夜行列車の扉

さかもと希夢

 静岡県新富士駅近くに住む新幹線通勤の安田は、毎週金曜日に、大垣夜行に乗ることにしている。

 彼は働き盛りの四十歳。金曜の夜は接待で新幹線に間に合わないのだ。

……ただしそこに『今までは』と付けるのが正解だろう。最近は不況のせいか、接待もほとんどなくなり、新幹線で帰れない時間になってしまうことはない。

 しかし彼は“ムーンライトながら”――通称『大垣夜行』に乗る。

 家に帰りたくないわけではない。なんとなく東京にとどまってしまうのだ。貧乏性なのか、家庭人であることを止めてしまっているからなのか、それは自分にも分からない。

 最近は妻も素っ気なくなり、以前のように早く帰ってきてほしいとは言わなくなった。専業主婦である彼女は彼女なりの、密かな楽しみをみつけているのだろう。

 だからといって安田は東京に他の家を持とうなどというとんでもないことを考えたりしない。もちろん毎月の限られた小遣いからそんな金は捻出できないと言うこともあるが、彼は家族を彼なりに大事に思っているのである。

 時々彼はこれが帰宅拒否というのだろうかと考えたりもする。自分は働き蜂だ。お金を持って帰ればそれ以外に用はないのだ。彼の気持ちを、家族は分かってくれやしない。

 誰に言われたわけでも、感じ取ったわけでもないというのに、そんなことを考えて一人腹立たしい想いを抱えてしまう。

 そんなひねくれ気味の彼ではあるが、唯一仕事の愚痴や家族のことを相談できる友人がいる。

 友人の名は坂田といい、下の名前は分からない。

 彼はその友人が何者であるのか全く知らないが、大垣夜行に乗っている理由の一つは紛れもなく、同じ立場で愚痴を言い合える友人がそこにいるということでもあるのだ。


 事の始まりはある何もない金曜日、彼がふらふらと飲み歩いた後に乗車した大垣夜行の中の出来事だった。

「安井さん! ここにいたんですか」

外をぼんやり眺めていた安田に坂田が声を掛けてきたのだ。人と話すのも面倒だった安田はじろりと坂田を睨みつけると、迷惑げに言葉を返した。

「人違いですよ。私は安田です」

「あ、失礼」

男はそういうと安田の隣に腰掛けた。

「何です、ご用ですか?」

無礼な男に思わず安田は声を荒げた。坂田はスーツのポケットから座席の指定席券を取り出して安田に見せる。よく見るとそれは安田の隣の座席番号だった。

「これは失礼」

 安田は素直に謝った。今夜のお隣さんはこの男らしい。

「いえいえ、こちらこそ」

 男は愛想良く笑い返すと、一段落したから眠ろうとする安田の座席を見て首を捻った。まだ何かあるというのだろうか?

