。肥大化した貴族権力に風穴を開け、無駄を廃した中央集権的な行政基盤を思い描いているようだ。この男がいれば、ハルフノールの復興は早いだろう。
「何故ですか?心情としても、理念としてもスパッダの教えは合っているとおっしゃっていたのに」
ジグハルトは公に女神ハルへの帰依を宣言し、フォンデクあたりをほっとさせていた。本当に、ほんの僅かであるが残念に思っているファナの内心を知ってか知らずか、ジグハルトは、澄ました顔のままで話をなぜかデリクスの話題に変える。
「見事な男だ、彼がいる限り、エスパダールは安泰でしょう。実に見事な戦術眼、機転も駆け引きもきく。戦場においても、水際立った腕前でした」
ファナも渋々同意せざるを得ない。あの乱世において、ほとんど何の挙動なく、あれだけの数の鬼を退け、消滅させうる技量をもった神官戦士なぞ、人材の多いエスパダールにおいても数人いるかどうか、というところであろう。
「ええ、私も、彼が法術を使ったのを始めてみましたが、あれほどのものとは……」
「あれは、法術ではありませんよ」
「え?」
「実はね、彼は抜く手もみせずに鬼族達を斬り伏せていたんですよ。私だからこそ気付いたことでしょうがね」
「まさか……」
ジグハルトのいたって真剣な顔を見ても、ファナはまだ信じられない。事実であるというのなら、驚愕というほかはない。誰が見ても、ただ歩いているようにしか見えなかったのに。そして、それを見抜いた男もまた恐ろしい。
「彼、丈の長い法衣を纏っていたでしょう?」
「ええ。それが何か?」
「あれも彼の戦術。超高速の抜剣の瞬間を隠しているんですね。だから傍目にはぼんやり歩いているように見えるだけ。多分斬られた相手も、何が起こっているか分からなかったでしょうね。何か法術でも使っていると勘違いするほどに」
「……」
「恐ろしい腕です。恐らく、私がハルフノールの剣を持っても、互角に戦えるかどうか。大陸全土を見渡したとしても、五指に入るのではないでしょうか」
激賞といってもいい賛辞に、ファナは二の句が継げない。
「これは、秘密にしておこうと思ったのですが、まあ、あなたならいいでしょう。剣技を褒めたとき、何と言ったかわかりますか?実は法術、使えないです、と言ったんですよ」
「法術が、使えない⁉」
ファナの驚く顔が嬉しくてたまらないといった様子で、ジグハルトはペラペラと火がついたように語り続ける。自分は、色々と人に言えないことをしている。だから神からは愛想を突かされているんですよ、と笑ったという。本当のことならば、司祭長として由々しきことであったが。
「私も、笑うしかありませんでしたよ。いやはや、スパッダも狭量ですな。あれ程の男を受け入れないなんて」
「……」
「それが、私が改宗をやめた理由です。御納得いただけましたか?」
そう言って、ジグハルトは片目をつぶってみせた。
復旧を進め、明日を見やる者たちがいれば、失われた人間に思いをはせる人々もいる。ツィーガとリーファは、新しくできた墓を見舞う。そのどれにも、遺体は眠ってはいなかったが。トムス・フォンダ、イヴァ・ソールトン、ヤン・ジン・クイ。おそらくは皆、満足して旅立っていったことだろう。そう、思いたかった。
あの日、グリオーディアが去ったあと、姿を消したトムスを探し求めてゼピュロシア神殿までたどり着いた際、ツィーガは屋上まで続く血痕と、彼が後生大事につけていた捻れた聖印を発見した。【円柱】法具の近くに落ちていたそれを握り締めながら、ツィーガは誇り高い竜賭博師の、最後の戦いに思いを馳せた。最後の最期まで、ニアコーグに対しきっちり借りを返した、ということだろう。
「一つだけ気になっていることがあるんだ。トムスさんの知り合い、エスパダールの神官ってどんな人だったんだ?知り合いだったんだろ?」
『当然、嘘だ』
「……」
なんとなくは察していたが、やはりそうだったか。ツィーガは笑うしかない。
『奴は話たがっていたからな。促してやっただけさ』
