熱帯魚
下校時刻のチャイムが鳴った。
補習授業を終えて、ヒロは大きく伸びをした。
「じゃあ、あとはまた来週。もういい加減こっちだって補習なんかウンザリなんだからさ、しっかりしてくれよ」
数名の生徒が「はぁーい」とやる気のない返事をする。
本当にわかっているのかこいつ等、とヒロはげんなりとしてきた。
女子高で教師をやっている。
そう言うと大学時代の友人たちは、口々に羨ましいなどと言ってくる。
是非一度代わってやりたいものだ、とヒロは常々思っていた。
中学生に比べれれば大分マシかもしれないが。
それでも話が通じているのかいないのか、よくわからない連中ばかりだ。
その上、恥じらいも何もない。
大声で笑い、大股で歩き、汚い言葉を口にする。
女子高生に対する夢とか希望など、就任して
廊下を歩いていると、何人かの生徒が挨拶をしてくる。
中には礼儀正しい子もいる。
一応は名門校というところだ。それなりの子女も通っているということなのだろう。
とはいえ、ヒロにしてみれば、それはちょっと小奇麗な生徒の一人であるにすぎない。
沢山いる有象無象の中に、ちょっと整った粒があるかな、程度のものだ。
自分がこんなに淡白であったのかと、ヒロはこの仕事に就いてから初めて知った。
(いや、そうでもないか)
職員室には行かず、ヒロは数学科準備室の方に足を向けた。
数学担当の教員だけが使える狭い部屋だ。
ほとんどの教員は、その部屋を物置程度にしか考えていない。
しかし、職員室の雰囲気に今一つ馴染めないヒロにとっては、学校の中で唯一の憩いの場だった。
職員棟は、生徒たちのいる一般教室棟から渡り廊下でつながっている。
こちらまでくれば、部活などの喧騒からは随分と離れる。
静かで落ち着いた雰囲気だ。
更に奥まった突き当り、数学科準備室の扉に手をかけると。
ヒロは一つため息をついて。
そのままスライド式のドアを開けた。
「ああ、おかえりなさい」
中にいた一人の女子生徒が、ヒロの方を振り返った。
「トヨ、お前なぁ」
ヒロは頭を掻いた。
「また勝手に鍵開けて入って・・・もう下校時間だろう」
トヨと呼ばれた女子生徒は、むっとむくれた顔をした。
「トヨって呼ばないでください。豊川です」
「はいはい、豊川。もう下校時刻だ。さっさと帰れ」
ふん、と言って豊川はそっぽを向いた。
細い手足、透き通るような白い肌、緩くまとまったブルネットの髪。
そうやって
頭一つ抜きん出て、美しい。
「豊川、お前、成績も生活態度も優秀なんだからさ、こういうのいい加減やめとけよ」
ヒロは豊川の脇を抜けて部屋の奥に進むと。
窓際のパイプ椅子にどっかりと腰を下ろした。
「進学とか、そういうのに響いたら困るだろ?」
豊川はヒロの言葉を聞いて、イタズラっぽく笑い。
ヒロと向かい合うようにして、古い木製のテーブルの上に、ひょいっと座った。
「先生、前にも言ったじゃないですか」
足を組んで、軽く首をかしげる。
わかってやっているからタチが悪い。
「私は進学しません」
そうだった。
知ってはいたが、毎度確認せずにはいられない。
「お前の成績なら何処の大学だって入れるだろうに」
「そんなことを言われましても」
両掌を上に向けて、首を左右に振る。
こんなわざとらしい仕草も、妙にはまって見えるから美人は不思議だ。
「決まっちゃってますから。永久就職です」
「永久就職ねぇ」
豊川の家は、かなり古く、由緒正しい家柄なのだという。
この学校に入ってきたのは、家にふさわしい
その名に恥じない成績を残して卒業した後は。
両家の子女として、もう嫁ぎ先まで決められているということだった。
「前時代的なハナシだな」
「仕方ないです。そういう家なんで」
豊川は寂しそうに笑った。
何度聞いても、ヒロには納得しがたい話だった。
「先生、私は熱帯魚なんですよ」
部屋の窓から、赤い西日が差し込んでくる。
その光を受けて、豊川の全身が真っ赤に染まっていた。
「熱帯魚?」
「そう、熱帯魚。観賞魚」
やれやれとヒロは天を仰いだ。
