【7月刊試し読み】極道さんはパパで愛妻家

角川ルビー文庫

第1話

 住宅街と歓楽街のちょうど中間にある雨宮医院は、昭和初期に雨宮知明が開いた医院で、今は彼の孫が三代目として医院を切り盛りしている。

 古ぼけた外観は、郷愁すら感じさせるようなどこにでもある作りで、開院当時からほとんど手が加えられていない。待合室や廊下の床は木製で、時折ぎいぎいと床鳴りがしていたが、患者を最優先にせよ、というのが亡き知明の遺言であり、改修のために医院を閉めることはせず、その都度細かな修繕をするだけに止まっていた。

 医師が一人に看護士が一人と、常に人手不足の雨宮医院は、待合室が混むのもいつものことだ。それでも、誰一人不満も言わずにおとなしく待っているのは、ひとえに三代目の雨宮佐知の存在が大きい。

 名門大学の医学部に主席で入学し、雨宮医院を継ぐまで医大で数々の手術をこなしていた腕は外科医としても一流で、それだけでもこの医院が繁盛するには十分だが、彼には類稀なる別の才能があった。

 少しだけ癖のある色素の薄い髪に、いつも潤んでいるようにも見える印象的な瞳。目元には絶妙な位置にほくろがそっと配置されていて、思わず触れたくなる肌のみずみずしさと相まって、見るものを惑わせる。一七〇センチほどの身長は平均的なはずだが、細身で優美なラインを描く体を、思わず抱きしめたくなる者が後を絶たない。

 そう、彼には見る者全てを魅了してしまう、天賦の才能があった。困ったことに本人には自覚がなく、そのせいで周囲はいつもやきもきとしていたが、お蔭で医院は繁盛している。ただ、佐知会いたさに仮病で訪れる患者が少なくないことは、医院としての懸案事項だが。

 そんな雨宮医院にはもう一つ、知明が残した非常に厄介な遺言がある。

 ――東雲組への義理を果たすこと。



「いてててっ! ちょ、ちょっと佐知さんっ、勘弁してくださいよ!」

 診察室に、情けない男の声が響く。キャスター付きのアームチェアに座って、消毒薬を滲みこませた脱脂綿をわざとびしゃびしゃと傷口に押し当てながら、白衣姿の佐知は涼しい顔でその悲鳴を聞き流した。

「やくざの癖に、これぐらいで情けないことを言うな。痛いのが嫌なら、怪我なんかしないことだよ」

 まったく、これだからやくざは。喧嘩っ早くていけない。

 古ぼけた診察室には、祖父の代から使われている木製のデスクに、佐知が座るアームチェアと患者用のチェア、それから薬品類が入れられた棚に、患者を寝かせて診察するための診察台が置かれている。診察室の奥には白いカーテンが引かれていて、その奥は点滴をする患者のためのベッドが並んでいた。どれもかなり古いものだが、祖父も父も扱いが丁寧だったのか、今も現役で活躍中だ。

 医院としてはそれなりに繁盛している雨宮医院だが、この病院にはCTなどの設備がなく、それらの設備投資をしたい佐知としては、使えるものには壊れるまで働いてもらう所存だ。

 地元を離れ、大学病院で順風満帆に働いていた佐知が雨宮医院を継ぐことになったのは、ひとえに佐知の父である安知の策略のせいだ。ある日、病気だという父に呼び出され、後生だから医院を継いでくれと言われ、そのあまりに変わり果てた様子にうっかり騙されて頷いてしまった。言質を取った安知は、佐知が医院を継いだ途端に奇跡の回復をし、今では日本全国湯治の旅だとかでちっとも医院に寄りつかない。

 まさか医者が医者相手に仮病を使うなんて、我が父親ながらいい性格をしている。中学の頃に母親を亡くし、以来男手一つで佐知を育ててくれた安知には感謝しているが、こんな騙し討ちをされては腹立たしさしかない。

「だってあそこはうちのシマなんすよ。俺らが守ってやらねえと――痛いっ、痛いですって!」

 何が守るだ。腕に刺さったビール瓶の破片を、止血しながら容赦なく引き抜いて、患部を確認するために脱脂綿で血を拭う。思ったほど深くはないようで安心した。この程度なら、綺麗に縫えば大した痕は残らないだろう。