ラーガもまた自分のために戦友を失った過去を持つ。トムスの気持ちはツィーガなどより理解していたのだろう。今では名も分からぬ男の形見である聖印は、トムスの墓碑に飾られている。トムス自身の形見となった博麗銀製の剣は、ニアコーグとの戦いを乗り越え、ツィーガの腰に佩かれ今もなお白く輝いていた。
「闘いがおわったら、返そうと思っていたんだけどな」
『デリクスの許可は出たんだろ?お前が持っていろ。トムスもそのほうが喜ぶだろう』
建前ではそういっているが、ラーガ自身が剣を気に入っているのは明白であった。
「いっそ売り払って、ハルフノールの復興支援に使おうか」
『……まあ、それも故人のためかもな』
残念そうな声のラーガに笑いかける。まあ、もう少し迷わせてもらうとするよ、と相棒に語りかけながら、ツィーガはトムスを、忘れることのできない印象を刻み込んだ男を思い返す。敗北を許さず、しかして喜びにも背を向けたような孤高の男。約束ともいえない約束を果たすため、持参した蒸留酒を墓にかける。
「あなたにも、イヴァ・ソールトン。偉大なる戦士」
隣にある、イヴァの墓にもたっぷりとかけた。マリシャの姿はないが、誰かが花を手向けていた。
「俺ももらうよ」
ツィーガは一口煽ると、酒瓶を再び掲げる。残りを注ぎ切って、立ちあがった。多分、実際に飲んだとしても、あまり会話にならなかっただろう。これが精一杯だ。
「じゃあ。しばらくはハルフノールにいるからさ、また来るよ」
ツィーガはヤンの墓へと向かう。少し離れた位置にあるのは、追竜者としての立場を慮った結果である。彼らは魂となっても竜を目指すのだという。そうツィーガに教えたリーファは瞳を閉じ、一心に祈りを捧げていた。
「……」
リーファはこの短い間に、親族も、恩師すら失ったことになる。悲しくないはずがないだろう。かける言葉がない。
「私は、死神か何かなのかな……」
ツィーガが近づいたのを察したのが、姿勢はそのままに目を開けたリーファはポツリとつぶやく。
「だって、そうでしょ?私の近くにいる人は、皆死んじゃうじゃない」
抑揚のない声に、どれほどの思いが込められていることだろうか。この一ヶ月、彼女は泣くことを自分に許さなかった。自分のせいだと、心を閉ざしていた。何もできずにいた自分を心の中で、叱咤しつつ、ツィーガは意を決して口を開く。
「そういう意味でいえば、俺にとっては、リーファは勝利の女神ってことになるのかな」
ツィーガの言葉に、最初は口を開けてただぽかんとしていたリーファだったが、ついに切れ長の一重の瞳から大粒の涙がこぼれ出て、止まらなくなった。ためらうことなく胸にすがる少女を、ツィーガはそのまま受け止めた。
「師匠……兄さん……みんな……わああああ!」
大声を上げて泣き出したリーファを、ツィーガはただ胸で受け止める。泣き止むまでに長い時間はかからなかった。気恥ずかしそうに身を離すと、リーファは薄く笑った。
「ごめんなさい」
「こっちこそ、何もしてやれずにごめん」
『そうだぞ、甲斐性なしが』
ラーガのツッコミに、二人の笑顔が大きくなった。少女の瞳から、大粒の涙が零れ落ちる。
「師匠が言っていた。私の才能は、努力する先を見つける力があることだって。だから今はできることをするわ」
竜追者としての、人類の頂に辿り着いた男に追い迫ることができるのかは分からない。だが、こちらを見つめ、待ってくれている気がした。だから、一歩でも進まないといけないのだ。リーファはもう一度目を閉じ、師に向けて誓うのだった。
「カイムは、確かにお墓なんかにじっとしていられないでしょうね」
精霊士に墓は不必要であることをエクイテオが伝えたとき、エルンはそういって受け入れた。精霊士には埋葬も、鎮魂のための祈りも必要ないことを聞いたとき、はじめてエルンはカイムが精霊士であったことを認識したようだった。
「立派なお墓のひとつやふたつ作ってあげるんだけどな。なんせ突然、大金持ちになっちゃったから」