汚い天井しか見えない。ここはそんな、高級な魚が泳いでいい場所じゃない。
「お前はさしずめベタってところだな」
「闘魚?何それ、ぴったりだわ」
豊川はクスクスと笑った。
「見目麗しく、ひらひらと踊るように泳いで、愛でられる」
アクアリウムの熱帯魚。
美しいドレスを身にまとい、人々の目を楽しませるためだけに存在する。
「ベタならそう、ガラスの向こうにいる相手に向かって、勇ましく襲い掛かってみせる」
美しいだけでなく、闘魚は戦いを強いられる。
ガラスの向こうにいる敵に向かって、果敢に戦いを挑みかかる。
「ただ、それはみんな水槽の中のこと」
全ては
相手も、自分も、誰も傷つかない。
豊川は視線を落とした。
長く落ちた影が、入り口のドアに向かって伸びている。
「わかってるんです。私は生かされてる。何もかも自分の力では思う通りには出来ない」
着飾って、学校に行かされて。
「水槽の熱帯魚と同じ、水温、ペーハー、エアレーション、全て面倒を見てもらって、その美しさを保って、生きていられる」
食費も、学費も、生活費も。
結局のところ今の豊川の人生は、豊川が自分でどうにか出来ているわけではない。
「美しく見られるために、生かされている」
机の上から豊川は飛び降りた。
スカートが、髪が、豊川を
「逆らってみても、それはベタと同じ。私はガラスの中で粋がっているだけ」
どんなに強さを誇示してみても。
所詮は、水槽の中の熱帯魚。
「私は自分の弱さを知ってるつもりです。だから」
豊川はヒロの方に歩み寄る。
ヒロは黙ってその姿を見ていた。
真っ赤な夕日に染まった制服が揺れて。
本当に闘魚みたいだった。
「これも、無駄なあがき。わかってはいるんです」
未熟な反抗。逆らっても、逃げることの出来ない立ち位置。
水槽の中で、外の世界を夢視て。
自由を訴え、もがき、暴れる姿ですら
豊川の目から涙がこぼれるのを見て。
ヒロは立ち上がった。
自分の影が豊川の上にかかる。
両手をそっと広げて。
豊川の身体を抱き寄せた。
「それで俺を誘惑するのか?」
背の高いヒロに抱きしめられて、豊川はその胸板に顔をうずめた。
ヒロは豊川の身体を引き離すと、その顔を見つめた。
豊川は困ったように微笑んだ。
「先生、観賞魚に傷つけちゃダメですよ?商品価値なくなっちゃいます」
揺れる。
ヒロの腕の中で、闘魚が揺れている。
水槽のガラスを破ろうと、激しく舞い踊っている。闘っている。
「それをさせたのはお前だ。そうするように仕向けて」
「ごめんなさい、先生」
豊川は確かに美しい。多分、この学校の中でも断トツに。
しかしそれ以上にヒロを虜にしたのが。
その時の豊川が浮かべた、花咲くような笑顔だった。
「どうしても三島先生が、欲しかったから」
水槽の中の熱帯魚。ガラスの外から眺めるもの。
何を間違えて、この小さな
ヒロは色々なことを
「豊川、お前、俺がどれだけ苦労すると思ってるんだ」
「先生、二人の時はナオって呼んでくださいって言ったじゃないですか」
「やめろ、それ、バレるフラグみたいなものだ」
豊川は澄ました顔で、明るく笑った。
「はい。何か問題でも?」
すっかり日が落ちて、豊川とヒロは数学科準備室を後にした。
ヒロが扉に施錠しながら、ナオの方を見ずに訊いた。
「そういえば豊川、ベタってみんなオスなんだけど、知ってたか?」
豊川ナオは気分を害したという顔をして振り返った。
「先生、私、成績良いんですよ?それくらい知ってます」
「ああ、それならいいんだけどな」
三島ヒロは数学科準備室の鍵をポケットにしまった。
誰もいない廊下に、寄り添う二人の影だけがのびている。
水槽の外に出た熱帯魚は、もう熱帯魚ではなくなってしまうのだろうか。
「アロワナとかだとあっさり環境適応したりするんだけどな」
「先生、何気に酷いこと言いますよね」
二人の楽しげな話し声が、夜の校舎に響いていた。
かみさまクラスタ オオカミの季節 NES @SpringLover
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