誇りまみれの竜賭博 第12話 一欠片の自分 それぞれの戦場
曇天に、空に一角の空洞が開いているような奇観。天窮を犯す黒い染みの正体こそ、竜の王たるグリオーディア、その巨大さは風景の一部に至るほどだ。
グリオーディアの姿は、どのような存在にも干渉できぬ絶大の存在感をもって、世界の一角を占めている。時折巻き起こる嵐のような暴風も、黒竜王の雄大すぎる体躯を揺るがせるものではなかった。その姿を前にして、人間として疑問を抱かぬものはいないだろう。なぜ、この世界に、このような絶望が存在し得るのか、と。何故、今この時に、自分は生を受けたのか、と。
すでに洋上に達したグリオーディアはまっすぐにハルフノールを目指している。人間が推し量れるような理性は瞳には宿らない。目的も、感情も読めぬ。破壊だけをもたらす脅威は、ある意味世界そのものともいえる。祈りや、嘆願が届く相手ではない。戦うか、逃れるかだけだ。
戦えるものがいれば、だが。
Ⅰ
徒歩の集団が遅れ気味になるのを見つけては、様子をみながら励まし、歩けなくなった人間は馬車に乗せる。適宜交代をしながら、休息をとりながら進む避難はなかなか進まず、ジグハルト達を焦らせる。ガーデニオンを出た一行は、ゼピュロシア神殿を目指し街道を進む。グリオーディア到着予定時刻までに間に合うか、ギリギリというところだ。遅れを出さないためには、常に全体に目を配り、事情を聴いては調整するの繰り返し。目の回る忙しさを抱えつつ、一団の先頭では、ファナが声を張り上げていた。
「皆さん!!頑張ってください!」
集団を行ったり来たりしながら、病人の具合を確かめ、救護班を差し向ける。可憐な女性が、疲れもいとわずに奔走し、人々を励ます姿に誰しもが励まされ、気力を新たにする。彼女が通り過ぎるたびに香る、ほのかな甘い匂いが、ほんの束の間だが疲れを忘れさせていく。まさに縦横無尽、八面六臂といってもいい活躍だったが、ファナは自分のふるまいに、全く呆れ果ててもいた。
「何やってんだろう、私……」
ひそやかな声で愚痴る。ファナは自慢の法具【女神の息吹】の香りを使って、集団の疲れを忘れさせ、落ち着きを維持させることに成功していた。彼女の表の顔を役立てるべき時であることは十二分に理解しているのだが、本音を言えばさっさとエスパダールに逃げだして、湯あみと酒で一息つきたいというところだ。懐には、デリクスから渡された緊急転送用の法具が潜ませてある。仮に避難が成功したとしても、グリオーディアに焼き尽くされて終わりならば、この徒労を続けずともよいのではないか、と頭で誰かが囁くことをやめない。
ファナは法具を常時発動させながら、集団行動を乱さないように自身も馬に乗らず、一歩一歩前を向いて歩む。衆目をファナ自身に集中させ、夢幻的な美貌と毅然とした姿勢に、皆の思考を停止させ、歩みを進めることだけに意識を向けさせる。ファナの態度と励ましは、信じる神の垣根を超えて、皆を励まし続けた。デリクスや王女スクエアは一足先に神殿に先行しているため、人員不足も甚だしい。ジグハルトは先導する役目であり、落伍者を出さないのは自分の勤めとわかってはいる。
「美しさって、本当に罪よね」
そうでも呟かないととやってられないというところである。自分は裏で権力者を手の平で転がし、贅沢三昧に暮らすつもりが、まさか辺境の島国で避難民を引き連れてのし歩くことになろうとは。
「ファナ様、一団に遅れがあります!ここで少し止まってください」
「わかりました!」
「お嬢ちゃん、無理すんなよ」
「あ、ありがとうございます」
妄念を放り捨てて、密やかに笑ってみせる。清純そうな笑顔は得意とするところである。ファナは自身の美貌を誰よりも自分自身が理解しており、使い方も熟知している、つもりであったが、果たしてそうだったかと自らに問いかけたい気持ちで一杯だった。
「結局のところ、お人良しなんだよね」
誰かの声が聞こえたのかもしれないが、頭の中で捻じって捨てる。ここで気を抜けば、志力も底をつき、二度と立ち上がれないことを理解していたので、ファナは半ば自棄気味に、声を振り絞る。
「もう少しです。大洞穴までいけば、きっとハルのご加護があるはず、負けてはいけません!」
ハルの神官達も声をかけて回る中、皆不満も最小限に、よくついてきていた。
「お姉ちゃん、おばあちゃんが動けないって!」
「どこにいるの?」
少女に連れられ、老女の元に駆け寄る。
「大丈夫ですか?」
「ええ、ちょっと立ちくらみがして」
「いけませんわ、無理をなさっては。救護用の馬車に乗ってください、今手配しますので」
「ありがとうございます、よその国の方が、こんな親切に」
拝む仕草をする老婆、内心では自分に呆れつつ笑顔を作る。
「困ったときに手を差し伸べなくて、なぜ神官が務まりましょう」
先頭の馬車を手配し、神官の看護までつける。誰もいなくなった瞬間、どっと疲労が押し寄せてきた。ただでさえ困難な作業中に、常時法具を使用しているのである。ファナ自身がいつ倒れてもおかしくない。これも全て、あのツィーガとかいう後輩のせいである。ここまでくると、なぜあの年下の神官戦士にここまで執着するのか、自分でも分からない。
「こうなったら、意地でも操り人形にしてこき使ってやる」
頭の中で思い切り叫んで、ファナは再び立ち上がった。
「救護班の馬車に乗せました。出発できます」
「了解しました、急ぎましょう!」
そんな異国の女神官の様子を、ジグハルトなどは面白そうに、そして親愛の情を込めて眺めやっていた。勿論、ジグハルト自身ものんびり眺めているだけではない。各部隊に分かれた状況の整理やらを済ませ、一団を巡って励ましの声をかける。駿馬にまたがり、颯爽と駆けるジグハルトは内心の不安などおくびにも出さない。前を見続ける男に、配下の騎士が報告の後、心細げに問いかける。
「本当に、大丈夫なのでしょうか。トムスという男も消えてしまいました」
「さて、今言えることは、もう後戻りできないということだけかな」
「……」
「鬼襲来!五隊の左方面です!」
報告が飛んでくる。
「デュミエンドとエスパダールの護衛隊を差し向けてくれ!」
「了解!」
まだ道半ばである。前途の多難さを思う間とてなかった。
一方、先行したデリクス達は、一足早くゼピュロシア神殿にたどり着き、【大いなる円蓋】発動の準備を不眠不休で続けていた。ハルフノール全体を覆う円蓋が構築できるかは、五大国の支援次第である。まずはゼピュロシア神殿一帯を覆える範囲での発動に向け、調整が急速に進められている。ドグズが淡々と、着実に作業を進めていくのを確認しつつ、デリクスは無精髭の伸びた顎をさする。デリクス自身の仕事は、雑事の調整である。【円柱】の座標をエスパダールに告げる際の通信では、相手方であるラマムも蒼白の顔をしていた。彼女もまた不眠で働いているのだろう。
「了解した。座標はこちらから各国に伝達します」
「頼むよ。会議でも言ったけど、グリオーディアはかなり志力に敏感だからね。ほかの国にまで影響がでたら人類がまるごと滅ぶかもしれないから、慎重に」
「そう、ならこれが最後の通信ね。ファナは残ったそうだけど……」
「安心して、転送用法具は持たせてあるから。そっちはどんな感じ?ルンバーグ法王はどうせ反対してるんでしょ?」
「お察しのとおり……エスパダール以外の国は皆滅びればよいと思っているからね」
やれやれ、とデリクスは肩をすくめた。エスパダールは一枚岩ではないことは、内部の人間にすれば明白な事実であったが、こういった非常事態でも変わることがない状況は、流石に論評しようもない。
「法王は、ハルフノールという滅びゆく信仰などに、力を割くべきではない。神の絶えた地にスパッタの栄光を広げることこそが、真理である、の一点張り」
現国王であるティベルは民衆や一般の騎士、神官達からの受けはよいものの、貴族など上層部とは微妙な緊張状態が続いている。王弟派であるルンバーグ法王はティベルの失態を手ぐすね引いて待っているところであり、現体制はあらゆる場面で慎重な対応を強いられるのが常であった。デリクスは、不愛想だが柔軟かつ平衡感覚の優れた現国王を評価しているので、何もこんなときに権力闘争なんぞをしなくてもよいだろうとうんざりするしかない。
「やれやれ、会議ではよく認めさせたね」
「最後は陛下の判断よ。エスパダールは世界を先導する国である、の一言が効いたのね。世界の主導権を持っているという優越感が捨てがたい、というところでしょ。誰もハルフノールの避難民のことなんか考えてない」
「そりゃあ、そうだろうさ」
「今回、法王はむしろ主流の意見よ。それだけ皆がグリオーディアに衝撃を受けている。経路開放には、国王だけでなく法王の許可も必要だから、土壇場で渋るかもしれない。どうする?押し切られたら?」
ラマムもまたティベルに見いだされた人間である。デリクスの行動、心情を理解しつつも、現体制を揺るがすような事態に陥ることは望んではいない。決裂を防ぐために、どう動くべきなのか、決めかねているところがあった。
「そのときは申し訳ないが、法王に言付けを頼まれてくれないか」
デリクスはそういって、いくつかの単語を告げた。
「えーと……“ハルフノール、四分の三、七五〇〇”ね。何か意味があるの?」
「わからなくていい。秘密のおまじないだよ。くれぐれも、法王にだけに伝えるように……いや、封書として手渡してくれ。君に迷惑が掛かってはいけない」
ラマムは眉をひそめた。
「迷惑がかかるような内容なのね?」
「人によってはね。いいかい、君は内容を知らない、で通すんだよ」
「……デリクス、あなた、本当に帰ってくるつもりなのよね」
「もちろん。君の旦那さんの手料理をご馳走になるつもりだからね」
ラマムは微笑むでもなく眼鏡を直し、デリクスを見つめた。
「帰ってきなさい。デリクス・デミトリウス。エスパダールにはまだあなたが必要よ」
「はて、国に必要とされるような悪いことは、今までしてこなかったつもりだけどね」
まあ、縁があったらまた会おう。そういってデリクスは締まりのない通信を終えた。
「死なないで、デリクス」