 まったく、よくもこう次から次へと怪我ばかりできるものだ。佐知がこの医院を継いでからというもの、病人の数よりも怪我人の数のほうがはるかに多い気がする。それもひとえに、医院の周辺が東雲組の縄張りで、組員達のお抱え医院となっているからに他ならない。

「守るなんてのは、自分の身もちゃんと守れるやつが言うセリフだよ。今週だけで、うちの世話になるのは何度目だと思ってるんだ。ああそうか、若頭の度量がないから、お前らがこうして傷だらけになっているのか」

 つんと擦り傷のついた頬をつついて言ってやると、男はかっと頬を赤くしてしどろもどろになりながらも、必死に言い訳を口にしようとする。

「ち、違いますよ! 若は俺らに無茶するなっていつも口を酸っぱくして……」

「なるほど。じゃあ、お前らにとって若頭は、言うことを聞かなくてもいい相手ってことだ」

「え? いや、そういう訳じゃ、……いてぇっ!」

 最後まで言わせず、手早く傷口を縫っていく。

「佐知さんっ、麻酔は?」

「この程度の傷なら、麻酔の針のほうが痛い。黙って我慢しろ、男だろう?」

 麻酔の注射というのは意外に痛い。二針程度の場合は、麻酔をしないで縫うほうが却って痛みが少ないこともある。決していやがらせではない。

 二センチほどの傷はあっという間に縫合でき、その仕上がりに満足して、佐知はそばに控えていた看護士の小刀祢舞桜に後の処置を頼んだ。

「先生にかかったら、やくざも形無しですねえ」

 そう言って笑いながらも、舞桜の手はテキパキと処置を終わらせていく。舞桜という名だけを聞くとまるで女性のようだが、舞桜はれっきとした男だ。医院にやってくるお婆さん達に言わせると、おとぎ話の王子様のよう、らしい。

 真っ白な看護服がタキシードにでも見えているのか、舞桜が微笑めば、若い娘に戻ったように頬を染めていた。綺麗な顔立ちというのは、男女問わず引き寄せるようで、男ですら顔を赤らめていることがある。正直そちらは気持ち悪い。

 舞桜は、佐知が雨宮医院を継いだのと同時期に勤めてくれることになった。勤めてくれていた看護士が高齢で、安知が退くなら、これを機に自分も引退したいと申し出たからだ。お蔭で最初はばたばたしたが、舞桜がしっかりしてくれていたから、無事に引き継ぐことができて感謝している。看護士としてもすこぶる有能で、事務処理も一手に引き受けてくれていた。

 時々、舞桜ほどの人材がどうしてこんな小さな医院などに勤めてくれたのか、不思議になることがある。一度本人にも聞いてみたら、以前勤めていたのも雨宮医院のような小さな医院で、役割分担がきっちりしている総合病院ではできない経験が多くできたし、地域に密着した医療に携わっていたいから、という面接向きの模範回答をくれた。今のところ大した経験を積ませてやれていない佐知としては、安心できない回答である。

「一週間したら抜糸においで。消毒薬を出しておくから、毎日欠かさず消毒するように。激しい運動なんかしたら、傷口が開くかもしれないから気をつけること」

 包帯を巻き終えたのを見届けて、くくっと笑ってやる。少々大げさなぐらいに言って、ちょうどいいぐらいだ。精々不自由な思いをして反省すればいい。こいつらときたら、一に喧嘩、二に喧嘩、三四がなくて五に喧嘩、ときている。男の癖に擦り傷一つでもすぐ医院に来るので、はっきり言って迷惑していた。医者として、唾でもつけて治しておけ、というのは間違いだと知っているが、こいつらに関してはそう言ってしまいたい気分だ。

「え? あ、激しい運動って……?」

「どうしてもしたくなったら、まず俺のところに来るように」

 喧嘩なんかしてまた傷口を開くつもりなら、その前に麻酔を打って眠らせてやる。いや、いっそ開いた傷口に塩でも塗り込んでやろうかな。そんなことを考えたら、ついにやっとしてしまう。

