マリファナクッキー・ヘッドショップ

だら

セブンスター

 早瀬が亡くなったのは冬の寒い日だった。それまでも連日のように雪が降っていた。当然のように路面は凍結していて、トラックがスリップした。その先にちょうどいたのが早瀬だった。その時俺は図書委員の仕事で、カウンターに腰かけながら呑気に雑誌を読んでいた。早瀬の死を知ったのは、帰宅して母に言われてからだった。

 早瀬とは昔からよく一緒に遊んでいて、高校も同じだった。二人とも部活はしていないから登下校も一緒だった。その日は俺に委員会の仕事があって、一緒に帰れなかっただけだ。正直「早瀬が死んだ」なんて言われてもピンと来なかった。その日も朝は一緒に肩を並べて歩いていたし、茶色にチェックの入ったマフラーをぐるぐる巻きにして「寒い」と文句を言っていた。短いスカートのせいで寒いんだろう、と言ってやると「お洒落は我慢」とふくれるので、じゃあ「寒い」って言うのも我慢すりゃいいのに、なんて笑ってやったのも覚えている。それがちょっと目を離した隙に死んだなんてことは無いだろうと思っていた。はにかむ早瀬の顔がずっと頭に残っていて、それがあまりにも死から遠くて、実感なんて全くなかった。

 通夜が始まってからもその気持ちは変わらなかった。ただ、座っているだけで指先からじわじわ痺れが広がって、全身が麻痺した。それが何なのかは分からなかった。周りが何を嘆いているのか、気持ちで理解できなかった。そうしてぼんやりと葬式饅頭を眺めていると、早瀬のお母さんに「辛いかもしれないけど、顔見てやって」と言われた。棺を覗き込むと、見知らぬ少女が眠っていた。頭に包帯、顔にはガーゼ。血の気の失せた、白い顔。これが早瀬とは思えない。早瀬はもっと赤い頬をしていて、俺の顔を見ると目を細くして笑うのだ。これが早瀬なんてことは、あってはならない。

 通夜が終わると、母が沈鬱な顔で「帰りましょう」と言ったが、俺はやんわりと断った。

「ちょっと一人で歩いてくる」

 母は一つ頷いて「寒いし、あんまり遅くならないようにね」と帰っていった。

 俺はただ歩いた。何も考えていなかった。機械的に脚が動いた。息が白くて、空が黒くて、街灯の灯が冷たい。雪がちらちらと降り始める。どこまで行っても冷えている。延々と真っすぐに伸びる道を、前だけ見て歩いた。住宅地の外れにコンビニが見えて、また住宅地に入る。知らない表札を横目に見ながら、そこに「早瀬」の字が無いのが不思議に思えた。

 どのくらい歩いたのか分からない。途端に、凍ったマンホールに滑って尻もちをついた。気付けば隣の町まで来ていた。手をついて立ち上がると、地面の冷たさに驚いた。なにもこんな寒い時に消えなくてもいいじゃないか、と考えて、好きだったのかもしれない、と思いついた。

 立ち上がって制服に付いた雪を払うと、前方に男の子が見えた。歳は五才くらいに見える。癖の強い巻き毛が特徴的だ。もこもこと温かそうなコートを着ていて、左手にはクッキーの入ったビニール袋を持っている。そのクッキーを食べながら、こちらを見ていた。こんな時間に一人なのだろうか、と不審に思っていると、男の子はこちらに近寄ってきた。

「こっち、来て」

 にこにこと妙に楽しげな笑顔を浮かべながら、俺の手を取って引っ張っていく。俺は呆気に取られてなすがままだ。導かれるまま、男の子についていった。

 入り組んだ道をくねくねと何度か曲がりながら着いた先には、小さな店があった。看板らしい看板といえば、よく見る赤地に白丸、その中に黒字で「たばこ」と書かれた物のみだ。緑っぽい漆喰風の壁面と、窓の付いた木製のドア。パン屋か雑貨屋にありそうな、可愛らしい風貌だ。一見新しそうだが、極端に窓が少なく、果たして中がどうなっているのかは分からない。たばこの看板が無ければ、一風変わった家にも見える。

 男の子は「ただいまー」と言ってドアを開けた。からんからんとドアチャイムが鳴り、中から温かい空気が漏れ出した。

「あ、小野君どこ行ってたの。勝手に出歩いちゃダメって言ってるでしょ」

 男の声が聞こえた。中は薄暗くて、外からでは何も見えない。少しだけ覗き込んでみると、小ざっぱりとした店内が見えた。照明は暗めで、白熱球がオレンジ色の光で照らしていた。白い壁には煙管が並んでいる。その下に黒枠のショーケースがあって、灰皿や、用途の分からない理科の蒸留の実験に使いそうなガラス瓶が並んでいる。イメージで言うと、ちょっとお洒落な工具店。品数が少ないわりに充実して見えるのは、店が狭いせいだろうか。一番奥に店主らしき男がレジを構えて座っていた。レジの下にもショーケースがあり、よく見えないがタバコの銘柄が並んでいるようだ。どうやら看板の通り、たばこやその周辺の商品を取り扱っているらしい。

