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一時四十七分丁度に、夜行列車は三島に着いた。
降りてからホームで走り去る電車を眺めていると、窓ガラス越しにほんの少人数だが乗っている人間が見えた。彼らはどこまで帰るのだろう。
改札で回数券を出すと駅員は何の疑いも持たずにそれを受け取った。電車がないこの時間に降りてくる彼らを奇妙に思ったりはしないようだった。
もしかするとこの少し前に着いたであろう大垣夜行の乗客が、ホームに残っていたのだと思ったのかもしれない。
ホームからロータリーに出た彼らは、なま暖かい外の風を吸った。
三島で降りたことはなかったから物珍しかったが、その風景は彼の目に普通の駅前の光景として映っている。
だが、坂田はそうではなかったらしい。きょろきょろと周りを見渡すと、大きく息を吐いた。
「どうかしたか?」
不思議に思った安田が聞くと、坂田は笑った。
「どうもこうも、ここは三島ですよ」
「だろうね」
やはりここは普通の三島だったのか。だがそうすると車内で経験した、異常な体験は何だったのだろう。首を捻る安田に、坂田は笑った。
「安田さんは三島で降りたことなかったですね」
「ああ、初めて降りたよ」
「ここは間違いなく三島です。ただし五年も前の……」
「何だって?」
坂田は工事中の建物を指さした。
「あの建物は、丁度五年前に工事が始まって、次の年の二月にオープンしたものです。それが工事中なんですから五年前ということになります」
「本当か?」
「嘘をついても仕方ないですからね。」
二人はしばらくその建築現場を眺めていた。そこに記されている工期には間違えなく五年前のと書日付が書かれていた。
「取り敢えずうちに行きませんか? この頃はまだ家に僕居場所があったはずです」
完全に自分の思考範囲から飛び出してしまった安田は、坂田の提案に従うしかなかった。
若くてしかも変化を求めていた坂田は、安田より遙かにこの事態に馴染んでいた。
だが頭がすっかり固くなった安田には、どうしても信じられないのだ。列車に乗っただけで、過去へ行ってしまうなんてそんなことがあるのだろうか。
だが、あの列車は確かにおかしかった。
五年後の町の話をしながら、嬉しそうにしている坂田の隣で、聞いている振りをして頷きながら、安田はあることに気づいてしまった。
坂田が、徐々に若くなってきているのだ。見間違いかと思ったが、間違いなかった。自分の顔を触りながら安田はふと、不安になった。
自分はどうなってしまうのだろうか。もし若返ってしまったとしたら困る。家に帰れなくなるではないか。
生憎彼は鏡を持っていなかったので確かめる手段はない。
駅から二十分ほど歩いて、彼らは坂田の自宅についた。ここでまた安田は違う不安に駆られた。
もしこの家に入って、もう一人坂田がいたら、彼はどうするつもりなのだろうか? 大変なことになりはしないだろうかと。
だがそんな安田の心配に気づく事なく、坂田は何のためらいもなく自宅のドアを開けた。
「ただいま、今帰ったよ」
坂田を出迎えたのは、何の疑問も持たずに笑顔で彼を迎えに出た妻だった。そして坂田の顔のどこにも出発前のあの焦燥感や、悲哀に満ちた影が、存在しなくなっていた。
彼は完全に五年分若返っていた。
一晩泊めて貰って、安田は帰ることにした。
五年前の坂田はやはり帰ってこなかった。未来から来た坂田が完全にこの家の主となったのである。
午後近くに目を覚ました安田は、坂田の家でのんびりと過ごした。いや、どちらかと言えば呆然と過ごしたというほうがあっているだろう。
彼の妻には、安田は会社の上司だと説明されている。
テレビのニュースは、五年間に起こった過去の事件を流していた。この世界では、現在のことなのだ。
午後六時過ぎに夕食を終えた坂田は安田を居酒屋へと誘った。
彼に異存はなかったので、帰り支度をすると、坂田の妻にお礼を言い家を出た。
回数券に記された帰りの時間は、三島発午前零時三十五分となっていた。奇妙なことに、東京に着く時間は前日の午後十一時四十三分と言う時間だ。
彼はもう一度時間を遡ることになるのだろうか?
