誇りまみれの竜賭博 第13話 志の果て 返せぬ借り
……ニアコーグは、眼下の小さき襲撃者を睥睨しつつ、今自身に起きていることを振り返る。本来であれば、今頃は恐怖におののく人間どもを喰らい尽くし、飢えを満たした上で、悠々とこの島を離れ、黒竜王がこの島を灰燼にする光景を彼方から見届けるはずであった。
が、現実はどうだ。小癪にも人間は、竜である自分を志力の檻に閉じ込めた。試みに、青く光る壁に向かって息吹を放つ。轟音が鳴り響くが、壁はびくともしなかった。息吹が爆発した周辺では人間が青い顔をし、その場にへたり込むものもいた。どうやら人間達も、壁を通り抜けることはできないようだ。
だが、人間達は誤って檻の中に取り残されたわけではない。あろうことか、手に貧弱な武器を携えて、こちらの様子を伺っているではないか。どの顔にも竜に対する怖れは見えぬ。戦おうというのだ、この我と……
全生物の頂に君臨する竜と!
ニアコーグの体内に、言いようの知れない淀みが満ちる。こういった感覚を得たのは、人を喰らうことを覚えてからのものだ。かみ砕く度に口中に広がる人間が持つ正負の感情、玄妙かつ複雑怪奇な、何とも言えぬ味わいにひとしきり酔っていたものだが、この身に宿った淀みは、まさに人間の感情そのものだ。まさか自身の中に同様の苦みが満ちることになろうとは。天地に恐れるものなき竜にとって、屈辱以外の何物でもない。淀みはやがて、ニアコーグの制御を超え、体を膨張させ、瘤を作る。喰らい続け、ため続けてきた人間の恐怖が疼き、竜の体を脈動させていた。ニアコーグ自身の言いようのない怒りを表すかのように。
「ぎゃははは!ざまーねーな。人間なんぞにだまくらかされて、一言もねーのか!コソ泥野郎!」
下卑た表情が実に馴染む、薄汚れた男がこちらを見て笑っている。トムス・フォンダと名乗る男。
「グリオーディアが来る前にオイシイところをいただこうと思ってたんだろうが、あてが外れたな!尻尾巻いてさっさと逃げたらどうだい⁉どうせてめーみてーな若い竜は、先輩の顔色伺ってびくびく生きてんだろ?あー新参者はつれーなあ!」
人間の言葉は、竜に直接、思考そのものとして届く。自身の意図をなぞったかのような言葉は、ニアコーグをして激怒させるに足りた。竜には人間のような国家、階級はないものの、個体差による絶対的な優劣、序列は厳然として存在している。グリオーディアはまさしく王であった。同族である竜であっても、かの偉大なる存在は自分など意識することなどないだろう。竜王の絶対なる破壊に巻き込まれれば、容易く消し去られることを、ニアコーグは自覚している。
『ダマレ!』
ニアコーグは己の焦りと怒りのままに、言葉というより、意志そのものをトムスに叩きつける。だが、男は動じない。外見上、決して動じているような素振りは見せない。目の前の男は、魂すら偽装する術を有しているかのようであった。この男が、ニアコーグの魂の琴線に触れたのは、大分昔の話である。全てが無残に終わった後の絶望は、他のどんな人間より深く、ニアコーグを深く酔わせるほどに鮮烈なものだった。だからこそ、この男を再度利用し、あの陶酔を再び味わうためにこの場所を選んだ。宿り主の憎悪を利用し、目の前の男の屈辱を弄ぶために、それなのに。この男は、ニアコーグの企みを読み、面と向かって自分を笑っている。
ニアコーグは初めて人間を憎悪した。単なる餌と思っていた矮小なる存在は、いまや自分に反抗する敵、憎むに足る存在となっていた。何としても倒さねば、喰らわねばならぬ。再びニアコーグは雄叫びを上げると、目の前の貧弱なる『敵』に向かって歩みはじめた。
Ⅰ
「けっ、ようやく喋りやがったか。たかが竜に生まれた位ででかい面しやがってよ。他の竜に相手にされねえから、弱い奴を狙うしかねー臆病者が」
ニアコーグが臨戦態勢に入り、ようやくトムスは笑い声を収める。デリクスとの事前の打ち合わせでは、グリオーディア到来ギリギリまで引き付け、頃合いを見計らってニアコーグを追いやる、という作戦で合意を得ていた。島を覆う円蓋、その志力の伝達経路をトムスが突き立てた帆柱に集中させることで円蓋の一部に穴をあけ、敢えてニアコーグの脱出口を作ることで災厄を追い出す、という眼目である。が、トムスとしては、ニアコーグを逃がすつもりなどは毛頭なかった。
「おい、小僧!怖くねえのかよ?四方と天井を囲まれ、竜と対峙するなんてオツな状況をよ!」
トムスは自分の口ではその事実を語らず、ツィーガへの問いとして発した。ツィーガは竜から目を逸らさずに叫ぶ。
「むしろ、望むところです!ここでニアコーグを倒さなければ、また別の国に行って犠牲者を生む。そんなことは二度とさせない!」
「へっ!偉そうに!」
トムスはこらえきれぬかのように笑った。ツィーガの言葉には、わずかなためらいも、揺れもない。ただまっすぐに、竜に勝つこと、一点のみを見つめている。あまりに清々しいその姿は、誰をも動かさずにはいられない、若さ、峻烈さを体現していた。
当然というか、トムスの内心は表情ほどの余裕はない。体の芯から震える恐怖を、決して表面に出さないことで、魑魅魍魎うごめく裏の世界を生き抜いてきた男である。竜を前にしても、それは変わらなかった。トムスはニアコーグへの「借り」を返すため、あらゆる手を打ってきた。人を動かし、国をたぶらかし、神すらも利用しようとした。封じるのか、直接戦うのか、逃がすのか。どうすれば竜を滅ぼせるのか、考えつく限りの可能性を想定し、準備をし尽くした。そして、自覚せざるを得なかった。自分では、ニアコーグに勝つことはできないと。正しくは、自分だけでは。
竜との戦いは魂の削り合い、己の生身をさらけ出した戦いであることを、トムスは人類の歴史から学んでいた。勝つためには、魂の、存在意義の強さで竜を上回らなければならず、絶対に揺らぐことのない強固な意志が不可欠である。竜を退け、あるいは人間が生き残った戦いにおいて、必ず英雄と呼ばれる存在がいたのはそのためである。英雄の存在は、偶然ではなく必然であった。そしてそれは、トムス・フォンダという男の対極にいる人間であることを、誰よりもトムス自身が理解していた。
トムスは、迷うことで、恐れることで結果を残してきた人間である。常に最悪の事態を想定し、失敗を考慮に入れ、何ものをも信じず、裏切りに怯え、あらゆる者を疑い、切り捨てることで、富を積み上げてきた。それでなくては、人を出し抜けない。そうしなければ、他人には勝てないのだから。
だからこそ、トムスは竜には勝てない。迷いのある剣では竜鱗は切り裂けない。怖れに震える盾では、竜の息吹は防げない。揺らぐ魂は、絶対なる竜の志力には届かない。自身の歩んできた人生こそ、竜に届かない最大の理由であることをトムスは痛いほど理解させられていた。
「さあ、行きましょう!俺達の手でニアコーグを倒すんです!」
だが目の前の男は。トムス・フォンダという男が、決して手に入れることができなかった、世界に対する絶対なる真摯さ、生の根源に対する完全なる信頼を、このツィーガ・オルセインという男は、あらゆる困難にめげずに体得している!