 店主は俺に気が付くと、小野君と呼ばれる男の子を見た。

「若い子なんか連れてきちゃダメでしょ、もー」

 別にたばこに興味もなければ入ろうとも思わなかったが、そう言われると後ろめたさが込み上げる。立ち去ろうとすると、小野君に引っ張りこまれた。

 店内はたばこの臭いがきつい。目に沁みるようだった。周りにたばこを吸う人がいないから慣れていないせいもあってか、つい鼻をつまんでしまった。

「ごめんね少年。小野君は幸の薄そうな人を見ると連れてきちゃう癖があってね。迷惑かけたね、ごめんね、帰ってもいいよ」

「幸の、薄そうな……」

「あ、ごめん。でもなんていうか、そういう感じの人を連れてくるんだよ。なんでかねぇ」

 そう言って店主は小野君を見た。

 店主は少し長めのウェーブのかかった髪を一つに束ねた男で、四十代くらいに見えた。ただ、らくだ色のタートルネックのセーターと眼鏡のせいで、実際より老けて見えているかもしれない。おっとりとした口調なんかはお爺さんの貫禄で、それでいて声が少し高めなのが妙に怪しく聞こえた。それでも、細い目でこちらを見るその顔に少しの安心感を覚える。不思議な魅力のある人物だった。

「それにしてもこんな時間に一人でいたの? 小野君が見つけたから良いものの、この辺は怖いお兄さんがいっぱいいるから男の子でも危ないよ」

「はぁ」

「間宮さん」

 小野君はいつの間にかショーケースを抜けてレジ側にいた。そして店主の服の裾を引っ張っていた。間宮と呼ばれた店主は「はいはい」と小野君の手を握り、上下に振った。

「見ての通りうちは高校生に売れる物は置いてないんだ。大きくなったらまたおいで」

 小野君が「間宮さん!」と大きな声で呼んでいた。釈然としないままとりあえず会釈をして、ドアに手をかけた。そういえば、帰り道が分からない。小野君に引っ張られるままついてきたから、道は覚えていなかった。あの、と振り返ると、小野君が間宮さんのセーターの袖を引き裂かんばかりに伸ばしていた。

「間宮さん!」

 小野君が叫ぶ。間宮さんは「あーもー」と気の抜ける声をあげた。どうなってもしらないんだけどね、と言いながら間宮さんはショーケースからごそごそと何かを取り出した。小野君が張り付いたままなので、出しにくそうだった。それを手にしたまま、間宮さんは目だけで俺を呼んだ。来なくてもいいよ、と言われている気がしたが、帰り道も聞かなくてはならないし、俺はドアから離れた。間宮さんは手でそれを隠しながら、俺が手を出すのを待った。

「非行少年にはこれで十分」

 なんとなく受け取ってみると、セブンスターというタバコだった。ぎょっとして間宮さんを見ると、まだセーターを引き延ばしている小野君の相手に忙しそうだった。小野君は何度も「間宮さん!」と怒ったように何かを要求している。

「こら、小野君! 高校生にタバコ売るだけでも危ないのに、これ以上できるわけないでしょう。間宮さんと会えなくなってもいいの!」

 間宮さんも負けじと小野君を叱りつける。小野君はうーうー唸りながらもようやくセーターを放し、そのまま店の奥へと消えていった。

 それよりも、間宮さんの言葉引っかかった。タバコ、これ以上。ただのタバコ屋ではないのか。

「あの、ここって」

 間宮さんはバツが悪そうに苦笑した。

「大人のお店。君には早いよ。もう来ないようにね」

 そう言いながら、間宮さんはレジに「合計460円」と表示した。

「タバコって、ちょっと気分が落ち着くんだよ。気晴らしにはちょうどいい」

 いたずらっぽい笑みを浮かべて、間宮さんは清算用のトレイを指で叩いた。俺は渋々ポケットにあった五百円玉を置いて、タバコにお買い上げシールを貼ってもらった。「これはおまけね」とライターも貰った。お釣りは返ってこなかった。

「あの、道教えてほしいんですけど」

「あぁそうか、小野君に案内させようか」

「あ、いや」

 子供に送らせるのはちょっと、という間もなく「おーい小野君」と呼ばれた。小野君はクッキーを頬張りながら、仏頂面で出てきた。いかにも不満気な顔をしながらもちゃんと出てくるあたり、小野君は良い子だと思う。「送ってあげて」と言われると、小野君は素直に頷いて外へ出ていった。なんだか情けなくて、すみませんと頭を下げた。

「もう来るんじゃないよ」

 間宮さんは手を振った。眉尻の下がった、覇気の無い笑顔だった。

 外は思ったよりも寒かった。店内の心地良い温かさが恋しくなった。そういえば、いつの間にかタバコの臭いは気にならなくなっていた。持っていたタバコとライターはポケットに突っ込んだ。

 しんしんと降る雪の中、紺色のコートが立っていた。小野君はにこにこしながら待っていた。さっきまでのふくれっつらはどこへやら、楽しそうに笑っている。小野君は俺の手を握って、ぐいぐいと帰り道を引っ張っていった。小野君は意外と力が強い。この小さな男の子が、頼れる存在に見えた。