もう一度そうつぶやくと、ラマムは今まさに激論が交わされる議場への足を運ぶ。反対派であるルンバーグ法王らに対し、対抗できるだけの資料と根拠を用意すること。彼女の戦いもまた始まったばかりであった。
「えい!」
ツィーガの気合声とともに振り下ろされた剣によって、人型の鬼が切り裂かれ、霧消していく。額の汗を拭い、剣についた血を払い落とす。夕日に輝く刀身には怪物を斬ったとは思えぬ美しさがあった。
「終わったか……」
避難民たちへの鬼族の襲撃は、断続的に続いていた。その度に、護衛として同行する、ツィーガ達エスパダール神官戦士団と、モルガン率いるデュミエンド戦士団達が、撃退に向かうことが繰り返されていた。
「にしても、この剣、本当に凄いな……」
ツィーガはトムスから譲られた剣を改めて見つめる。一振りで家が建つ、とまで言われた博麗銀製の剣の切れ味は、今まで使い込んでいた官給品とは一味も二味も違う、というのが素直な感想だった。軽いために疲労が軽減され、また志力の伝達が良いため、今までよりも発動が早く、そして維持も容易だった。それでいて鬼族の体をたやすく切り裂く切れ味にツィーガは得体のしれない高揚感すら抱くほどだ。
『うむ。まさに俺が宿るにふさわしい。我が生前の愛剣、【明星】には劣るかもしれんがな』
ツィーガは頷く。そして、こんな剣を置いていったトムスが姿を消したという事実がいまだに信じられない。せめてもの償い、というやつなのだろうか。そんなことをするような男には思えなかったが。敵前逃亡など、最も似合わない男に見えたが。
『それに、さすがはデュミエンド戦士団。見事なものだ』
「ああ」
今まさに、モルガンの鉾槍による横凪ぎで、乱杭歯を閃かせた獣型の鬼の横っ面を吹き飛ばしたところである。疲れ知らずの剛勇は、全く衰えを知らなかった。続いて戦士団達が、大地に叩きつけれられ、動かなくなった鬼に対し、的確にとどめを刺していく。個々人の技量だけでなく、統率のとれた団体行動で、鬼達を寄せ付けない強さを見せていた。襲撃が終わっても平然とした態度を崩さず、油断も見せず、戦い以外の全てをそぎ落としたような態度は、頼もしさを超えて空恐ろしさを感じさせた。
「よし、戦闘終了!ご苦労だった」
「了解。警戒態勢に戻ります」
屈強な戦士団の中で、モルガンはまさに、その立ち姿をもって戦士たちをまとめ上げ、自ら先頭に立って戦い続けている。彼らの雄姿もまた、ハルフノールの人間に強く印象を残すものだろう。
「ニアコーグが来ないな……」
だが、彼らの活躍を見てもなお、ツィーガの、そして一団の中の限られた人員達の心は晴れない。すでに避難経路の半分は踏破したものの、ニアコーグは姿を見せなかった。
『ひょっとすると、グリオーディアの接近を受けて、断念したのではないか?』
「そうならいいけど」
ツィーガとしても、別にニアコーグにきてほしいわけではない。戦って勝てるなど思ってもいない。だが、ジェラーレの姿をした竜が残した言葉からは、そんな安易な考えを持つことは到底できなかった。
「おーいツィーガ。交代だ。ちっとは休んでおけ」
「わかった」
「その後は、野営の準備だ。夜はニアコーグが来るかもしれないからな」
「ああ……」
エクイテオの声がする。道中いかに効率的に休息をとるかが重要だと、ラーガからも繰り返し強調されたことである。休むことを躊躇ってはいけないことを、この数か月でツィーガは学んでいた。
ツィーガ達が奮闘を続ける中、離れた位置から並走する馬車が一台。カイムが手綱を握る中、イヴァは横に座りながら無言であった。彼らの馬車は、避難民が見える位置を保ったまま、竜に対する警戒を続けている。鬼族達は姿を見せるものの、風の結界に阻まれ、手出しできるものはいない。
「イヴァさん」
呆けたように、空ばかり見ている女傑に対して、カイムは声をかけた。
「トムスさん、今ごろどこにいるんですかねえ」
「知らないよ、そんなこと」
「マリシャさんは、結局来なかったですね」
「ああ」
気にさわることを無遠慮にいう男だ。イヴァは舌打ちをしようとして、やめた。そんなことをすることすら煩わしい。
「イヴァさんは、誰かのために、戦いたかったのですか?」
無神経な男の唐突な問いは、イヴァの痛いところをついた。とっさに声がでない。
「何だって、そんなことを言うんだい?」
「いえ、デュミエンドの神官戦士達は、皆戦うことと生きることを同義としてこの世を駆け抜けていく。戦うことに、何かを見出したりしない。そういうものと思っていましたので」
「そんな単細胞ばかりじゃないさ」
「私なんかは、とんと臆病者なので、自分から戦おうなんて思うことはできません。誰かのために、と思うことでようやく、という感じです」
「何だい。あんたと私が似たもの同士だって、そういいたいのかい?」
「とんでもない。もし私が、あなたの立場なら、マリシャさんと一緒にすっ飛んでこの島から逃げますからね」
あっけらかんとした答えに、皮肉をいう気も失せる。
「……」
「私は誰かのため、という理由がなければ戦えない。イヴァさんは、そうですね……誰かの前で、なければ戦えないのではないでしょうか?」
「誰かの、前で?」
「ええ。似ているようで違いますよね。私はエルンがこの島に残ることを選んだから戦う。あなたは、あなたが戦う姿を見てもらいたい人がこの場にいないから、気が乗らない」
「あんたより劣っているってことかい?根性なしだって?」
「人はなんて自分勝手なんだろうって、そう言いたかったんです。生きることに、戦うことにいちいち理由を求めて、それなのに、結局は自分のことしか考えない。私も、あなたも」
「そうかね」
「そうですよ。エルンからしてみれば、別に私に戦ってほしいなんて思ってないんです。それなのに、私は彼女のせいにすることでしか、今の自分を保てないのだから」
私は、もうすぐ世界に溶け込みますからね。カイムの言葉に、イヴァは無言で答えた。
「でもね、消える間際になって思うんです。今思っていること、何より自分のために生きること、世界に依存せず、自分がしたいと思うことは、何と素晴らしいことなのだと」
カイムだけが到達できる境遇であろう。世界の大きさを知り、その中で人間という自我が、独立して存在することが、どれほどの奇跡であるかと。
「……」
「誰かから思われることじゃなく、自分が大切と思うもののために、自分を使うこと。それ以上に素晴らしいことなどない。自分勝手でいいんです。人が生きる意味なんて、結局はそこにしかないんですよ」
「あたしは……マリシャに見てもらいたかったのかな」
イヴァは大きく息をついた。長い白髪のほつれ髪を撫でつけつつ、遠い目をする。自分は強くなりたかった。自分のことを誰よりも褒めてくれたのは、マリシャだった。それだけ、だったのか。
「だけど、もうそれは叶わない」
「大丈夫。見ていますよ。マリシャさんは、あなたの中にいる。あなたの中にいるマリシャさんが背中を押してくれる」
カイムの顔がぼやけたように見える。そしてそれは、目の錯覚などでなく、現実の出来事である。彼の四肢はまるで消えていくかのように儚げだった。
「あなたは、一人でここに残ることを選んだ。それはあなたがすでに一人で立っているからです。あなたの中に、一番見ていてほしい人がすでにいるからですよ」
なんでこんなクサい台詞を、貧相な中年男に言われなければならないのか。イヴァは文句を言おうとした唇を釣り上げて笑顔を作った。
「そんなもんなのかもねえ」
いまさら、今更の話である。いままで好き勝手に生きてきて、そして死ぬだけのことだ。改めて思えば最後に、人に頼るなどと、何と自分らしくないことをしたことか。急にイヴァは恥ずかしくなった。
「誰のためでもなく、自分のために戦う、それが自然と誰かのためになる。そんな人が、英雄と呼ばれるような人なんでしょうけどね」
カイム自身はそうではない、とまたイヴァもそうではないと言いたげである。そして、それでいいのだとも。
「ありがとうよ……なあ、あんた、今からでも間に合う。エルンをつれて逃げるべきなんじゃないのかい?」
「いえ。彼女の中には、私が入り込めないところに大切な人がいるんですよ。そしてこの島ハルフノールという存在。連れて逃げれば、彼女は必ず後悔する。わかっているんです」
「結局あんたも自分の気持ちから逃げてるってわけかい」
「お恥ずかしい。だからあなたは立派なんですよ。あなたは逃げなかった。自分の気持ちから、自分の心から。あなたは一人で立つことを選んだのだから」
カイムの言葉に、イヴァは何も返さずに空を見上げた。
「しかし、おかしいな」
二人の会話に、瞑想しつつ竜の気配を探っていたヤンが口を挟んだ。
「何がだい?」
「竜の、ニアコーグの気配が全く無い。いっそグリオーディアの気配のほうがはっきりと感じ取れるわい」
大気が震えている。世界が黒竜王の存在自体を恐れているかのように。
「逃げちまった、ということはないだろうね」
「無論。しかし、若い竜とはいえ、接近してくるのであればその膨大な志力を隠しきれるものではないのだが……」
ヤンがはっとした。
「しまった!わしらはとんでもない間違いをしていた!」
「どういうことだい⁉」
「わしらは、ニアコーグが『ジェラーレ』という男と同一である思い込んどった。じゃが、よく考えてみよ。奴は人を食らっては入れ替わってきたのだ。であれば、どんな人の皮でもかぶることができるのではないのか?」
「……つまり、奴はすでに、別人の中に入り込んでいるってことかい?」
イヴァも、カイムもヤンを言わんとすることを理解し、慄然とした。
「そういうことじゃ!」
「まずいぞ、ニアコーグは避難民の中にいる!」
Ⅱ
緊張の一夜をどうにか超え、ツィーガ達護衛団の苦闘の果てに、ついにゼピュロシア神殿が見えたとき、避難民の安堵は一際だった。自然と顔を見合わせ、声がほころぶ。ニアコーグはついに姿を見せなかったが、ツィーガ達も言及は避ける。
「やれやれ」
「ここまでくれば、ひとまずは安心だな」
ゼピュロシア神殿に祈りを捧げつつ、歩みを進める。すでに【円柱】の設置は終わっているようだ。神殿の端に作られた塔の一つに志力の強い集積がある。デリクス達の苦労がしのばれたが、そんなことを口にするのも癪である、とファナは思う。自分とは違い、自らしょい込んだ苦労のはずだ。