努めて明るく、エクイテオに対して、エルンは笑う。寂しさを知らないかのように。あるいは知ったからこそ。トムスがカイムに支払った報酬は莫大なものであり、その全てをエルンが受けとることになっていた。エクイテオは、彼女が受け取りを拒否するかと思っていたが、エルンは淡々としたものだった。災児の受け入れ施設でもつくろうかな、というエルンに、エクイテオは弱々しく声をかける。
「寂しくはありませんか?」
「寂しがる必要なんてないでしょ?私がこの島にいて、陽光を、風を、雨を、草花の匂いを感じることは、カイムを感じるってことと同じなんだって、教えてくれたのはあなたじゃない」
むしろ、食事や洗濯の手間が省けてせいせいしたところよ。テオの前であはは、と笑うエルンは、表面上、全く以前と変わらないように見える。
「一つ決めたのよ。朝日が昇るとき、そして夕日が沈むときは、カイムを思い出そうって」
エルンは瞳を閉じる。誰かが側にいることを全身で感じようとするかのように。
「皆がハル様にお祈りするでしょ?春が来ますようにって。だから私もね、カイムに挨拶するのよ。朝は、今日一日、みんな元気ですごせますように、夕は、明日もいい日になりますようにってね」
エルンの言葉に、テオは何も言えなかった。
「そうすれば、きっとカイムはそのたびに目覚めてくれると思うから。きっと、怒るでしょうけどね。せっかくいい気持でいるのに、毎日起こすな、って」
エルンは陽光射す窓の外に背を向ける。表情は見えなかった。目の前に広がるのは、竜が来たとは思えない、いつも通りの美しい海。変わることなく波を立てては、囁き声のような潮騒を奏でる。全ては依然として穏やかで、不変の静謐のまま。ただ一つ、カイムがいないことを除いて。
「あの、一つだけ聞いていいですか?」
テオが、ためらいがちに質問する。
「エルンさんは……カイムさんを愛していたんですか?」
聞いてはいけない気がしたが、同時に聞いておかねばいけない気がしてもいた。エルンは少しだけ考えたあと、口を開いた。
「そうね。旦那のときみたいな気持ちを愛っていうなら、違うわね……どんな気持ちかは、説明つかないわ。ただ……」
「ただ?」
「ただ、もし、もしもだけど。あの人が、あたしのことを、もう少しだけ必要としてくれなければ……」
分かるような、分からないような気がする。エクイテオはそれ以上何も聞かずに、家を辞す。エルンは飽きることなく潮騒を聞いているようだった。
ニアコーグとの戦いで、生き残った英雄もいる。エクイテオとも合流したツィーガ達は、第一陣の復興支援隊の船、その帰還に合わせ、故郷であるデュミエンドに帰るマリシャを見送りに港へ向かった。何とか一か所だけ接岸できる船着き場に、一人となった戦姫は瀟洒な姿でたたずんでいる。三人の顔を見つけると、笑顔で手を振る。小柄な体には大きすぎる槍を、マリシャは決して誰の手にも預けようとはしなかった。
「マリシャさん!」
「三人とも、本当にお世話になったわね」
「帰るんですね、デュミエンドに」
「ええ。イヴァの英雄譚を、きちんと残さないとね」
遺品である戦乙女の槍は、主を失った寂しさにうなだれているようである。
「彼女に必要なのは立派なお墓や涙じゃなくて、活躍に目を輝かせる子供達の笑顔だから」
だから、お墓参りなんかしてあげない。マリシャそういいつつ、笑う。穏やかに、そして気丈にふるまっていた。元々感情を律することができる人間なのだろうが、理由はそれだけではないようである。
「イヴァは意志を貫き、大望を果たした。私には、彼女の話を語り継ぐ仕事がある。英雄譚は、涙を見せながら話すものではないわ」
超然とした横顔は、悲しみを乗り越えた人特有の気高さに満ちていた。彼女の胸にはイヴァの面影が鮮やかに焼き付いているのだろう。イヴァが自身の心に、マリシャを住まわせていたのと同じく。
「ひとしきりイヴァの話を形にしたら、また来るわ。彼女が守り切った街を、きちんと復興させる。それが私の、本当の最後の仕事になる」
「また、会えますか?」
「勿論」