「さ、佐知さんのところに……っ?」

 男が、ごくりと生唾を呑んだ。尻にぶっすりと麻酔の針を刺されるところでも想像したのかもしれない。今度本当にやってやろうか。

「はい、死にたくなかったらお手を触れませんように」

 佐知がカルテに目を向けた隙に、舞桜がぱちんと男の手を叩き落とす音が聞こえた。またか。

「俺、口が軽いんで気をつけてくださいね?」

「やや、やだなあ、俺は別にそんなつもりじゃ……ほ、報告するのだけは勘弁してくださいっ」

 懲りもせず、舞桜の尻でも触ろうとしたんだろう。この医院に来る輩は、大抵こうして舞桜に手を叩き落とされている。男の尻なんか触って何が楽しいのか。

 舞桜の貞操のためにも、しっしっと手を振って男を追い出しにかかる。うちの大事な看護士だ。患者のセクハラが原因で辞められでもしたら、医院が立ち行かなくなる。

「診察終了。お帰りはあちら」

「あ、ありがとうございました!」

 頭を下げた男が診察室から出ていくと、舞桜が処置に使った器具を片づけている間に、カルテに処置内容を書き込む。カルテが分厚くて何気なくめくってみると、ほとんどが切り傷や擦り傷などでげんなりした。今度から医院の入り口に、擦り傷お断りの看板でも貼ってやろうか。

「本当に、佐知さんは危なっかしいったら」

 ため息混じりの舞桜の言葉に首を傾げる。

「何が?」

「普通激しい運動って言ったら……いや、何でもないです。あなたはそのままでいてください。自覚したら、それはそれで面倒臭いような気がするので」

「ちょっと言ってる意味が分からない。俺に分かるように説明してくれる気はあるのか?」

「ないですね」

「そう。じゃあ仕方ないな」

 舞桜がこう言う時は、本当に教えてくれない。無駄なことに時間を割いても仕方がないので、カルテの記入に集中することにする。電子カルテにすれば色々と楽なのだが、費用もかかるし、何より膨大な数の患者のカルテを登録し直さなければならない手間を思うと、面倒臭さが先に立ち、後回しになっていた。

「よし、できた。次の患者さんに入ってもら――」

 振り返って舞桜に話しかけている最中に、待合室のほうが騒がしくなる。何事だろうと舞桜と顔を見合わせると、ほどなくどたばたと遠慮のない足音が近づいてきて、いきなり診察室のドアが開いた。

「おい、佐知!」

 ノックもなしに勝手に診察室に入ってきた男を見て、佐知はうんざりとした顔になる。

「勝手に入ってくるなって、何度言ったら分かるんだろうな、お前は」

 入ってきたのは、佐知の幼馴染で件の若頭だった。名を東雲賢吾と言う。高級ブランドのスーツを身に纏った姿はホスト顔負けだが、中身は根っからのやくざだ。

 この男に比べたら、擦り傷でやってくる輩はまだ可愛いと言える。用事もないのに、しょっちゅうこうして医院にやってきては佐知の診察の邪魔をしてくるが、若頭というのは暇なんだろうか。

 幼馴染などと言えば、さも仲がよいのだろうと勘違いされるが、佐知はこの男が大嫌いだ。

 まず見た目。パーツがそれぞれ完璧に配置された端正な顔立ちは、子供の頃から女みたいだとからかわれた佐知とは違って、男らしさと色気という、相反するはずの二つが見事に融合している。黙って座っているだけでも他を威圧する存在感は生まれつきで、そのくせ、見つめられると逃れられなくなるような魔力じみた魅力を持つ。

 年は佐知と同じ二十九歳だが、年齢にそぐわない貫録を持ち、男はその威圧感にひれ伏し、女は皆、ほんの少し賢吾が口元を緩めただけで感嘆のため息を吐いた。明らかに素人とは違う近寄りがたいオーラを発しているにも関わらず、街を歩けば誘蛾灯のように女を引き寄せ、そのくせ興味なさそうな顔でむっつりを覆い隠している。気に入らない。