「動けない人、馬車に乗る人を先行させてください!」
ファナの心境は毒喰らわば皿まで、である。ファナは仕事を最後まで成し遂げることに情熱を注ぐ種類の人間であった。もはや法具からは柔らかな香りはしない。ファナ自身の美貌にも疲れの色が濃いが、決して誰にも弱気な部分を見せるつもりはない。とっくに限界は来ていたが、同情されるのだけは勘弁というところだった。
「皆さん、目的地が見えましたよ!もうひと踏ん張りです!」
何度も遅れがちな集団まで戻り、背中を押すように声をかける。ゼピュロシア神殿を横に、避難民が目指すのは、華の儀の舞台の更に先、ハルがその身を投げたという大洞穴である。森の中ということもあり自然と隊列が長くなる。弱った人間達を前に、しんがりをデュミエンド戦士団達が守りつつ、ゆっくりとした歩みを続けていた。大洞穴の前は儀礼のために切り開かれ、整地されており、一万人の避難民が悠々と広がれるだけの広さがあった。ハルの守りも強く、鬼族達の襲来もほとんど無い、安全な場所とされている。今回はさらに大洞穴の中でグリオーディアの襲来に備える予定となっていた。ほぼすべての人間が開けた場所に集合を完了した。あとは洞穴内に入るだけである。
「さあ、急いで!」
ニアコーグの姿は見えないが、ひとまずは避難を終了させることができれば、あとは竜に備えるだけである。気を引き締めなおし、ジグハルトが声を上げたときだった。
「先頭の馬車で急患がいます!」
「わかった!救護班を派遣する」
指示を受け、駆け寄ったハルフノール神官の前には、尋常ならざる苦しみ方をする老婆がいた。掻き毟った体からは血が滲んでいる。
「どうしました⁉」
「わかりません!急に苦しみだして!」
動揺する家族を掻きわけるようにして、治癒術を試みる。しかしその瞬間、老婆の体に触れていた手が弾かれた。
「何!?」
老婆が突如苦しむことをやめ、ニタリと笑った。荒れ狂う暴風が、周囲の人間を八つ裂きにする。
「何が起こった!」
絶叫と同時に、老婆の姿が変貌していく。一瞬だけジェラーレの姿を取ったが、その顔には下卑た笑みが浮かび、口が切り裂かれるように広がるとともに、体全体が膨れ上がっていく。馬車の幌を破り、馬を押しつぶしながら次第にその姿は竜のものとなっていった。その身体は何かが寄り集まったかのようにいびつで、時には煙のように形を無くすことがあったが、その存在感はどんな鬼よりも圧倒的だった。人の作る武器や鎧が何と頼りなく映ることか。暗く淀んだ目には、狡猾な光が鈍く宿っている。確固たる存在感をもちつつ、なお不定形な全身は、人の怨念そのものを示しているようだ。
「竜……竜だ!」
避難民の一人が巨大な手でつかまれると、悲鳴を上げる間もなく口に放り込まれた。骨が砕かれる音が鳴り響いたあと、ニアコーグは完全なる竜の巨体を震わせつつ咆哮を上げた。
狩りの開始を告げるかのように。
ニアコーグの耳をつんざく咆哮に、逃げ出し始めていた全ての人間の動きが止まった。物理的に頭を抑えつけられ、強引に膝をつかせようとさせるような威圧感。ただそこにいるだけで、狂ってしまいそうなほどの恐怖がこみ上げてくる。
「こんなはずでは……!」
「何だ!何なんだ!」
腰を抜かし、身動きの取れなくなった人間がつかみ上げられ、あるいは、丸のみにされていく。凄惨な現場を見てもなお、動けるのものはいない。絶望と恐怖に曝されつつ、ただ捕食されるのを待つしかない。
動揺は近くに待機していたデュミエンド戦士団にまで伝わっていた。選りすぐりの戦士達がうめき、情けない悲鳴を上げる。涙を流して失禁するものもいた。このままでは、恐怖から逃れるために自死するものが現れるのではないかと思わせるほどである。モルガンですら、咄嗟に叱咤の声を上げることができない。神による守護のない世界において、竜の存在はまさに全てを超越するものであることを痛感させられる。
「これが、竜なのか……それにしても狡猾な」
モルガンは唸った。人の皮をかぶることで自らの存在を秘匿し避難団に紛れ込み、疲労の頂点で姿を現す。しかも傷病者に擬態することで集団の先頭に入り、目的地を塞ぐ形で出現するとは。逃げ道もなく、周囲の避難民を巻き込む恐れがあるために、大規模な攻撃もできない。存在だけで圧倒できるはずであるのに、コソ泥の名にふさわしい振る舞いは、もしかしたら食らった人間の習性が宿ったのかもしれなかった。
「イングレイスの時はこんなことなかったじゃねーか!」
「何なの、これ?」
エクイテオも、リーファも動くことができない。ツィーガも手にかけた剣を抜くことができずにいる。体中が痺れて、力が入らない。ジグハルトですら、狂奔する馬を御することができずに落馬していた。
「イングレイスは、俺達を食う気はなかった。殺気がこもっただけでこれか……!」
『これこそが、本領を発揮した竜の咆哮よ。竜と戦う際の最初の壁、絶対なる存在に対して人類に刻まれた根源的な畏怖を呼び覚ます角笛、人を竦ませ、絶望へと追いやる宣告だ』
ラーガの声にも震えがある。魂そのものであるからこそ、かかる負荷もまた強いのだろう。ツィーガは震える膝を叩く。力が入らない。そもそもからして、竜という存在の絶対的な優位は、変わりようはないのだ。どんな小細工をしようと、どれだけ戦力を集めようと、竜に人間ごときが歯向かえるはずがない。地に這う獲物を睥睨し、ニアコーグはこれ以上ない愉悦に酔っているかのようだった。
「野郎、笑ってやがるぜ……」
エクイテオの指摘は正しかった。ニアコーグは歓喜している。これだ、これこそが欲しかったのだ、と。人を襲うようになって、知った愉悦。矮小な存在が危難をやっと逃れえた安堵の後に来る絶対の絶望。魂の落差、落ち切った汚れた志力こそがニアコーグにとって最上の美味であった。ニアコーグは余裕をもって周囲を観察する。あらゆる人間が自分の姿に怯え、戸惑い、嗚咽を漏らすものばかりだった。視線を巡らせるだけでひきつった声があがった。やがて武装をした一団を見つけると、無造作に息吹を放った。まばゆい光が大地に直撃し、爆発する。
「ぐおっ!!」
「将軍!!」
デュミエンドの戦士団の中心に直撃し、吹き飛んだのはモルガンであった。駆け寄ったクルートが見たのは、左腕が消し飛んだ上司の姿である。即死した人間はいないが、半数は戦闘不能であろう。
「今治療を……!」
「ニアコーグめ……舐めたまねを!」
どこまでも、ニアコーグは残忍で、狡猾であった。機先を制し、最も反撃できる可能性のあるデュミエンド戦士団を知覚し、集団での行動をとらせぬために頭を潰したのだ。最後の一人まで絶望を味わうために、敢えて威力を落としてまで。
これでよし。まずはどこから行こうか。睥睨するニアコーグの目に、幼い子が多く集まっている集団を見つけた。幼子の魂の味を思い出し、ニアコーグの抑制はあっさりと外れた。
「逃げて!」
竜の動きに気づいた母親が、声を出す。ニアコーグはうるさそうにそちらに向けて息吹を放ち、声が聞こえなくなってから、改めて幼子たちに向け気死させない程度に弱めた咆哮を浴びせると、あっさりと動きが止まる。みな怯え、こちらを見る。ニアコーグと目が合った途端、彼らは意志を放棄し、まるで首を差し出すかのように、動くのを諦める。瞳に宿るのは、ただ絶望のみであった。それなのに、竜が一歩、歩みを進めるたびに、際限のないと恐怖が積みあがっていく。
「ギャッ!」
進路上にいた身動きの取れないままへたり込む男をそのまま踏みつぶし、それでも動けずにいる獲物たちを濁った眼で見据え続ける。もったいぶるかのような遅い歩みは、人間の負の感情を引き起こすため。呻き声が漏れる度に、ニアコーグの顔が歪んでいくのを、誰もが見せつけられる。見せつけられるまま、何もできない。
だが、ニアコーグの愉悦が頂点に達しようとしたとき、冷水を浴びせるかのように獲物の前に立ちふさがる女性がいた。
「エルン!」
誰かの声が響くが、動くものはいない。竜に対してあまりにも無力である盾であったとしても、エルンは竜の前に立った。だが、彼女の気力もまた限界であり、もう一歩も動くことができなくなっていた。最後の力を込めて、子供を振り返る。放心した顔、心を砕かれた瞳は、すでに何も映してはいないようだった。
「大丈夫よ」
それでも、エルンは微笑んで見せた。
ジグハルトはハルフノールの剣を握りしめる。常であればそれだけで気持ちは高揚し、自在に剣を、身体を操ることができた。だが、今日に限ってその恩寵は与えられないようだ。ニアコーグの行く先を理解しながらも、足が動かない。
「神よ……今こそ、今このときこそ」
祈りの声を上げようとして、それがジェラーレが死の間際にとった行動であることに気づき、愕然とする。
「結局は、同じか……」
いや、同じではない、とジグハルトは思いなおす。負けるわけにはいかない。今ここで、ニアコーグを止めなければ、ハルフノールが滅ぶのだ。己の誇りにかけて、立ち上がらなければならないのだ。だが、ジグハルトの決意をあざ笑うかのように、竜の呪縛は彼の体を地に縛り付けていた。
「ちっくしょおおお……」
エルンの姿を見ながら、ツィーガはいまだ動かぬ体に怒りを覚えていた。竜と戦うなどと大言を吐き、結果として仲間を追い詰めてしまった自分への憤りが、絶望へと落ちる精神を踏みとどまらせる。こんなところで、終わるわけにはいかない。ツィーガは石のように固まった手に、足に、意志を込めようともがく、唯一動く口から、ありったけの滾りを世界に吐き出す。かちゃり、かちゃりと音がする。ラーガが刀身自体を震わせるように声を出した。
『いいか、ツィーガ。竜とは志力そのもの。すなわち、意志がそのまま実体化したようなものであり、その圧倒的な存在に、志力の欠片を埋め込まれただけの人間など容易くのみこまれてしまう。俺は、そうお前に伝えたな』
ラーガの言葉が、意志の塊となって、ツィーガに降りかかる。歴戦の勇士の魂は、ここに及んでもなお、強く燃え盛っていた。
『人の意志は、たやすく砕け落ちる。欲に負け、大敵に負け、竜と比べ、何と矮小なものか。だがな、ツィーガ。俺は俺の人生の中で、一つの答えを見出した。彼女を見ろ』