人を鼓舞することのできる言葉の強さ、誰かをただ純粋に思う強さ。誰もが持っている、生きることへの喜びを確信へと変える強さを秘めたツィーガの言葉に、トムスは目がくらむ思いがする。トムスが、得ようとして、憧れて、決して掴むことのできなかった境地。他者に光を宿す人間が、目の前に現れたのだ。一度ならず二度までも。トムスは大笑する。腹の底から痛快な気分になった。もしかしたら、自分はよほど幸運な男なのではないか、と。
「ツィーガ・オルセイン!お前に乗ってやるぜ。一世一代の大盤振る舞いだ!人類が生み出した真の力、金の力って奴をあんにゃろうにみせてやらあな!」
そういうなり、トムスは執事に向けて手を上げた。無言で頷いた執事は、天翔ける船を操り、暴風に頭を押さえつけられているニアコーグの頭上に滑らかに移動する。船の先端から、雷光が迸った。
『ギャアアッッ!!』
ニアコーグが絶叫した。着弾する度に、激しい爆発と衝撃が炸裂する。暴風が光の壁に当たって、渦を巻くように閉鎖された空間で荒れ狂う。
「まだまだいくぜ!」
トムスの号令に、再び投擲された何かは爆発し、爆風が周囲の人間まで吹き飛ばす。
「巻き込まれんなよ!」
「無理ですよ!」
ツィーガ達は身を伏せて暴風をやり過ごしつつ、トムスに文句をいった。
「何が起きてるんですか!」
「何だいあの化け物みたいな船は?」
イヴァも、せき込みながらたまらずに怒鳴る。
「あ?【正しき雷霆】ってしっているか?」
トムスのこともなげな言葉に、エクイテオとマリシャは卒倒寸前になる。
「正しき雷霆だと!」
「エスパダールがかつて侵略戦争を仕掛けたときに作った禁忌法具!?なんでそんなもん持ってんだよ!?」
「大枚はたいて手に入れたのさ、思った通りよく効くぜ!さ、次はこいつだ」
次に船から投擲されたのは、煌めきを放ちつつ、竜の身体に接着した。虹色に輝きながら、鱗に接着する。
「それは?」
「女神の落涙」
「何、撒いてるの!あれは味方に使うべき防御法具でしょ!」
「いいんだよ!細かいことは!」
マリシャが天を仰ぐ。人類が辿り着いた到達点の一つ、志力の結晶化の極北。神の落涙は、高司祭数人が日々全てをついやし、それこそ十数年に一粒しか生み出せない『慈愛』という概念の純粋な結晶体である。人間に対する脅威への最大の守りの一つが無秩序に消費される様は、爽快さを超えた恐ろしさをおぼえさせる。次にトムスが取り出したのは、煌びやかな小ぶりの短剣であるが、見とがめたマリシャが目を剥いた。
「闘神の牙!国立博物館から盗まれて消息不明になってたデュミエンドの国宝!」
止める間もなく、トムスの手から放たれた短剣は、光の尾を引いてニアコーグの首の付け根に吸い込まれていく。着弾と同時に轟音が世界を圧迫する。
『グワァッ‼』
「ああ……国宝が……」
「まだまだあるぜ!」
トムスの手にはまだ数本の剣が握られている。そのどれもが至宝と呼ばれるような逸品ぞろいであろうことは疑いなかった。並みの人間が一〇〇回生まれ変わっても稼ぐことができない数々の秘宝が跡形もなく散っていく。トムスはといえば、この上なく楽しそうであった。常識人では、こうはいかない。金を使うにも、器というものがあるということか。エクイテオは内心で唸り、マリシャは天を仰いだ。
「お前らもさっさと戦え!サボってんじゃねえ!」
船上からのトムスの大音量に、呆気に取られていた一同も、気合を入れなおす。
「行くぞ、ラーガ!」
『ああ!』
「我らも行くぞ!リーファ!」
「はい!師匠!」
次々と竜へと走り出す仲間たちの背中を見据えつつ、マリシャは従えたデュミエンドの戦士たちに声をかける。
「志力を開放せよ!」
号令の元、志力がマリシャに向けて集中し、戦乙女の外套が輝きだす。マリシャによって精緻に編み上げられた志力が竜に挑む戦士達に届けられる。
「【聖盾】よ、勇者たちを守り給え!」
空間に固定された防御法術が、ニアコーグの周囲を包囲する。さらにマリシャの操作によって、巧みに戦士達の移動にあわせて志力密度を集中、拡散する。マリシャの法術は正しく効果を発し、トムスが生じさせた暴風からもツィーガ達を保護する。
「デュモン!勇者達に浜風の祝福を!四肢に虎の猛りを!」
更にマリシャの法術により、四肢にかつてない活力が漲るのを誰もが感じていた。【精神高揚】、【身体強化】、【自動治療】……綺羅のように鮮やかに織り上げられていく法術は、たちまち戦士達の戦装束となってその身を飾り立てていく。
「こいつはすごい!」
『デュモンの支援法術か。ありがたい』
ツィーガは溢れる力に流されるかのように突進する。ニアコーグは群がる害虫を振り払うように尾を振るった。
「何の!」
何とかよけきったところに、ニアコーグは大きく口を開けた。息吹が来る、ツィーガの血の気が引いたその瞬間、いつの間にかニアコーグの体を駆け昇っていたヤンが、ニアコーグの脳天に踵落としを目にもとまらぬ速さで叩き込む。上方に志力を放ち、その反動を使った蹴り技は、ニアコーグの開いた口を無理やり閉じるほどの威力である。
『ガアッ!』
煩わし気に、ニアコーグの手がヤンを追い自身の頭に伸びる手を、しかしリーファの【竜破】が捉え、押しとどめる。弾かれた手を再び伸ばすころには、老人の姿はなかった。そして、がら空きになった腹部に、イヴァが再び志力を噴射し、槍を構えて突撃する。ジグハルトとモルガンも続き、一点に攻撃を集中した。
『ギャアアッ!』
「よいしょぉ!」
竜に怯みも見せずに、肉薄する勇士達の中でも、ついに解き放たれたイヴァの迫力は、歴戦の古強者をすら圧倒していた。戦乙女の槍は光輝き、彼女の背からはデュミエンド戦士団から託された志力が陽炎の如く揺らめき立ち上る。まるで人類の執念が燃え上がる炎となって、ニアコーグを焦がすかのようであった。当の本人は、心底嬉しそうな笑みを浮かべ、槍を振るい続ける。
「マリシャ!もう一発いくよ」
「ええ!遠慮しないで、存分にやって!」
「「【突撃】‼」」
二人の声が唱和し、光の矢となってニアコーグの巨体に身体ごとぶつかっていく。マリシャもまた、心中に抱えた躊躇と奥悩を振り切り、自らの願いのままに戦うイヴァを支え続ける。自分のありったけの想いを込めた志力が、イヴァの槍に輝きをもたらし、ニアコーグにぶつかっては散っていく。何度も、何度も。全てを燃やし尽くすかのように舞う『英雄』の姿を、マリシャは一瞬たりとも見逃すまいと目を凝らし続けた。
ツィーガも負けじと、加速した身体機能を活かしつつ手当たり次第に剣を叩きつける。ラーガが宿りし刀身は火花を散らして戦場を照らし上げた。
「くそっ!竜鱗って奴は!」
ツィーガ=ラーガの渾身の斬撃は高い音を響かせるものの、世界で最も固いとされる竜の鱗を切り裂くには至らない。轟音と喚声が鳴り響く中、ラーガが意を決したかのように声を上げた。
『ツィーガ!頼みがある!』
「頼み⁉」
珍しい発言に、ツィーガは聞き返した。
『もう少しだけ、俺にお前の身体を使わせてくれ!』
「何だって?」
『今ならば。魂を鍛え、竜の恐怖を乗り越えた今のお前なら、そして、この博麗銀製の剣ならば可能だろう……我が剣技、深奥の一端を解放する!』
「……ラーガ、お前、まだ本気じゃなかったってことか」
『当たり前だ!エスパダールの魂、スパッダの剣と呼ばれた俺を見くびってもらっては困る!なまくら如きに、俺の燃える魂が宿せるものか!』
ラーガの意識が高揚している。生前はやはり、生死を賭けた戦場でこそ輝く男だったのだろう。剣へのこだわりは、自身の能力を十全に活用できないことへの焦りであることを、ツィーガはようやくに悟り、一人恥じ入った。
『志力の運用には段階があるという話をしたな、自分の志力を自在に操ることが第二段階、そして今イヴァとマリシャ、彼等の二人が行っている、他者の意志を集めて戦う第三段階と』
イヴァの縦横無尽の活躍を見やりつつ、ツィーガはラーガに怒鳴りつけた。
「こんなときに講義しないでくれ!」
巨腕を掻い潜り、一旦距離を取る。ツィーガ達の状況を察したヤンがニアコーグを引き付けるために、正面に躍り出た。水が低きに流れるがごとき自然の動きである。
『だが、第二段階、自分自身の志力運用においても先がある!修練と克己を経て、志力を限りなく昇華することで、志は真の力を発揮し、人は能力の限界を超える!』
「わかった……いやよく分からないけど、俺の体、使ってくれ!」
信頼を込めたツィーガの声を受け、ラーガの宝玉が更に煌めいた。自分に入りこんでいるラーガの気迫が体内で一気に充実し、膨れ上がっていくに任せる。体を奔る痛みが一段ときつくなるのを、歯を食いしばって堪えた。腕が、体が、何より博麗銀の刃が燃えるように熱くなっていく。
『我が志、精錬の果てに【闘志】となす!』
刃全体が燃え上がった。白く輝く剣は、まさに闇夜を照らす灯のごとし。
『この刃は神の末端にして、人類の灯火、魔を断つ極光なり!』
ツィーガは意識を半ば放擲して、ラーガの気迫と痛みに身を委ねた。自分の体が、自身の意志を、筋力を超え、急加速するのを感じる。ラーガの猛りが、魂が、ツィーガを自然と吠えさせた。
「うおおおおっ!」
ニアコーグの腹部に吸い込まれるように突進し、大上段から剣を振り下ろす。
『ギッ……!』
剣が確かな手ごたえを伝えてくる。ニアコーグが身をよじり、ツィーガから身を離す程の威力である。ラーガは吠えた。志力の熱を叩き込まれた竜麟が、焦げた臭いを発する。
『見たか!これぞ我が【星の焔】!』
ラーガは止まらない、立て続けの斬撃で、何とニアコーグが距離を取った。
「やるねえ!」
イヴァから声がかかるほどの猛襲ぶりである。剣が誇りに輝きを増す。ツィーガは体の痛みも忘れて感嘆のため息を漏らした。
「人の剣が、竜に届いている……!凄い……こんなこと、いつか俺もできるようになるのか」
『人の意志は様々だ。お前もいつかは自身を示す、お前そのものの志の果てに辿り着く。おそらくそれは、俺の【闘志】とは違うだろう』
「人それぞれの、志の果て……」
刃を構え直す。白く澄んだ刃に宿った炎は、決して自分が辿りついたものではない。これからの道のりを照らす灯だった。自分は、なんと幸運なことか、善き師に恵まれ、共に闘うことができるのだから。
『ツィーガ、感謝する』
「は?何だよこんなときに」
『俺は、二度、竜とまみえたといったな。だが一度目は若輩の身で何もできなかった。この体になってからは、生前の、全盛の剣技を振るうことができなかった。だが、お前と会えて、お前とともに、俺は、ようやくに竜と戦える!』
ラーガの本音は、ツィーガに誇りと喜びをもたらした。
「ラーガ……」
『ツィーガ。お前にはまだ教えることが沢山ある。いつか俺に、お前の極限を見せてくれ!』
「おう!」
『いくぞ!』
ツィーガは闇夜の灯の如き剣を振り上げる。刃に二人の志を宿して、再びツィーガはニアコーグに突進した。
不快な感覚が次々をニアコーグの外皮を叩く。これが、人間のいう痛みというものなのか。嘗てない世界を認識する感覚に、その感覚を刺激しているのがただの餌でしかなかった人間である、という事実にニアコーグは激怒した。
『キサマラァ!』
何度も咆哮を上げ、威嚇するが、それでも不遜なる人間達は恐れることなく自分に向かってくる。人間如きが使う武器であるはずなのに、何故ここまで竜の身体を叩くことができるのか。赤く光る剣が、燃え盛る槍が、白く輝く刃が立て続けに衝撃をもたらす。そちらを潰そうと思う、まさにそのときに、意識野に入っては素手で自分を殴りつける人間がおり、予期せぬところから、小うるさい攻撃を仕掛けてくる人間がいる。こちらの意図を、こちらより早く察し、牽制の一撃を振るっては、さっさと逃げていく。
『オノレオノレオノレ!』
大気を振るわせる敵意をまきちらしながら、ニアコーグは当初の狼狽から怒りへと感覚を切り替えた。慌てることはない。不快ではあるが、自分自身の存在を削り切るほどの重大さはない。一つ一つ潰していけば片付く、それだけのことだ。
ただの餌でしかないはずの人間の、己の身分もわきまえぬ赦しがたい暴挙に対する当然の報いを与えるべく、息吹を吐く。が、周囲を焼き払うはずの息吹が人間に触れる直前でわずかに拡散し、威力を減じ、人間どもは消し飛ぶことなく再び向かってくる。何故だ?