「小野君は一人で出歩いて大丈夫なの。俺を送っていった帰り道、一人でしょ」

「大丈夫、僕は間宮さんの子だから」

 なんだそりゃ、と言いたかったが、寒くてそれ以上喋る気になれなかった。小野君の手袋が少し温かいが、それ以外は凍えるように寒い。

 道をだんだんと戻っていくと、早瀬のことが嫌でも思い出された。話していれば少しは忘れられるのに、と分かっていても、もう早瀬のことしか考えられない。本当は生きてどっかにいるんじゃないかとか、一人でいるのは寒いだろうなとか、道に迷って案内役を見つけられなかったのかな、とか。余計なことばかりぐるぐる巡る。そのうち小野君のくすくすと笑う声ではっとする。何が面白くて笑っているのか分からない。それでも、意識が沈むたびに強い力で引っ張り上げてくれているような気がした。それが何度か繰り返されて、俺たちは最初に会った場所まで戻ってきた。正直その場所がどこなのかも分からなかったが、子供にこれ以上遠くまで案内させるのは気が引けた。どうせ真っすぐにしか歩いてなかったのだから、どうにでもなるだろう。

「ありがとう、えっと、間宮さん、にもよろしく」

 こくりと頷く。じゃあ、と手を振ろうとすると、小野君が袖を引っ張った。

「これあげる」

 にっこりと渡されたのは、一本のタバコだった。ご丁寧にチャック付きのポリ袋に入っていて、しけり難くいようにされている。小野君はそれで満足したらしく、大きく手を振ってから帰っていった。何故渡されたのか分からない。上機嫌で去っていく小野君を見て、どうでもよくなった。俺はそれをポケットに入れて、歩き始めた。


 それから家に着いたのは十一時頃で、親にいたく心配された。通夜が終わってから二、三時間ほどもふらついていたらしい。なんやかんやと小言を言う親をすり抜けて、部屋に籠った。体は冷え切っていたし、頭も疲れていた。ベッドに倒れこむと、ポケットに入れたポリ袋がカサリと音を立てた。

 気晴らしにはちょうどいい。間宮さんが言っていた。少し自暴自棄になっていたのかもしれない。一本吸ってみるのも悪くないと思った。もちろん吸ったことはないけれど、どうなるのか興味があった。

 封の開いていないセブンスターを取り出すよりハードルが低く見えて、袋に入ったタバコを取り出した。よく見る白地のタバコだ。神経質に窓を開けてから、慣れないライターで火をつけた。タバコの吸い方なんて知らない。ドラマの見よう見真似で、一息吸った。思ったよりも煙がきつくてむせた。もう一度、慎重に吸いこむ。今度はすっと肺に入った。窓の外に向かって息を吐くと、面白いくらい煙が抜けた。

 変化は早かった。ざわざわと脳が揺れるような、胸騒ぎがするような感覚。感情という感情が脳から叫びになって飛び出しそうだった。自分の中にある感情が暴力的なまでに膨れ上がって、自分では抱えきれないと思った。立っているのが恐ろしくなって、小さな植木鉢の縁で火を消して窓の下に座り込んだ。思考が乱れて、走り出す。

 好きだった。早瀬が、昔から。きっと早瀬もそうだった。でも互いに言わなかった。関係が壊れるのが恐ろしいとかじゃなくて、分かっているからこそ、今はこれでいいと思っていた。もう少し大人になってから、そういう関係になりたかった。たぶんそうだ、きっと。だから好きなんて言わなかった。いや、好きだってことすら、気付いてなかったかもしれない。ただ居心地が良くて、好きだとか考える前にいつかこいつと結婚するのだと思っていた。それだけ早瀬は近かったし、今でも近い。でも確かに好きだった。どうして後でいいなんて思っていたのだろう。もっと大切にしなくちゃいけない気持ちがあったのではないか。

 どれだけ考えていたのか分からない。早瀬との思い出を辿っていた時もあったし、些細な幸せを思い出して胸が温かくなったりした。その記憶で馬鹿みたいに嬉しくなって、一人で笑った。悲しくはなかったし、空虚さもなかった。気が付くと、目の前に早瀬が座っていた。

「よっ」

 早瀬は俺の顔を覗き込んで言った。包帯もガーゼも無い。マフラーをぐるぐる巻きにして、短いスカートを履いた完璧な早瀬だった。俺はぼんやりと早瀬を見ていた。頭が上手く回らないのだ。それどころか睡魔が襲ってきていて、呂律も回らない。波の上に漂うような穏やかな気分だった。

 早瀬は丸い目で俺を真っすぐに見つめて、微笑んでいた。不意にその口が開いて、優しい声音で言った。

「私、古谷君のこと好きだったよ。知ってた?」

 早瀬の艶々した唇が見える。真っ白な脚も、黒い瞳も、全部本当だ。それなのに、俺は眠くて仕方がない。

「知らねえよ、……っていうか、今どこに……」

 もっと言えることがあったはずなのに、鈍間な頭はパターン通りの軽口しか考えられない。それでも、不思議と気分が安らぐ。もうすっかり気分も落ち着いていて、ゆっくりゆっくり、時が流れていくのを感じていた。

「お前、本当に死んだの」

 視界が霞む。靄がかかったみたいで、早瀬の顔は見えない。「またね」と聞こえた気がして、安心して目を閉じた。


 起きたのは葬式の始まる一時間前だった。母に叩き起こされて、半ば無理矢理会場に連れていかれた。

 昨日の早瀬が何だったのかは分からない。それでも、俺にとってあの早瀬こそが本物だった。だから棺に入った体が骨になって返ってきたのを見ても、偽物が消えたようにしか思えなかった。