「それにしてもその席……」

坂田は安田の席を指さす。

「この席が何か?」

「たしか同僚の席だったもので」

「そんな馬鹿な。私は一ヶ月も前にこの指定席券を取っているんですよ」

「これはこれは。僕もですよ。本当に奇妙なことがあるものですな」

くたびれたサラリーマンの二人は何となく可笑しくなり、顔を見合わせてニヤリと笑った。一ヶ月前にこの列車を予約する物好きが、自分の他にいるとは思わなかったのだ。

 奇妙な偶然が二人の中間管理職を結びつけたようだった。とまあここで終わればこれだけの話である。

 だが奇妙なことは再び起こった。次の週の大垣夜行でもまた坂田と安田は隣同士の席になったのだった。

 聞いた話によると、坂田も心配性なところがあるらしく、指定席券発売の日の発売時間に必ず喫煙席を取っていたらしい。安田もこれと全く一緒だった。

そしてその日、坂田は二本のビールを持っていた。なんとなく安田に会えるような気がしたというのだ。安田と坂田はそのビールをあけ、語り合うことになった。

 それから二人の週に一度だけの夜行列車飲み会が始まったのだ。

 夜行電車の中という特殊な環境と、話せる人間があまりいないということが、この知らない男達を、結びつけた。

 いや、もしかしたら彼らは無意識のうちに探していたのかもしれない。唯一の同じ立場で話の出きる友人を。

次の週も次の週の、不思議と坂田は彼の隣の席に座っていた。その二席はまるで、彼らの金曜日の指定席のようだった。

 安田が、坂田のことで知っていることはあまりにも少ない。

 見た目が三十代半ばの営業マンであること、会社では係長であること、子供は二人、小学生と幼稚園児がいて、二人とも女の子であること、そして、三島駅で下車する事。

 会社名は出さなかった。それは安田も同じ事で、会社がしれてしまうと、お互いに気を遣い、問題が絡んでくることを経験から知っていたからである。何も知らない方がかえっていいという関係もこの世にはあるのだ。