『……』
数瞬の思考を経て、竜は先刻からハルフノールという世界そのものが、自分に対し反抗していることに気づいた。翼を押さえつける暴風だけではない、足の踏ん張りを奪う泥濘だけではない。世界そのものが、ニアコーグという『意志』を否定し、包み込もうとしている。それゆえに、自身が十全の機能を活かせず、人間という卑小な抵抗を支えているのだ。周囲の攻撃に揺さぶられる屈辱に耐えながら、世界の揺らぎの原因を捉えるために意識の一部を切り離し、溶け込ませる。
『……ミツケタゾ』
世界の中に紛れ込み、竜を否定する元凶は、今にも消え入りそうな人の意志だった。揺らぎの根幹に向けて、ニアコーグは己の志力を集約した。
『気付かれた』
カイムは自分に向けて、ニアコーグの意識が向いたことに気付く。竜という膨大な意志が、世界に溶け込み、流されそうなカイムをさらに押しつぶそうと牙をむく。意志を、志力を込めることが出来ない風では、雷では竜を砕くには至らないことを早い段階で気づいたカイムは、世界そのものとして竜を否定することでニアコーグの動きを封じていたのだ。
竜の恐ろしさは、その存在、意志の赴くままに世界に影響を与え、変容をもたらすことが可能な点に尽きる。ニアコーグは、この空間の異物を見つけ出し、潰す。そう「思う」ことだけで、カイムを捉え、干渉するに至るのだ。万能なる志力の具現であるがゆえに。純粋に志力において、竜に対抗する術はない。まもなく、カイムの意志により一時的に捻じ曲げられた世界の法則は急速に正常に戻る。そうなったときに、竜に対抗するのは極めて難しくなるだろう。
『エルン……僕に力をくれ……!もう少しだけ、僕の意識を、君を守るために使わせてくれ!』
締めつけ、薄れゆく気持ちを引きとめるために、カイムは想い人の笑顔を浮かべる。美人とはいえない。だけど、魅力的な、人の気持ちを柔らかくすることができる微笑みを。
『エルン……!』
カイムの異変に気付き得るのは、同じ精霊士であるエクイテオしかいない。風が、大地が、竜を締めつける世界の圧力が弱ったとき、ニアコーグが、カイムの存在にたどり着いたことを知った。
「俺の志力、好きなだけ持っていっていい。ツィーガを頼む!」
相棒である風の精霊に声をかけ、エクイテオは意識を捨て、世界を感知することに集中させる。
「自らの意志を持って、世界と一体になる、か」
今の自分が辿りつける領域でないのは自覚している。だから、自分が取るべき行動は正しく把握していた。世界の揺らぎを感じ取り、カイムの溶け込んだ意識を探る。ニアコーグが行ったことと同じ作業を、邪竜とは別の目的を持って。
『見つけた……カイムさん!』
『エクイテオ君……!』
消え入りそうな声。世界の広さを知る精霊士であって、はじめて理解できる偉業。誰にも届かない場所で、世界の最果てに立った男に対し、エクイテオは心からの敬意を表しつつ声をかけた。
『偉大なる精霊士、カイム・ジエンディン。俺のこの意識はまだ人間の身体とつながっている……俺を命綱として使ってください、あなたの意志を繋ぎ止めるために!』
『危険だ!君自身も世界に引っ張られて拡散してしまう!』
『大丈夫です!俺だって、まだ人間でいたい!そして、竜になんぞ負けない!気持ちがあれば大丈夫!』
『……すまない!』
世界に飛び出したエクイテオの意志を、カイムの意志が掴む。エクイテオをもまた、離れていこうとする自分の身体の感覚を必死で意識しながら、カイムというかすかな気配を引き寄せるかのように掴み返す。カイムがまだ、カイムという人格を捨て去らないために。ニアコーグが拡散した意識の一部、異物を消そうとする圧力に対し、テオがカイムを守るように、前に出た。二人は自身の存在を主張するために吠えた。単純な、純粋な意志の勝負である。
『ニアコーグ!てめえなんざに、負けねえぞ!』
『ああ、竜なんかに、人間は負けない!』
声なき声が世界を振るわせる。世界のあらゆる場面で、死闘は続いていた。
Ⅱ
デリクスの周囲は常に静かであった。そこが戦場であってなお。
『やっぱりあなたと踊るのは楽しいわ、デリクス』
「光栄だね、マリヤ」
ご満悦な声に一礼し、デリクスは周囲を囲む鬼達に、平然と、超然と対峙する。背後の洞穴へ回り込もうとした人型の鬼は、デリクスの手が僅かに動いた瞬間に消し飛んだ。自分が殺されたことすら気づかぬほど、静かに。虎の頭と、狼の頭をもった二つの頭の獣がにじり寄り、狼の頭が威嚇の唸り声をあげる。だが、次の瞬間、狼の頭が消え去り、虎は痛みに身をよじりながら飛び退った。吠え声をあげると消されると思ったのか、目だけをぎらつかせながら。
デリクスは周囲の様子など構わずに、視線を、竜を捕えた檻にむける。内部ではツィーガ達が奮戦しているのが見て取れた。トムスという男が、ここで竜を殺す、そのために逃げ場のない檻を作ることまでは予想できていた。デリクスの仕事は、彼らがニアコーグを倒しきれないと判断したときに、志力の経路を変更し、円蓋を開けることである。檻の中の人間は、ファナに渡したような緊急転送用の法具は持っていない。ニアコーグが人に憑依できる以上、円蓋の内と外は完全に分けておかねば、皆が苦心して築いた円蓋の内部に侵入を許す恐れがあるからだ。
「……」
また一匹の鬼が塵と化す。無音の世界に立ちつつ、デリクスは考えを巡らせる。デリクスがとりうる選択肢の中には、最悪の場合、ツィーガ達を巻き添えに、グリオーディアの息吹でニアコーグを消滅させるというものがあった。その非情極まる決断を、デリクスは他の人間に任せることはしない。当然デリクスが背負うべき責任であり、逃れることのできない苦痛であった。ツィーガ達の命数を見極めるのは、自分しかいない。デリクスもまた、別の形で竜と戦っていた。
「頼んだよ、みんな」
内心の葛藤は、くたびれた顔に隠れて、決して表に出てくることはなかった。
一方、大洞穴の深奥に身を投げたスクエアは、いまだ落下を続けている。いつまで落ちて行くのだろうか、そう考えたとき、自身を包む感覚が、落下なのか、浮遊しているのか分からなくなっていることに気付く。風を感じることもなく、かといってどこかに衝突することもない。柔らかく、漆黒の綿に包まれたようだ。手指の感覚も、髪の毛の感覚も消えていた。
「女神ハルよ!応えてください!」
声を出したつもりだったが、自分自身で聞くこともできない。五感を失い、身体感覚を失い、意識だけが取り残されたような不安感。ひょっとして、永遠にこのままなのか、スクエアの腹の底から恐怖が一気にせり上がる。
「ハルよ!」
声をあげた、つもりの意識を持つ。スクエアは確信に辿り着いている。ここが、こここそが、ハルの意識の中心なのだと。淀み、混濁し、もはや形も意味もなさずに、留まり続けている残滓。だがここにこそ、スクエアに天啓を与え、歴代の王達が揺り起こし続けた意志が眠っているはずである。改めて呼び起こさねばならない。恐怖を押さえつけながら、スクエアは意識を放ち続けた。
「聞いてください!今この国は大変な危機を迎えています!あなたの力が必要なんです!」
魂を、意思を示すために、言葉を飾る余裕などはない。或いは意志そのものが口を飛び出しているといってもよかったのかもしれなかった。
「助けてください!あなたが愛した国が、無くなってしまおうとしているんです!多くの人命が、それだけじゃない、森も、山も、動物たちも、すべてが竜に破壊されてしまいます!」
スクエアは呼び掛け続けたが、反応は無い。そもそも、声をだしているかも分からない。大きな不定形の塊に埋め込まれて、何処にも届かずに打ち消されているのだろうか。時間の感覚もない。不安が、精神を浸食しはじめるのを自覚する。だが、それは自分のことではない。
「お願いよ……このままじゃ、ジェラーレが死んでしまう……」
スクエアの心中にある根源にはあの陰鬱な、だけど真っ直ぐであった青年への想いだけが残されていた。ジェラーレが、あれだけ媚びることも、利用されることも嫌いな、誇り高い男が、よりにもよって仇敵である竜に操られたまま、歯がみして死んでいくことだけは許せなかった。
「ジェラーレを助けて!お願いだから!」
反応は、無い。そして、スクエアは、祈ることを止めた。
「いい加減にしなさいよ!いつまで寝こけてんのよ!」
スクエアを貫いたのは、大いなるものへの怒りだった。それはジェラーレが感じた怒り、理不尽であり、彼女が貴重と感じた感情である。スクエアもまた、壁にぶつかったときに怒ることを選択したのだ。何故自分を生んだ。何故世界などを作った。怒りはまた生への希求でもある。自らの意志を解き放ち、確かなものを掴もうとする猛りでもあった。
「さっさと起きろ!起きないなら力を寄こせ!私が変わりにやってやる!私の好きな人が危ないんだよ!」
自分へのふがいなさ、流されることしかできない人間の卑小さ。運命などという都合のいい言葉。ジェラーレは全てに対し怒り、打ち勝とうとした。その気持ちだけは、守ってやらないといけない。だとしたら、今スクエアは怒らなければならなかった。怒って、ぶつかるしかなかったのだ。
「目ェ覚ませ!馬鹿女神!!」
何かが弾けたような、軽い音が響いた瞬間、世界が光に包まれた。余りに強い輝きに包まれ、スクエアが自らを意識できなくなりかけるほどだった。
『いったあーい……』
少女のような声がスクエアを包み込んで響き、耳を塞ごうとして果たせず頭が揺れる。