ニアコーグが子供達に向けて歩み始めた。エルンはニアコーグに立ちふさがったまま、竜を見据えたまま動かない。
『人に宿りし志力の真に偉大な点は、その大小、強弱にかかわらず、最後の一欠片だけは他者が消却しつくすことができないことだ!誰であっても!最後の一欠片を消すのは、自分自身だけ。だから自身が諦めない限り、決して人は負けることはない!』
「ラーガ」
『立て、ツィーガ!今のお前にはそれができるはずだ。俺と魂をぶつけ合い、己であるために、耐えがたい根源の痛みを耐えてきたお前なら!』
はっとツィーガは、ラーガの指摘した事実に気づく。確かにこの痛みは似ている。自身をすり潰すような、軋む痛み。それは魂が消えまいとして上げる叫びであったのだ。
『立て!ツィーガ!いや、ともに立とう!俺はいつでも、お前とともにある!』
ツィーガが立つとき、それはラーガが猛るときである。二人の魂が共鳴しあったとき、自然と言葉が発せられた。
「神よ!我ら二心を一つに!一つの身体を分かち合わせたまえ!」
「うおおおお!」
雄叫びがとどろいた。誰もが、硬直し、膝を屈した中で、ただ一人ツィーガが熱く輝くラーガとともに、ニアコーグの足元に突進した。
「でりゃあぁっ!」
渾身の一撃は簡単に竜の鱗に弾かれ、澄んだ音を立てたのみであった。しかしツィーガは屈しない。何度も、何度も剣を叩きつけた。ツィーガの反抗に、ニアコーグの笑みが変わる。自身が生まれてから全ての人間は抵抗することなく、恐怖にまみれたまま死んでいった。それなのにこの矮小な存在は、自分に歯向かうというのか!いや、もう一人だけいた。自分の咆哮にも、息吹にも屈せず、最後まで立ちはだかった人間が。不快な感情がせりあがり、ニアコーグはもう一度吠える。
「負けるかよ!」
しかし、至近で聞いた咆哮にも屈せず、ツィーガは、そしてラーガはニアコーグに立ち向かい続ける。ニアコーグは口を開き、煩わしげに不遜な人間に向けて灼熱の息吹を解放しようとした。
「テオ!リーファ!」
「あいよ!」
「破っ!」
閃光が虚空を貫く、空間そのものを切り裂いたかのような一撃を、何とツィーガは空高く舞い上がってかわしていた。だが執拗に、ニアコーグの巨大な爪は追いすがる。
「おりゃ!」
だが、宙に浮いたツィーガの体は、見えない何かに引っ張られたように急加速し、間一髪で避け切った。それでも追いかけようとした竜の腕をリーファが放った『竜破』が弾く。
「ひやひやさせんなよ!」
「テオ、リーファ、助かった!」
エクイテオは、風の精霊シャルトを引き寄せる。精霊すらも焼き尽くす息吹にも、シャルトは怖気づくことなく立ち向かう。リーファもまた、常の冷静さを取り戻していた。ツィーガの雄叫びは、二人の呪縛をも切り払っていたのだ。
「えらいぞ、シャルト」
『私は、大丈夫。テオと一緒なら』
小声で呼んだ名前に、嬉しそうな顔をする風の精霊に、エクイテオも微笑み返した。
「さあ、行くぞ!」
ツィーガは二人に向けて笑ってみせると、博麗銀の剣を振りかぶって高らかに宣言した。
「みんな聞け!人間は志の欠片がある限り、最後の欠片を信じる限り、竜であっても負けることはない!」
ツィーガは吠えた。周囲の人間だけではない、今もまだ魂の底から震えている自分を鼓舞するためでもあった。
「諦めるな!人間は、竜などに、悪意などに決して負けない!」
地に降り立ったツィーガはニアコーグを睨みつけながら背後の仲間たちに叫ぶ。それは、人間が自分より強いはずの何かに立ち向かうために、どうしても乗り越えなければならない壁の上に立った者だけが放つ鼓舞だった。
「みんな、誰のためでも、何のためでもいい!今ここにいるべき理由が、意志が、志があるはずだ!志を信じろ!自分を信じるんだ!」
ツィーガは声を上げながら、再びニアコーグに向かって突撃した。
ニアコーグは一時の激情から自分を取り戻す、ツィーガの攻撃に僅かながら動揺したようにも見えたが、大した威力ではない。いっそのこと、攻撃をさせたまま幼子たちを喰らいつくそう。そのほうが人間の絶望もいや増すというものである。そう決めたニアコーグはツィーガを無視し、依然として硬直している子供達にむけて再び歩み始める。
「くそっ、止まれ!」
声を無視し、茫然としているエルンと子供らに向けて、準備動作もなく、いきなり息吹を吐きかけた。即死させない程度に焼き焦がすのがよい。魂が絶叫を上げる瞬間を期待して、ニアコーグは再び笑う。閃光が周囲を焼いた。
風が吹いたのは、まさにその時であった。
「何が、起こった?」
閃光が過ぎ去ったが、続いてくるはずの轟音がない。目を開けた周囲の人間は、息吹を浴びたはずのエルン達が無事な姿を発見する。ニアコーグ自身すら、何が起こったのか理解できないように見える。
「そんな……」
誰よりも驚いていたのは、当のエレンと子供達である。何がどうなっているのか理解が追い付かない。
『エルン。あとは僕にまかせて』
エルンは風の音に似た声を聴いた。いや、聞いたような気がした。動揺したニアコーグが再び息吹をエルン達に吐き掛ける。だが、その息吹は、二人に届く寸前に暴風によって捻じ曲げられた。続いてせりあがった大地の壁が、竜とエルンの間に割って入る。まるで世界が、彼らを守ろうとするかのようだった。
『さよなら』
もう一度風が鳴る。エルン達の体が宙に浮くと、竜を避けるように大洞穴に向かって飛ばされていく。ニアコーグは彼らを追いかけようと羽ばたくが、強烈な風の圧力が上からのしかかり、羽ばたくことができずにいた。さらに大地が竜の足を縛り付けるかのように飲み込んでいく。
「これは……カイムさん!カイムさんなのか⁉」
エクイテオが声を上げると同時に、竜に対峙するツィーガの目の前に、二人の人間が空より降り立った。
「……若造のくせに、偉そうなことを吠えるじゃないか」
イヴァ・ソールトンが槍を構える。
「遅れてすまんの」
ヤン・ジン・クイが、服を脱ぎ棄て、竜のような肉体を晒しつつ身構えた。ニアコーグは不遜なる人間達を追い散らそうと、息吹を放つ。だが今度は、赤い光が流星の如く奔り抜け、灼熱の息吹が切り払われた。
「これは、ハルフノールの剣!」
「見事だ、エスパダールの神官戦士よ。その勇気、私にも分けてもらおう」
赤熱するハルフノールの剣を構え、ジグハルトもまた竜と対峙した。彼もまた己の力で絶対なる恐怖の対象と向き合うに至ったのだ。彼は立ち上がることで己を証明してきた。そして今回もまた。
「我らが島、我らが守らずして、何となろう。共に戦おう」
「はい!」
ツィーガも剣を構えなおし、後ろにいるエクイテオとリーファに声をかけた。
「テオ!リーファ!いくぞ、反撃だ!」
「にしてもツィーガ、何でお前動けたんだよ!」
「ラーガのおかげ、らしいぜ」
『その通り。俺を体に受け入れるために、ツィーガは常に己の魂を磨き続け、自我を保つ鍛錬を続けていた結果だ』
ラーガは誇らしげである。これこそが、彼がツィーガを『竜に対する切り札』といった理由であった。肉体に異なる魂を受け入れる際に、肉体の所有を巡って、魂同士が互いを削り合う。それは存在の根源を揺らす痛みであり、恐怖でもあった。ツィーガは日々自己をすり減らすなかで、強く自分を意識する術を知らずに学び取っていたのだ。竜というより強大な志力とぶつかり合うことすら可能なほどに。副産物とはいえ、まぎれもなくツィーガ自身の努力の賜物であった。
『天晴だ、ツィーガ!』
弟子の成長に感激しているラーガだったが、そんなことをしている場合ではない。まだ竜と戦うための最初の一段を上がっただけだ。ラーガの声がツィーガの耳を打つ。その声が何とも言えず頼もしかった。
『ツィーガ、竜との戦いは、結局志力と志力のぶつかり合い。己の存在を削って、相手をすり減らすしかない。諦めるな!』
「分かった!もう一度行くぞ、リーファ、テオ」
「おう、まかせろや!」
「分かった!」
意気上がる三人を、空の上から眺める男がある。カイム・ジエンディンは薄れゆく感情と意識の中、最後の光景に選んだのは、子供を抱きしめるエルンだった。どんな時でも、だれかのことを考えて行動できる。最後の瞬間と知っていても、それでも誰かのために微笑むことができる女性。
『そんな君だから、僕は好きになったんだ。エルン』
想いを伝えることなく、カイムは微笑みながら、完全に世界と一つになった。
Ⅲ
ニアコーグの息吹によって、比較的に遠い位置の避難民の混乱が目覚め、爆発した。グリオーディアではない、考えもしていなかったもう一体の竜が、ようやく避難を終えようとした瞬間に出現したのだ。距離のせいで咆哮の効果が弱い分、混乱は大きかった。
「ひとまず、森に下がって!」
ファナがなけなしの志力を振り絞り、再び法具を全開にしつつ、指示を出す。法術が何とか効果を示したのか、一部は言葉を受けて下がり始めたが、全ての班が落ち着いて行動できたわけではなかった。
「もうおしまいだ!」
「神よ!お慈悲を!」
一番乗りを競っているかのように中年の男が、早速だらしない声をあげて、膝から崩れ落ちた。見れば周囲の人間も逃げることを諦め、へたり込む。子供達は今起きていることが分からずにいたが、やがて絶望が伝染したかのように泣き始める。
「大丈夫だよ、お母さん!きっと騎士様が守ってくれるよ!」
「ぼくがやっつけてやる!」
「何馬鹿なこと言っているの!」
子供が必死で励まそうとするにも関わらず、かえって逆上して八つ当たりをする大人たちがいた。
「泣くんじゃない!竜がこっちに気づいたらどうするんだ!バカ!」
怒られて泣く子供達を、さらに追いつめるかのように突き飛ばし、恐怖を紛らわそうと当たり散らす男の前に、ファナが立ちふさがった。
「いい加減にしな!大人がそんなことで、誰が子供たちを守るのさ!」
周囲の誰もがギョッとした。ファナがいつもの淑やかな仮面を脱ぎ捨て、素の口調で思い切り叱りつけたからだ。美しい顔が怒りに歪み、怖いなどという言葉では言い尽くせない。
「あんたらがしなきゃいけないのは、自分の家族を安全な場所に連れていくことだろ!喚いている暇があったら手と足を動かしな!このクソ親父!」
