2
翌日自宅で目を覚ました安田は、スーツのポケットを探った。
あの話は本当なんだと分かっていても、確かめずにはいられなかった。
やはり、回数券はしっかりと定期入れに挟まっていた。おもむろに時刻表を取り出し、東海道本線を開いてみる。
だが、どう探しても大垣夜行の後に三島へ行く夜行列車などない。考え込む安田の頭の中に夜行の中で聞いた坂田の言葉が蘇る。
『そういう家庭を作ってしまったのは、他ならぬ僕なんですがね』
布団を片づけると彼は二階から階下へ降りていった。彼の妻は、黙ってテレビを眺めている。いつもなら、飯とだけいい、妻に用意させる安田だったが、今日は黙って妻の隣に腰を下ろした。
二人には子供がいない。結婚すれば生まれるものだと思っていたが、子供が生まれることはなく、そのことに安田は罪悪感を感じてもいた。
どちらに原因があるかを調べることも恐ろしく、子供の話を無かったことにした安田に対して、妻は何も言わなかった。
そのことが更に安田を家から遠ざけているのかもしれない。
「幸恵。一つ聞きたいんだが」
「あらあなた。ご飯?」
立ち上がろうとした幸恵に座るよう促したものの、安田は言葉に詰まった。
友人が変な切符を手に入れたんだけどどう思うとでも聞こうというのか? 唐突にそんな話をするのは、おかしい。
だが話そうにも共通の話題など無く、妻との会話の糸口がまるで掴めない。
迷いながら見ると幸恵は安田を不審そうな顔で見た。
「なに? 何かあったの?」
落ち着いた口調で首を傾げた幸恵に、やはり微かな引け目を感じて、安田は視線を窓の外に向けたまま小さく呟くように問いかけた。
「俺は間違っているのか?」
「え……?」
急に言われても何のことだか、彼女にはさっぱり理解できないに決まっている。
「俺は今まで仕事のことしかしてこなかった男だから、俺がいなくなっても心配しないだろ。俺は金さえ運んでくればいいよな?」
「突然どうしたの?」
困惑して聞き返す妻に、安田はすがる思いだった。
変だ。足下に広がった小さな穴が、口に出すごとに大きく広がっていく。
坂田の目の奥底にある、闇のような暗さと、絶望と諦めの混じったあの声が、自分の身体を地の底へと引きずり下ろしていくようだ。
「俺はなんだろう?」
もはや自分で妻に何を問いたいのか分からず、吐息混じりの呟きになった。妻はしばらく安田を見ていたが、やがて小さく溜息をついた。
それから彼女は無言のまま立ち上がり、台所に立った。
何も答えてくれない妻に、安田は落ち込んだ。やはり、家庭を顧みず、仕事にばかりかまけてきた自分は、長い時間を掛けて自らの立場を金の配達人に仕立て上げてしまったのだ。
だが彼女がとった行動は、彼の予想とは違っていた。彼女は緑茶を二つおぼんにのせ戻ってきたのだ。
「少し、落ち着いた方がいいんじゃない?」
安田の前に暖かい湯気が立ち上り、緑茶の香りが漂った。
「ああ、すまん」
一杯の緑茶が彼の心を静めてくれる。
だが足下に出来た黒々とした穴は消えてはくれない。
「私は、あなたが思っているほどにあなたを諦めていないの。ただ、話したくてもあなたがその受け皿を持っていなかっただけ。私の言ってること、分かる?」
「ああ」
幸恵は緑茶を手に取った。
ほんのりと湯気の向こうに浮かぶ妻の顔が見えた。年をとったと思った。そういえば、ここ数年妻の顔をまじまじと見たことなどなかった。
勿論自分もそうなのだろう。出会った頃のように若々しく、ただただ未来に希望を持って脳天気に生きていられたあの頃とは違うのだ。
人生を八十年と捉えれば、いまはもう折り返し地点になった。
「あなたと話をするの何年ぶり?」
「随分久しぶりだ」
「そうよね」
幸恵は包み込むように湯飲みを手にして、小さく淡々と呟く。
「その間に私は、あなたに希望を抱かなくなったわ」
希望を抱かなくなったとは、どういう事だろうか。安田はやはり諦められてしまったのだろうか? 言葉が出てこない。
「希望を持ち続けると期待する分疲れるの。だから希望は持たず、いつもフラットな気持ちでいるわ」
「……分からないよ」
正直に言うと、幸恵は頷いた。
「分かろうとして欲しいわ」
分かろうとしていないのか、自分は。安田はそのことに驚いた。恋愛から夫婦になり、なにもかも共有しているように思っていたのは、
錯覚だったのだ。
そうだ。お互いを分からないと言いつつ、安田は幸恵を理解しようと思って見なかった。
「何があったのか分からないけど、私はずっとフラットよ。変えるのはあなただわ」
安田には何も言えなかった。
黙り込む夫をみて、幸恵は立ち上がり彼の食事の準備を始めた。結局彼は何の解決法も得ることはなかった。いや、得るための手段を知り得なかった。
約束の金曜日になった。
十一時半。安田は十番ホームで坂田を捜した。
彼は喫煙スペースでマイルドセブンをふかしていた。安田に気づいた彼は片手をあげた。
「やはり、乗る気になりましたね」
「答えが見つからなくてね。これに乗ってみたら何か見つかりそうな気がしたんだ」
安田も彼と並んでセブンスターに火を付けた。黙ったまま二人で煙草をふかす。
「どんな電車が来ますかね」
しばらくしてから坂田が独り言のように尋ねた。安田もそれを考えていたのでぼんやりと答えた。
「銀河鉄道って言うくらいだから、蒸気機関車かな」
「それはいい」
売店で買ったビールを持っていた坂田もなんだかぼんやりしているようだった。
「安田さん、僕は離婚する事になってましてね」