『あ、ごめんごめん。ちょっと抑えるからまっててね……』
光が弱まっていく。気付けばスクエアは一面の白い世界に浮かんでいた。感覚の無かった四肢も戻り、全身の感覚が蘇っていく。ホッと一息ついていると、いつの間にか目の前に光り輝く女性の人影がこちらを興味深そうに眺めていた。
「あ、あなたは」
「私が、ハルです。はじめまして」
「は、はじめまして……」
余りにも気さくな、気さく過ぎる口調に、動揺しっぱなしのスクエアを、女神ハルは笑顔を向けて見やる。美しい顔ではあるが、なにやら茫洋としてとらえがたい顔である。だが、こちらに向けられる意志は、何やら好意に満ちている、ように思われる。
「あ、最初にいっとくと、貴方と一番話やすい姿と声で喋っているだけだからね。さっきみたいに私の存在に飲み込まれて消滅しないように。今まで何人も消えてるからね」
「は、はあ」
「そ・れ・に・し・て・も。さっきのは効いたわ。まさか人間に頬を平手打ちされるとは思わなかった。神様ひっぱたく人間がいたとは。間違いなく人類最初の偉業よねまったく」
「は⁉」
「御蔭でしゃっきり目が覚めたから許してあげるけど、今度やったら承知しないから」
どうやら、自分はとんでもないことをしてしまったようであった。魂ごと消え入りたいと思いかけたところ、ハル本人から注意された。
「あ、あんまり弱気にならないで、ただでさえあなたのことを飲み込みそうなんだから。赦してあげるって言ってるんだし、この話はこれでおしまい、ね?」
「わ、分かりました」
「さて、本題に入りましょう。貴方のお陰で状況は分かった。私が見込んだ通り、人間も頑張っているようね。もしかしたら、グリオーディアにも対抗できるかもしれない……だけどあなたの願いはそこじゃないのよね?助けたいんでしょ?あなたの、大切な人」
「……はい!」
えらくノリの良い神に押されぱっなしだったスクエアだったが、顔を赤らめながらもハッキリと答えた。
「いいわ、貴方が考えているとおり、ここにあるのは私の意識の沈殿物。再びこの世界から抜け出て私自身として降臨することは最早叶わないけど、力を貸すことはできるわ……だから、一つだけ質問に応えて?」
「何ですか?」
「貴方が好きな人、あなたの傍にいてくれる人じゃなさそう。貴方の助けも拒むかもしれない。自分の責任だとか言って、死ぬことを選ぶかもしれない。その時、あなたはどうするの?」
「決まっています。逃げるなら追っかける。彼が間違った道に行くならひっぱたいてでも止める。私が、私自身の力で、無理やりにでも幸せにして見せる。だって、だって私の愛した人だから」
放つ輝きが強くなる。スクエアにはよく分からなかったが、ハルは笑った、ようである。もしかしたら表情を見せるのが照れ臭いのかもしれなかった。
「気に入った」
力強い言葉に、かつてないほどの安心感と高揚感に包まれる。
「今から貴方の中に入る。私の力を使って、国を、国民を、何より大切な人を守りなさい。出力はこちらで調整してあげるから。覚悟はいい?」
「はい‼」
スクエアは瞳を閉じ、ハルに身を委ねた。
Ⅲ
ニアコーグとの戦闘は膠着状態を続けている。現場にいる人間の緊張感は尋常なものではなかった。一手たりとも悪手は打てない。その瞬間に、全てが崩壊するだろう。
「ここまでやって、倒れぬか……」
ヤンが思わず口から言葉を漏らす。自身の拳技は髪の毛一筋程の乱れもないが、ありったけの攻撃を浴びせ続けても、ニアコーグに傷ついた様子は見られなかった。
「ぎゃっ!」
「ドンメル!」
モルガンが声をだす。デュミエンド戦士団の一人がまたニアコーグの息吹によって散華する。邪竜は、一人一人を集中して狙うように戦法を変えている。ツィーガ=ラーガやイヴァはよく耐えていたが、強靭な尾の一撃、収束された息吹を受け、後衛のデュミエンドの戦士達が、少しずつ犠牲となり、魂ごと消しとばされていく。戦いの趨勢は徐々にニアコーグに傾いていくのを、全ての人間が気付かされていた。
「引くな、ここで引いたら一気に崩されるぞ!」
ジグハルトは赤光する剣を振り上げて叫ぶ。懐に入り込み、なおも攻撃を続けた。ハルフノールの剣の輝きも衰えない。国を守らんとする苦悩、自身の置かれた立場、感情を抑え、克己することを己に課してきた男は、その憤りを叩きつけるかのようにニアコーグに食らいついている。
『こいつ、余程志力を貯め込んでいたな。何人喰らったのやら……』
ラーガは嘆息し、ツィーガが戦慄する。ラーガの剣は確実にニアコーグを痛めつけてはいたが、瞬く間に回復するのは、今まで喰らってきた人間の志力のせいであろう。己を守るために、何重もの鱗を用意して。ニアコーグもまた、人間では想像すらできぬ領域の存在だということを痛感する。どんなに姑息な精神性であったとしても、竜はやはり竜であった。
「弱気なこと言ってる場合じゃないよ!」
腕の一撃を掻い潜りながら、イヴァは叱咤する。戦乙女の槍が幾度となく強靭な竜鱗を叩き続ける。
「一度でダメなら何度でもってね!」
イヴァの槍捌きは絶妙を極めていた。穂先に志力を集中させ、長さを存分に活かしてニアコーグの攻撃をけん制しつつ、一点に集中して連続で突きを放つ、五度の刺突が一度に見えるほどの俊敏さである。志力の活性化により、全盛期の膂力と、当時をすら上回る技量が宿っていた。
「おら!」
不屈の闘志に燃え盛る槍が、ついにその瞬間を掴みとった。澄んだ音が響く。今まで人間達の攻撃に耐え続けていた外殻が、ほんの僅かながらに傷ついたのだ。
「やった!」
会心の笑みを浮かべるイヴァ、だが束の間の歓喜は強烈な反撃によって報われる。強大な腕に槍毎払われて、イヴァの身体が宙に浮いた。
「ぐはっ!」
「イヴァ!」
宙を舞う女神官をさらに追い打ちをかける尾の一撃。イヴァに避ける術は無かった。マリシャが運用する志力を一時的にイヴァに集中させる。間一髪であった。大地に叩きつけられる直前に志力を展開させ、イヴァの身体を保護する。何とか致命傷を免れるが、さすがにすぐには起き上がれなかった。
「ふん!」
止めの息吹を吐かれる前に、ヤンがその身を躍らせ、ニアコーグの頬に蹴りを見舞う。だが邪竜もついにヤンの攻撃を予測しはじめた。ヤンの重い一撃を受けつつも、宙に舞った老体を爪で僅かに引き裂く。追撃を食い止めるために、リーファが躍り出て、ニアコーグの鉤爪に志力を叩きつける。ぞっとするような巨腕が目の前から引いていくとき、安堵を覚えずにはいられなかった。
「彼奴め、攻撃を受ける覚悟で、当たる瞬間に合わせてきたか……敵ながら見事」
着地したヤンの息が乱れている。わずかに空いた間隙を、モルガンが埋めるように突進した。戦局を見据え、必要な対応をする。将軍らしい動きをしつつも、モルガンは不本意であった。
「片腕でなければ、こんなみっともない役割なぞ……!」
怒りのままに、鉾槍を叩きつける。モルガンの闘志は、崩れそうな戦線を何とか支えている。稼いだ時間を使って、リーファが近寄り、体を支えようとするのをヤンは柔らかく制した。
「治療を!」
「無用、隊列を崩すな」
リーファをおさえると、ヤンは筋肉を固めて血を抑えた。
「リーファ。恐ろしいか?」
「……はい。師匠。申し訳ありません」
「謝ることではない。むしろお主は一歩を踏み出した。我が拳法の根本にして最先端こそ恐怖、怖れという負の感情よ」
「は?」
「恐れるからこそ、拳を磨く。怖気づくからこそ、志を鍛え上げる。二つの修練の果てこそ、我らが挑む頂よ。リーファ、怖れに足を一歩踏み出すのだ。あの青年のように」
「……はい!」
「おりゃあ!」
トムスがここぞとばかりに、法具をばらまいて、一気に爆発させる。ニアコーグも痛みにたじろぎ、追撃を諦めた。僅かに稼いだ時間の中で、マリシャはイヴァに駆け寄った。
「イヴァ!生きてる!?」
「……生憎と、ね……」
マリシャの回復法術に身を委ねながら、イヴァは笑った。
「久しぶりじゃないか。こういうの」
「思い出に浸っている場合じゃないでしょ」
「まあ、いいじゃない。一瞬だけさ」
目を閉じると、否応なく今までの記憶が蘇ってくる。どれもこれも、過ぎてみればいい思い出とやらである。当時は笑っている場合ではなかったが。
「マリシャ、ありがとうね」
「……そう言う言葉は、今までのツケを全部清算してから聞かせてもらいたいわ」
「あはは。雰囲気に流される女じゃなかったねえ」
イヴァは目を開ける。広がるのは大空と、マリシャの顔。勿論、まだ、終わってなどいない。
「よっし、行くかぁ!」
「皆、あと少しだ!」
ツィーガの声に、皆がもう一つのより強大な気配に気付く。志力を感知する能力がなくとも、重圧に吐き気がこみ上げるほどである。その威圧感は、眼前にいるはずのニアコーグをすら凌駕していた。
「グリオーディア……!」
目を凝らせば、遠く彼方に黒雲とともに影が見える。絶望というにはあまりに大きな存在は、目の前の邪竜ですら呑み込むかのごとくである。再び意志を燃やすツィーガとともにラーガの宝玉も煌めき、周囲を照らす。
「時間がない、倒すぞ!」
「おうよ!」
「行きましょう!」
『いけない!』
立ち上がり、体勢を立て直した人間達が、再び竜を囲い込もうと身構え、一気に詰め寄ろうとした際に、世界と一体化したはずのカイムの声が空間に満ちた。ヤンもまたわずかに遅れて、ニアコーグの異変に気づく。醜悪な匂いとともに、何かをまき散らそうと邪竜が体を震わせていた。