 次に傲慢さ。ほぼ生まれた時から一緒にいるが、この男の傲慢エピソードを語り出したらきりがない。小学生の頃に勝手に自分と同じ係に佐知を任命したことから始まり、中学の時の願書書き換え事件、高校の時の志望大学変更事件と、思い出したら今でもはらわたが煮えくり返りそうになるものばかりだ。違う大学に行くはずだったのに、大学の入学式の会場で賢吾と鉢合わせした時の怒りは今でも忘れない。

 そして最後にして最大の、佐知が一番嫌いなところ。

 ――それは、この男が東雲組の若頭だということだ。

 東雲組は賢吾の祖父の代から始まり、現在は賢吾の父、吾郎が組長を務めている。最初はテキ屋の元締めを生業としていたが、今では高級クラブの運営や、不動産や株の売買など、かなり手広く事業を展開していた。暴対法だ何だとうるさい昨今だが、うまく法の目をかいくぐっているのか、儲けはかなりのものらしい。その大半が、賢吾が組に入ってからのものだから、若頭という地位もただ血縁に頼って手に入れたものではないのだろう。

 雨宮医院は祖父の代から東雲組のお抱え医院をしていて、祖父の遺言により、今もその関係は続いている。佐知と賢吾の関係も、それこそ生まれた時からといっても過言ではないほどで、親同士も仲がよく、関係は良好だ。

 佐知は決して、やくざそのものを否定している訳ではない。自ら望んだ訳ではないが、東雲組のお抱え医師として稼がせてもらっている以上、それを言える立場ではないし、東雲組は薬物も銃器の密売もご法度で、他の組からこの辺りの地域を守っている側面もある。東雲組の目が光っている分、他の地域よりも犯罪率が低く、信じられないと思われるかもしれないが、むしろ周辺に住んでいる人間にとってはありがたい存在となっていた。

 だが、賢吾とやくざ、この二つがイコールになると駄目だ。どうしようもなく腹が立ってしまう。自分でも理由をうまく説明できないが、賢吾が家を継ぐと決めたその時から、佐知はこの男を嫌いになると決めた。

「お前、やけに機嫌が悪いな。カルシウム不足か?」

「あえて言うなら、賢吾アレルギーだよ。分かったら早く帰れ」

「来たばっかりだろうが。客人はもてなせよ」

「招かれざる客は客じゃない。……用件があるならさっさと言えよ」

「まあ、そうだな。俺とお前の仲で、客ってのは他人行儀すぎるか」

 一人で勝手に納得して賢吾が頷く。このポジティブ野郎。お前の脳内はどうなっているのか。一言もそんなことは言ってない。顔を顰めた佐知に、片付けを終えた舞桜が苦笑を見せる。

「俺、こうしてここで会う賢吾さんと、外で見かける賢吾さんは、別の人なんじゃないかと思う時があるんですけど。賢吾さんが自分からこんなに構う相手って、佐知さんしかいないんじゃありません?」