迫力満点の啖呵が飛び出して、あまりの落差に、誰もが瞬間、恐怖を忘れてしまっていた。
「今こうしている間にも、体と命張って竜を食い止めようとしている奴らがいるんだ。そいつらの命を無駄にするんじゃない!」
腰に手を当て、ほうほうの体で逃げていく男達を思い切り睨みつけてやる。しばらくして、いつの間にか泣き止んだ子供たちの視線が集中しているのを感じ、ようやくファナは我に返る。
「はっ……私ったら」
「お姉ちゃん」
「な、なに?」
つい出てしまった地の姿に、冷や汗が幾筋も頬を伝い落ちる。
「かっこいい!」
子供達の満面の笑みに、ファナは安堵と羞恥で真っ赤になった。
「あら、そう、オホホ」
ごまかそうと笑うが、今はそんなことを言っている場合ではなかった。
「早く行きなさい。お父さんとお母さんを守ってあげてね」
「うん」
「わかった!」
ファナの法具も限界が近い、ここで混乱が生じれば、皆を守り切ることはできなくなるだろう。そう思った一瞬、立ち眩みにあったかのように体の感覚が消えた。
「何?」
ファナの体が宙に浮く。見れば周囲全てがそうだった。
「どういうこと?」
考える間とてない。いきなり避難民たちが空を舞う。みなニアコーグの横をすり抜け、一斉に大洞穴まで運ばれていく。
「もしかしてこれは、風の精霊の力……?」
とっさに浮かんだのはエクイテオの顔だが、これだけの大人数を動かすほどの力はないはずだ。大洞穴の入り口に降り立ったファナは戸惑いながらも、次々とやってくる避難民たちの受け入れを開始した。
「神様だ!ハルが助けてくれたんだ!」
無邪気な声を聴きつつ、ファナはニアコーグ達に立ち向かうツィーガ達を遠く見やった。
「死んだら駄目だからね。ツィーガ、みんな」
「カイムさん……ついに世界と一つになったんだ……!」
避難民たちの大移動を見やりつつ、テオの瞳だけは、かすかに見えるカイムの面影を捉えていた。エクイテオもまた力を抜き、世界を感じる。体の中にすべてを受け入れるような感覚。何かが全身を通り抜け、そのたびに何かが根こそぎ持って行かれる。大地に志力を還元し、世界の流れを読み取る。カイムが感じているはずの世界を少しでも見てみたかった。空にも、大地にも、海にも彼が重なっているのを感じる。いまやハルフノールそのものとなって、ニアコーグと真向から対峙していたのだ。
「カイムさん!」
『エクイテオ君、お別れの前に、一仕事だ』
「はい」
『よく見ておくといい。世界の中で自分をどう維持するかを』
「はい!」
「‼」
轟音が鳴り響き、雷光がニアコーグを何度となく貫く。翼を風圧で抑えつける。大地に押し付ける。ニアコーグはたまらずに咆哮を上げた。
「うわ!テオ、こいつは……」
「カイムさんだよ。カイムさんが、とうとうハルフノールと一つになったんだ」
「凄い……」
「ふむ。精霊士とは、ここまでのものか」
ヤンも、リーファも感嘆のつぶやきを発する。避難が一気に片付き、残ったのはジグハルトらハルフノール騎士団、負傷したモルガンらデュミエンド戦士団、そしてツィーガ達となった。
「もう後ろを気にする必要はない!さあ、行くぞ!」
「応!」
ジグハルトが声を張り上げ、ツィーガがそれに答えたとき、周囲を圧倒する大音量の声が響き渡った。
『おい、坊主、動くんじゃねえぞ!』
天から降ってきた皮肉っぽい声は、まぎれもなくトムス・フォンダのものだった。
「トムスさん⁉」
彼の声に合わせて、空が巨大な物体が飛来する。四本の柱は、ニアコーグを中心に取り囲むように大地に打ち込まれた。
「これは……船の帆柱?」
『待たせたなてめーら!俺からの贈り物だ!受け取りな!』
声と同時に帆柱が割れ、中から光輝く柱が現れ、天に向かって黄金の光を立てた。同時に雲間から光が差し込み、空間一杯に満ちていく。
「何が、起こっているんだ?」
世界が黄金の光に包まれていく。やがて姿を現したのは、何とトムス・フォンダが乗ってきた船だった。眼前に広がる神々しくも非常識な光景に、ツィーガは今までの意気込みも忘れるほどに呆れ、茫然とするしかない。
「なんで船が空を飛んでいるんだよ……」
『どうやら、あれは、船がまるごと一個の法具のようだな』
ラーガの指摘に唖然とする。
「そんな馬鹿な……」
あれだけの船を浮かべるのに、どれだけの志力が必要なのか。【大いなる円蓋】と同じ、幾人もの志力を集めて作動する仕組みなのだろうか。
『推測だが、過去の聖遺物、英雄が残した志力の残滓、そういったものを動力源とした巨大法具といったところだろう』
「そんなことができるのか?」
『あの男に信仰はあるまい。あるとすれば金だけ。さぞ金を使ったのだろう。この剣の一本や二本、屁でもないだろうほどの、な』
「……」
ツィーガを尻目に、天より降臨した賭博師は、高らかに邪竜を罵った。
『おい、ニアコーグ。ざまあねえな!てめえが一番こすいやり方で人を喰らおうとするなんざお見通しなんだよ!』
トムスの嘲りに、ニアコーグは怒りの声を上げる。
『おめーにお似合いの檻をご用意したぜ!気に入ってもらえたかい?ぎゃはは!』
下品な笑い声を上げながら、船が下りてくる。同時に四方の柱が光の壁を構成し、ニアコーグと避難民たちを完全に切り離した。ニアコーグが異変を察知し、光の壁に体当たりするが、盛大な火花を上げてはじき返される。
『簡易の【円蓋】といったところか。何にしても、恐ろしいまでの財力だ』
そこにいる人間全てが呆気にとられる中、船が降り立ち、会心の笑みを浮かべたトムスが顔を出す。まるで神の降臨のごとき神秘的な光景にふさわしくない下卑た顔に、ツィーガは文句をいってやりたくなった。
「なんで言ってくれなかったんですか?」
「バーカ!ニアコーグに気づかれるからに決まってるだろ!」
「う……」
トムスの明確な回答に、ツィーガは返答できない。避難民に紛れ込むことも予想していたのであろう。
「しかし、まあ、よくやったぜ。お前らのお陰で避難民とニアコーグが切り離せた」
「気持ち悪いこと言わないでくださいよ」
トムスは再び不敵に笑った。
「さあ、これからが本番だぜ!もう避難民もハルフノールも気にすることはねえ!竜退治と洒落込もうじゃねえか!」
「はい!」
「ぶっ放せえっ!」
トムスの号令を受け、船上で執事の男が無言で頷く。船から大量の矢や石礫が放たれ、ニアコーグに直撃すると、盛大に爆発する。船の到来を祝うかのように、カイムが追撃の雷を浴びせた。間断ない雷撃がさんざんにニアコーグを痛めつけていく。
『ギャアアッ!』
痛みに耐えかねたのか、ついにニアコーグが叫んだ。
「すげえ……もう滅茶苦茶だ」
ツィーガとエクイテオが茫然とする中、トムスが叫ぶ。
『おう、凪の旦那!今度はあんたの出番だぜ!いっちょ派手に頼むわ!』
トムスの声は拡声器にのり、ゼピュロシア神殿にいるデリクスまで届いた。苦労性の司祭長は、目を閉じて、トムスの予想が的中したことに敬意を表した。同時に、彼の余りに周到な準備に懐疑の念を抱く。ひょっとして、エスパダール当初の計画である【円柱】の持ち込みすら、彼の工作があったのではないか、と。だがそんなことは、今はどうでもよいことだ。
傍らには、円蓋の柱となる巨大法具が、低く唸りながら出番を待っている。スクエアらハルフノールの一団もまた、事の推移を見守っている。
「各国に伝達」
デリクスは目を開き、となりの神官に命令する。いつにない厳しい口調だ。
「は。竜が出現と報告するのですか?」
「いや、我女神ハルの降臨を確認、円蓋の発動を要請する、とね」
「……!?しかし……」
「いいから、早く!」
デリクスの言葉に、反駁を許さない強さが込められる。命令を受けた男は、状況を分からぬままに、言われた言葉を転送した。
「こちら、ハルフノール!女神ハルの降臨を確認、女神ハルの降臨を確認した!円蓋の発動を要請したし!」
「繰り返す!ハル降臨を確認!志力経路の開放を願う!」
Ⅳ
デリクスの伝達は、志力の通信で五大国に遅滞なく届き、衝撃をもって迎え入れられる。グリオーディアに対する今後の方針について、延々と議論が繰り返されていたエスパダールでも同様の反応だった。伝達を受け、早速ラマム率いる書記官たちが、きびきびと現状を把握、他国へと照会をかける。
「ハルフノールから伝達!ハル降臨を確認と言っています!」
「膨大な志力を確認!竜に匹敵します!間違いありません!」
「超長遠視により、ハルフノール上空に妙光を確認、以前神が御光臨あそばしたときの輝きに酷似しています!」
「他国でも同様の状況を確認したとのことです!」
「これは……まさか、本当に」
「やったな」
騒然とする室内、ラマムの報告を受けたエスパダール国王ティベルは誰にも聞こえない声で、そうつぶやくと、静かな指示を出した。
「志力経路をハルフノールに向けて開放せよ」
「は、はい!」
「いけませんぞ、国王!」
報告を受けた反対派たちは皆、動揺し、意気消沈していたが、ただ一人法王ルンバーグだけは、唾を飛ばしながらティベルに詰め寄った。
「どうしてだ?約束は果たされたのだ」
「本当に神が降臨したのか、判断がつきませぬ!」
「しかし、各国からの報告がある。全ての国の志力計測器が同様の結果を示している。突如として、このような膨大な志力が出現するなど、神の降臨以外に考えられまい」
ティベルの淡々とした様子はいつも通り変化がない。味方であるときは安心し、敵としては苛立ちを覚えさせる態度である。案の定ルンバーグは激高した。
「陛下。あなたは。この国を無用な危険に巻き込むおつもりか!」
「口が過ぎますぞ、法王猊下!」
部下の発言を、しかしティベルは手をあげて制する。
「いや、いいのだ。法王の懸念は尤もでもある。だが、正義の神スパッダの信徒として、信義に基づく約束は果たされねばならぬと考えるが」
ルンバーグは一瞬言葉に詰まる。まさか、本当にハル神が降臨するなど万が一にも考えていなかった男はそれでも反論しようとする。
「しかし!もしグリオーディアの息吹には対抗できぬとなれば、我らが国の威信が……!」
「敗れても、よいではないか」
「な?」
「敗れたら、今度はそれ以上に強くなればよい。人はそうやって、竜と対峙してきたのだ。そして、これからも」