「駄目だ!差がれ!」
ヤンの声にむしろ一歩を踏み出したのは、リーファである。意図を察し、ヤンは破顔しつつ弟子と同じ行動をとった。
『死ネェ!』
ニアコーグが叫ぶ。声と同時に、周囲の空気が爆発した。
「ぐう……」
意識を取り戻したツィーガが見たのは、周囲の地形が大きく変わった光景だった。
「何が、起こった……?」
「全身から志力を発した、としか……」
ニアコーグが、こちらを見つめる目には、余裕がないように見えるのは贔屓目だろうか。僅かながら、巨体が縮んだようにも見える。追撃も来ない、人間で言えば息を整えているというところのようであった。
『己の身体そのものである志力を刃に変え、周囲に向けて放出した、というところだな…』
全方位に向けた攻撃であっては、攻撃は読めても対応ができない。ヤンが唸る。
「奴も必死ということ……にしてもリーファ、見事じゃ」
「教えのままに行動しただけです……」
変化に気づいたリーファとヤンは二人して【竜破】を放ち、ニアコーグの攻撃を相殺していた。でなければ、もっと甚大な被害が出ていたであろう。少女の瞳には、達成感と絶望の二色が同時に宿っていた。
「みんなは?」
ツィーガが見やるとリーファやエクイテオ、ジグハルトらの姿を確認が確認できた。
「皆、無事か……?」
よろよろと立ち上がる。みなボロボロだが、大きな怪我は無いかに見えた、が。
「船が……落ちてる!」
「トムスさん!」
「ち……」
浮上していた船が、衝撃に耐えかね、地に降り立っていた。船体のところどころに穴が開き、再度の浮上は難しそうである。ツィーガが駆け寄ると、執事の男が、トムスを介抱しているところであった。服がすでに真っ赤に染まっている。腹部がざっくりと切り裂かれていた。
「回復を……」
「気にすんな、それよりあいつだ」
マリシャの申し出を拒否し、立ち上がる。トムスの眼光は衰えていない。
「それより、早くしねえと、今の攻撃で死んだ奴らの魂を吸い上げて、奴が回復しちまう」
ニアコーグが動かないのはそういう訳があったのか。ツィーガは納得するが、攻め上がろうとする瞬間を潰され、とっさに気力がわき上がらない。皆が限界近くまで疲労していた。
「ジリ貧だな……」
「くそ、後少し、だってのに!」
「カイムさんの意識が弱まっている。ニアコーグをとどめておくのは限界に近いぞ」
エクイテオは意識をカイムに集中する。彼が繋ぎ止めるべき相手の感覚は、もう忘れてしまいそうになるほどにか細かった。ニアコーグが空を舞うようになれば、もう手出しはできなくなる。
「ハルめ、何が女神だ。役立たずめ!こっちがおぜん立てしてやんなきゃ、何もできないのか!」
「失礼ね」
「「「⁉」」」
トムスの言葉に突如反論したのは、誰あろうスクエアだった。さすがのトムスも、しばし声が出ない。
「どうやってここに来た?」
「簡単よ、女神だから」
「何?」
「陛下!」
ジグハルトは無意識に膝まずく。それほどにスクエアの持つ雰囲気を神々しさは並はずれていた。以前とは全く別人。何かが乗り移ったとした……そこまで考えてジグハルトはある結論に思い至った。
「まさか……女神、ハル?」
一瞬だがニアコーグすら忘れるほどの動揺が広がる。今まで誰もができなかった、女神ハルの降臨を、ついに成し遂げたというのか。
「そのまさか、といいたいけれど、私は残念ながらスクエア・ニルグです。ハルの力をこの世で行使するための回路みたいなものになっただけ」
「何と……」
神をその身に収めたまま、自我を保つなど、むしろ降臨すら上回る偉業である。だが本人は気づいていないようだった。
「皆の奮闘、心から感謝致します」
スクエアの瞳の中に、光の環が生まれている。人の身でいながら、ニアコーグに匹敵するような存在感。傍にいるだけで、気持ちが安らぎ、癒されていくかのようである。自分達が今伝説の瞬間に立ち会っていると確信が生まれていた。
「だけど話は後。グリオーディアが来る前に、用事を済ませないと!」
スクエアの言葉に皆が立ちあがった。
「ニアコーグは竜ですが、まだ年若く、身体を無理に大きくしています。維持する際に、人間の魂を利用している。今回核となっているのは、ジェラーレ・シンタイドという男です。私は、彼を救いたい」
スクエアの言葉に、トムスは口を歪めた。
「核であるジェラーレを抜きだせば、ニアコーグは確実に弱体化するでしょう。皆さんにはそのための力を貸してほしいのです」
一瞬だけ、スクエアの神威が消え、ひとりの女性に戻る。短い沈黙の後、声を上げたのはイヴァであった。
「考えている場合じゃない、やるしかないよ。神様から頼まれたんじゃ嫌とは言えないさ」
「……そうね」
お互いを見やり、互いに頷きあう。それぞれの言葉で賛同を示した。
「ありがとう……必要なのは、外殻を破ること。そうすれば私がジェラーレを引きずり出します。皆さんの攻撃を全て一点に結集してください」
「と、なれば私だね」
イヴァが勇ましく名乗りを上げる。他者の祈りを集約し、力に転換できる【戦乙女の槍】の真価が発揮されるのは、まさにこの時であろう。
「すまない、戦姫よ。あなたに託すしかなさそうだ」
モルガンがやや悔し気に賛意を示す。本来であれば自分がその役を担うところであったろうが、気力だけで戦っている状態では万全の威力は望めない。片腕を無くす怪我は軽いものではない。いまこうして立っているだけで驚くべきことだった。
「モルガン将軍、あんたもよくやった。片腕じゃなけりゃ、相手してほしかったね」
モルガンはイヴァに片膝をついて敬意を表する。ジグハルトが提案した。
「女神ハル。貴方が作りしこの剣、お役立てください」
スクエアは頷き、差し出された剣と、自らが被る宝冠を掲げ目を閉じる。二つは光の塊りとなったかと思うと、イヴァとマリシャの法具である戦乙女の槍と法衣へと吸い込まれた。
「これで、貴方がたの法具に、ハルフノールの加護も付与されました」
身につけた二人から吐息がこぼれるほどの志力に、身体が浮き上がるかのような錯覚を受ける。
「みなさん、イヴァさんの槍に、全てを託してください!」
スクエアの声に、生き残った人間達はマリシャに向けて祈る。スクエアの誘導の下、志力が集まっていく。
「ラーガ、いいのか」
『まあ、仕方あるまい。お前にはまだ先があるさ』
不承不承、という形であったが、ラーガは博麗銀の光を収めた。負荷がへり、ツィーガの身体から力が抜ける。
「ぐっ」
『しっかりしろ!まだ戦いは終わってないぞ!』
「ああ」
足を踏みしめ、祈りに参加する。リーファもまた、自分が信じるわけではない神に祈る。スクエアはそのすべてをまとめ上げ、イヴァに託した。いまや女神の力まで得たイヴァの愛槍は、周囲を圧倒する光に満ちていた。そしてイヴァ自身もまた、あふれ出る志力に輝くようである。
「凄い……」
「これなら、いけるかもしれない」
「となれば、後は露払いというわけじゃな」
ヤンが名乗りをあげる。見れば、ニアコーグも再び首を上げ、こちらを警戒するかのように見やっている。こちらの変化には当然気づいているだろう。
「さて……我が弟子よ。別れの時だ」
ヤンは、大きく息を吸い、吐いた。身体に帯びる志力が淡く光を放ち始める。
「師匠……?」
「わしの力も次の一撃で尽きる。例え生き残ったとしても、もはやお主を導く力は残ってはいまい」
見れば、老齢、小柄ながらも引き締まっていた身体は、ニアコーグとのたった一度の戦いで急激に細くなっていた。それほどまでに、この戦いに力を使い果たしたということなのだろう。
「……」
リーファの胸に、兄の姿が去来する。なぜ、皆自分を置いていくのだろうか。自分勝手な気持ちなのだろうが、気持ちを変えることはできなかった。
「そう悲しそうな顔をするな。あの青年、ツィーガといったか。勇をもって流をなす。よき戦士となろう。これからが楽しみじゃ。彼の行く先についていくがよい」
「はい」
「リーファよ。お前の歩みは決して速いものではない。お主の才は、儂とも、兄ガリューシャとも違う。空を翔ることも、頂を目指して最短の道を踏破することもできぬであろう」
「……はい」
「だが、案ずるな。お主の真の才能は何もない場所に、目指すべき道を自ら積み上げることができることよ。絶え間ない努力、不断の修練は無駄にならぬ、いつかはお主に大城を築かせ、ついには高みより鳥を見下ろすことができるはずじゃ」
にっこりと笑うヤンに、リーファは思わず涙ぐんだ。
「よしよし、我が愛しき弟子よ。今の言葉ゆめゆめ忘れるでないぞ」
そうして、「竜を目指す者」の長老は、リーファに背を向けた。
「ツィーガ殿」
「はい」
「ここはワシにまかされよ。お主にはこの弟子を託したい。何、時間を稼ぐ程度なら一人で充分ということよ」
「そういうこった。お前はよくやった。後は俺達大人の時間ってことだよ」
会話に入ってきたトムスの顔はますます青い。治療しなければ命がないだろう。だが意志の強さは衰えないようである。
『トムス、また何か考えておるな』
「旦那、そう疑わないでくださいよ。あんた達のお陰でここまでこれた。そういうことです」
エクイテオは、意識で掴んでいたカイムの腕が、あちらからほどかれるのを悟った。
『カイムさん?』
『エクイテオ君、ありがとう。ハルの力が強まったおかげで、落ち付くことができた……でも、もう人の身体には、戻れなそうだ』
『……』