「頼んでない」

「嫁だからな」

 舞桜の言葉に、二人同時に口を開いて、相手の言葉にまた二人同時に口を開く。

「誰が嫁だよ」

「照れるな」

 そうして顔を見合わせる佐知と賢吾の表情があまりに対照的で、舞桜がぷっと吹き出した。

「ぶはっ、す、すいません……っ、気が合いすぎるのも、困りものですねえ」

「合ってない!」

「そうだな」

 またしても声が重なって、舞桜が余計に笑うから、佐知はとうとう憮然とした顔で黙り込む。賢吾と気が合うなんて心外だ。そんなことは絶対にあるはずがない。

「おい、拗ねるなよ」

「……」

「ほら、土産にみたらし団子持ってきてやったんだぞ? 食わねえのか?」

「……食べる」

 賢吾がかざした袋は、佐知の大好きな和菓子屋で限定百個だけ作られているものだ。別に賢吾を許した訳じゃないが、食べ物に罪はない。

 寄越せと手を出すと、すんなりみたらし団子を手渡された。いそいそと包装を開け、みたらし団子を一本手に取って、最初の一口を大事に味わう。

 甘すぎず、しょっぱすぎず、絶妙な餡の味と、少し焼き目をつけた柔らかい餅をうっとりと堪能する。幸せだ。やっぱりこの味に敵うものはいない。

「たかだかみたらし団子をここまでエロく食えるってのは、最早才能だな」

「う?」

 みたらし団子に夢中で賢吾の言葉を聞き逃がし、二口目を口に含みながら首を傾げると、「何でもねえよ」と言いながら、賢吾の指が佐知の口元に伸びた。

「餡つけてるぞ。子供か」

「うるふぁい」

 賢吾の指に口元を拭われ、その指をぺろりと舐めて笑われる。子供扱いされて、佐知はふんとそっぽを向いてみたらし団子に齧りついた。誰が子供だ。俺が子供だったら、お前はまだ出生前だ。自分が普段どれだけおとなげないか、自覚がないのか。

「それ、あっさり受け入れちゃうんだ」

 舞桜が何か呟いたが、聞き返す前に賢吾がぼんと拳を打つ。

「ああ、そうだ。子供で思い出した」

 子供で思い出す? そんなアットホームな話題がこいつにあったかな? そう思いながら口をもぐもぐさせていた佐知は、次の賢吾のセリフにうっと喉にみたらし団子を詰まらせる羽目になる。

「俺達の子供ができたぞ」

「ぐふぉっ、う……っ」

「佐知さんっ、ほら、お茶!」

 ちょうどみたらし団子を食べ始めた佐知のために麦茶を淹れていた舞桜が、慌ててコップを差し出す。それを受け取って一気飲みして無事生還を果たしてから、佐知は賢吾をぎっと睨みつけた。

「危うくお迎えが来るところだったぞ! 冗談のセンスを磨いて出直せ!」

「冗談じゃねえって。まあ、聞けよ。戸籍上は俺の子供ってことになるんだが――」

 そこまで聞いて、佐知の顔に蔑みの表情が浮かぶ。

「……うわ、お前とうとう妊娠させたの? 最低」

「違えよ。俺にはお前がいるのに、そんなことしねえよ」

「お前さ、その手の冗談もう何年も言ってるけど、誰も笑ってないからな」

 もし笑っている人間がいたとしたら、それただの失笑だから。

「子供もできたことだし、籍でも入れるか」

「幻覚と妄想……もうこれは手遅れですね。今すぐジャングルにでも行って余生を過ごすように。はい、診察終了。お帰りはあちらです」

「ここぞとばかりに人のこと秘境に飛ばそうとしてんじゃねえよ、藪医者」

 どんどん脱線していきそうな二人に、舞桜がこほんと咳払いをして軌道修正を促す。

「賢吾さんの子供で賢吾さんの子供でないって、どういうことなんでしょう?」

「ここだけの話にしといて欲しいんだが」

 賢吾がちらりと舞桜に視線を向ける。舞桜は肩を竦めて、「俺は秘密を守れる男ですよ?」と笑った。

「実はな、その子供ってのは親父が愛人に産ませた子で――」

「あーあーあーあー!」

 最後まで言わせず、耳を塞いで大きな声を出す。これは駄目だ。駄目なやつだ。最後まで聞いたら恐ろしいことになる。俺はまだ死にたくない。

「俺は何も聞いてないからな! やめろよ、俺を巻き込むなよ!」

 賢吾の父親の愛人の子? 駄目だ、それは怖い。言葉にしてはいけない滅びの呪文だ。

「京香さん、知らないんだろう?」

「当たり前だろうが。知ってたら、今頃血の雨が降ってる」

 京香さんというのは、賢吾の母親だ。吾郎よりも二十歳ほど若く、反対した実家の両親とは絶縁状態にあると聞いたことがある。極道の妻を地でいくような人で、普段は気風がよくて優しい人だ。だが、旦那に対する愛情はちょっと息苦しいほどで、ひとたび旦那が絡むと、鬼のようになる。