言葉少なに、最後まで背筋を伸ばし、槍をいとおしそうに抱きながら、マリシャは船に乗ってハルフノールから去っていった。
かろうじて建っている、という姿の二階建ての建物に「エスパダール大使館」という手書きの看板が少し傾いて立てかけてある。これでも、ハルフノール政府公認であった。応接室でデリクスが応対しているのは、モルガンである。
「ではな、デリクス司祭長。ともに戦えたことを誇りに思う」
「私もです、モルガン将軍。次に会う時も共に戦えるとありがたいのですが」
「がはは、俺はむしろお主と戦いたいと思っているがね」
モルガンの傷は既に癒えている。空いた片手には、法具を用いて義手を作るつもりだ、と語っていた。
「何なら、いい職人を紹介しますよ」
「ほほう、では今度連れてきてもらおう。そのときは、一献酌み交わそうではないか」
「いいですね。私は酒はあまり強くありませんので、お手柔らかに」
話は尽きない。お互い、トムスという男の心意気に動かされての大仕事である。達成感も充足感もある。だが、別れの時はくる。いつかまた会うときは、敵同士かもしれないのだ。モルガンは、この戦いを超えて、更に武の高みに至るだろう。エスパダールにとって恐るべき敵となりうるのは間違いない。だが、それはまだ先の話であった。
「将軍、お時間です」
クルートの声に、名残惜しそうに立ち上がる。残った手にむけて、差し出されたデリクスの手をガッチリ掴む。固い握手をして、モルガンは去っていった。
「さらば、たださらば」
姿の消えたモルガンに気取った台詞を投げつつ、デリクスはとりあえず片づけを始めた。二階は倒壊の恐れがあるため使えず、一階に荷物と机を押し込めつつ、何やかんやとゴミをまとめる。やることが多すぎて何から手に付ければいいのか、という様子であるが、当人は案外楽しそうである。一息つくにも物資が足りないので、水をすすっていると、次はファナが現れた。なんとはなしに華やかな表情である。
「何、嬉しそうだね」
「通信が回復したわ。ラマム先輩から、帰ってこい、直属の部下として使うって!」
ファナは実に嬉しそうである。憧れの先輩の元で、国政の最前線、剣なき戦に挑むのは、ファナ自身の望む職場であったから。
「それは良かった。頑張った甲斐があったねえ」
デリクスの素直な称賛を、ファナは胡散臭げに受け取りつつ、疑問を口にした。
「それはともかく、何なのあのお達しは。ニアコーグは竜ではない、ですって?」
「各国のお偉いさんが協議した結果だよ」
ファナの目が吊り上がった。美人だけにやたらと怖い。デリクスがまとめた報告書が公文とされたが、邪竜ニアコーグの記述については修正されていたのを見つけたのだ。
「どうして?」
「当たり前でしょ」
「当たり前って」
「よく考えてよ、俺達はどうして円蓋を発動できたの?」
「それは、ニアコーグを女神ハルだと騙して……あ」
「そういうこと。突如増大した志力は竜ではなく女神。当然の結果として、竜殺しなんて事実も、公式には認められない。退治したのは、グリオーディアと女神ハルの出現に呼応し突如出現した、極めて強大な『鬼』である、とさ」
ファナは舌打ちした。背景には、竜殺しという栄誉を限られた国にだけ授与させることに対する、政治的な配慮とやらがあるに違いない。
「何よ、ツィーガ達があんなに頑張ったっていうのに」
デリクスは、ほんの僅かだけ目を見張る。
「珍しいね、君が他の人が逃した功績を残念がるなんて、普段なら喜ぶところなのに」
「そ、それは……竜殺しの現場に立ち会ったとなれば、私も後々有名になるからよ」
「そうかなあ。まあ別に、ツィーガは自分が倒したのが竜だろうが、鬼だろうが、そんなこと気にしないよ」
「そこがまたイライラするのよね。もっと自分のしたことを誇ってもいいのに」
わずかに赤面しながら反論するファナに、少しだけ笑いつつ話をおさめた。
「ま、それはともかく」
「ともかくとは、何よ」
「まあまあ。今回の件で、無事ハルフノールは円蓋を作る柱の一柱として認められた」