『世界に身を捧げるということは、こういうことなんだろう。今だから言えるけど、人として生を受け、人生を全うすることは、例えようもなく素晴らしいことだ。君も人として成すべきことをやり遂げてくれ、世界と一つになるのは、それからでも遅くない』
『……わかりました』
『エルンに、伝えてくれ。今まで、美味しいご飯をありがとうって』
世界へと還元されていくカイムの意識を、エクイテオは見送るしかできなかった。
「マリシャ」
かつてない力に満ちながら、イヴァの心は静かだった。ついに来るべき時がきたのだ。
「楽しかったねえ」
「そうね、イヴァ」
言葉が出てこない。語り合う言葉はもう残されていなかった。
「これが終わったら溜まった借りを返すのに専念するさ」
「……もういいわよ。ここで勝てば全部チャラにしてあげる」
「本当?」
「あんまり嬉しそうな顔しないで……いくわよ」
「ああ!まかせといて」
ニアコーグもまた、人間達に突如起きた、尋常ならざる志力の昂ぶりを感じ取っている。グリオーディアの存在も。黒竜王の破壊に巻き込まれれば、自分などあっという間に消滅することを自覚している。トムスの言葉は誰よりも確信をついていたのだ。人間ごときに追い詰められ、上位の存在に怯える、自身の存在が人間と変わらないのを知っているからこそ、ここにいる全ての人間を滅せずにはいられなかった。今まで自身を抑えていた世界の抑圧が少しずつ弱まっていく。ニアコーグは分割していた意識を引き戻し、己の存在を賭けて、渾身の息吹を脅威に向けて放たんとする。
時は、満ちた。
ニアコーグは再び己の身体を震わせる。この世界を切り裂くために、己自身を削って放つ奥の手である。ここから逃げるにせよ、全ては目の前にいる人間を根絶やしにしてからのことだ。竜が人間を危ぶむなど、あってはならない。脅威は取り除かねばならない。己の尊厳をかけた一撃を放たんと咆哮する。
「はっ!」
が、またそこで邪魔が入った。絶妙の間合いで気勢を削ぎ、致命の一撃を逸らすヤンの極技。『戦う』という意志がそのまま結果に直結するまでに磨き上げた拳技。肉体と意志が生み出す螺旋の加速は、竜の速度に追いつくまでに至っていた。このことは竜であるニアコーグであるからこそわかることだ。
不遜なり。ニアコーグは唸った。竜の域にたどり着いた人間を滅ぼすため、全霊をもって息吹を放つ。人の身でありながら、竜に追いすがるものなど、許してはおけなかった。
『ジャマダ!』
「おうよ、最後まで邪魔させてもらおう!我が志を砕けるものなら、砕いてみよ!」
ヤンは拳に全てを込め、放たれた息吹にあえて飛び込んでいった。息吹に飲みこまれ、身体を燃やされながらも、放射された熱線を切り裂いていく。体が、焼き尽くされて、消えていく。
「おおおおお!」
だが、跡形も無くなったはずのヤンの叫び、魂の叫びを誰もが聞いた。ニアコーグですら、叫びの余韻をひきずるかのように、僅かに動きが止まる。
『!』
一瞬の空白に取り縋ったのは、今度はハルフノールそのものだった。大気が、空間が固定されたかのような感覚に、ニアコーグはまたも束縛される。カイムは世界そのものとなって、己の魂で空間を埋め尽くし、ニアコーグの四肢を縛りつけていたのだ。
竜はこの世界で最も強固な存在、王であり、その他の世界は従者であったはずなのに。逆らおうというのか。ニアコーグはまたしても激怒した。
『キサマァ!!』
全身から志力を放つニアコーグ、その鋭さに溶け込んだ世界ごと、カイムは切り刻まれる。だがカイムは、もはやその痛みすら届かないところへと至っていた。全ての刃を引き受けて、人々の願いを込めた光が灯ったのを確認して。
「「神よ、そしてハルフノールの生きとし生けるものの全てよ、世界を破壊せんとする竜を滅するための力を!」」
イヴァとマリシャ、二人の祈りが唱和する。世界に身を委ね、彼等の意志を受け取る。生きようとする世界の、祈りが膨大な力となって二人の法具に流れ込んでくるのを、躊躇いなく受け取る。
二人は、正しく意志の体現者となった。
「うりゃああああああっ!」
イヴァの身体が発光する。蓄えられた力と、己自身の魂を燃やすことで一筋の流星となって、ニアコーグへと距離を詰める。
『ガアッ!』
ニアコーグも、再び己自身の魂を、限界を超えて削り、悪意と破壊の奔流をイヴァに対して収束させていく。光と闇、白と黒の輝きがぶつかり合い、衝撃で周囲の人間が吹き飛ばされた。
「わあっっ!」
衝突した光は拮抗する。イヴァが力を行使する度に、身体が光へと溶け込んでいく。彼女は竜を砕く意思そのものへと転化していく。そう、志力の化身である竜であるかの如く。
「イヴァ……!」
マリシャの祈りが、イヴァに届き、彼女を支える。
「くたばれ!ニアコーグ!」
ニアコーグは、自分が押されていることを知り、愕然とした。この程度の力に負けるはずがないのに……?
『ナニガ、ナニガオコッテイル……!?』
視界を巡らすと、またしても。またしてもトムスの笑顔が見えた。自身の力が、世界に散じていくのが分かる。これまで集めてきた人間の魂が、天に昇っていくのだ。竜の体内から解き放たれた魂の欠片が、浄化されていく。
「そろそろ、お休みの時間だ。今までお疲れさん」
女神の落涙をニアコーグにばらまいたのは、このためだったのだ。慈愛の結晶によって、捕らわれし人の魂を救済するために。ニアコーグが自分の力だと確信していたものは、ただの借りものであることを分からせるために。
ついに、均衡が崩れた。
「でぃやぁー!」
光が突進してくる。燃えたぎる灼熱感がニアコーグを貫き、絶叫が知らずにほとばしった。無敵を誇った竜鱗が弾け飛び、内部から魂が流血のように溢れだす。光は闇を圧倒し、輝きが世界を包んでいく。
「見たかい!マリシャ!」
それが、イヴァの最後の言葉だった。純粋な志力と化した身体は、光そのものとなって燃え尽きていった。
「ジェラーレ!」
スクエアが瞬間移動でニアコーグに近づくと、躊躇いなくニアコーグの体内に入り込む。腐敗臭と、怨嗟がうごめく闇の中を、ハルの力で照らしだし、慈しみを持って魂を癒す。彼女が求める一つの形を探し、深奥へと再び潜る。身体を何かが通り過ぎては、痛みに震える。今までニアコーグに噛み砕かれ、天へ帰ることもできずに慟哭する魂達が、行き場のない猛りをスクエアにぶつけるかのようであった。ハルの力に守られてはいても、その痛みは直接スクエアの魂を傷つけていく。
「起きて!」
周囲の黒血をものともせず、スクエアは呼び掛けた。こんなところで、こんな形で死ぬような男ではない。ジェラーレ・シンタイドの魂は、こんなところで滅びたりはしないのだ。
「ジェラーレ、起きて!貴方は負けたりしない!今こそ、過去の呪いから解き放たれるのよ!ジェラーレ!」
スクエアの呼びかけに、何かがうごめいた。決して穢れ切ることのない魂の欠片が、誰に屈することなくそこにあった。躊躇うことなく、スクエアは掴み取ると、願いを込めて強く呼び掛け、抱きしめた。
「戻って来て!ジェラーレ!!貴方自身のために!」
彼が、求めているのは自分でないことは、分かっている。自分自身で立ち上がる。そう言う人だから。呼び掛けに応じた訳ではない。彼が負けるはずがない。自分の力で、必ず立ち上がるのだから。
「ジェラーレ!」
闇が全て弾け飛ぶ中、ニアコーグの最後の、断末魔の叫び声が上がった。
「やった、やったのか……?」
渦巻く乱流が再び世界を吹き飛ばし、あらゆる感情が流れ去り、砕け散ったような嵐が過ぎて、人間達はようやく顔を上げた。邪竜の巨影は跡かたも無く消えている。宙に神々しく浮かび上がるスクエアの両手に抱かれているのは、たくましい一人の男の姿だった。
「やった…やったぞ!竜が滅んだぞ!」
「勝ったんだ!俺達は勝ったんだ!」
虚脱感を越え、感情が爆発する。ツィーガは大地にそのまま前のめりに倒れ込む。
「ツィーガ!」
駆け寄るリーファ。倒れ込んだツィーガを抱き起こす。
「しっかりして!ツィーガ!」
「リーファ……俺達は、勝ったのか?」
「そうよ、勝ったのよ」
「そうか……やったね」
ツィーガの顔に笑みが浮かぶ。リーファも地面に座り込んだ。
「おーい!やったぜ!」
エクイテオが二人に飛び込んでそのまま抱きかかえる。三人して地面に転げ回った。
「やった!ニアコーグをぶちのめしてやったぜ!凄え!俺達、竜殺しだぜ!」
「竜殺し……」
「凄い、凄すぎる!」
それは人類にとっての最高の栄誉とも言える称号、悲願であった。神ですら退けた世界の脅威の一角を崩したのだ。
『天晴れだ!』
ラーガの声にも震えがある。成し遂げたことの大きさ、重さが歴戦の強者である魂を揺さぶったのであろう。ひとしきり叫び声を上げたあと、ツィーガは何かに気付いたように肩を落とし、声を上げた。
「どうした、ツィーガ?」
「でも……竜を倒したのは、俺達じゃあないよな……」
狂熱の瞬間が終わり、失ったものの大きさが三人に去来する。トムスが雇い、或いは助力を求めた強者達が数多く命を落としていた。
『その通りだ。竜を倒したのは彼らだ。人としての生を全うし、志を成し遂げた。真の英雄というべきだ。だが、竜と人との戦いに参加し、生き残った。それだけで十二分に称賛に価することだ。誇りを持て!』
ラーガの声に、小さく笑みをつくったツィーガが視線を向けた先には、呆然と立ちつくすマリシャの姿があった。相棒であるイヴァは、もういないのだ。
「師匠……」