 そんな交友関係がもう随分続いていた。

「何でもないのに、何かあったわけでもないのに急に消えてしまいたい事ってありますよね」

ある時、坂田がこう呟いた。

 その言葉に、安田は胸を突かれる思いだった。彼も同じ気持ちを抱くことがあったからだ。坂田は続けた。

「家庭が上手くいってないとか、会社が辛いとか、そんなに簡単に答の出る事じゃないんですよ。ただ漠然と自分がうち消されていくっていうんですかね」

「すり減っていく感じじゃないか?」

安田が返すと、坂田はビールを流し込んでから頷いた。

「寂しいものですね。そのうち気が付くと自分の殻だけが残ってて、僕が入ってなくても誰も気が付かないんじゃないかなんて考えてしまいますよ」

 そういうと、坂田はしばらく黙ってしまった。安田も黙って考える。

 自分の殻は毎日毎日会社に行き、毎日同じ事を繰り返す。考える必要もなければ、家庭にはじかれることもない。殻は所詮殻だからだ。

 だが安田も坂田もまだ殻になっていない。捻くれ、少々人生を投げ始めた中身がきっちりと入っている。

 確かに今までの彼の仕事ぶりから、地位や高給は得るようになった。出世するためには家庭を顧みることが不必要な時代を、彼らは生きている。

 だが初めに会社で頑張るのは何のためだったのか、それを考えるとやりきれない。今は彼に背を向け、彼を拒絶している家庭のためだったのだ。

「安田さん、僕らいったい何のためにこうして夜行列車に乗るんでしょうね」

ぼんやりと窓の外を眺めて考え込んでいた安田に坂田は尋ねた。それは、尋ねたと言うより、独り言に近く、ただのつぶやきのようだった。

「……さあな」

何ともいえず漠然とそう答えた安田の言葉が耳に入らなかったのか、坂田はぽつりともう一度同じ言葉を繰り返した。

「何のため、ですかね」

「……」

 深いため息と共に吐き出されたその言葉に、安田は黙った。まるで自分に問いかけられているようなそんな質問。その言葉の重さは誰よりも理解できた。

「正直に言いましょう。僕は本当は新幹線で帰れるのに、この大垣夜行に乗るために一ヶ月前に指定席券買ってるんですよ」

まさか彼も同じ理由で大垣夜行に乗っていたとは思わなかった。本当に彼は安田と同じ、いわば仲間のようなものだったのだ。

 黙っているのも気まずく彼も静かに切り出した。

「私も正直にいうと同じだよ。飲み屋で時間をつぶしてそれで列車に乗ってるんだ」

「それはそれは……」

 男二人はお互いの顔に皮肉な笑みを浮かべてビールに口を付けた。

 因果なものだ。似たもの同士をこんなところで結びつけるとは。もしかしたらこの列車に乗っている多くの酔っぱらいは、皆彼らの仲間なのかもしれない。

 新幹線の終電に間に合わぬようしっかりと時間を過ごし、そして大垣夜行にのる。

「僕は思うんですよ。こうしてこの列車に乗っているの人たちは、家庭での自分のあるべき姿に思いを寄せる事しかできない、僕らのような男達何じゃないかってね」

「それは文学的だ」

 安田はビールに口を付けた。何だか今日は苦さが身に染みる。

「自分探しをする列車か」

 安田はこの時自分探しについて本当に突き詰めて考えていたわけではない。ただその文学的表現が酔っぱらいの琴線に触れて心地よかっただけだ。

 来週になれば忘れてしまうような些細なやりとり……そのはずだった。

 だが予想を遙かに上回る形で、それは彼の前に現れたのだった。


「安田さん、おもしろい物を買ったんですよ」

次の週の金曜日、安田がビールの缶を取り出すよりも早く、坂田がスーツの胸ポケットから封筒をとりだした。

 その封筒に見覚えがある。みどりの窓口で買った切符を入れるものだ。

「なんだいそれは?」

「いいから見てくださいよ」

 封筒を半ば押しつけられるような形で安田は受け取った。

 明けてみるとそこには五枚綴りの回数券らしき物が入っていた。安田には何の変哲もないJR東海道線の回数券に見えるのだが、坂田の様子からするとそうではないらしい。

 安田はしげしげともう一度見てみた。

“回数券 東京→三島(23:50発)(1:43着)夜行列車『銀河鉄道』 東京駅10番線”