「これからは、六大国になるってこと?」
「さあねえ。今回の件で、見過ごされていた五大国家以外の小国や、独立している都市国家についての守りをどうするか、という課題に目を向けられるようになったからね。スクエア王女がその辺りを強く主張していくことになるだろうね」
いまや、神の回路となった王女スクエアは、この世界において圧倒的な存在となっていた。彼女の発言力は国家間の中でも抜きん出ており、これからの世界秩序の中で極めて重要な役割を担っていくのであろう。
「それって、あなたが望んでいたことでもあるのよね?」
「さあねえ。どうなるのかいいのかなんて、分からんね」
「英雄扱いされる気分はどう?」
「とんでもない。上からは散々にどやされたよ。実は、新たな役職を拝命した」
「何よ?ひょっとして枢機卿?」
ファナの目が煌めく。デリクス・デミトリウスは一躍時の人である。他国が次々と見捨てる中踏みとどまり、黒竜王グリオーディアからハルフノールを守るだけでなく、非公式だが邪竜ニアコーグを滅ぼすという快挙を成し遂げ、王女スクエア・ニルグからも最高の栄誉である、女神勲章を授与される予定となっている。エスパダールとの変わらぬ友好と敬愛を誓うという言葉を引き出すことに成功した功績は、過去にもそう例のない巨大なものだ。だが、拝命された役職を聞いたとき、ファナは二の句が継げなかった。
「ハルフノール駐在司祭長、ですって?」
「そ。まあ一言でいえば島流しだね。ここまで名前が知れちゃったからやめるに辞めさせられないということだろうけど」
「なんでそうなるのよ⁉」
「さすがにやり過ぎたってことだよ。しばらくはほとぼりを覚ませってことなんじゃない」
「……」
お気楽な顔で自身を語るデリクスであった。冷静になって考えれば五大国をペテンにかけたわけである。スクエアがたまたまハルの顕現に成功したから恰好がついたものの、最悪の場合ハルフノール、そしてエスパダールはその他全体を敵にまわしていたかもしれないのだ。五大国の連携すら危ぶまれるほどの混乱と隣り合わせであったことに思い至り、ファナは胸中に冷や汗をかく。
「……まあ、でもこの国ならあなたは英雄なんだし、しばらくはいい気分でいられるわけね」
「そんなこというなら、君だって満更でもないだろう?『早春の聖女』なんて名前貰ってさ」
早春の聖女とは、言いえて妙であると、デリクスは腹の中で笑う。表向きは春の温かさ、背後に透けて見えるは冬の冷気、というわけである。デリクスの問いに対して、ファナは一言不敵な笑みとともにいってのけた。
「私は、影の支配者になりたいのよ。聖女なんて願い下げだわ。黒幕こそ我が望み」
「黒幕ねえ……今回の黒幕は、トムス・フォンダだけどね」
「確かに」
「ま、彼としては全てやりきっただろうから、満足しているだろうけどな」
不敵な顔が目に浮かぶ。自分が弱った姿を見られるなどということは彼の誇りが許さなかったろう。最後の最後まで、トムス・フォンダはトムス・フォンダで在り続けたということだろうか。最後に大量の救援物資を、スクエア・ニルグ名義で手配する心憎さである。徹底的に借りを作るのが嫌だったのだろうな、とデリクスは笑った。
「大した男だったねえ」
あまり人を論評しないデリクスが、かけねなしの賛辞である。ファナも、トムスについては普段の毒舌が出てこないのは、国を背負わず一個人の実力だけで戦い切った姿勢を評価してのことだろう。
「彼は、今回起きたこと、すべてを読み切ったってこと?」
デリクスは肩をすくめた。
「彼の本質は、賭博師だよ。いろいろな選択肢を目の前にして、彼は常に賭けていたんだろうなあ。そして、賭けが終わるたびに、また賭けをしていたのだと思うよ。どこで勝ち、どこで負けたのか、それは彼自身にしか分からないだろうね」
「そして、大博打を成し遂げた」
「さあ……」
デリクスは遠い目をして見せた。