 家に戻ってから、俺はまた部屋に閉じこもった。もう一度早瀬に会うためだ。セブンスターの封を切って、一本取り出す。カチカチと何度かライターを回して火をつけた。一息吸って、吐く。そう簡単に慣れるはずもなく、やはり何度かむせた。昨日のとは味が違う気がした。別のタバコなのかもしれない。そのまま一本吸ってみたが、昨日のように早瀬が現れることはなかった。胸騒ぎもしないし、思考が堂々巡りになりもしない。時間はいつも通りに流れていく。ただ、少し気分が落ち着いただけだった。

 すぐに家を出た。昨日の夜に歩いた道を辿る。明るいと風景がまた異なって見えたが、ほとんど一本道だ。ずうっと歩いて、なんなく見覚えのある場所に着いた。住宅地の中の、小さな公園だった。そこに一人、紺色のコートを着た子供がブランコに座ってクッキーを食べていた。誰もいない公園に一人でいたのは、小野君だった。

「小野君」

 呼びかけると、小野君はにこにこ笑いながら駆け寄ってきた。

「なんでこんな所にいるの。平日だよ」

「へいじつ」

 小野君は不思議そうに繰り返す。意味が分かっていないのかもしれない。

「学校とか、幼稚園とかないの。っていうか今何才」

「なんにもない。今五才」

 五才児とはこんなにマヌケなのか。自分の頃はどうだったかと考えてみると、母と早瀬と手を繋いで登園していたのを思い出した。早瀬が泣かされた時は真っ先に駆けつけて、泣かせた奴と大喧嘩していた。

「お兄さんは学校ないの」

 小野君は大きな目でこちらを見上げる。

「小野君さ……」

 昨日のタバコ、どこに売ってるの。という言葉が、喉に詰まった。自分でも、薄々正体を知っている気がしたのだ。あれがただのタバコであるはずがないのは分かっている。ひゅっ、と息を吸うと、外気の冷たさに体が冷えた。

「間宮さんとは、どういう関係なの。昨日子供だって言ってたけど、……その、名字違うよね」

 なんとなくごまかしたくて、違うことを口走っていた。小野君はクッキーを齧った。

「間宮さんは僕のお父さんなんだよ」

 頬を赤くして、嬉しそうに「ふふふ」と笑う。もう一度「間宮さんは僕のお父さん!」と高らかに宣言して、小野君はブランコを降りた。そのまま俺の手を取ると、公園の外へ連れ出す。

「昨日のタバコは間宮さんが持ってるよ」

 小野君の細く弧を描いた瞳が、少ない光できらきらと輝いていた。俺は見透かされていたことに驚いて、足がついて行かずに転びそうになった。

 小野君は俺を、幸の薄そうな人を間宮さんの所に連れて行ってどうするつもりなのだろう。あのタバコを吸わせて、どうしたいのだろう。たぶん、あれは麻薬なのに。


 小野君は元気よく「ただいまー!」と中に入った。間宮さんのタバコ屋は昨日よりも明るく感じた。外が明るいからだろうか、少し健康的な店に見えた。

「あー! 小野君ったら、もー! 未来ある若者を連れてきちゃダメって何度も……って、あれ、昨日の……?」

 間宮さんは俺を見て目を丸くし、その後に小野君と俺の顔を見比べて嘆息した。

「小野君、また勝手に持ち出したんだね」

 小野君は構わず間宮さんの膝の上に座り、その首に抱きついた。間宮さんはポンポンと小野君の背中を叩きながら「間宮さんが捕まったら、小野君と会えなくなっちゃうんだよ」と寂しそうに言った。

「あの……」

「ダメだよ」

 何も言っていないのに、ぴしゃりと断られた。

「小野君から貰ったやつは売れないよ。君には早すぎる」

 間宮さんは目を伏せる。小野君は大人しく何も言わずに抱きしめられている。頭がだんだん下がってきているから、もしかしたら眠くなったのかもしれない。

「誰にも言いません。だから、もう一度だけ、お願いします」

 頭を下げた。違法だからどうするとか、そんなことは本当に考えていなかった。間宮さんは何度目かのため息をついた。

「一応その言葉を信じて教えてあげるけど、君あれが何か分かってる? どんな状態で渡されたか知らないけどね、あれは」

 大麻だよ。

 体が強張った。大麻。正直、危ない薬だということ以外に全く知識はない。知らなかったとはいえ、そんな物を吸ってしまったのだ。薄々気付いていたくせに、今さら恐ろしくなった。

「大麻は一部の国で合法化されてはいるけど、扱いを間違えたら痛い目を見る。何があったのかは知らないけど、一度上手くいったからと言って次も良い効果があるとは限らない。パニックになって動き回ってる所を見られたら、警察に突き出されるかもしれない。依存したら高校生で人生を棒に振ることになる。やめておいた方が無難だよ」

 間宮さんの言うことは正しい。昨日までタバコを吸うという発想すら持っていなかった俺が今は大麻を求めているなんて、狂っている。麻薬なんか生涯見ることもないと思っていたし、正直今も、できることなら関わりたくない。でも、どうしても早瀬の言った「またね」という言葉を信じたかった。また会えるから言ったに違いない。会えるのなら、今すぐにでも。あのトリップで会えるのなら、何を犠牲にしても。