不安ではあったが、帰る手段がそれしかないのだから仕方ない。坂田と違い、五年前に帰ったところで、安田が妻との時間を取り戻すことは難しい。
彼はもっと長い間家庭を放置してきたのだから。
入った安居酒屋で、乾杯のビールを流し込んだ後、坂田は安田に名刺を渡した。
「五年後、また会えるといいですね」
その一言で、彼はもう二度と過去から帰らないことを決意したのだと分かった。
安田も会社の名刺を坂田に渡した。この時初めて坂田の会社を知った。なんと彼は同じ会社の全く知らない別部門の人間だったのだ。
大会社によくありがちなことだ。だが今更それが分かったところでどうだというのだ。
五年前の世界……ここで坂田は人生を変えてしまおうとしているのだ。五年後の名刺に何の意味もないだろう。
「君は、残るんだな」
「ええ。やり直します。最後のチャンスだと思うので……」
「そうか」
注文した焼き鳥を口に運びながら、安田は自分を思う。
過去からやり直す事が出来ないと、本当に何もかも手遅れなのだろうかと。
妻は……幸恵は、そうとは言わなかった気がする。何か手段があるはずだった。現在で出来る何かの手段が。
無言になってしまった安田の前に、そっと封筒が差し出された。何度も見たみどりの窓口のあの封筒……。
それは残りの回数券だった。
「これを持っていってください。もう僕は使わないから」
「ああ、貰っておくよ」
安田はその中に入っている回数券が何だか分かっていた。
往路の回数券だ。もし使ったならもう二度と帰ることの出来ない、引き返すことの出来ない片道切符……。
持っていてもきっと彼は使うことが出来ないだろう。だが坂田の好意を無にするわけにはいかなかった。
何時間も飲み続けて、列車の出発時間が近づいて来た頃、ようやく二人は店を後にした。これで坂田とはお別れだ。
それを知ってか知らずか、三島駅の改札を入る直前、坂田はいった。
「思うんですよ。失った物が大きいほど、この世の何か不思議な力が手を貸してくれるんじゃないかって。きっと人はそれを神の奇跡と呼ぶんでしょうね」
「君はこの回数券で過去へ戻って来られたことを、神の奇跡だというのかい?」
「僕にとっては神の奇跡です。失った物をもう一度手に入れられる」
坂田は安田に手を差し出した。安田はその手を握り替えした。
「いったんはお別れですね。五年後お会いできればいいのですが」
「ああ、そうだな」
「お元気で」
「ああ、君も」
ホームへ上がった安田の前に、あの大垣夜行と同じ車体が現れた。
ためらいなく安田はその列車に乗る。車内には安田の他に誰もいない。みな過去の世界から戻らないのだろうか?
一人座席に座りつつ、窓の外を眺めた。
列車の扉が、来たときと同じようにスーッと音もなく閉じた。
神の奇跡か……。
坂田の決意の微笑みを思い浮かべながら、安田は目を閉じた。
神の奇跡に頼らんと、取り戻せない物がそんなに大事か?
自分の努力で取り戻せる物の方が尊いのではないのか?
違うのか、坂田くん。
彼の心は決まった。過去ではなく、現在でやり直せるならやり直してみようと。
結果はどうなるか分からないが、過去を繰り返すのは、間違っている。自分の歩んだ道、その間の妻の苦悩。
全てを知った上でやり直さなければ何にもならないではないか。
ならばその尊いものを掴むよう、努力をしよう。そう彼は自らに誓いを立てた。
気がついたとき、車窓の外にはいつもの見慣れた光景が広がっていた。東京駅十番ホームだった。眠ってしまったらしい。眠い目を擦りながら降りようとすると、彼の目の前で列車の扉が音を立てて閉まった。
「!」
このままではまた過去の世界に逆戻りだ。扉にへばりつき慌てる彼の耳に聞こえたのは、予想したのとは全く違う、長年聞き慣れたアナウンスだった。
「本日は、“ムーンライトながら”大垣行きをご利用いただきまして、誠にありがとうございます。この列車は小田原まで全席指定となっております」
そう、彼が乗っていたのは大垣夜行だったのだ。
「……大垣夜行か……」
ため息と共に焦りを吐き出して安田は窓の外を見た。
落ち着いて見渡すと車内は満員だった。回数券入れには大垣夜行の指定席券が入っていたはずだから、座れるだろう。
ゆっくりと動き出した扉の外を見ていた安田の目に、ほんの一瞬ではあったが、駅のホームに立って煙草を燻らせている、二人のくたびれた男の姿が飛び込んできた。
「あっ!!」
それは過去へと旅立つ銀河鉄道という名の列車を待つ、坂田と、自分自身の姿だった。
「幸恵、旅に出よう」
「何を突然?」
驚く妻に安田は切符を見せた。そこには彼ら二人が新婚旅行で行った、北海道へと向かう『寝台特急 北斗星』の切符が握られていた。
「北海道? 新婚旅行以来ね」
「ああ」
過去へ坂田が残り、彼が帰ってきたあの日から数週間経ち、秋の風が吹き始めていた。
あの日の翌日、会社へ行った安田が探した全職員名簿に坂田の名前はなかった。彼の名を見つけたのは、五年前の職員名簿だけだったのだ。彼は五年前に会社を辞めていた。
もう彼と会うことはないだろう。彼は彼の道を行った。安田は安田の道をゆく。
あの日から安田は一度も大垣夜行に乗っていない。
「でも、まあ、あなた、どうしたのよ、急に」
慌てる妻に、彼は真剣に尋ねた。
「今までの時間を、新婚旅行から取り戻そうと思うのだが…ダメかな?」
夫の言葉に、幸恵は静かに微笑んだ。
夜行列車の扉 さかもと希夢 @nonkiya-honpo
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