 以前、吾郎の浮気がバレた現場に出くわしたことがあるが、凄まじい修羅場と化していた。

 怪我人が出たと泡を食った様子の組員に連れられて向かったキャバクラで佐知が見たのは、割れたウイスキーのボトルの破片を吾郎の首元に当てて微笑む京香の姿だった。その足元ではどうやら浮気相手だったらしいキャバ嬢が、土下座をしている頭を京香に踏みつけられていて、その様はまるで阿修羅のようだった。しん、と空気の凍ったその場所で微笑みをたたえながら、京香が『あの世で一緒になっても、あたしは全然構わないんだよ?』と言った時には、その恐ろしさに無関係の佐知でさえ背筋が凍ったというのに、あんな目に遭ってもまだ浮気をするとは、感心していいのか呆れていいのか分からない。吾郎はそう体が強くないのだが、それでもまだまだ現役らしい。

「聞いたからにはお前も同罪だからな。もしこの秘密がバレたその時は、お前も前から知っていたと言ってやる」

「お前、卑怯だぞ!」

 聞きたくもないものを勝手に聞かせておいて、さらに道連れにしようなんて、お前は何て外道な男だ。 京香の怒りを想像するだけで、背筋が寒くなる。今回のことがバレたら、京香の怒りはあの時の比ではないだろう。吾郎さん、あんた何てことしてくれたんだ。

「そんなお前に頼みがある」

「脈略。会話に切実に脈略を求めたい」

 賢吾の頼み事などろくなことではない。しかも、今の話の流れでは、頼みではなく脅迫の間違いだろう。

 佐知の苦情を無視した賢吾が、勝手に話を続けてくる。

「その子供なんだが、誰ともほとんど口を聞かねえんだ。親父が言うには、子供が生まれたことすら知らされていなくて、母親が病気で亡くなる直前に初めて連絡が来た有様でな。その後すぐに母親が死んじまったから、子供のこれまでの生活も、性格も、何もかも本人から聞くしかねえんだが、うまくいかなくて困ってんだよ。お前、誑すの得意だろう?」

「人聞きの悪い言い方しないでくれるか。俺がいつ誰を誑かしたんだよ」

「俺とか?」

 口元を引き上げた賢吾が、意味ありげに笑う。

「お前を誑かしたことなんか一度もない。むしろ全力で拒否してるだろうに」

「嫌よ嫌よも好きのうちって言うだろう?」

「話が前に進まないから、いちいちその面白くない冗談を挟むのやめてもらえるか?……俺は精神科医じゃないから、話をするぐらいしかできない。変な期待をされても困る」

「それでいい。駄目なら、またその時に他の手を考える」

 おい、と賢吾がドアの向こうに声をかけると、待合室で待っていたらしい男が姿を現した。

「失礼します」

 丁寧に頭を下げたのは、若頭補佐の伊勢崎だった。知的で落ち着きのある大人の男で、メガネをかけてブランドもののスーツに身を包んだ姿は、やくざというよりもどこかの企業の代表と言われたほうがしっくりくる。賢吾と同じぐらい上背があるので、二人が並ぶとやけに圧迫感があって、天井が低く見えた。

「伊勢崎、まだこんなやつのお守りをしてるのか? お前も苦労が好きだな」

 伊勢崎は賢吾と佐知の高校時代からの後輩で、その当時から校内でもその優秀さが知れ渡っているほどだったのに、いつの間にか賢吾と共にやくざになっていた。どうしてなのか、未だに佐知には分からない。伊勢崎ほどの男なら、いくらでも真っ当な職につけたはずなのに。

「いえいえ、お蔭様で大変幸せですよ。さあ、史坊ちゃん。ご挨拶を」

 佐知の嫌味をいつものように笑顔で受け流した伊勢崎の背後から、そっと小さな子供が現れる。

「……男の子、だよな?」

 柔らかいくせっ毛に、長い睫に縁どられた茶色い瞳。ネクタイのついた白シャツにサスペンダーをつけた黒の短パンを履いていなければ、性別がどちらか判断がつかなかった。全体にふわっとした印象を受ける。お人形さんみたいだ。

 思わず確認してしまったほど大変可愛らしい見た目は、吾郎にはあまり似ていない。きっと母親が美人だったのだろう。もしかしたら日本人ではないのかもしれない。大きな瞳がじっとこちらを見つめてくると、母性などないはずの佐知でさえ、無条件で守ってやりたい気持ちになってしまう。