 ふと、小野君を見た。「間宮さん」と声をかける。一つの疑問が甦っていた。

「小野君は、なんで俺に大麻なんかくれたんですか」

 間宮さんはちょっと顔を逸らした。この人は、小野君の行動の意味を知っている。もしかしたら、小野君にはなにか大きな理由があって俺に大麻を渡したのかもしれない。小野君のことが気になる。

「間宮さんと小野君、どういう関係なんですか」

 間宮さんは小野君を強く抱きしめた。

「それを教えるには、君の身元と交換だよ。君と僕が共犯になるってことだから、それなりの信用が必要だ」

 静かな声で間宮さんが言った。小野君はすっかり眠っているようで、店内は小野君の寝息しか聞こえない。温度が少し下がったような気がした。

 少し迷ってから、それで早瀬に会えるのならと学生証を取り出した。間宮さんはメモを取り出して、すらすらとそれを写した。最後にスマートフォンで写真を撮って、俺に返した。

「古谷君ね。君、なかなか肝が据わってるね」

「売ってもらえるのならこのくらい」

 間宮さんが眼鏡の奥で笑う。

「売るかどうかは別だよ」

 さて、と間宮さんは深呼吸をした。長い話になるよ、と前置きをして口を開く。

「小野君は僕の子だけど、僕の子じゃない。好きだった女性の子供さ」

 小野君の背中を見た。眠っているようだけれど、起きていたらと思うとこの話題はまずかったかもしれない。踏み込みすぎたのかもしれない、と不安になったが、「小野君だってそのくらい理解してるよ」と一笑に付された。

「彼女とは幼馴染でね、ずっと片思いだった。優しくて美人で自由な人だった。でも僕、ちょうど青春真っ盛りの時期に友達付き合いで薬物にはまっちゃってね、そんな状態で「好きです」なんてとても言えなかったし、もちろん彼女にも隠してた。いつか真っ当になってから告白すればいい、なんて考えていたのかもね」

 間宮さんの声はどっしりと落ち着いていて、抵抗なく耳に馴染む。

「そうやってのんびりしている内に彼女は結婚した。相手は結婚式で一度見たきりだけど、年上の頼りがいのありそうな人だった。幸せそうだったんだけどね、三年くらいで離婚したよ。子供ができてから夫婦間にすれ違いがあったみたいで、僕は年上としてよく相談に乗っていた。まぁ結局別れちゃったんだから、相談役なんてどうしようもできないもんだね。それで、二才の子供は彼女が引き取った」

 その子供が小野君ね、と間宮さんは慈しみの目で小野君を見た。

「そこから彼女との連絡が途絶えた。一年経って、彼女は自殺した」

 息を呑む。少し自分と重なって見えて、身を乗り出して聞いていた。

「葬式に出たんだけど、驚いたよ。傷だらけの小さい子供が、仇を見るような目で棺桶を睨んでいるのさ。彼女の親が言うには、彼女、離婚してからヒステリーを頻繁に起こして子供に当たることが多かったらしい。それを聞いて後悔した。僕がしゃんとしていたら、僕が彼女と結婚していたら、そうはならなかったのに、って。根拠もないけど、そんな自信はあった。まぁそんなわけで、子供は気難しい子に育っていてね、誰のことも信用できない子だった。彼女の親も、実の父も、引き取りたがらなかった」

 小野君を見た。そんな苦労を経験したように見えない。確かに少しおかしな点はあるが、ごく幼い時期に虐待を受けていたとは、とても思えない。それに今の小野君は、間宮さんに対しても俺に対してもとても人懐っこくて、他人を憎めるような子には見えなかった。

「僕はすぐにこの子を引き取りたいって言ったよ。子供は彼女によく似てたから、どうしても幸せにしてやりたかった。その頃にはもう薬はやってなかったし、店を始めてようやく軌道に乗った頃だったから、子供一人くらい養えると思ったんだ。彼女の親御さんたちは僕が危ない仕事しているなんて知らないから、幼馴染みっていう点だけで承諾はもらえた。それだけ小野君には手を焼いていたんだね。本当は養子にしたかったんだけど、ほら、僕は独り身だからそれは無理でさ、後見人になった。まぁ、それもなかなかいいもんだよ。断ったんだけど、養育費として毎月いくらか送られてくるし、それで小野君にコートも買ってあげられる。小野君は僕のことを慕ってくれるし、なんと言ってもかわいい。僕は幸せ者だ」