ティベルの声には抑揚がない、だがその場にいた人間達を奮い立たせる何かがあった。
「国王陛下万歳!」
勇みたった神官達が、志力開放に向けて動き出す。法王はまだ諦めようとはしない。
「わ、わしは認めんぞ!ハルフノールの崩壊が、全世界、全人類に及ぶようなことはあってはならん!」
「法王猊下」
ラマムが詰め寄り、一通の封書を渡す。
「何じゃこれは!」
「デリクス司祭長より、封書が届いております」
封を乱暴に開け、中に書かれた文字を見た瞬間、ルンバーグはへたり込んだ。ラマムが見たこともないような虚脱から、狼狽へと速やかに変化する。
「ルンバーグ。どうした?経路を開放してもよいのか?」
「……陛下の、おおせのままに」
「ありがとう、ルンバーグ」
ティベルは微笑むでもなく、再度経路開放の指示を出した。
「エスパダールより連絡あり!志力経路開放す、繰り返します。エスパダールが志力をハルフノールに向けて開放しました!」
「本当か⁉あのしみったれ野郎が一番乗りかよ!」
エスパダールの伝達は、各国の判断を一方向に傾けるには十分な重さがあった。
「デュミエンドは?あそこも現地に人が残ってるはずだ!」
「既に経路解放を開始しているとのことです!」
カーマキュサの国王ケルヒャーナインは、もう一度部下に確かめさせると、エイゼンブラッド司祭長に話しかけた。彼らは古くからの友人であり、誰もいない場所では、親しく話す間柄である。
「なんてこった……これから五大国じゃなくて、六大国かよ」
「あの、渋ちんのエスパダールが真っ先に開放したんだ。間違いないだろう。あそこはハルフノールに人を残してるからな、勝算ありと踏んだんだろう」
「どうする?」
「どうするもこうするもねえ、こうなった以上、何としても円蓋に頑張ってもらわにゃ、他所の国にでかい顔できなくならぁな」
カーマキュサは円蓋への避難を餌に、隣国から大金をせしめている。いまここで円蓋が破られるようなことになれば、売り上げに響くというものだ。フェンレティも、デュミエンドも、タントレッタも、それぞれの思惑の元、動き出すに違いない。エイゼンブラッドは腹をくくった。憎たらしい仮想敵国であるものの、エスパダールを無視できないのはなんとも言えず癪であった。自身で円蓋を開放した一〇数年前の記憶が思い出される。あれから、何も変わらなかった。だがこれで、何かが変わるのだろうか。とりとめもない思考を切り捨てると、エイゼンブラッドは大声で指示をした。
「くそ、エスパダールめ……仕方ねえ、こっちも解放だ!」
「了解!」
「それから、国全体に通告だ。これより我ら、人類の存亡をかけ、グリオーディアと戦う、皆の志力を総動員するってな!」
「わかりました!」
カーマキュサより伸びた光が天に吸い込まれていく。世界を貫く柱は、人類の空を支えるかに見えた。
ハルフノールでは、興奮を抑えきれない声で次々と報告が飛び交う。
「デリクス司祭長!経路解放確認!次々きます!」
「やったぞ!」
天より、五本の青き柱が一つの巨大な光となって、【円柱】と接続した。法具が蒼き光に満ちていく壮麗な光景は、成し遂げたことの大きさを物語るかのようである。
「円蓋、いつでも行けます!」
「わかった」
それでも、デリクスの中に達成感はない。ニアコーグとの間に壁を作ることは、ツィーガ達を死地に追いやることでもある。グリオーディアが襲来するまで、彼らにはニアコーグを引き付けておかねばならないことは、他の人間が忘れても、彼だけは忘れてはならないことだ。たとえ本人達が望んだことだとしても。
「頼んだよ。みんな……天よ、大いなる神々よ、恩寵を賜りて今、大いなる栄光の壁を築かせたまえ!」
デリクスの宣言に、法具はその能力を開放する。ついに人類の大いなる守りが発動した。
奇跡を、この瞬間を、ハルフノールにいた人間が全て見ていた。天空より来る膨大な光が半球上の光の壁として空に構築されていく。異変に気付いたニアコーグが力任せにトムスが作った障壁を突破しようと体当たりをこころみ、盛大に火花を上げる。しかし、志力の奔流はトムスが突き刺した小型の円柱にも注がれると、一気に輝きを増した。
『ガアッ!』
ニアコーグは痛みに耐えかね体を放す。四方と天を光の壁に囲まれ、ニアコーグとツィーガ達は大洞穴の平地の前で、完全に閉鎖された空間で対峙することになった。
「成功だ!」
「やったな、デリクス・デミトリウス」
トムスは、敬意を持って人の名を呼んだ。生涯二度目のことだった。
「うりゃあ!」
『おう!』
ニアコーグに向け、ツィーガ=ラーガが再び突進する。雷撃の隙を狙って放つ渾身の一撃を受け止め、平然と弾き返す竜鱗。エクイテオは、風の精霊シャルトと接続し、ツィーガが足を離した瞬間を大地から感じ取り、風の精霊にツィーガを運ばせる。縦横に宙を舞いながら、連続して攻撃を叩き込み続けた。
「さて、儂もいこうとするかの」
「師匠」
「リーファよ。師の戦い方、よっく見ておけよ。儂がお前にできる最後の教えとなろう」
戦いに挑む気負いも悲壮感もなく、笑みを浮かべてヤンは立ち上がった。ふわり、と舞い降りて、まるで散歩をするかのように、あっという間にニアコーグの前に移動し、降り立ったツィーガと並んで立つ。
「ヤンさん」
「ツィーガ殿。このヤン・ジン・クイ。お主の志と勇気にまったく感服した。共に戦えることを誇りに思うぞ」
「こちらこそ!」
ツィーガの顔もまた誇りに輝く。ヤンはそのまま歩みを進め、ニアコーグの前に優雅に立ち塞がった。老人の不遜な態度に、竜は憤りをぶつけんと腕を振り下ろす。
「師匠!」
「吩」
ニアコーグの巨大な鉤爪が大地をえぐり取っていたが、半瞬早く、霞のように姿を消したヤンはニアコーグの鼻先へと飛んでいた。
「破!」
裂白の気合が、竜の咆哮に負けじと大気を震わせ、ヤンの右拳がニアコーグの顔にたたきつけられる。信じられないことに、一撃で竜の巨体が揺れていた。
「嘘だろ……」
『何と……』
ツィーガも、ラーガも、驚きを通り越して開いた口が塞がらない。この世に、竜を拳骨で殴りつけて、ぐらつかせることのできる人間がいたとは。
「破ッ!」
右拳の振り抜いた勢いを使い、さらに回し蹴りを顎にお見舞いする。今度こそ竜はのけぞり、大きく一歩たたらを踏んだ。着地するヤンに、ツィーガが駆け寄る。
「ヤンさん!」
「油断するな、来るぞ!」
「は、はい!」
声はするものの、すでにヤンの姿はない。ツィーガはヤンに対し、リーファの兄、ガリューシャとはまた違う畏敬を覚えていた。瞬間移動したかに思える秘密はその極端なまでの動きの無駄のなさである。ニアコーグの攻撃を避ける、相手の攻撃を利用して反撃するという二つの動作が完全に同一である。放つ攻撃全てが、相手の勢いを利用した交差法になるため、絶大なる威力が秘めているのだ。竜を叩く度に、ヤンの顔がほころんでいく。
「やれやれ、血が騒いで仕方がない。このまま朽ちていくだけだった肉体が、最後に最高の機会を得てはしゃいでおる!」
自分の全力を発揮できることがうれしくてたまらないという様子である。ツィーガの心にもほんの少しだけゆとりを生むほどの武者振りであった。
「どうしますか?」
「お主の好きにするがいい。わしが何とでも合わせる!」
「分かりました!」
ツィーガを避けようとしたニアコーグの目の前には、すでにヤンが拳を振るっている。吹き飛んだ先にもまたヤンの全力の蹴りが叩き込まれる。しかも傍目で見ると、それほどまでにヤンの動きは早くないのだ。
「何が起こっているんだ?」
ツィーガの動きを補助しつつ、エクイテオは茫然と師匠の姿を見つめるリーファに話しかけた。ラーガと一体化したツィーガの反応を、更に上回る速度で竜を圧倒している老人を評する言葉がない。何しろ、ニアコーグがわざわざ殴られに行っているようにしか見えないのだから。
「あれ、どうやってるの?」
「人間の行きつく果て、人間だけが辿り着ける武技……私たちの到達点の一つ、よ」
「到達点、か」
極限まで鍛え上げた結果として、無意識に最善の反応を行う刃となった肉体。大気の動き、相手の感情の流れから、次の動きを読み取り、即応できるまでに磨き上げられた意志。そして、二つが完全に機能し、連携することによって生み出されたヤンの絶技である。
相手を倒さんとする意志が最善手を導き出し、遅滞なく反応する身体がすでに数手先の行動を無意識の内に取る。身体動作が意志をさらに加速させ、意志が更に肉体を誘導する。互いが互いを導き合い、加速の果てに辿り着くのは、思考を超えた、先の最先。相手はまるで、自分が操られているような錯覚すら覚えることだろう。ヤンはただ相手を倒すということを考えているだけに過ぎない。あとは体と意志が勝手に導いているだけだ。
「相手の反撃すら許さない、志力と拳の融合。志力のみの結晶である竜にたどりつけない、人だけが到達できる境地……人は、ここまで高みに至ることができるのですね、師匠」
人にして、人として竜を超えんがために磨き抜かれた武の精髄であった。リーファの瞳に炎が宿る。見るだけでは駄目だ。今ここで、自分ができることをしなければならないのだ。志力を練り、ニアコーグを見据える。掴むのだ、今ここで、自分の志の行き着く果てを。
『見とれている場合か!行くぞツィーガ』
「ああ!」
「私も行こう!」
ツィーガが突進する。そしてジグハルトもまた、ハルフノールの剣を唸らせて、ニアコーグの懐に飛び込んでいく。もう竜とて恐れるものではない。二人合わせて右足に向けえて攻撃を集中させる。カイムもまたニアコーグを飛び立たせないために、翼に狙いを定め、真空の刃を幾度となく浴びせ続ける。息吹に対しては地下水の塊で作った壁を何重にも築き、威力を和らげる。
ヤンはそのすべての動きを察知し、常に最高の瞬間を捉えて志力を集中させた拳を叩き込み続けた。ニアコーグがいらだち、咆哮を上げながら無差別に周囲を破壊していく。
「駄目だ!出血が止まらない」
ニアコーグとの激戦の中、デュミエンドの一団はいまだ動きが取れないでいる。原因はモルガンの治療であったが、クルートら戦士団の治療では、片腕をもがれたモルガンの傷を治癒しきることはできないように見えた。