「ツィーガだっけかな?竜の本質は、流だと言ったとか……だとすれば、彼は流れを読み、流れを生み出す達人だった。人が信じたいものを差出し、人が欲しいものをちらつかせ、小さな流れをかき集めて、奔流を作り出してきた。まさに『竜の賭博師』の名に恥じない活躍だったよ」
「ところで、司祭長様?」
「何?」
「あなたがタダで仕事するわけないじゃない、五大国会議を動かすかわりに、トムスから何もらったの?」
「ん?秘密」
ファナの目の色が変わる。このままだと法具でも使わんばかりの勢いである。
「いいじゃない!減るもんじゃないし」
「男と男の約束でね、秘密にしてくれと言われているんだよ。さ、無駄話はおしまい。仕事仕事」
これ以上追及されることを嫌ったデリクスは早々に逃げ出す。執務室に一人になったときに、こっそりと懐から出して見せたのは、竜賭博に関する資料だった。トムスの執事であった男が、ハルフノールを旅立つ前にデリクスに渡したものである。執事はこれから、トムスの遺言を果たすために世界を旅するといっていた。
資料には、エスパダール上層部に位置する人名がびっしりと書き連ねてある。彼が法王宛に渡した書簡の中身は、法王が、正確には法王の親族が彼の代理で竜賭博に賭けた内容であった。
「ハルフノール、四分の三、七五〇〇か……大した予想でしたね。法王猊下」
竜が到来する国、人口の被害数、そして金額である。デリクスは苦笑した。三つの中でも被害数が致命的であった。もし、この事実が明らかになったとき、ルンバーグは賭けのためにハルフノールを見捨てた、と非難されたであろうから。最も、賭けの時点でハルフノールに到来するかどうかなどは誰も分からないのだから、今回はルンバーグにとって幸運でもあり、不運でもあったというだけだ。グリオーディアがハルフノールに向かったとき、そして【円蓋】の起動を提案されたとき、法王の心中はいかばかりのものであっただろうか。デリクスはほんの少しだけ同情している。竜の到来地を見通せる人間など、それこそトムス・フォンダぐらいのものであったのだから。
ただ実際、各国の上層部は、観測所から流される情報をいち早く入手し、竜賭博を優位に進めているのもまた事実のようであり、自身の知識と運に全てを託す賭博師のような男達にとって、不倶戴天の仇敵なのだろう。トムス自身の心情もあったにせよ、あまりに膨大すぎる資料である。トムスの情報収集能力には舌を巻く思いであった。あるいは、トムスを通じて竜賭博をしていたのかもしれない。聖職者が国家で認めていない賭博をしているという話が表に出れば、それなりの醜聞にはなるであろう、特に、品行方正を売りとする連中にとっては。
資料にはエスパダールだけではなく他国の要人の分もある。トムスという男の底知れなさの一端であった。彼の残した財産、そして膨大な文献と実地調査の記録は、今後の竜研究において貴重なものとなろう。次にデリクスは、丁重に置いてあった黒剣を抜き払う。相も変わらず、恐ろしいまでの美しい刀身の冴えである。
「やれやれ、これからどうなるかな。このまま死ぬまでドサ回りを続けることになるかもね」
『どうでもよくはなくて?あなたにしかできないことはこれからも、どこにでもあるわ』
「そうかな」
『いずれにしても、私はあなたと一緒よ』
「ありがとう、マリヤ」
デリクスは自身が危険な立場であることを誰よりも理解していた。デリクスは、やりすぎたのだ。仮にも自分の最大の上司を脅したのだから。今後デリクスが、組織の中枢に行くことは決してないであろう。もしかしたら、二度とエスパダールの地を踏むことすらないかもしれない。今回の人事においても、ジグハルトが奔走してくれたとの噂がある。彼の外交能力がなければ、デリクスは最辺境の地に追いやられ、人知れず始末されていたかもしれない。トムスの置き土産は、そんな危うい立場である、デリクスの命を守る切り札でもあった。
だが、そんなことはデリクスにとってはどうでもよいことである。今はただ、トムス・フォンダという誇り高き竜賭博師の生きざま、その余韻に浸ろう。
「竜と戦い、竜を制した偉大なる賭博師に、献杯」