「やっぱり普通の回数券じゃないか。これがどうかしたのか?」

 きちんと印刷された回数券には、ちゃんとJRのマークも入っているし、怪しげなところはないように見える。

 だが坂田は楽しそうに笑っている。酔っているのだろうか? 封筒ごとその回数券を坂田の手に戻すと、坂田は再び回数券を安田の前にとりだしてみせた。

「時間見てくださいよ。これ大垣夜行の後に走ってるんです」

「なんだって?」

 安田は慌ててもう一度回数券を見直した。大垣夜行は東京駅の十番線から十一時三十四分に出る。その後にこのホームを発着する列車は存在しない。

 なのにこの回数券は十番ホームから、大垣夜行のあとに出る列車があることを示しているのだ。

 だが、あり得ない……東海道線で三島まで行くのは、大垣夜行が最後のはずなのだから。

「これは臨時大垣じゃないのか?」

 安田はふと品川を始発とする臨時大垣夜行のことを思い出して坂田に尋ねた。彼らが知らないだけで、臨時大垣夜行が東京発になったのかもしれない。

「もし臨時大垣が東京から出る事になったのなら、この時間であり得ますけど、残念ながらそれはありません。僕も気になって調べましたから」

「そうか」

おかしな回数券だ。悪戯だとしたら手が込みすぎている。手触り、厚さ、そして細かいJRの文字。どう見てもこれはJRが発行した物にしか見えない。

 もし本物だとすると、それに該当する列車が存在しないのだ。

「こんな物、どこで……?」

安田は当然の疑問を口にした。こんな物どこでも買えるわけではなさそうだ。帰ってきたのは意外な答えだった。

「勿論、みどりの窓口ですよ」

「みどりの窓口? 馬鹿な……」

 安田が絶句するのを分かっていたかのように、坂田は穏やかに微笑んだ。

「そう、だからこれは確かにJRの切符なんです」

「……」

「ただし、時間が時間でしてね」

彼がこの回数券を買ったのは、三島駅だった。しかも本来ならとっくにしまっているはずの午前二時なのだという。

「あんな時間に開いてることなんてないですからね。不思議に思って入ってみたんですよ」

 みどりの窓口に入ると、案の定客は坂田だけだったのだという。こんな時間だから当たり前かと思いつつ中のカウンターを見ると、男が一人座っていた。

 不審がる坂田に、その男はこういった。『この時間にお買いあげいただけるのは、この回数券だけですよ』と。

 坂田は引き寄せられるようにカウンターに向かい、その回数券を手にした。

 何だか夢を見ているような感覚で回数券を懐にしまい、みどりの窓口を出てからしばらく歩いて振り返ったとき、みどりの窓口の明かりはすでに消えていた。

 慌ててそこまで戻ってみたが、中に人がいる様子もなければ今まで明かりがついていた様子もなかったのだ。

 一瞬、ほんの一瞬の出来事だった。


「そんな馬鹿な」

「僕もそう思いました。でも僕は回数券を買ったんです」

「……」

二人は黙ってビールを口に運んだ。

 にわかには信じられない話だ。もしかして坂田が冗談を言っているのではないかとも思ったが、ならば今この手の中にある回数券は何なのだろう。

 安田は改めて回数券を眺めた。

 眺めているうちにもう一つの奇妙なことに気が付いた。普通回数券は、往復どちらから切符を使っても乗れるようになっているはずだ。だが、この回数券には、往路・復路がしっかり明記されていたのだ。

 往路は三枚、復路は二枚。

 坂田にそれを言うと、彼はとっくに知っていたようだった。

「二回はお試しで帰れますが、最後の一枚は帰って来れませんと言うことですかね」

「でも、三島に行くんだろ? なら帰ってこれるじゃないか」

「本当に三島だと思いますか?」

「……」

安田には何も言えなかった。あんなに奇妙な手段で坂田の手に入った回数券が、普通に三島に着くとは思えなかったのだ。

 だが常識で考えて、三島は三島に決まっている。

 答えが分からない。

 重い沈黙が降ってきた。ビールを飲みながら、坂田は何か迷っているようだった。

 しばらくして坂田はやっと口を開いた。それは安田にとって、意外な物だった。

「一緒に乗ってみませんか? 一回なら帰って来れますし」

「俺が?」

坂田は黙って頷いた。彼はすでに、この奇妙な夜行に乗る決意を固めているようだった。

 即答することも出来ず、安田は何となく窓の外を眺めていた。小田原駅が静かに後方へと流れていった。三島へ着くまでには、まだ三十分ある。

 安田はその限られた時間で、答えを出さなければいけないだろう。

 この回数券は、三島行きだ。何を迷う必要があるというのか。彼の常識は彼にそう告げるが、心のどこかが本当にどこか知らない所へ、連れて行かれるかもしれないと危険信号を伝える。

「安田さん、僕は自分をすり減らさないために、この冒険に賭けてみるつもりなんですよ。面白いじゃありませんか、走っていないはずの夜行列車なんて」

「まあ、そうだが……」

「どうです? あなたも行きませんか?」

「ただね、悪戯の可能性もあるだろう? 私はそれが心配だよ」

 何が可笑しいのか、坂田はクスクスと笑う。少々困惑しながら安田が押し黙ると、気分を害したのかと坂田は小さく彼に謝り、改めて安田に言った。

「土日は我々の唯一許された休日じゃありませんか。騙されていたら、カプセルホテルにでも泊まって、次の日に笑い話にして新幹線定期で帰りましょう」

「しかし……」

尚も考え込む安田に彼は回数券の往復分二枚を手渡した。

「じゃあこうしましょう。来週の金曜日、十一時半に十番ホームで待ってますよ。もし乗る気になったら僕を捜してください。乗る気がなかったら、この車両の乗車口に立っていてください。僕が回数券を回収に行きます」 

「分かった。考えておくよ」

受け取った安田に、坂田は寂しげに言った。

「しかしあれですね。もし僕がいなくなったら、家族は金のこと以外で心配してくれますかね」

「……」

 安田は答えることが出来なかった。彼の家庭でも同じ事がいえるからだ。遠い目で窓の外を見たままビールを流し込みつつ、坂田は続ける。

「まあ、そういう家庭を作ってしまったのは、他ならぬ僕なんですがね」

彼の一言は、安田の胸の中に重くのしかかっていた。

『そういう家庭を作ってしまったのは、他ならぬ僕なんですがね』

「ああ、そうだな」

ビールはすっかり温くなり、苦かった。

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