リーファは目を閉じる。竜を目指すものとして、竜と戦い、竜と競いあった者として死を得たことは、まさに本望であろう。悲しむものではない、胸の痛みは、教えを忘れないために打ち込まれた鉄杭とすべきであろう。
「カイムさんも、最後でいい格好できたんだよな……」
姿を見せないのは、精霊士としての生き方を全うした証であり、せめてもの格好つけ、なのだろう。何にせよ真実を伝えるのは、エクイテオの役割である。彼は死んだわけではない、この世界と一つになった。魂が天に帰ることなく、エルンを、そしてハルフノールを見守り続けるのだから。
クルートは、同じく大地に座り込んだモルガンへ歩みを進める。見れば生き残ったデュミエンド戦士は、自分を含めて四人であった。モルガンは部下の死を悼みつつ、クルートに向けて笑った。
「よく生き残った」
「自分は……何もできませんでした」
「それをいうなら、俺とて同じよ。我が武は竜に通じず。命を散らすこと能わず」
クルートはうなだれた。自身の未熟を、ここまで痛切に感じたことはなかった。
「ここからだ。ここからだクルート。命ある限り戦う。それこそがデュミエンドの戦士よ」
片腕を無くしつつ、モルガンはまだ前を向いている。クルートは顔を上げた。
「はい。お供させてください。将軍」
スクエアはジェラーレを大地に横たえると、治癒術を発動しながら、彼が目覚めるのを待った。ジェラーレは、ニアコーグの体内の中で己の存在を懸け、戦い続けた。だからこそ、取り込まれ、核となり果てた後も、今こうやって身体を取り戻すことができたのだ、ということは、スクエアだけが知っていればいいことである。
「ジェラーレ」
「……う」
反応があり、スクエアは大きく、深く息をついた。
「おはよう……ジェラーレ」
「……ああ」
小さくともしっかりとした声。理性を含んだ響きは、彼が自身の巻き起こした悲劇を忘れ得ることができない証左でもあるようだった。スクエアは何も聞かずに微笑んでいる。ただただ慈しみの眼差しを向ける女性に対し、ジェラーレはただ一言伝えた。
「ずっと、聞こえていた……お前が俺を呼ぶ声が……」
スクエアの瞳から、涙が一気に溢れ出た。ジェラーレは弱々しく手を伸ばし指でスクエアの涙を拭うと、力を込めて呟く。
「今は、泣いている場合ではないのだろう?」
「ええ。そうだったわ」
ジェラーレを横たえると、スクエアは立ち上がった。
「ジグハルト、これからグリオーディアがやってきます。国民に向けて呼び掛けを行います」
ジグハルトは、恭しく頭を下げる。彼に対し、改めて差し出されたのは、いつの間にか再び形を取り戻したハルフノールの宝剣であった。
「現在、大洞穴を囲んで、魔族が人間を襲っています。貴方に命じます。この剣を持って闇を斬り払いなさい」
「御命令、謹んでお受けします」
ジグハルトは剣を受け取り、立ち上がる。
「俺達も戦います」
『生き残った人間には、まだこの世界でやることがある、ということだからな』
ツィーガ、リーファ、エクイテオ達もそこにいた。瞳には竜に勝った喜びよりも、生き延びてしまったことへの罪悪感が宿っているのを、スクエアは哀しげに見やる。
「わかりました。皆さん、これから転移を行います。貴方がたが行きたい場所を願ってください。私の力でそちらに運びます」
皆が祈りを捧げた瞬間、転移術が発動し、その場にいた全ての人間が消滅し、柄の間の静寂が世界に戻る。だが、最大の脅威は、ここからである。目前に迫る黒竜王の影は、確実に大きくなっていたからだ。
Ⅳ
ニアコーグが消し飛ぶまで、たった一人でデリクスは戦い続けていた。この期に及んでまで貌に覇気を一片も漂わせないのはいっそ天晴れといってよいであろう。彼の顔にはようやく、安堵がかすかに宿る。目の前でニアコーグが消滅したのを確認したからである。背後に突如生じた気配を感じ取っても、振り向こうとすらしない。
「御免」
デリクスの横に並んだのはジグハルト。デリクスに劣らぬ速度で鬼を屠りながら、横に並ぶ。
「流石、凪のデリクスの前では、鬼すらも漣の如く、ですか」
声の響きには、感嘆が宿る。
「いやいや恐縮です。こんなことはもうごめんですけどね」
言い続けながらも、デリクスは攻勢に転じた。周囲が瞬く間に開けていく。狼狽する鬼族を許さず、こともなげに踏み込んでいく先から、塵と化していく同族に、怖れを知らぬはずの鬼達は乱れ切った。デリクスは横に立ったジグハルトに目礼する。
「竜退治、お見事でした」
万感迫る一言であった。ジグハルトの瞳にはかつてない光が宿る、がすぐに表情を引き締めた。
「まだ、終わっていません」
手にしたハルフノールの剣は、一際鮮やかに光を放つ。輝きは以前より、更に増しているようだった。
「それにしても、デリクス司祭長。いつか、一手御指南願いたいものです」
ジグハルトの一閃で、一気に五体の悪魔が断末魔の声をあげながら消滅する。剣技の冴えは常軌を逸している。
「御勘弁ください。戦うのは苦手なんですよ」
「いや。正直私は自信を失いました。世界は広いものですな」
二人並んで大群に向かう、荒れ狂うジグハルトの剣と、デリクスの不可思議な歩み。悠然と歩む先の世界が晴れていく。
「皆の者、剣を取れ!邪竜ニアコーグは滅んだ!我らの勝利まであと一息だ!」
ジグハルトの声に、再び時が動き出す。分散して各自が戦っていた兵士達が、隊列を組み直し、ジグハルトの指揮のもと結集を始める。
「ハルフノールは、ハルフノールの民自身で守る!」
戦況が逆転し、ふう、と息をつくデリクスの前に、見知った顔が現れる。皆誇りと、それ以上の悲しみを浮かべて。彼らを殺す選択をしないで済んで、本当に良かった。デリクスは珍しくいたわるような笑みを作ってみせた。
「御苦労様、君達は負傷兵の救護に当たってくれないかな?」
「……わかりました」
「頼んだよ。ここは私達にまかせてくれ」
「突撃!」
一斉に走りだす一団を見届け、ツィーガ達はその場に踏みとどまった。誰もが自分達の役目を果たしている。やれることをやるだけだ。負傷者達を置いておく訳にはいかない。
「俺達もやれることをやろう」
「おう」
ツィーガが見やった遠い先に、マリシャが茫然と立ちすくんでいるのが見える。彼女の前には、槍が墓標のように突き立っていた。
「そういえば、トムスさんは?」
ふと浮かんだ思いだったが、負傷兵を前に、そんな感傷に浸っている暇はなくなった。
再び大洞穴に転移したスクエアの姿を見て、避難民はたちまち頭を下げた。最早、誰がみても、彼女に神が宿ったのは明らかであった。アリエル司祭長などはむせび泣くばかりで、言葉も出てこない。
「皆さん。もうすぐ、竜がやってきます。しかし、恐れているだけでは解決しません。我々もまた戦うことができます。祈るのです。世界を貴重と思う心、誰かを愛しいと思う心を、私が力に変えましょう」
スクエアの言葉は、波のように大洞穴にいる人々に伝わっていく。自然と頭を下げ、或いは子供を抱き抱えながら祈り始める。
「外には、今もなお戦い続ける人達がいます。彼等のためにも、力を貸してください」
スクエアの身体は淡く光り、大きくない声は心に直接届くかのように隅々まで広がっていた。人々の祈りが、志力の欠片となって、スクエアに集う。彼女もまた、祈りを捧げる。人々の祈りを集めながら、スクエアは大洞穴の深奥に再び戻ってきた。傍らには横たわったジェラーレがいる。
「ハル、願いはかなった。私の身体を、意志を、全て捧げる、どうかこの国を救って」
スクエアは満足し切った顔でハルの意識に呼び掛ける。深い闇の中から、ハルの意識が人の姿を取って出現した。
「お疲れ様、さっきも言ったけど、貴方の意志次第よ。私だけではもう意識を維持できない。貴方自身の志が頼りだからね。強く思いなさい。全てを守ろうとなんて思わなくていい。あなたが一番大切と思うものを守るために祈りなさい」
「ええ」
気負いもない。この淀みに眠る力を呼び覚まし、円蓋の力として開放する。神の回路として、志を導く旗印として。先刻美しく散っていったあの女性神官の如く、魂を燃やしつくすだけだ。
「ジェラーレ。最後のわがまま言っていい?少しだけ、私を抱きしめていて。私の意志が身体からこぼれていかないように」
「分かった……」
太く、固い腕に包まれる。これでもう、本当に思い残すことなどなかった。
「さ、いきましょう」
スクエアは晴れ晴れとした顔で目を閉じた。混沌とした暗闇が、静かな光を湛え、寄り添う男女を照らし始めた。輝きは地上に届き、円柱に集約していく。少しずつ、円蓋の輝きは深く厚みを増していった。
異変を察知したのは、他の五大国である。観測値の異常が相次いで報告され、エイゼンブラッドは大声を上げた。
「どうなってやがる!?強い志力が突然消えた後、今度はまた別の力が発生しやがったのか?」
「何が、起こっているのでしょうか?でも……これは凄い、円蓋の力が嘗てない程に高まっています。これで間違いない。本当にハルが降臨したんですよ!」
「こんな数値見たことない!これなら、いけるかもしれませんよ!」
かつてない記録に興奮を抑えられないのは、周囲も、エイゼンブラッド本人も同じだった。世界を、神を滅ぼしたグリオーディアに対抗できるかもしれないという思いは、国の違いを超えて人の胸を熱くする。
「おい、全国民に呼びかけろ!竜に対抗するために祈りを捧げろってな!」
「もうやってますよ!続々と集まってきます!」
「各国とも、志力の供給量が増大しています!」