デリクスは、温い水を飲み干して、愛剣を磨きはじめた。
Ⅲ
「ジェラーレ」
観念した、という様子の男は、スクエアの声を聞いて顔を向けた。ゼピュロシア大神殿はかろうじて建物としての体裁を残している。ジェラーレは寝台に身を横たえ、全身を包帯にまかれながら天井を身じろぎもせずに見つめ続けている。スクエアは、そんな男の様子を、横で座りながら、じっと眺めていた。彼女の身体から立ち上る神気は、彼女が女神ハルの末端と接続したことを示すものであったが、人を抑えつけるような雰囲気は全くない。様々な仕事を片付け、ようやくジェラーレと二人きりになる時間がとれたところである。
「何で、俺を助けた」
声の響きを聞いただけで胸が詰まる。一つ深く胸に息を吸い込んだあと、口を開いたジェラーレに、スクエアは笑みを隠しつつうそぶく。
「きまぐれよ」
自分がかつて発したであろう台詞に、ジェラーレは顔をしかめた。
「きまぐれなんかで済む話か!」
「助けてやったのに、何で怒られなきゃならないのよ!」
スクエアの至極真っ当な主張に、ジェラーレは食い下がる。
「自分が何をしたか分かっているのか?」
「ばかなこと」
「……もういい」
「あなたが気にすることじゃない。私は、私が信じたものが、間違っていなかったってことを証明したかっただけ」
「そのために、自分の命を犠牲にして、か?お前の身体はもう人間の形をした器になってしまったんだぞ」
神を受け入れるためには、人間はあまりに矮小にすぎる。スクエアの身体の内部はもはや志力のみで満たされた器のようなものと化していた。子供を産むこともできず、そう遠くない将来、スクエアの志力は内部から彼女自身の身体をも焼き尽くす。直接降臨したわけではなく、あくまでハルの一部を埋め込んだだけにせよ、だ。事実として、かの五大神同時降臨を行った司祭達は、誰もが超一級の能力者であったにも関わらず、瞬く間にその身体を焼き尽くしていた。
彼女が今もこうして存在していられるのは、おそらくはハルの好意、ハルフノールという島における加護があってのものだろうが、それにしても数年、もって十年程度の命が限度であろう。
「別にいいじゃない。あなたがいなけりゃ元々無かった命だもの」
「……」
ドアが軽く叩かれる。入って来たのは、いまやハルフノールに並ぶものなき権勢を得た宰相、ジグハルトだった。起き上がろうとするジェラーレを制し、スクエアに恭しく一礼する。腰には相変わらずハルフノールの剣が輝いていた。
「外まで聞こえてきましたよ。仲がよろしくて結構なことだ」
「俺の裁判の日取りでも決まったか?」
ジェラーレはぞんざいな言葉遣いでジグハルトに尋ねる。ジグハルトは気にした様子もない。
「お前に伝えることが二つ。一つ目、手紙を預かっている」
「誰からだ?」
「トムス・フォンダ。内容は自分で読むがいい」
差し出された手紙の内容に目を通し、指から全身に震えが奔っていく。思い切り歯ぎしりするジェラーレに対し、ジグハルトは淡々と話しかけた。
「弁護士を介して作成された正式な遺言書だ。今回の竜賭博の報酬を含む全財産の八割、総額金貨一〇〇万枚をジェラーレ・シンタイドに譲る、ただしその使い道はハルフノールの復旧に用いられるものとする、との条件付きでな」
「……!」
「竜賭博ってそんなに儲かるのですね」
「まあ、空前絶後でしょうからね、竜が『二体』くるなんて賭けを的中させるのは」
公式には認められなくても、竜賭博の世界では、ニアコーグは竜として認められた。そのことは、スクエアにとっても、ジグハルトにとっても喜びに近い感情を呼び起こさせた。ジグハルトは言葉を続ける。
「もし、ジェラーレ・シンタイドが相続を放棄する、もしくは死亡した場合は、その全てを使って、ハルフノールにトムス・フォンダを悼む記念碑を作成すること、とある。竜到来を察知し、多くの国民を救った英雄として長く語り継がせること、とある」
ジグハルト自身が、途中から苦笑を禁じ得ない。
