夏の訪れ



 春は束の間の季節だ。

 すぐに夏が訪れ、春の華やいだ空気は、入道雲と強い日差しに取って代わられた。

 アンネリーゼは、湖に浮かんだ小さな小舟に乗っていた。

 レースのついた日傘と小さなポシェットだけが彼女の持ち物だった。



「どうしよう……泳いで行けばいいのかしら」

 アンネリーゼは泳ぎも達者だから、きっと岸に辿りつける。

 しかし、それにはドレスは重たすぎるし、置いて行った船はどうなるだろう。

 煩悶する彼女に、じりじりと照りつける日差しは痛いほどだ。

 夕方になって風が吹きだせば、船を岸に運んでくれるかもしれない。

「はぁ、どうしてこうなっちゃうのかしら」

 アンネリーゼは溜息をついて、先ほどの出来事を思い出し始めた。




 春の訪れとともにアンネリーゼに降って湧いた恋は、国中を巻き込んだ。

 ずっと独身でいた美貌の国王の恋人は、女教師。新聞にはそんな見出しが躍った。

 町中がアンネリーゼのことで持ちきりだった。

 彼女自身はと言えば、今までと変わらず、王立学院での教師の仕事に打ち込む毎日。

 時折、彼女の恋人―――この国の王である―――に会えることを忙しい日々の唯一の楽しみにしていた。

 ディートリヒとの逢瀬は、学院か図書館のどちらかだった。

 だから、彼女は気付かなかった。この大騒動の中心人物のかたわれが自分だということに。



 週末、アンネリーゼは買い出しに街に出かけることにした。夏服や、細々とした生活雑貨も必要である。

 何店舗かの買い物はうまくいった。

 だが、そのうち、アンネリーゼの素性がばれた。

「国王様の…!?」

「ほら、王立学院の先生だって!」

 興味津々の人々の視線がアンネリーゼに向けられる。

 次第に彼女の周りに人だかりができ、居心地の悪くなった彼女は荷物を抱えて逃げ出したのだ。



 アンネリーゼの足は結構、いやとても早い。

 淑女らしからぬ足の速さと的確な判断で、人々をまき、学院の敷地内まで戻った。

 そこでもまだ落ち着かず、広大な敷地内の湖の船乗り場から船に乗ったのだ。

 湖の真ん中まで来て、彼女はほっと一息ついた。

 その時だ、うっかりオールを放してしまい、オールは湖の底に沈んでいった。

 アンネリーゼは途方にくれた。


 荷物のいくつかは店に預けてある。

 本当に買いたかったものは、アンネリーゼのポシェットに入っていた。

 アンネリーゼはポシェットを抱きしめる。



 そよ、と風が吹き始めた。

 やわらかな風は、静かに、だが確実に、小船を岸へと運んだ。

 岸には、彼女の恋人が佇んでいた。

 銀の髪が風に揺れる。日差しを受けて輝く金の肌。夏の緑よりも濃く深く煌めく瞳。アンネリーゼの手から日傘が滑り落ちた。





「舟遊びか、アンネリーゼ」

「いえ、あの…ちょっと買い物に」

「なぜ黙って?」

「……これを買いに行きたくて」

 アンネリーゼがポシェットから取りだしたのは、鍵の付いた日記帳だった。

「ディートリヒ様は、とてもお忙しくてらっしゃるでしょう? それでもいつも私の言うことを聞いて下さる。どんな小さなことも。わかってるんです、取るに足らないことばかりだって。だから、私、日記に書くことにしたんです。ディートリヒ様に話したいこと。そうしたら、あなたの都合の良い時に見てもらえるし、あなたと会える時間を有効利用できますから!」

 アンネリーゼは俯いて、「まず日記を書いてから、ディートリヒ様にお伝えしたかったのです」と言った。

 ディートリヒは彼女の仕事を尊重してくれた。彼女が仕事にかける情熱を理解してくれた。準備にかかる時間、後片付けの時間、仕事以外の仕事の時間、そういったものを考慮してくれるから、彼と彼女の逢瀬はいつも短かった。もちろん国王としての忙しさもある。二人は、ヴァイゼンブルクから戻ってのち、お互いの時間の合間を縫って会っていた。その貴重な時間に、アンネリーゼばかりが話をしている。それが彼女の不満だった。もっとディートリヒの話を聞きたいと思うのに、彼の顔を見ると、会えない間の思いが溢れるように話しだしてしまう。口ごもれば、ディートリヒはアンネリーゼを優しく待っていてくれる。結局、アンネリーゼばかりが話し手になる。

そこで考えたのだ。アンネリーゼが話したいことは日記に書く。そうすれば、アンネリーゼは彼女の好きな彼の声を、思う存分聞くことができる。



 ディートリヒが手を差し伸べた。アンネリーゼは彼の手を借りて、小舟から降りた。

 小舟が揺れ、水飛沫が上がる。

「私のためか」

 ディートリヒはアンネリーゼの額にキスをした。ぽっとアンネリーゼの頬が染まる。

 アンネリーゼは首を振った。

 彼のためと言うより、自分のためだ。

 伝えたい、伝えられたい、一緒にいたい。

「空いた時間は何に使えばいい?」

「……あなたのお好きなように」

「それでは私のアンネリーゼ、私の好きなようにお前の時間を貰うよ」

 ディートリヒはアンネリーゼを抱き上げた。小さく悲鳴を上げる彼女を、木につないでいた馬に乗せる。

 彼は彼女を振り仰いだ。

「アンネリーゼ、知ってるか?」

「何ですか?」

「蛇は一昼夜交尾し続けることもある。一度始まれば、当分の間は繋がったままだ」

「理科の授業ですか?この辺は蛇が出るのでしょうか。私が騒いで彼らをびっくりさせていないといいのですが」

 彼女は、彼の恋人の二つ名をすっかり忘れ、ただただディートリヒに会えた嬉しさで目をキラキラとさせている。



 この後、王宮に連れ込まれた彼女は、三日三晩彼の部屋から出られなかった。

 季節は夏、燃え盛る太陽よりも激しい情熱に焦がされ、解放されたアンネリーゼの様子を見て、学院の生徒達がはや夏バテかと、大いに心配したとかしないとか。

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