「狼狽えるな」
「モルガン将軍!」
「デリクス殿、無事やり遂げたな……デュミエンドには伝達できたのか?」
「はい、ニアコーグ出現に合わせ、女神が降臨した旨、本国にはきちんと伝えております」
「そうか……ニアコーグはどうなっている」
「現在、エスパダールの神官戦士と、一部の人間が戦いを挑んでいます」
「では行け。我らデュミエンド戦士団が遅れを取ってはならん!」
熱に浮かされたような声が、傷の具合を物語るかのようである。クルートはそれでも治療を続けようとする。それ以外の人間も、竜の威容にためらうばかりで、動こうとはしない。モルガンは心の中で舌打ちした。部下の戦士達は誰もが一流の人材であったはずなのに、事ここに及んで、将の不在に対処できるものがいない。人間相手にはあれだけの力と胆力を備えていた戦士達の狼狽ぶりには、落胆を禁じえなかった。
「これは、育て方を間違えたかな」
とはいえ、何とかするしかない。痛みに呻きつつ顔を上げようとすると、そこには一人の女性が立っていた。
「どきなさい」
冷徹な教師のような声がクルートの抵抗をあっさりと通りぬける。
「デュモン。癒しを」
入れ替わりに治癒術を施すと、見る間にモルガンの血が止まっていく。治療の速度といい、法術の発生の速さといい、最高度の治癒術であろう。クルートが目を見張った。
「これは……」
「おお、あなたは」
「モルガン将軍。お噂はかねがね」
「なんの、あなた方二人の勇名に比べれば……傷はどうですかな?」
「見事に塞がっています。流石は将軍。意志の力ですね」
戦場に及んでもなお泰然とした目の前の女性の姿を見つつ、情けなそうにモルガンは苦笑した。
「恥を忍んで、お願いさせてはもらえんかな。戦姫よ」
「その呼び方を、やめてくれるなら」
「わはは、そうでしたか。我が部下、一時的にだがあなたにお導きいただきたい。竜退治に参加させるには、まだ未熟者ばかりの様子。だが、あなたの元で志力を結集すれば、先陣を切った勇士たちの力となろう」
「わかりました、将軍は?」
「この傷の借り、返さずして死ぬわけにはいかぬわ」
表情と目に力が戻ってきた。クルートが思わず震えあがるほどの怒気が発せられ、体が二倍にも三倍にも膨れ上がったような錯覚を受ける。
「私はこれから、一人の戦士として、あの蜥蜴野郎を叩き潰してくれる!」
「わかりました。お心のままに」
「聞いたか⁉我が戦士達よ、これよりお前らは紅軍団の戦姫の指揮下に入る。俺なんぞより百倍厳しいぞ!覚悟せよ!」
叱咤の声を周囲の部下に浴びせつつ、モルガンは立ち上がった。片腕で鉾槍を軽々と担ぐと、傷の痛みなどなかったかのように猛然と走り出した。
ツィーガ達の戦いを見つつ、まだ動けないでいたのは、イヴァだった。戦乙女の槍が、輝きを発しないままうなだれている。続々と立ち上がる勇者達に遅れをとったまま、イヴァはそれでも立ち続ける。自分は、弱い人間であることを、イヴァは改めて理解していた。誰よりも強き者、勇敢なるものに憧れていた自分が、到底理想には届くことのない脆い人間であることを、イヴァ自身が誰よりも分かっていた。
「マリシャ……」
だけど、マリシャの前でだけは見栄を張ることができた。他の誰でもない、イヴァ・ソールトンという人間を、誰よりも貴重に思ってくれる人の前では、いい格好しないわけにはいられなかった。あるいは、マリシャは、分かっていたのだろうか。もう、自分の前で無理をしなくていいということなのだろうか。
「違う」
そうじゃない。私は、無理をしたいんだ。あんたが憧れた英雄に、勇士になりたいんだ。
「あんたがいなければ……」
私は、人生を全うできないんだ。そう思っていた。カイムという男と話すまでは。あの男は、自分勝手に生きることの尊さを語って、世界に消えていった。そこで、ようやくに気づいた。イヴァ・ソールトンが本当になりたかったのは、真に一人で立つことなのだと。そうなって、はじめて自分は、マリシャの横に立つことができるのだから。
「あたしは、マリシャと一緒に戦いたかったんだ」
誰かのためでも、何かのためでもなく、ただ戦いたい。だからこそ、今回の選択は必然だったのだ。もう迷うことはない。自分の中にいるマリシャが微笑んでいる。カイムの言葉が残っている限り。自分は、一人で立てるのだ。
人の気配を感じたのは、その時だった。
「何やってるの?」
「……」
横は向かない。今、この顔を見せるわけにはいかない。まだ、恐怖にひきつり、強張った顔を。もう少しだけ時間が欲しい。
「そっちこそ、どうしてここにいるんだよ。帰ったんじゃなかったのかい?」
「トムスがね、特等席を用意するっていうから、空から見てたのよ。それなのに、ぼーっと突っ立ったまま何もしない。興ざめもいいとこだわ」
マリシャ・ゲブニルは、イヴァの横に立った。
「竜が目の前にいるのに、下向いて何ができるっていうの、イヴァ・ソールトン。情けないったらありゃしない」
「うるさいねえ。いつも、いつまでも。英雄には見せ場ってものがあるんだよ」
もう大丈夫。さあ、行こうか。相棒。
「だったら、しっかりしなさいよ!私にとって、あなたが英雄なんだから‼」
イヴァは破顔した。
「マリシャぁ!まさかてめえ、あたしが心配だ、とかふざけたことぬかすために戻ってきたわけじゃねえよな!」
イヴァはマリシャの顔を見た。誇り高い女の目に映る自分の顔が、同じくらいに誇りに満ちたものだと思いたい。返答は、とびっきりの笑顔だった。
「当ったり前よ!私が戻ってきたのは……」
「「目の前の、こいつをぶちのめすためさ‼」」
戦乙女の衣を脱ぎ、放り投げると、マリシャはしっかりと受け取り、その身に纏ってみせた。後ろに続いてきた戦士たちに声を浴びせる。
「デュミエンドの戦士達よ!紅に集え!」
マリシャの声は、竜を恐れ、弛緩しきったデュミエンドの男達に緊張と、闘志をもたらした。マリシャにしかできない芸当に、イヴァは痛快な気分になる。これだ、どんな腑抜けだって、戦姫の前じゃあピリッとするのさ。
「刮目せよ!これより此処は、雷将モルガン、そして紅軍団が一番槍、イヴァ・ソールトンの戦場となる!我ら二名の志を守る盾とならん!我に志を託せ!」
「お、応!」
外套と槍が共鳴し合い、イヴァ手にもまた力が宿りはじめた。槍は、かつてないほどに輝きはじめる。
「こいつは、凄い」
「モルガン将軍の配下たちの力、そして、街のみんなが、あなたのために祈った志力。思う存分使って、あんな竜メッタメタのギッタギタにしてやんなさい!」
「わかってらあな!」
ついに、イヴァは槍を構えた。もう、竜に恐れをなすことなどない。いるべき場所に人がおり、戦うべき相手が猛っている。ようやく、理想の果てにたどりついたのだ。
「デュモン、一発いくぜ!」
「闘争の神デュモン、我らが道を塞ぐすべてを蹂躙せしめよ、我らが果てに、栄光をもたらさんことを!」
二つで一つの法具がともに輝き始める。思いを託すものと、思いを預かるものが、唱和した。
「「突撃‼」」
背後からの圧倒的な気配に、ツィーガとヤンは同時に飛び退いた。
「おらあ!死にたくないやつはどきな!」
「どりゃあ!」
声が聞こえるか聞こえないかのうちに、盛大な音が響き渡る。
「何と……」
ヤンが絶句し、ツィーガが目を剥いた。
「竜を、吹き飛ばすなんて」
マリシャとモルガンが同時に、法具の能力を全開にして懐に飛び込み放った渾身の一撃は、ニアコーグの腹にぶち当たり、そのまま体を浮かせていた。
『グオッ!!』
くもぐった叫びがニアコーグから漏れたのを、カイムが見逃さなかった。ありったけの風が、水が、大地が、浮き上がったニアコーグを押していく。そしてそのままニアコーグの巨体が地に倒れ伏した。
「さあ、ようやく本番だ!いっちょ殺し合いといこうぜ、ニアコーグよ!」
トムスが嬉しそうに、だが腹の底からの怒りを込めて宣告する。竜と人間との決戦がようやく幕を開けた。
Ⅴ
「志力の出力は順調。円蓋、安定しています!」
「やった、円蓋の完成だ!」
周囲から上がる歓声にデリクスは大きく息を吐き、近くに立っていたドグズと握手を交わす。ゼピュロシア神殿と一帯を覆った青い半球は、神秘的な光で人々を照らす。島全体とまではいかないが、避難民を保護するには十分な広さだ。
「デリクス司祭長!」
デリクスが振り向くと、スクエアが笑みを浮かべている。デリクスは何とか笑顔を作った。
「何とかなりましたかな」
「ええ。本当に……」
それ以上の言葉が出ない。五大国を巻き込んだ壮大な芝居が達成されたのだ。ニアコーグの発現により生み出される竜種の膨大な志力を、ハルが顕現したと五大国に錯覚させることで、円蓋を発動させるという大芝居。人柱ならぬ竜柱となったニアコーグこそ、いい面の皮であった。
「ひとえに、トムスという男の読みですよ。通常、竜が去ったあとに出現するニアコーグが、今回は直前に出現する、と。それもゼピュロシア神殿の近くに、とね」
グリオーディアが通り過ぎた後には全てが破壊されつくすのを見越しての行動であったが、トムスはさぞ皮肉な笑みをもってニアコーグと対峙しているのだろう。
「これで、ニアコーグも我々には手が出せません」
「でも、これからが本番ですよ。グリオーディアが来るまでもう少し時間がかかるが、そこまでニアコーグを逃がしてはいけない。彼らが引き付けておく必要があります」
ニアコーグも、自分のせいで円蓋が発動したとは思っていないであろうが、逃げられては「ハル」の志力がなくなり、五大国の不審を買うことになるだろう。グリオーディアが近づいてくればおそらくニアコーグは逃亡する。ぎりぎりまで引き付ける必要があった。
「グリオーディアに対し、円蓋が持ちこたえられるかどうかもわからない。勝負は始まったばかりです。決して気をお緩めなきよう」
「はい」
スクエアは頷いたが、内心は情けなさで一杯だった。自分は何もできていない。国民に対して、そしてジェラーレに対して。デリクスは周囲の人間にいくつかの指示を出すと、部屋を後にしようとする。
「どちらへ?」
「私にも次の出番がやってくる、ということです。ここを頼みます」