 間宮さんは一息ついて幸せそうに微笑んだ。話はもう終わりらしい。俺はすうすうと寝息を立てる小野君を見て、一つ尋ねた。

「でも、なんで「小野君」って呼ぶんですか。他人みたいだ」

「僕は彼女を「小野君」って呼んでいたんだ」

 間宮さんの口元がにやりと歪んだ。しかし、すぐ優しい笑みに変わった。

「冗談だよ。名字は変わってないんだし、小野君は小野君でしょう。古谷君も古谷君だ。深い意味はないよ」

 ね、と間宮さんが笑う。冗談なのか、本当なのか、分かりにくい人だ。

 でも、もしその冗談が本当なら、いや、本当でなくても、つらくないのだろうか。

「小野君を呼ぶ度に好きだった人を思い出して、忘れたくても忘れられない……。苦しくないですか」

 ふふ、と間宮さんは笑った。

「そうでもない。生きている人との今が幸せで忙しいとね、案外どうでもよくなるものだよ。それに、忘れたいと思ったことはないなぁ」

 はい、おしまい。と間宮さんは言った。立ち上がって店の奥に行こうとする間宮さんを、急いで止めた。まだ話は終わっていない。

「あの、結局小野君が俺に大麻を渡した理由が分からないんですけど」

「それは本人に聞いたほうがいいんじゃないかな。僕が小野君の全てを知ってるわけじゃないし。でも今日はもうおしまい。小野君を布団に寝かせなくちゃね」

 ならせめて薬だけでも売ってください、と言いたかったが、優しく小野君の背中をさする間宮さんを見て、何も言えなかった。間宮さんは一度店の奥へと消えて、小野君を置いて戻ってきた。

「えっと、何が言いたかったかと言えばだね。僕みたいに、薬のせいで大事な気持ちを後回しにして、大事なことができなくなるのは勿体ないってこと。それが青春時代ならなおさら。薬をやってなかったら、僕だって胸を張って「好きです」くらい言いたかったんだもの。だから薬に手を出そうなんて考え、もう捨てなさいね」

 間宮さんはそう言ってから、「さようなら」と添えた。俺は会釈だけして店を出た。帰ってタバコが吸いたかった。


 次の日は小野君に会うためにもう一度公園に行った。土曜の昼間だったから、子供が数人遊んでいた。その中で小野君は一人、ベンチに座ってクッキーを食べていた。ぼんやりと子供たちがサッカーをしているのを見ている。声をかけると、こちらを向いてぱっと笑顔になった。

「古谷君!」

 小野君が大きな声で呼んだ。小野君に名前を教えただろうかと考えていると、「間宮さんが教えてくれたよ」と答えてくれた。

「小野君、いつもクッキー食べてるね」

 隣に座ると、嬉しそうに「ふふふ」と笑う。クッキーを一枚、これ見よがしに取り出した。

「間宮さんが作ってくれるの」

 よく見せてもらうと、確かに形が歪で手作りらしい。想像してみると、間宮さんがお菓子作りをしていても違和感は無いなと思った。エプロンと三角巾が似合いそうだ。

「クッキー好きなの」

「うん。間宮さんのクッキーが好き」

「間宮さんのこと、好きなんだね」

「うん! 間宮さんはすごいんだよ。みんなを助ける力があるんだ」

「助ける?」

 小野君はクッキーを齧る。手袋のままでクッキーを漁るのは、あまり衛生的じゃない。

「あんまり覚えてないんだけどね。間宮さんと初めて会った時、僕は誰も好きになれないくらい疲れてたんだ」

 昨日の話を思い出した。「疲れていた」という小野君の言葉が胸に刺さった。

「その時、間宮さんがクッキーをくれたんだよ。そのクッキーを食べた後にね、なんだかくらくらして、ぐるぐるして、楽しくなって、どんどん楽になった」

 くらくらして、ぐるぐるして、楽しくなって、楽になる。自分もつい最近、そんな体験をした覚えがある。驚いて、クッキーに釘付けになった。思わず唇をぎゅっと結んで、少しだけ身を引いた。

「それで僕は元気になったんだ。それから間宮さんのことが好きになれたよ。誰か好きな人がいるって、すごいことなんだ。好きだって思うだけで幸せだし、嬉しい」

 それは、少し分かる。早瀬のことを考えると苦しいけれど、心が温かくなる。他人を好きになれる自分がいるっていうのも、ちょっと救いになる。

 小野君は暗い空の下で唯一輝いているみたいに鮮やかに笑む。

「それに間宮さんのお客さんはみんな、間宮さんに縋り付いてまで薬を買っていくんだよ。神様に助けを求めるみたいに。それだけ間宮さんの力は強いんだと思う。間宮さんはみんなを救う、すごい人なんだ」

 目を輝かせて熱弁する。信者のような語りだ。前を見て、爛々と光る瞳で宙を見ている。

 きゃあきゃあと騒ぐ子供の声が遠い。世界が二分されているような錯覚がして、今すぐサッカーに交じりたい衝動に駆られた。

「もしかして、それで俺を間宮さんの所に?」

 小野君はこちらを見て頷いた。

「困ってる人は、みんな間宮さんが助けてくれるよ。間宮さんの薬があれば、みんな不安じゃなくなる。古谷君も何か困ってたんでしょう」

 小野君は一枚のクッキーを差し出した。逡巡する。これを口にしたら、俺も落ちてしまうのだろうか。縋り付いてまで薬を求める奴らのように。あるいは、熱狂的で盲目なこの子のように。

 早瀬には、会いたい。でも、本当にこれに頼っていいのか。そもそも、あの早瀬は誰だろう。頼らないことには、それも分からないのではないか。

 震える手でクッキーを受け取って、一口齧った。味なんて分からない。もそもそと咀嚼しても、上手く飲み込めない。小野君がにんまりと笑った。

「今はもう、何も入ってないよ。今の僕にはただのクッキーで十分だから」

 ごくりと嚥下した。少し安堵している自分がいた。小野君の笑顔が、薄ら寒く見えた。麻薬の根深い闇の一端に、この子は居る。小野君は、間宮さんは、彼らは、これからどうやって薬と付き合っていくつもりなのだろう。

