忘れられた姫の話
私と彼女は西方の小さな国で、光と影のように育った。
彼女は王国の姫君。私は、姫君に仕える名もない僕。
幼い頃は、身分の隔たりに構わず、一緒に遊ぶこともあった。
彼女は、同い年の私よりも、幼かった。
ひとを疑うことのない瞳、頼りなげな体つき、蝶よ花よと育てられたが、おごったところはなく、むしろ自信なさげにおどおどしていた。
彼女は決して優れた人間ではなかった。姫君として最低限のことをすることが精いっぱいだった。宝玉のような外見とは裏腹に、中身は綿菓子のようにふわふわと実がなかった。
私達の国が落とされたのは、彼女がすっかり美しい娘に成長した頃だった。
大国に攻め込まれればひとたまりもなかった。いくら優秀な兵士がいたところで、国民のすべてを守れるはずもない。
虐殺のかわりに隷属を選び、国王は首を落とされ、姫君は奴隷に身をやつした。
私達、影は、いつか王国を再建することを誓って、闇に紛れた。
私はひっそりと姫君を見守り続けた。
彼女が奴隷商人にその無垢な体を品定めされ、悲痛に泣き叫ぶその様を。
奴隷市にかけられ、その国の王に買われていくまでを。
私は王宮に入り込み、身元を隠して彼女に仕えた。
彼女は私を目にしてもわからないようだった。
彼女は変わらず美しかった。王の夜の鳥として、淫らに喘ぎ、快楽に溺れる褥の横に、私は耳を塞いで控えた。
彼女は王の子を身ごもった。
その頃には、すっかり彼女の中身は空っぽになっていた。
頭の中は、甘いお菓子と、新しいドレスと、己を貫く欲望のことだけ。
その彼女が、腹の中の命に怯えた。
この子を出して、腹を裂いてと訴える。
姫、もう少しの我慢です。もうすぐお腹から出てきます。
妊娠を境に、彼女の生活は一変する。
蛙のように腹を膨らませた姫に、王は関心を失いつつあった。
怖いの、誰か助けて、私の中に化け物がいる。
彼女は嵐の夜に男児を産んだ。
奇跡のように美しい銀の髪の赤子だった。
私は、彼女が赤ん坊の首を絞めようとするのを、はがいじめにして止めた。
赤子はすくすくと成長した。
母に抱かれることもないのに、泣きもせず、手のかからない子だった。
誰もが王子をかわいらしいと褒めそやしたが、私はそうは思えなかった。
姫は相変わらず王子に怯えていた。
怯えはますます酷くなり、一日のうち何時間かは完全に正気を失ってしまうようになった。
ある日、王子が私に囁いた。
日の光が差し込み、新緑の溢れる庭園を望む回廊で、この時を待っていたようにすれ違いざま。
つま先立ちの様子は愛らしく、王子はただひたすらに透明に美しく、凛としていた。
「母の望むものを与えてやるがいい。お前の思いのまま」
少年特有の高い清らかな声で囁いた王子は、立ち竦む私を一瞥して去って行った。
囁きは、私の心の奥底の闇に響いた。
姫が王子を恐れた理由が、ぼんやりと私にもわかりかけていた。
王子は何もかも見通しているのだ。
姫の狂う時間は日に日に長くなる。
美しい姫。私が見守り続けた姫。私の光。
かつての無垢な姿はもはやなく、寝台でひたすらに自慰に耽る姫の、細く白い首に手をかけた。
ずっとずっと、あなたのことだけを思っていた。
見つめれば眩しくて目がつぶれるほど、あなただけが私の光だった。
粘液に塗れた手をばたばたさせ、姫が身を捩らせる。
私が力を入れるほどに、暴れる姫の力は弱まった。
内側から膨らんで充血した目、広がった鼻翼。口から泡が溢れ出る。
昔、一緒に遊んだときに捕まえた蟹のようですね。
あの頃のあなたを今もよく覚えている。
鳥のように歌う声、花のような笑顔。
私には決して向けられなかったあなたの笑顔。
その最後の呼吸が消える。私の手で。
「愛しています。あなただけを、ずっと」
姫は最期の時に私の顔を見た。わからない、という顔だった。
姫にとって影は影でしかない。光の中にいるものに、影は見えないのだ。
それでも、姫の瞳に私が映ったことに、私は深く満足した。
姫が命を失った。
姫の青ざめた顔。乱れた黒髪。辺りに垂れこめた排泄物と死の匂い。
私は甘美な匂いを胸いっぱいに吸い込んだ。
「さあ、影よ、お前はどうする?」
王子は死の満ちた部屋で私に問うた。
「私にも施しが与えられるのであれば」
「好きにせよ」
私は王子に頭を垂れた。
姫、私の姫。
私は姫の亡骸を隠した。初めて触れる姫を思う存分抱きしめ、骨をしゃぶり、血を啜った。
そして、私は影から光になる。
影武者として育てられた私の容貌は、姫とそっくり似せられていた。
姫の死を隠し、姫になり替わり、日毎、狂っていく姫を演じる。
観客はこの国に生きるものすべて。
来たる日、私は私の命を絶ち、私は姫として葬られた。
そうして完全に、私の愛する姫は、私だけのものになった。
囚人花嫁 千日紅 @sen2_k
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