部屋を出たデリクスが向かった先は、私物の置かれた部屋だった。ここしばらくの徹夜の作業で、盛大に散らかっている。荷物をかき分け、長い箱を見つけ出すと、恭しく開けた。
「さて、出番だよ。マリヤディーゼ」
デリクスが声をかけたのは、細見の剣である。柄に宝玉が埋められており、黒く煌めいて久々の外気を喜ぶかのようだ。
『デリクス。あなたとなら何処へでも行くわ』
剣から、玉を転がすような女性の声が柔らかく響く。デリクスは驚く様子もなく、鞘から剣を抜き放った。刀身は、宝玉と同じ深い黒。室内の温度が下がったと錯覚するような怜悧さである。
「頼もしいね、マリヤ」
『私を使うということは、現場に立つのね。【黒蘭令嬢】のもてなし方は覚えていて?』
「何せ、久しぶりだからね。気に障ったら遠慮なく言ってくれ。努力するよ」
『ふふ。あなた以外の誰に、私が扱えるというのかしら?でも、そういう率直なところも嫌いじゃないわ』
再び鞘に納められ、デリクスの腰に佩かれた剣は心なしか満足そうである。
「さて、行きますか」
決意が込められたはずの言葉は、いつも通り締まりのないものだった。
「アリエル司祭長」
デリクスのいなくなった後、スクエアは決心した声を発する。フォンデクがこの地を去った後の最高位にいる司祭は、動静に反応できず狼狽えるのみである。
「はい」
「私は、これから大洞穴の深淵に潜ります」
「何ですと?!」
「大洞穴の深淵から女神ハルを蘇らせます」
「危険です!今まで誰もがハルへと到達しようと試み、誰も戻ってきてはいないのですよ!」
「それでも、です。ここで動かなければ、私が来た意味はない、そうではなくて?」
「陛下がいなくなった後、誰がハルの声を聴くのですか?」
「国が無くなれば、ハルの声を聴いても無意味のはずです」
「しかし、円蓋が完成したのです。これ以上のことは……」
スクエアはアリエルをにらみつけ、黙らせる。
「グリオーディアに対し、十分ということはない。私は行きます。後はお任せします」
圧倒的な気迫に、アリエルは反論を封じ込められた。
「……畏まりました。どうぞ、ご無事で」
「本当に、全く、大したもんだわ。デリクス・デミトリウス」
円蓋を眺めやりつつ、ファナの中にこの時、この場所にそぐわない焦りと嫉妬のようなものが生まれて、すぐに消える。器量も、力量も現時点では遠く及ばないことを認めるしかなかった。大洞穴にはすでに避難民であふれている。皆がハルに祈りを捧げる中、ファナは入口から外の様子を伺う。遠く、竜と対峙するツィーガ達が光の壁の向こうに見えた。
「まだまだ、勝負はこれからなんだから」
考えている時間はない。今は成し遂げることがあるのだから。ファナは逃げ遅れた人がいないかと周囲に顔を巡らすと、エルンがふらふらと洞穴の外に出ようとするのが見えた。
「エルンさん!危険ですよ!」
「あの人が……カイムの声が聞こえたの……!私を、守るって……!」
「竜を吹き飛ばしたのはカイムさんの力ですよ。彼は偉大な精霊士です」
「そんな。カイムが、戦うなんてこと……」
「ハルフノールと、あなたを守るためです。誰かを守るためになら、戦える人だったんですよ」
ファナはなおも茫然としているエルンを引っ張った。
「ここであなたが怪我でもしたら、カイムさんが泣いてしまいます。早く戻ってください」
「……」
エルンは、引きずられながらも竜が飛び去った方角から目を放すことができないでいるようであったが、ファナはようやくに引き剥がすと、近くにやってきた子供達に預ける。数千人単位の人間に法術を付与して、一昼夜歩かせるなどという困難事を終え、ファナ自身の疲労もすでに限界を超えていた。さて、あとは祈るしかない、というときである。
「鬼が、鬼が来た!」
入口にいたハルフノールの神官戦士が絶望の声を上げる。
「なんでよ、ここは聖域だから、大丈夫なんじゃないの?」
ふらつく足を無理に動かし、手には、緊急避難用の転送法具を握りしめつつ、大洞穴の入り口から様子を伺う。
「何よ……これ」
ファナは絶句し、へたり込む。森から姿を見せた鬼の数は、想像を超えていた。視界を黒く覆うほどの大群。数百という鬼達である。人型、獣型。悪意と敵意の波は、まるで今までハルフノールの停滞し淀んだ暗部が全て白日の下に晒されたかのようである。混乱に乗じてハルフノール全土から終結したのであろう。あるいはグリオーディアの気配に触発され、自分達の最後を悟ったのだろうか。ニアコーグが封じられたのを好機として、人間を襲いにきたのか。
「何てこった……」
「もうおしまいだ!折角竜から逃げられたのに!」
恐怖と狼狽の声が周囲からあがる。肝心の戦士たちは全てニアコーグとの戦いに取られている。鬼達はニアコーグ達には目もくれずにこちらに向かってくる。大洞穴の中に入れてしまったら収集がつかなくなるだろう。恐慌が大洞穴の中に満ちる。
「ったくもー‼」
ファナは手にした緊急転送用の法具を洞穴の壁にぶつけて叩き壊し、蓄えられていた志力を自分の法具である【女神の息吹】に移す。自分自身に叱咤し、不退転の決意を込めてファナは立ちあがった。一度だけ、背後の子供達の不安げな顔を見やって笑った。
「あたしがいる!心配しない!」
ファナにとって、諦めることが最大の悪徳だった。負けても、逃げても、人を騙しても、媚びてもよい。でも諦めることだけは許せなかった。
「戦える人はついてきて!中に入られたらおしまいよ!」
入口に、退魔の法術を張る。鬼族が嫌がる香料に、自身の志力を込め、強力な防護壁を作ると、ファナはそこから踏み出して、鬼族を迎え撃った。小柄な鬼を蹴り飛ばし、志力を込めた気弾で四散させる。法術を使う度、がくん、と体から力が抜ける。それでも膝をつこうとはしない。周囲の人間達も、武器を手に立ち向かうが、数の差は歴然としていた。ファナも群がる鬼の鉤爪に服を切り裂かれ、白い肌があらわになる。
「こん畜生!」
狼のような鬼に覆いかぶさられるのを何とか避けて、腹に蹴りを叩き込む。全く効いていない。洞穴に進もうとする鬼の前に、ファナが瞳に闘志を込めて立ちふさがった。
私の体も、心も私のものだ。もう誰にだって渡さない。私が守るといったら、守るのだ。今まで誰も守ってくれなかった。自分を物のように扱い、都合が悪くなったら捨てるだけ。もう誰にも頼らない。人の価値などには従わない。自分で戦うのだ。自分の意志で死ぬのだ。
「えいっ!」
気合と志力を叩きつけ、狼鬼を消滅させる。そこまでが、ファナの限界だった。鬼達がファナの足を掴んで、引きずり倒す。
「しまっ……!」
視界一杯に青い光が見えたが、たちまちに鬼達の醜悪な顔でふさがった。
「この……」
それでもファナは、最後まで目を塞ごうとしない。まるで自分の死を見届けようとするかのように鬼達を睨みつける。
と、急に鬼達の動きが止まった。
「⁉」
唐突に鬼達が消滅する。音もなく、静かに。
「何が起きたの?」
誰に問うわけでもない声を上げ、半身を起こすと、彼女の視界に入ったのは、見慣れたエスパダールの司祭服だった。
「はい、御苦労さま」
デリクスが、いつもの飄々とした様子を崩すことなく立っている。違いと言えば、腰に佩いた細身の剣と、肩から纏った司祭服ぐらいのものだ。笑うでもなく、デリクスはファナに背を向け、群がる数百体鬼達に対峙する。気負いのない、全くの自然体である。
「あとは、お任せあれ」
「……」
声がでない。新たな敵に対し、人型の魔族が手に人間から奪った武器をもって殺到したが、デリクスの前で雲散霧消する。先刻と同じく、極めて静かに、なんの前触れもなく。何かの法術であろうが、詠唱も、法具の発動もファナには全く認識できない。デリクスは戦い方まで『凪』のようだった。獣鬼が三匹まとめてとびかかるのを、棒立ちのまま迎え撃つ。
「!」
一瞬の内に、跡形もなく三匹が消える。デリクスは涼しい顔でのたまった。
「死にたくなければ逃げろ……といっても聞かないよね」
何度かの襲撃をこともなげにはじき返すと、鬼達の動きが変わる。デリクスが一歩歩く度に、悪魔の群れは後退していく。傷ついた人々も、退避することすら一瞬忘れ、不思議な光景に束の間見とれていた。
「……」
ファナですら、とっさに悪態をつくこともできない。全ての気力を使い果たしたファナは、その場で失神した。
スクエアもまた一人で神殿を離れ、大洞穴に入る。避難した人々はみな一心に祈りを捧げており、女王の存在に気づくものはいなかった。受け入れのために解放された大洞穴のさらに奥、立ち入り禁止にされた地域の果てにある最深部に再びたどり着く。これまでも、ハル復活のために何人もの王族が命を落としたという、この暗闇の前に立ちつつ、スクエアには一つの確信を抱いていた。ハルの意識もまた、グリオーディアの襲来を察知したからこそ、自分の声に応え、桜の花を咲かせたのだと。そしてハルの意識が活性化した今こそ、神への接触を果たす好機であることを。ハルはこの島と一つになるために、身を投じたのなら、ハルと一つになるためには自分も同じことをしなければならないのだ、と。ハルフノールの王冠が暗闇を照らすように輝く。
ひんやりとした空気の先にあるのは、一周回るのに、千歩ほども歩かねばならないだろう大きな穴である。何も見通すことなどできない闇に、底知れぬ恐怖を覚える。試しに石を投げ込んでみるが、いくら待ってもスクエアの耳にどこかに当たって発する音は届かなかった。
「……やるっきゃない」
スクエアの脳裏を占めていたのは、実はハルフノールではない。正確にはだけではない、何よりも強く彼女を急かしていたのは、ジェラーレであった。
「待っててね、ジェラーレ。私があなたを助けてあげるから」
意を決し、スクエアはその身を投じた。ハルフノールの王冠が輝く光が吸い込まれ、消えていく。女王が去った周囲は再び、静寂と沈黙に包まれ、何もなかったかのように沈黙するだけだった。
世界の全ての場所で戦いが繰り広げられる中、終末を告げるべく、グリオーディアは飛翔し続ける。その視界は既に、ハルフノールを捕えるところまできていた。
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