 不意に、昨日の間宮さんの話がとてつもなく重要に思えた。

「小野君は、好きな人に好きって言える?」

 小野君はきょとんとした。脈絡のない問いかけに、それでも首を捻って考えてくれた。小野君が間宮さんのことを好きなのはどう見たって分かる。だが考えてみると、分かりやすい態度のわりに、間宮さんに面と向かって「好き」と言っていない気がした。まだ二日三日の付き合いだからそんなこと本当は分からないのだけれど、少し、二人の間に壁があるように見えたのだ。小野君はどうして公園で一人、クッキーを食べているのか。なぜ夜も外に居たのか。二人一緒に、タバコ屋に居ればいいのに。

「間宮さんに、ちゃんと言いたいこと言えてる?」

 小野君は黙りこくってしまった。ずっと何かを考えているようだった。小野君の答えをじっと待つ。それは大麻を吸った時に感じた時のように、長い時間だった。

「言ったら、迷惑かもしれない」

 小野君はようやく、小さな声でそう呟いた。天真爛漫に見えた小野君の、小さな本音だった。それは苦しんで、それでもなんとか言葉にした苦肉の答えだろう。子供でも、言葉にすることの重さを感じている。大人になったらなおさら難しい。

 俺は、薬のせいで大事な気持ちが伝えられないんじゃない。薬が無いと大事な思いが伝えられないのだ。何も恐れることはない。最初からするべきことは一つだった。そう気付いてもう一度クッキーを齧ると、ほんのり甘い、優しい味がした。もう迷いはない。

「間宮さんの所に行こうか」

 小野君は遠慮がちに頷いた。俺は小野君の手を握って歩き出した。


 「CLOSED」の札が下がっていたが、試しにドアを引いてみると簡単に開いた。ドアチャイムが鳴った音で、ばたばたと間宮さんが出てきた。出てくるなり「また来たの……。営業時間外だから、夕方に来てよ」と眠そうな顔で言った。もう昼過ぎだというのに、寝間着にカーディガンを羽織った状態だ。俺は構わず間宮さんに言った。

「間宮さんは、小野君のこと好きですか」

「好きだよ。当然でしょう。どうしたの急に」

 清々しいほどの即答だ。小野君の目がきらりと光った。自信に溢れる目になった。傍から見たらどちらも分かりやすいくらいお互いのことが好きなのに、本人には分からないらしい。俺と早瀬も、似たようなものだったのだろうか。

「小野君は間宮さんのこと好き?」

 俺は小野君に問いかける。「わ、小野君いたの」と間宮さんは視線を落とした。本当に寝惚けているらしい。

 小野君は少し背伸びをした。

「好き! 僕も、間宮さん大好き!」

 間宮さんはぽかんとしてから、嬉しそうに笑った。小野君も顔をゆるゆるにして笑った。俺もつられて微笑んだ。正直に気持ちを伝えられるって言うのは、こうも落ち着くものなのか。

 俺は真っすぐ間宮さんに向き合った。

「間宮さん、薬を売ってくれませんか」

 呆れたように笑われる。

「なんでそんなに欲しいのかなぁ」

 早瀬のことを言うのは、少し憚られた。話したくないというより、話してはいけないような気がしていた。しかし、二人の話を聞いた以上、自分も同等のもので応えたかった。俺は、慎重に言葉を選んだ。

「アレのおかげで、会いたい人に会えました。もう一度だけ会って、どうしても伝えたいことがあるんです」

 間宮さんは神妙な顔をしていた。

「前も言ったけど、大麻は安定した効果を得るのが難しい。それと、言いにくいけど……」

 間宮さんは目を逸らした。口をもごもごさせて、溜息を一つ。

「会えたとしても、それは幻覚だ。本人でもなければ、霊でもない。君が作り出したトラウマとか、願望みたいなものだよ」

 それでもいいの、と睨まれる。俺は頷いた。ただ、目の前にいてくれればいいのだから。何かに区切りを付けたいだけだ。それにはきっと、大麻の力が必要だ。間宮さんは一度店の奥に入っていき、すぐにチャック付きのポリ袋に入ったタバコを持ってきた。

「一度に吸いすぎないように。失敗してもこれ以上は売らないからね」

 はっきりと頷いた。間宮さんはレジを叩いて「合計5000円」と出した。流石に高いなとは思ったが、このくらい想定内の額だった。五千円札を出すと、そのままポリ袋を渡された。