「えっ?」
「家に帰ったらね、妻と子供がいないんですよ。テーブルの上に離婚届が置いてありました。妻の分は記入済みでね……寂しい話です」
「それは……」
何も言えず安田は黙った。誰に聞かせるでもなく坂田は話し続ける。
「妻が子供を引き取るんですよ。子供を愛していると言っても、こんな人間でしょ。どうにもなりませんよ。それに子供達にとって僕は週に一度会えるだけの存在で、妻は一緒に暮らしている大切な存在……どっちと一緒がいいかなんて火を見るより明らかです」
坂田は煙草の灰を灰皿で軽く落とした。
今まで彼が見てきたような陽気な坂田は、どこにもいなかった。多分、その話が決まったのは、この前の大垣夜行よりも後の話だろう。
やけに彼は憔悴しているように見えた。
ぼんやりとどれだけ過ごしただろうか。
彼らの目の前に大垣夜行の銀とオレンジの車体が入線してきた。いつもならこの電車に乗っているのだが、今夜は大垣夜行がいやに遠く感じる。
これから自分たちは、どこに行こうとしているのか、彼らには分からなかった。
大垣夜行が出ると、十番ホームは急に寂しくなった。不思議だったのはそれでも安田と同じ位の中年の会社員が何人かだけ残っていることだった。
だがしばらくたつと、その数人も半分くらいは消えていった。残ったのは、安田や坂田を含めても片手で足りるくらいの人数だ。
時計を見ると、四十七分になっていた。
本当に来るのか疑ってきていた安田の目に、大垣夜行の去った方向からやってくるヘッドライトが見えてくる。
「来たか……」
本当に“夜行列車『銀河鉄道』”は存在した。
ホームに滑り込んできた列車は、見慣れた銀とオレンジ色で、一目で彼には分かった。
それは大垣夜行と全く同じ車体だったのだ。
「来ましたね。乗りましょう安田さん」
決意したかのように、坂田は列車に向かって歩き出した。呆然としていた安田が遅れて後を追う。
静かに車体を止めた列車は、何故か音もなくスーッと扉を開いた。いつもの感覚とは違うそのことを不思議には思ったが、この電車があること自体おかしいのだから、気にしてもしょうがないだろう。
乗り込んで見ると、この車両に乗っているのは、坂田と安田の二人だけのようだった。
「空いているな」
「空いてますね。大垣夜行とはえらい違いだ」
彼らは気兼ねせずに広く使える車両先頭の座席に陣取ってビールとつまみを並べた。そうこうするうちに、列車は定刻通り東京駅を滑り出していった。
「どこに行くんだろうな」
「三島…でしょうけど、どこの三島なんですかね」
二人は取り敢えずビールを開けて、どこへとも知らない旅の始まりに乾杯した。
列車は順調に東海道本線を走り続けている。どこにも停まらず、ホームにいる人誰の目にも留まっていないこともいつも通りだ。
期待と不安に包まれていた安田は、少々拍子抜けした。車窓の風景を眺めていても、いつもの大垣夜行となんら変わるところがない。
だが何も変わらなかったのはほんのつかの間だけだった。大船を超えた一本目のビールが空いたところで、変化はじわじわと現れ始めていたのだ。
「あれ?」
最初に気が付いたのは坂田である。
「安田さん、あれ朝焼けですか?」
「朝焼けだと?」
張り付くように窓の外を見た安田の目に、うっすらと明るくなる空が見えた。だが、直感的に安田は悟った。
あれは朝焼けではない……夕焼けだ。
「坂田くん、あれは夕焼けだ」
「夕焼けですって? だって明るくなってきてるじゃないですか」
「だがあっちは西だ!」
「! 西?」
それは驚くべき事だった。
夕日が……昇っている……?
安田の常識は完全に狂ってしまった。今彼は昇ってくる夕日を見つめているのだ。
間違いない、朝日ではなく夕日だ。
「なんだ、これは……」
とにかく落ち着くべく安田が時計を見ると、時計の針は狂ったようにぐるぐるは逆周りで回っていた。しばらく時計を凝視した後、頭を振った。理解できない。
「どうなっているんだ」
「分かりませんが、夕日が昇ると言うことは、時間が巻き戻っているのでは?」
「そんな馬鹿な……」
呆然とする安田と坂田は窓の外に釘付けになっていた。
しばらくすると太陽は高くなった。
そして、朝日(ヽヽ)が東に沈み始める。
再び暗闇が訪れ、そして西から夕日(ヽヽ)が昇る……。
まるでビデオで一日を倍速の巻き戻しで見ているようだ。
小田原に着く頃には、太陽は三回目の夕日の出を迎えていた。
窓の外を眺めていると、乗客の一人が降りていくところだった。きっと東京駅にいた男の内の一人だろう。
間違えて乗ってしまったのか、はたまた坂田のように深夜のみどりの窓口で回数券を買って、分かった上で乗ったのかそれは分からない。
「あの人も帰る家をなくしたんですかね」
坂田はそう呟いた。
「かもしれないな」
もしかするとこの電車は、帰る家を無くしたサラリーマンの為の電車なのかもしれない。安田はふとそんなことを思った。
三島に着くまで、あと三十分。着いてみれば何が起こっているのか知ることが出来るのだろうか。
時計の針は相変わらず狂ったように回り続けている。何も言わずに彼らはビールを飲み続けた。
二人は気妙なその時間の中で、何となく安らぎを感じつつあった。あたかも、夢を見ているかのように。それは二人が酔っているというだけですまされるような感覚ではなかった。
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