「金貨一〇〇万枚の記念碑か、いっそ見てみたくはあるがな。どうする?お前の決断で、大金が飢え苦しむ国民に対する支援となるか、前代未聞、荘厳華麗な記念碑となるかが決まる。持つものの苦しみだな」
「……これで、借りを返したつもりなのか、あの男は」
「借りを返すではすまない。むしろお前に貸しをつくったのだよ」
「貸し?」
「もう一つの話だ、ジェラーレ・シンタイド。ハルフノールとして、お前の行った殺人、放火、強盗その他もろもろの犯罪行為に対し正式に処断を下す。死刑だ」
「……当然だろう」
「さて困った、国としてはお前を裁かねばならぬが、お前が死んでしまうと、ハルフノールは世界一有名な記念碑を手に入れることとなる。どうすれば解決できるだろうか?」
「……俺に、逃げろというのか?」
「そうではない。ハルフノールの法律には、一つ抜け穴があってな。全財産を寄付し、俗世から隔離されその生涯を宗門に費やすことを誓い、なおかつその祈りと悔いが真摯なものとハルが認めた場合に限り、罪が許されるという仕組みがある。慈悲深きハルが御認めになったとすれば、最早人が作った法律では裁けぬ、というわけだ」
途中からニヤニヤとしながらジグハルトは話し続け、状況が判明するごとに、ジェラーレの眉間の皺は深くなっていく。
「王族間の権力闘争の中で作られた実質上の追放制度だがな。現にスタン前国王が行ったあれだよ。さて、どうする?お前はトムスの栄光に力を貸すか、女神ハルの化身たるスクエア陛下に頭を下げるか、選択を迫られたのだ」
「私は、赦すわよ。これまであなたが行ってきた不義理も、無愛想も、甲斐性なしもね。ちゃんと謝ることができたら、だけど」
スクエアは澄まして続ける。
「そういうことではないだろう!」
ジェラーレは頭を掻き毟った。
「成程、これは強烈だな。どっちを選んでも、死ぬほど後悔しそうだ」
「ちょっと!どういうことよ!」
スクエアが憤慨するのを眺めやり、ジグハルトは身体を翻した。
「何処へ行く?」
「何時の世も、懺悔は神と人の間でのみなされるもの。邪魔者は退散するのさ」
「ま、待て!」
「おや、ではお前が女神に助けを乞い、取り縋るところを眺めていてもいいということか?それは楽しみだな」
「前言撤回だ、さっさと行け!」
ジグハルトは大笑しつつ部屋を出て行った。後は気まずい二人が遺される。
「何よ、そんなに嫌なの?私に頭を下げるのが!」
「馬鹿野郎!そういうことじゃない!……最後まで、あいつの掌で踊らされたのが、嫌になるだけだ」
トムス・フォンダのことだ、法律の細部まで調べ上げて自分をがんじがらめにしたのだろう。ジェラーレはぐうの音もでなかった。
「仕方ないわね、あの人は誰よりもあなたのことを気にかけていたもの。もしかしたら、私なんかよりずっとね……それより、いつになったら謝罪がきけるのよ」
「何だよ、本当に言わなきゃ駄目なのか」
「当たり前でしょ」
スクエアの微笑みに、ジェラーレは観念した。確かにこれは大きすぎる貸しだな、どこのあの世に居るのか知らないが、あの馬鹿野郎に返しに行くのは大分時間がかかりそうだ、と。自分の背負った罪は一生かかっても償えないことはもう分かっている。それが例え自分が操られた結果だとしても。ジェラーレは力なく起き上がると、スクエアの前に膝をついた。
「女神ハルよ、この国、この世界のため、贖罪のために我が身全てを捧げます」
「あなたの祈り、受けましょう。ジェラーレ・シンタイド。これからは世界のために、その命を使いなさい。傷つき倒れた者への癒しを、日々を平穏に生きる者への助けを与えるために力を注ぎなさい。今度こそ、あなたに、理想を目指す日々が訪れんことを」
「……そして、スクエア」
「何?」
「我が心を、あなたに捧げる。あなたのために、全てを」
スクエアが、どう答えたか。ジェラーレ以外の耳には、届くものではなかった。
完
星々の円卓 @taketakenokai
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