「大麻は、比較的安全だよ。有害物質はタールぐらいだし、実は依存性も低い。だから僕は小野君にも与えた。結果、小野君は僕に心を開いてくれたわけだけど……」

 間宮さんは低い声で言う。

「でも、今でもそれが良い判断だったとは思えない。それだけは覚えておいてね」

「はい」

 間宮さんは「ありがとね」と笑った。小野君の笑顔によく似ている。でも、少し陰のある笑顔だった。

「良い夢が見れますように」

 チン、とレジが景気の良い音を立てた。


 夜、部屋の窓を開けた。ライターで火を付けて、一本のタバコを吸った。

 脳がざわざわしてきた。胸騒ぎもする。今度は間宮さん達のことを考えていた。間宮さんは薬のせいで好きな人に「好き」と言えなかったと言っていた。でも今は小野君との時間が幸せで、好きな人のことは忘れてしまったと。そして、忘れたいとは思わなかったとも。俺はどうだろう。きっと、このトリップで俺は早瀬に「好き」と言える。でも、それを言って、俺はどうしたいのだろう。早瀬を忘れてもいいのだろうか。それは、ダメな気がする。消えた早瀬、死んだ幼馴染、そこには明確な差があるはずなのだ。小野君はクッキーを食べて、つらいことを忘れて、今は幸せそうだ。でもそれは本当に良い事なのか。間宮さんの後悔はどこにあるんだ。忘れるなんて、逃げているみたいだ。だって早瀬は、俺は。俺は、間宮さんと同じなのか?

 ぐるぐる回る。酩酊。トリップ。火を消して、また座り込んだ。早瀬に会いたい。今はただ、あの二人のように臆面もなく「好きだ」と言いたい

「よっ、久しぶり」

 早瀬が俺の顔を覗き込んだ。俺たちは毎日顔を合わせていたから、二、三日会わなかっただけで久しく会ってないような気がするのだ。だからたまに会えない日が続くと、「久しぶり」と冗談を言い合って笑うのが常だ。

 くらくらとする頭で、必死に言葉を探す。待ちに待った対面だ、焦らず、確実に。

「あのさ、もっと、早く言ってやれれば、良かったんだけど……」

 何度か深呼吸をして、早瀬を見た。言うぞ、と腹を括った。

「古谷君、私死んじゃったよ」

 俺が言う前に、早瀬がなんでもない事のように言った。俺は目を見開いた。

「死んじゃったの、もういないの。だからさ、もういいよ。私のことは忘れて、早く幸せになってね」

 言葉が出なかった。なんでそんなことを言うんだ。そうか、早瀬は、死んだのか。

「古谷君のこと好きだったよ。でも、古谷君の「好き」はこれから先、好きな人ができた時のために取っておいて。私のことは忘れていいからね」

 早瀬は「忘れて」を何度も繰り返した。これが俺の作り出した幻覚なら、この早瀬が言っていることは何なのだ。俺は、死んだ早瀬を忘れたかったのか。心臓が痛い。呼吸が難しい。吐き気もする。うずくまって胸を押さえると、早瀬が言った。

「好きだったよ」

 俺は家を飛び出した。ぜえぜえと荒い呼吸で、とにかく走った。早瀬の声はずっと続いている。「好き」とか「忘れて」とか、白々しい。早瀬が本当に俺のことが好きだったかなんて知らない。早瀬が本当に忘れてほしいと思っているのかなんて知らない。全部都合のいい妄想だ。全部自分の妄想だと分かっているからこそ、同時にこれが自分の願望なのだと突きつけられている。

 早瀬は死んだ。通夜でも、葬式でも、亡骸を見た。その時に悲しんでやれなかったのは何故だ。死に顔でもいい。本物の早瀬の本当の顔に向かって、一言「好きだった」と言ってやれば良かっただけではないのか。それだけで、俺の苦悩は少し軽くなっていたのではないか。結局俺は、大事な時に大事なことができてないままだ。

 外は寒い。なぜこんなに寒いのだろう。走って、走って、気付くと、小野君の居る公園に着いていた。いつものように、小野君はブランコに座っていた。たまらなくなって駆け寄ると、小野君は驚いていた。

「早瀬は死んだんだ! 早瀬は、早瀬はもう」

 ブランコの下に座り込んで思わず叫んでいた。俯いて顔を覆った俺の頭を、小野君が撫でてくれた。どのくらいそうしていたか分からない。記憶は途切れ途切れになっていて、自分が何を言っていたのか覚えていない。「さようなら」という声を最後に、早瀬の声が聞こえなくなった。「ごめん」と答えたが、意味があるように思えなかった。

 薬のせいか、だんだん気分が落ち着いてくる。苦しかった胸も何ともなくなった。落ち着いて顔を上げると、小野君がクッキーを一枚差し出した。心配そうな目が、少し嬉しかった。

「いらないよ」

 と言うと、小野君は「間宮さんの所に行く?」と言った。

「もういらない、もういらないよ」

 結局俺は間宮さんの二の舞だったわけで、合わせる顔は無い。それでも、不思議と清々しい気持ちだった。全部終わったのだと、素直に思えた。

「古谷君にも好きな人がいたんだね。良かったね」

 小野君が頭を撫でる。涙が出た。そうだ、好きな人がいたんだ。幸せだったんだ。それが素晴らしいことに思えた。

 早瀬は死んだのだ。どこにもいない。もう会えない。全てが遅すぎた。それに気付けたなら、あとは忘れるだけだ。

 部屋にはセブンスターが十八本残っている。全て吸い終わる頃には忘れられるだろうか。次は大人になってから、タバコを買いに行こうか。その時、俺には好きな人がいるだろうか。それでも早瀬を忘れようとは思わないと、言えるだろうか。

 瞼の裏で間宮さんと小野君が笑い合っている。俺は、二人がこれからも幸せであるように祈った。

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