第2話


二話


酒中喜助が、定職につけなかったという事実は、それはもう当然の現象であった。

一切の嘘を吐くことの出来ない人間が、真面に仕事が務まる訳はない。しかし、彼の異様なまでの、圧倒的な正直さは意外な事に女性関係において、非常に役に立ち、結果的に、喜助はかろうじて路上生活者にならずに済んでいた。

喜助は毎日の様に酒を飲んでいた。と或る昼過ぎの暑い日、喜助は偶然見つけた居酒屋へと、ふらり入った。適当に空いている席に座って、ろくにメニューなど見ず、 ビールを生で一つ、と、大きな声で注文した。

待つ間は暇なので、彼は店内にいる客たちの様子を伺った。その中の一人に、非常にみすぼらしく、頼り甲斐のなさげな男が、自分の席から上手い具合に、全体が見える席に座り、ぶつぶつと愚痴をこぼしながら、ちびちび酒を飲んでいることに気が付いた。

歳は、自分とそう変わらないように見えたが、自分の方が何倍も恵まれていると考えた。その男の顔は、お世話にも整った顔では無く、背筋もまるで、半端に折れた爪楊枝の様に曲がり、目の下はびっしりと黒くなって、気持ち悪かったからである。喜助は、このままその男を眺めながら酒を呑めば、当然、不味くなると確信したので、別の席に移動しよかと考えていた。喜助が立ち上がると、それとほぼ同時に、店の扉がガラガラと音を鳴らした。

ノレンを潜り、背が高く、柄の悪いシャツと変に背広に身を包んだ男が三人程、店内に入ってきた。男たちは、先程の気持ち悪い男を囲むように自身を配置し、威圧した。

店内の雰囲気は氷ついていた。気持ち悪い男は、突然の出来事にしどろもどろになっていたが、背広の男達のボスは、全く容赦なく、彼の髪の毛を掴み、ぐいっと顔を近付け、『金を返す。手筈は整ったか』と尋ねた。男は腹の底から絞り出したような細い声で『もちろんですとも、東上さん。金は間違いなく返済できます。嫁を風呂に沈めました。本当です』と言った。その言葉を聞くと、東上は非常に満足した顔をして、男の髪から手を離した。『それだよ。その姿勢が欲しかったんだ。よくやった。素晴らしい。これぞ、真心ってやつだな』そう言って、東上は高笑いした。目的は達成されたので、彼らはすぐに店内から去った。気持ち悪い男は深いため息をつき、また、ちびちび酒を呑み始めた。

その様子を見て、喜助は、いい提案だと思った。成る程、確かにそれなら、まとまった金は稼げるし、何より、もっと楽が出来る。

喜助は、東上の後を追ってみるべきだと判断し、店員にビールはキャンセルすると伝えた。

店を出ると、東上は現時点からあまり離れていないことが知られた。部下たちと何か話しながら歩いている。喜助は、何かの弾みで見失う事が無いように、小走りで東上に近付き、『おい、君よ。教えてほしいことがある。聞いてくれないか』と言った。

東上は、喜助を見てすぐに、さっき店にいた男だと理解した。『どうした。何か用か』と、彼が返答する。喜助は興奮気味に、自分の嫁は三十少しなのだが、風俗では幾らくらいの金になるか、といった内容で質問をした。東上は一瞬、驚いた表情を見せ、少し警戒したが、目の前にいる喜助が特に危ない奴には見えなかったため、素直に、『それは店による』と返事した。そして続けて、その手の話しは俺の専門ではないから詳しいことは言えないと付け足した。喜助は、頷いて、『そうか』と言い、東上に背を向けた。すると背後から、東上が彼に、『お前、歳は?』と聞いた。喜助は振り向いて、三十五だと伝えると、東上は『そうですか。年上ですか』と少し驚き、敬語を使った。

彼は、自分の財布から名刺を取り出し、喜助に渡した。その手の仕事に詳しい人物の名刺だそうだ。喜助は、『有難い』と答え、その場を去った。

夕日が綺麗に見える時間帯に、喜助はアパートに帰った。全身から酒の匂いをプンプンさせて、足取りも少しばかり、危うい。ポケットから鍵を取り出して、鍵穴に刺そうとしたが、手が震えて上手く入らなかった。そして遂に、ドアの前で膝をついてへたり込んでしまった。仕方が無いので、ドアを拳で三度殴り、ノックの代わりとした。内鍵が回る音がして、ドアが開かれた。隙間からテレビの電源がついていることが確認出来たが、何の番組で有るかは、わからなかった。首を上げると、娘が喜助を見下ろして、酷く不機嫌な顔で立っていた。喜助は、四つん這いで家に入り、床に敷かれたままの布団に散乱する大きなガラス破片を手で一気に除けて、横になった。

部屋を見渡すと、妻が居ない事に気が付いた。喜助は昨日の昼に家を出て、今戻ってきたのだから、何もわからない。娘に理由を尋ねると、昨日の夕方、買い物へ行ったきり、帰って来ないのだと言われた。

父さんは何処に行っていたのかと尋ねられたので、喜助は、お酒を飲んでいたと答えた。娘は、『呆れた』と、吐くように言い捨て、テレビ鑑賞に戻っていた。

喜助は、昨日の昼に、自分を止める嫁を近くにあったガラスコップで軽く殴ったから家出したのだと思ったが、そんな事は日常に溢れていたと思い、考え続ける必要など無い、いずれ帰ってくる。そう結論を出した。

しかし、喜助の都合良く物事が運ぶ訳も無く、嫁が帰って来ないまま、数日が過ぎた。喜助は、自分の運が、相当に悪くなっていると感じた。

折角、より良い方向に向かう指針が立ち、方法を発見したにもかかわらず、肝心の稼ぐ道具が無ければ、ただの妄想に終わり、無駄に時間が過ぎてゆくばかりである。

喜助は恐怖した。このまま妻が家に帰って来ない日々が続けば、間違いなく家計は火達磨となり、酒代はおろか、生活すら危うくなるに違いない。そんな考えや不安が、彼の頭の中で、次々と沸き上がっていた。やがて彼は、今、自身が悩んでいる問題は自分に不安と心の乱れを誘発するばかりで、精神衛生上、全くよろしくないと判断した。そうと決まれば、もう考える必要はない。彼はタンスに隠しておいたなけなしのヘソクリを握り締め、いそいそと、家を出た。

娘の目には、これが自分だと言わんばかりに自信で溢れた態度に映った。朝の出来事である。

時は過ぎ、時刻は午後となっていた。財布の中身はほぼ空である。喜助はまた同じように、酒の匂いをプンプンさせて家に帰る為の道程を歩いていた。当然、足取りは危うい。

角を曲がり、家が見えてきた。喜助は遠方から、面白いものを見た。学校から帰宅してきた娘が、玄関先で何者かと話しているのである。どうやら男だ。もう少し近いてみると、娘の顔は笑っていると、認識できた。喜助は階段下へと逃げ込み、様子を伺った。その間、喜助の脳内では、以前に閃いた、居酒屋での一見に似たアイデアが浮かび上がっていた。始めから何も悩む必要は無かったのだ。妻が駄目なら娘でいい。喜助は無意識に笑みを浮かべていた。これが笑わずにいられるものか。

娘と会話していた男が、要件が済んだためか、階段を降りてきた。喜助は階段の下から出て、男の顔を見た。特徴的な顔だと感じた。男の方も同じ感想を感じてた。

喜助は、そのまま家に帰らずに公園に向かった。公園には、公衆電話が存在する。彼は携帯電話を所持していなかったので、外部と連絡をとる為には、公衆電話を使う他ないのだ。

喜助は、自身の財布の中に、あの名刺があるということを思い出していた。

公衆電話のボックスに入り、彼は自身の財布の中身を確かめていた。名刺を発見することは出来たが、電話をかける際に、使用する銭が非常に少ない。喜助は舌打ちをした。長い話しは出来ない。簡潔に、要件を述べなければ。名刺に書かれた番号でダイアルを押した。

三度のコールで、番号の主は電話に出た。名は、小林正人というらしい。

少しの自己紹介の後、喜助は、未成年の娘を、そちらの手筈で働かせたいと告げた。電話の主は、少し驚いた声を出した後に、『突然で保証はできないが、手段が全く無いわけではない』と答えた。そして、考える時間が欲しいので、そちらの携帯番号を教えてくれと言い、数秒間、沈黙した。喜助は焦った口調で、ともかく金がいる。ケータイは持っていないので、住所を教えると言い、住所を告げて電話を切った。

喜助は満足していた。万事うまく。全て自分の思いどうりに事が進んでいると感じていた。事実、上手く進んでいるといえた。

それから何日か経ち、平日の昼頃、男が一人で、喜助の告げた住所にやって来た。茶色のベレー帽を被り、怪しい風貌をしていた。

喜助はインターホンが鳴った事に気が付いた。直ぐに玄関の鍵を開けて、笑顔で迎えた。商談の時間である。ベレー帽の男を家に上げた。

男は、例の話は通したが、大事な問題は場所だと言った。喜助が、『それに関しては何も問題ではない。このアパートで、仕事をさせてやればいい』と答えると、男は何度か無言で頷いた後、『それなら大丈夫だ。しかし、娘さんは、いつ頃に帰宅をするんだ?今日出来るなら、有難い』と提案した。

喜助は相変わらず、笑顔で、

『夕方には間違いなく、帰っている。鍵は渡すから、好きなタイミングで頼む』と言いながら、ポケットから家の鍵を取り出し、ベレー帽の男に渡した。

ベレー帽の男は、喜助があまりに呆気なく、家の鍵を渡したので、何か裏があるのではないかと考えたが、自分の目の前にいる男が、お世辞にも賢い奴でもなく、裏を考えるような人間にも見えなかったため、一握りの違和感を胸に、それ以上考える事をやめた。

『わかった。適当なタイミングで始める』

そう言って、ベレー帽の男は帰ろうとしたが、突然、思い付いたように懐から茶色い封筒を取り出し、その中から万札を何枚か抜き取り、喜助に渡した。

『これは前金だ。残りは撮影が終わってから出さしてもらう』

万札の枚数を見て、喜助は大喜びして、ベレー帽の男の手を両手で握り、何度も何度もありがとうと言った。ベレー帽の男はその間、一度も喜助の目を見ることなく、程よいタイミングで手を離すよう促して、その場を去った。

喜助は、ベレー帽の男の後ろ姿が小さくなった頃、

『これは有難い。早速、祝いの酒を呑まなければならない』と、鼻歌を歌いながら、万札をポケットに突っ込み、飲み屋へと急いだ。自由だ。これぞまさに自由。自由の象徴。全てが望んだままである。嫁を売ろうが、娘を売ろうが関係無い。自分さえ良ければいい。何故なら、自分さえ良ければいいと、自分が思っているからだ。心の底からそう思っているからだ。

喜助は理解していた。自分の行動が招く悲劇も、周りの人間の反応も、全て理解した上で生きていた。しかし、何があったとしても、他人に、自分に嘘をつくことを、一切の誤魔化しを拒否していた。正直のために生き、正直のために死ぬ覚悟があった。自分にのみ奉仕する。自分が望んだことだけをする。それが、彼にとっての全てだった。

喜助がアパートのドアの前まで戻った頃には、時刻はもう夕方をかなり過ぎていた。喜助はズボンのポケットを探り、家の鍵を探していた。しかし、家の中からする複数の物音と男達の話声に気が付き、自分が今日、ベレー帽の男に自宅の鍵を渡していたということを思い出した。そんな重要な出来事をすっかり忘れていた自分を小さく笑い、彼はインターホンを鳴らした。

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