「ここで踏ん張らにゃ笑いもんだ!さっさと伝達しな!俺達人間の力ってやつを、あのデカブツにみせつけてやるんだ!」
カーマキュサで発生した現状は、横の伝達などある訳ではない各国にも広がっていく。自然発生的に起こった祈りは、またたくまに全世界に伝搬し、新たに生み出された志力はハルフノールの円蓋へと伝わり、更に円蓋を強化していく。今や国家間のいさかいを超え、人類と竜との一大決戦へと変貌していった。
突如、恐れをなして散り散りに逃げ出す鬼達の様子を取らえると、デリクスは振り返って大声で指示を出した。グリオーディアがとうとう到来したのだ。
「総員、大洞穴に避難!グリオーディアが来るぞ!」
ツィーガ達も、気絶したファナや負傷兵を運び終え、大洞穴の入り口付近にて暗い空を見上げた。入口を残った人間の法術でふさぐ。
「一目見てみたいけどな、黒竜王って奴を」
「やめろよ!」
エクイテオの軽口がいつになく鈍いのも、幼いころから刷り込まれた恐怖が感情を縛りつけるからである。ツィーガも、リーファも声を出さずに、ただ祈り続ける中、ついにその時がやってきた。一つの街を覆うほどの巨体が悠然と浮かび、ハルフノールの下へ災厄の化身が降臨したのだ。グリオーディアの周囲には精霊すらいない。近づくだけで消滅し、虚無の空間が進路に従って生み出されていく。
「来たぞ!ひぃぃっ!!」
伝令の男が恐怖のために発狂する。遠目で見ても、その脅威は人類に制御できるものではなかった。
世界が、息を殺した。
Ⅴ
全ての人間が、次の戦いに向かい、誰の意識からも外れた中、トムスが目を覚ます。血は、腹部の血は収まってはいなかった。
「さて……さすがは女神様、俺の意図を正確に把握してくれてんのな」
目の前に広がる空が、一際鮮やかに見えたが、それは円蓋による青さだった。彼が移動を望んだのは、今まさに円蓋を支える志力の柱がそびえるゼピュロシア神殿である。外に出ているものは誰もいない。法具が唸る音だけが響く世界で、トムスはひとりごちた。
「いい加減出てこいよ、ニアコーグ」
瞬間、トムスの身体の中で何かがうごめいた。
「お前が俺のところにくるなんざ、お見通しなんだよ」
『何……だと?』
「てめえは、最後の最後では安全策を取る。逃げ道として人の中に入り込む機会をずっと狙っていたはずだ。今回だって、何を考えるかなんて餓鬼でも気付くぜ」
『お前、まさかわざと自分に?』
「どうせ、肉体を破壊しても、またどこかの人間に逃げ込むだろうからよ。どうせならと、俺んところに御招待したのさ。わざわざ入口まで作ってやったんだ。感謝しな」
トムスは、最後は一人で戦うつもりであった。ニアコーグを逃がさないためにとれる最良の手段が、自分自身にニアコーグを憑依させることである。自身の腹部の傷も含め、全ての布石はこのために打たれたのである。
『なるほど。傷ついたお前に目が留まったのは確かだ。だからどうだというのだ?お前のような人間が我を止められるとでも思うか』
嘲りの波動がトムスを揺らす。ニアコーグがたちまちに四肢の自由を、感覚を奪っていく。
『次の獲物が見つかるまでの仮初の宿り木になってもらうぞ。その後で、存分に弄り尽くしてやる』
トムスは、いやトムスに寄生したニアコーグは立ち上がる。
『いや、ここで神殿を破壊するか。グリオーディアを招き入れ、徹底的にこの国を破壊し尽くすのもよかろう』
高笑いを放つニアコーグ。だが、その足が止まる。体が、自分が進もうとしたのと、逆の方角へ歩もうとしたからだ。
『ほう、まだ意識を持つか。我に乗っ取られながら。見事だ』
「うるせえ」
同じ顔、同じ口からそれぞれの意志が言葉を発する。
『諦めろ、人間ごときが我の支配を脱することは敵わぬ』
「へっお前は確かに大した奴だ。確かに、俺一人じゃ何ともならねえだろう」
浮かべた笑みが凍ったのは、どちらの精神が招いたことであろうか。トムスは悠然と、ニアコーグに問いかける。
「だが、人類全体だったら、どうだ?」
『?全体だと?』
「おあつらえむきに、今ハルフノールには全人類の志力を集めた場所がある。一緒に行こうじゃねえか」
『き、貴様……!』
ニアコーグは逃げようとする。だが、体が、竜の意志に反して、塔への道を歩み始めた。
「最後の勝負だ。いやなら抵抗してみな」
再び足が、動いた。神殿に向かって。ニアコーグの意志に反して。
『ば、馬鹿な!?貴様、どうやって?』
ニアコーグは今度こそ驚愕した。人間の分際で、竜の支配をはねのけるなど、どのような奇跡が起きているというのか。女神ハル神とやらの助力なのか。
「どうやってもこうやってもねえ。誰の身体でもねえ、どこに行こうが俺の勝手だろうが」
トムスはせせら笑う。右手にはねじれた聖印の首飾りを握りしめ、鎖部分を腕に巻きつけていた。あと少しだ、あと少しだけ力を貸してくれ。
『おのれ!』
傍から見れば、奇妙な、滑稽な戦いであった。ニアコーグにも、もう竜身に変化するだけの力は無い。魂同士、志同士の戦いであった。一歩、一歩。逸れようとする身体を強引に運びつつ、塔の階段を上り天の柱を生み出す法具へと近づいていく。
『待て、く、くそっ!』
ニアコーグの焦りが高まる。こんなことは嘗てなかった。いかに力を弱めたとはいえ、憑依した人間が意志を持ち、なお且つ竜たるニアコーグに反抗しうるとは!
『死ねぇ!』
ニアコーグに支配されたトムスの左手が、自身の顔を穿ち、片目を自らつぶす。それでも、トムスの歩みは止まらない。
『何故だ、何故、お前は止まらんのだ!』
ニアコーグは狼狽えつつ、支配した左手で懐に忍ばせていた短刀を抜き、癒したはずの腹を抉る。血を吐き、トムスはむせる。それでも、青き柱を目指す男は、決して膝を屈しようとはしなかった。
『何者だ……お前は、何者なんだ!!』
「俺は、トムス・フォンダよ。それ以外の何者でもねえ」
突き刺した短刀を、再び抜こうとするが、右手が止める。抉りこむ痛みがトムスの意識を散らそうとする。トムスの意志が残った右手が左手首を掴み、外壁に叩きつける。指が折れ、短刀が地上に落下していった。
「ぐううぅ……」
全身を駆け巡る痛みに、トムスが唸る。血に汚れ、欠けた視界の先に、ようやく目指すべき法具が見えた。柵もない塔の屋上、目の前には天に向けてそびえたつ、輝く志力の柱が見える。トムスは止まらない。ニアコーグに、今までの比ではない、根源的な恐怖が襲いかかってきた。人間は、こんなにも恐ろしいものだったのか!
『馬鹿なぁ……竜が、竜が人間ごときにぃ!!』
「人間をあざ笑うのは勝手だ、神様を侮ろうが俺のしったこっちゃねえ……だがな、このトムス・フォンダ様を舐めるのだけは、絶対に許さねえ」
『トムスウゥゥゥゥッ!!』
だが、円柱の光に手が届く最後の瞬間、血を流しすぎたトムスを眩暈が襲う。最後の機会に、ニアコーグも必死で反撃を試みた。
『終わりだ!』
「くそっ!」
ニアコーグは右足の自由を奪い、塔からの投身を試みる。トムスも必死で身体をとどめようと体勢を立て直す。はたから見れば奇妙な踊りを踊っているようにもみえる戦いの中、ついに端に追い詰められたトムスが足を踏み外した。
体が宙に投げ出され、浮遊感にトムスは目を閉じる。薄れゆく意識の中、トムスは敗北を覚悟し、ニアコーグはトムスの口を使って狂喜の雄叫びを上げようとした。
「!」
『バカナァ!』
トムスの意識が戻り、自分の身に何が起こったかを知る。最後の力で伸ばした右手に巻き付けていた聖印の鎖が、外壁の出っ張りにひっかかり、身体を支えていた。いまにもちぎれんばかりの細い鎖は、まるで必死でトムスをつなぎとめているかのようでもある。
「へっ……」
続いて、一迅の突風が吹く。トムスの身体は何事も無かったかのように引き上げられ、目の前に再び光の柱が現れる。まるで彼を支えるため「だけ」に吹いたかのような風は、微かなぬくもりめいたものを残して消えていった。トムスは残された最後の力の一部を使って、笑みを作る。せめてもの返礼のために。
「……どうやら、お前らには借りを返せなそうだなあ」
這いよって、法具に獲りすがり、天を衝く青い光の柱のもとに身体を運ぶ。人類の意志。竜と戦うために振り絞った奇跡の光に、トムスはニアコーグを道連れに身を投じた。
「じゃあな」
『ヤメロォォォォッ!ギャァァァァッッッッッ!!!』
膨大な意志が、感情が、一人と一匹の魂に流れ込み、あっという間に弾けて消える。
それがトムス・フォンダという男の、最後だった。
Ⅵ
グリオーディアは、他の竜と同様、一際青く輝きを放つ円蓋を見下ろしている。天より来る蒼き柱は円蓋を支える柱となり、静かに抵抗する人類の意志を示すかのようである。無言で対峙する黒竜王は宙に留まりつつ眼下の世界を眺めやる。瞳から読みとれる意志はない。彼はただ破壊の意志を持って動くのみ。円蓋の中にてうごめく命の営みなど、何の意味も価値もないのだろう。
彼はただ、己の衝動を最短の方法で実行するだけである。全身を強張らせると、集約された志力のあまりの強さに、周囲の空間が歪んでいく。あらゆるものが捻きられ、押し潰され、滅していく中、ついに、この世界、最大にして最強の息吹が吐き出される。円蓋との接触の衝撃と閃光は、ハルフノールから最も遠い位置にあるカーマキュサ本国でも観測されるほどのものであった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます