偉人

ピグマリオ

第1話

偉人


一話


酒中喜助は、これまでの人生で一度も嘘をついた経験が無かったのだが、と或る天気の良い昼、ついに自身の娘が逃げた事を理解した。それと同時に、顎髭が伸び、邪魔になりつつあると感じた。また、腹も減っているので、飯を作らなければならないと思い、布団から芋虫のように這い出して、洗面所に向かい、水道水を顔に叩きつけ、水の滴るまま、冷蔵庫の扉を開けた。濡れた手で開けた為、冷蔵庫内の冷気がいつもに増して敏感に思えた。

冷蔵庫の中には、納豆のパックが二つ程あり、それ以上は何もなかった。ライスがあるかもしれないと思い、炊飯器を開いてみたが、金属部分が見えるだけで、ライスが無い事は明白になっていた。喜助は炊飯器のフタを閉めないまま、もう一度冷蔵庫を開けて、納豆を取り出した。

不器用な手つきで、パックを開けて、何もかけないままで、かき混ぜて食べた。次に、今後どうするべきなのか、ぼんやり考えてみたが、彼自身だけで解決出来ないものだと思い、すぐに思考を停止させた。

納豆を食い終わり、まだ濡れた手で口元を拭うと、ヌルヌルしていたので、彼は自身の娘を思い出していた。

娘の事を思い出し、ついでに、トイレを連想し、彼は自身の下半身から感じる、若干の尿意を意識した。すると、彼はフラリと立ち上がり、トイレへと足を進めたのだった。

電気をつけていなかったので、トイレの中は随分と暗かった。暗いと色々と不便なので、喜助はトイレの扉を閉じないまま、小便を出した。

トイレから出てくると、彼はそのままの勢いで、また布団に潜り込んでしまった。昼も夜も関係ない。眠いから寝るのだ。喜助はそのまま、深い眠りについた。

彼は夢を見た。あの世の夢だ。何人かの死人達が裁きを下す者の前にひざまつき、並べられていた。裁きを下す者は、馬鹿みたいに大きな体格をしていて、馬鹿みたいに大きな椅子に偉そうに座っていた。そして、端から順番に判決を言い渡して行くのだ。有罪、有罪、有罪、有罪。次々に、判決を下す。そしてついに彼の番が来た。裁きを下す者は、顎に手を当てながら、じっと彼を見つめて、考えていたが、突然、ニヤリと笑い、一言、『無罪』と言った。

他人共は判決に不服で、直ぐに、『どうしてですか。主よ。奴は悪人です。散々に悪人でございます。どうか裁きを』と慈悲を求めた。すると裁きを下す者は、酷く、驚いた様子で、『何を言うか、こいつは善人だ。偉大なる善人なのだ。こいつ以上の正直者はいないではないか』と、彼を褒め称える。

夢はそこで終わり、喜助は目を覚ました。『辛い現実だ』と彼は思った。もう既に朝になっていた。彼はまた芋虫のように布団から這い出した。冷蔵庫を開けると、納豆のパックが一つだけ残っていたが、彼はそれに手をつけないで、冷蔵庫の扉を閉じた。

彼は役所に行こうと考えていた。このまま、何もせず生きていても、解決はないのだし、自分には生きる力も強さも賢さもないのだ。結局、また人に寄生すれば良い。今度は何だ。親か女房か、娘か国か。何も変わりはしない。同じ事。

喜助は床に放置してある白いシャツと、履いたままのジーパンを衣装として、外出を心に決めた。

玄関に散らばる靴を適当に選び、中途半端に履き、冷んやりしたままのドアノブをゆっくり、脱力に回した。太陽の光が勢いよく差し込んできたので、彼は反射的に目を閉じた。外から玄関のドアに鍵をさす気分では無かったので鍵は閉めなかった。赤錆だらけで、今にも崩れてしまいそうなアパートの階段を降りた。

階段を降り、道に出た頃、すれ違いざまに、近所の知らない人が、自分に軽い会釈をするのを見て『あなたは誰だ』と、尋ねた。純粋に知らないので尋ねたのである。しかし、知らない人は、もう一度会釈すると、直ぐに遠くへ行ってしまった。喜助は『この頃は変な人がいるもんだな』と小さく呟いた。そして真っ直ぐで、長い道を乏しく歩いていった。

役所は今日も元気に機能していた。職員達は程々に忙しく、服装もきちんと気にかけ、職場の雰囲気は良好そのものである。キビキビはきはきと対応をして皆、人の目を見て紳士に対応しているのだ。対象的な様子で、彼等の元には沢山の失業者や、自身の力では生き抜く事が出来ない人、生きようとしない人が集まっていた。彼等の望みは叶うのだろうか。叶わなければ、高い崖から転落する登山家のように、クルクル回りながら奈落へ落ちてゆくのだろう。それは自身も例外無く、間違いはなく、起こりうる現象に違いないと、喜助は確信していたが、ここにいる誰もが自分とは何一つ一致する点は無いと、入り口で観察してみた結果、確実に直感した。だが、そんな事は何の得にもならないし、寧ろ損であるのにもかかわらず、彼は一度もそれについて深く考えた様子はなかった。その理由は、彼が無知だからでは無くただ単に、必要と興味が無かったというだけで、このような考え方を完璧に形成していたという意味においては、酒中喜助は超人と表現しても差し支えない人間であった。しかし、そんな事は誰一人として認める機会は訪れないまま、この物語は終わりを迎える。

訪問者と対応者は、お互いに向かい合い、そんなセットが横一列にずらりと並べられていた。喜助は昨日見た、裁きの夢に似ているなと考えていたが、彼等が罪人である証拠は無いので、考えを消し去るように努力した。

喜助は適当な列に並び、様子を伺った。

訪問者は自らの望みを語り、対応者はその望みがいかほど可能なのか、また、不可能であるか、はなはだ厚かましいものであるかなど、ありとあらゆる種類の現実を叩きつけていた。

訪問者には種類があるのようで、また、現実の受け止め方を理解しているとも捉えられた。喜びを噛みしめる者、表し出す者、怒りを表す者、泣いて慈悲を求める者、それらを見て、彼は何とも熱くはならなかったが、ただ、彼等を今この場所においてのみ、真に正直者なのだと認識していた。しかし、ここまで来て、正直者になれない人間こそが報われていくように思えた。

怒りを表し席を立った者が、喜助の横を通ったので、彼は怒る人の肩を掴んで、気になっている事を尋ねた。何故、怒る人を対象に選んだのかについては、考えるべきでは無い。ただ、尋ねただけである。『君、この役所には、トイレはあるのか。あるとすればどこなんだ』と喜助は言った。怒る人は、露骨に不機嫌な顔を表したが、彼自身のプライドにかけて、答えなければならなかった。そして、喜助のつま先から頭までを、すらりと見てから、トイレのある方向へ、指を指して、『あっちだ』と答えた。喜助は、頭を振って、『ありがとう』と言い、また列に並ぶことに集中した。

対応者にも、様々な種類があるのだと感じた。恐れ、哀れみ、喜び、楽しみを使い、使われ、動いているのだ。それらは日頃から彼等が考えている、所謂、本心であるかは、誰にもわからないのだけれども、仕事をこなす作業には、最も適した状態と言えるのだろう。

喜助は、本当の仕事になど、就いた経験が無かったので、本能的な推測に頼り、答えを出した。その素人な考えはあながち間違いはなく、事実、対応者達は、心の底で対応をしているわけでは無かった。これは仕方が無い事であり、人間として生きる上では、臓器を操る能力を持たない状態と同で、本心から接することが不可能な自身を何者かに、罰せられる恐怖に、真に怯える必要と訳など、これっぽっちもないのだ。だが、酒中喜助だけは違った。もし、嘘をつき、本心を隠す事こそが、人間らしさであり、全体としての個性なのだとすれば、喜助は全く人間では無いと言える。

彼は、その人生で一度も嘘をついた経験が無かった。少なくとも、物心が付いた頃、彼は、ほぼ本能的な直感、或いは、神秘的な理由で、嘘が人間達にとって、史上最大の罪であると理解していた。さらに、彼が人間らしくない点は、他人だけでなく、自身にさえ、一切の嘘を許す事が、最期の瞬間まで、無かった点である。喜助は、人間が一度でも、嘘をつけば奴等は有罪の判決を下すのだと、完璧に確信していた。だが、彼のその思想は残念な程に、彼の人生を傷付け、奪っていった。彼の命さえも。

対応者が声を大きく出し、『次の人』と言った。次の人とは、喜助の事を指す。彼は『はい』と小さく答えた。パイプ椅子をガラリと引き、対応者の前に座った。

古くから使われてきたせいだろうか、椅子からきちむ音が鳴る。対応者は、喜助の目をたっぷりと見つめ、尋ねた。『相談ですか』それに対して、喜助が答える。『ええ、そうです。相談ですね』対応者は、二、三、頷いて、彼の机の引き出しから一枚の紙を取り出した。続いて、ボールペンを机の上に置いて、紙と共に、喜助に渡した。『書いて下さい。すぐに済みます。間違えの無いようにお願いしますよ』 喜助は、無言のまま、紙とボールペンを受け取り、内容に記入を始めた。

書く作業はすぐに終わった。簡単な内容であった。紙を受け取った対応者は時々、喜助の顔をチラチラと見ていたが、やがて、『誕生日、クリスマスなんですな。うちの娘も、クリスマスなんですよ』と少し、嬉し気に言った。喜助は小さく頷き、『はい』と、一言だけ返した。彼は、高校の時の進路相談の事を思い出していた。

紙に書かれた全ての内容を読み終えて、対応者が口を開いた。

『酒中さん、酒中さんは、お仕事は一度もされて無いんですね。でしたら一度、アルバイトかないんかの面接でもして頂いて、結果次第で、もう一度来て頂くというのはどうでしょうか。もう、四十とはいえ、探せば何とかなるもんですよ。はい。意外に、案外、案外。あ、このパンフレットを見て頂いたら、何か掴めるかもしれませんよ』と、軽い笑顔を浮かべて、そのパンフレットを喜助に渡した。

彼が本心から、喜助に対して、提案をしているのか、それとも、急ぐ状態では無いと、判断して、の事なのか、彼にはいまひとつ、わからなかった。どうするべきでも無いのかもしれない。このまま何も得ずに帰るという手は、悪手に思えてきた。しかし、思えば、特に深いこだわりも無いのだし、元より、参考になれば良いと思い、足を運んだに過ぎない。そんな事よりも、兎も角、早く、早くに、小便をしたい。喜助は、考えを表に出した。

『あの、返答には、ならないのですが、小便が、したいのです。少し、席を外しても宜しいですか』

そう要求をすると、対応者は、顔を崩さないまま、『ええ。勿論、大丈夫ですよ。ですが、一度席を立ちますと、順番は次の方に移ります』と言った。喜助は、『そうですか。では失礼』と紳士的に振る舞い、席を立ちトイレに向かった。彼の背後で、対応者が声を大きく出して、『次の人』と言った。

役所を出る頃には、時刻は丁度、昼間と呼んでいい期間になっていた。昼飯を食いに出てきた労働者や、観光客、近くの学校から買い物に来た学生などが彼の目に入った。太陽が随分と、眩しく、強く、彼の髪の毛を熱くさせていた。喜助はその中で、棒のように立っている。

『まったく、時間の無駄使いだった。こんな事なら布団から出ない方が良かったのかもしれない。訪問者といい、対応者といい、彼等はあまりにも、ナンセンスだ。何一つ理解をしていないではないか。今まで通りと言い、当たり前の様に終わってしまう。それは、この街に存在している、労働者、観光客、学生、挙句の果てには大富豪から、物乞いまで、何一つ例外無く、当て嵌まり、そしてもう手遅れになったに違いない。誰もがナンセンスで、誰もが狂っている。何という悲劇。俺は何度も、何度も、君たちに真実を見せてきた。時には、耳元で、あるいは、心の中へ。しかし、誰も理解を示すことはない。真理というやつは、声に、言葉に出した時点で、既に真理そのものではないのだ。申し訳ない。君たちは、問いが増えるばかりで、答えは一向に見つからないのだ。今日も、明日も、これからも、永遠に、無駄と虚無に溢れた監獄の中で、死刑執行を待ちながら、模範囚の如く、過ごすことになる。他人の用意した答えなんかいらない、そう、言える手段と概念がないのだから。真実を知らないのだから。罪を認識していないのだ。両者に対して、絶対に正直で無ければならない。すまない。俺だけは違っていた。俺のみが偉人になってしまった。仕方が無いのだ。唯一、本物の幸福を手にしている人間なのだから。いや、違う。逆だ。全く逆なんだ。俺は幸福に甘んじなかった。幸福ではなく、幸せを掴み続けたのだ。君たちが、幸福を求める間、俺だけは、幸せを認識していた。どうか俺を恨まないでほしい。ああ、何故、俺が選ばれてしまったのか。こんな筈では無かったのだ。わかってくれると思っていた。俺が理解され無かった理由は、俺の信念が、生き方が、社会に必要とされていないからに過ぎない。たったそれだけなんだ。君たちは、ただ運が良かっただけだ。偶然、必要とされているだけだ』

通り過ぎる人々や、此方を見て、立ち止まる人が、喜助を不審者だと扱っていることが知られた。喜助は構わず、話し続けていたが、真面に聞いている人間など、存在していなかった。彼はその状況を理解していたし、自然に合わない行為に違いないと感じていたが、彼が熱意を止める様子は無かった。

垂直に降下する太陽の光が人々に、喜助の話しを聞かないようにと、働かせているようにも思えた。やがて、観光用の水上バスがやって来て、ツアーガイドのマイクを使った声により、喜助の声は薄く広がり、消えていった。

喜助は自身の声が消えたと知り、役所へ来た際に、使用した長い道を、また、老人のように乏しく歩き、家に向かった。

帰り道の途中で、対応者に貰ったパンフレットを捨てようと考えたが、彼はそのパンフレットに使用されている紙の質に、興味と安心感を抱いた。本人にも、訳はわからない。ただ、永遠に、汚さまいと、誓いの言葉を心の中で囲い込んだ。暑くて強い日差しが、今度は、喜助の背中をジリジリと焼いていた。彼は、『暑い日だ』と一言呟き、後は無言で、歩みを進めた。それはもう、あらゆる意味を取り、どうでも良い事に思えた。

喜助が歩いていると、彼の正面から男がやって来た。

男は、野球帽を被り、その上から灰色のフードを深く纏って、服についてある両サイドのポケットに、両手を入れていた。さらに、離れていたので、どのような顔であるか、喜助には全く検討がつかなかった。男は正面から直線的に喜助に向かって来たが、喜助は殆ど気にすることなく、歩みを進めた。そして遂に、フードの男は、彼の目の前まで来た。喜助は歩みを止めた。衝突を防ぐ必要を感じたからである。彼は、正面の男が、自身の歩みを止めたと理解したので、身体を横にスライドして、その後、歩みを進めようとした。しかし、それは出来ない相談となった。フードの男は、喜助が横に移動して、彼が前に進もうとすると、さらにその前に立ち、彼の邪魔をした。喜助は、フードの男が自分を逃がさないために邪魔をしているのだと確信した。

フードの男の顔を、よくよく眺めてみると、以前、娘と共に歩いていた男だと、思い出された。それとほぼ同時に、フードの男が口を開いた。『お前を殺す。酒中喜助。僕はお前を許さない』と、喜助の顔を、非常に恨めしい目で睨みつけながら言った。喜助は全く驚く様子も無く、『好きにすればいい』と返事をした。すると、フードの男はポケットから、鋭利なナイフを取り出した。光沢する金属部分から、太陽の光が反射して、キラキラと輝いていた。男の顔は真剣であったが、ほんの少しだけ迷いを見た。顔から出た汗が、眉毛の上に溜まって、時々流れていた。フードの男は、喜助の胸ぐらを掴んで、二度、三度躊躇い、最後は引き寄せると全く同時に、ナイフを喜助の腹へと、とびっきり深々と刺した。ナイフを引き抜くと、フードの男は一歩だけ後退りして、すぐに背中を見せ、走ってその場を離れた。喜助の腹から、ジワジワと血が流れ、対応者から貰ったパンフレットを、赤く汚した。喜助はその様子を気掛かりに思い、やがて死んでしまった。

少し離れた場所で、学校のチャイムが鳴った。子供達は我先に教室を出ようとしたが、残念ながら教師はそれを許さなかった。子供達は皆、口々に不満を言い、その内の誰かが、大きなあくびをした。それもまた、あらゆる意味を取り、どうでも良い事のように、思えた。

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