 知らぬ間に弟ができたと聞いて、きっと複雑な気持ちだろう賢吾が、いくら父親に頼まれたからと言って、そうやすやすと子供の父親役を引き受けるとは思わない。何か父親との間に取引なりがあったのかもしれないが、子供のこの可愛さも、賢吾の心を動かした一因だろう。

「名前は?」

 チェアに座ったまま、なるべく視線の高さを合わせるように心がけて問いかけると、子供は困ったように眉をへにゃりと下げて、蚊が鳴くような小さな声を出した。

「ふみ……です」

「ふみ? 漢字は?」

 後半は伊勢崎に問いかける。

「史。歴史の史という字ですね」

「史、か。なるほど、恰好いい名前だな」

 そう言って頭を撫でてやると、一瞬びくりと体を固くしたものの、抵抗せずに佐知の手を受け入れたから、虐待やネグレクトなどのトラウマを持っているという訳でもなさそうだ。まあ、情報が何もないのに、安易に決めつけるのはよくないが。

「年はいくつ?」

 さりげなく、見えるところにあざなどがないか確認しながら尋ねると、史は黙ったままで手のひらをこちらに向けてきた。どうやら、五歳、ということらしい。

 なるほど、賢吾が言うように、確かにほとんど話さない。だが、やくざに囲まれたら大人だって緊張するのが当たり前だ。これだけでは判断がつかない。

「どうだ、佐知。俺に似てなかなか可愛いだろう」

「……可愛いという言葉の定義をもう一度勉強し直してこい。お前と史はライオンと子猫ぐらい違う。同じなのは科だけだ」

 馬鹿な賢吾に顔を顰めて、それからもう一度史に目を向ける。

 ……賢吾に子供、か。

 もやっとした、言葉にし難い感情が胸に広がる。

 結婚してもいないのに子供を引き取るなんて、何を考えているのか。巻き込まれるなんてごめんだ、と思うが、不安そうな目でこちらを見つめる史の姿に佐知は言葉を飲み込んだ。

 触れたら壊れてしまいそうなほどに緊張して、常に周囲の顔色を窺っている。こんな調子では、いつまで経っても気が抜けないだろう。

 ……まずは、緊張を解すところから始めてみようか。

 賢吾の思惑に乗るのはしゃくだが、さすがに子供のこんな姿を見過ごせない。

「とりあえずしばらく預かるから、後で引き取りに来いよ。図体のでかいのは邪魔だからさっさと出ていけ。診察の邪魔だ」

 史の手を取って自分のほうに引き寄せ、空いたほうの手でしっしっと賢吾達を追い出しにかかる。

「そうか、分かった。よろしく頼む」

 賢吾はすぐに佐知の意図を理解したようで、文句を言うこともなくすんなりと頷いて、診察室から出ていった。

「俺達の子供だ。可愛がってやれよ?」

 ……余計なセリフを残して。思わずぶん投げてやろうとデスクの上のペン立てを掴んだが、ぎりぎりのところで堪えた自分に賛辞を送りたい。

 それでもちりちりと残った怒りの熱を、大きく一度深呼吸することで落ち着かせる。

「ふう……史は今日一日ずっとあの男と一緒だったのか?」

 佐知の言葉に、史がこくりと頷いた。

「お昼ご飯は……まだ早いから食べてないよな?」

 もう一度、史が頷く。

「よし。じゃあ診察が終わったら一緒に弁当を食べよう。近所にすごく美味い弁当を作ってくれるところがあるんだ。あ、そうだ。史、どうせここにいるなら、診察を手伝ってくれないか? いいか? 俺がガーゼって言ったら、このピンセットでここにあるガーゼをこうやって摘まんで渡して欲しいんだ」

 実演を交えて説明すると、史は何度かぱちぱちと瞬きをした後、こくんと小さく頷く。

 手持ち無沙汰で待っているより、少しでも体を動かしたほうが緊張も解れるだろう。 

 手渡したピンセットをしっかりと握り、緊張した面持ちでそばに立つ史にバレないようにこっそりと笑いながら、佐知は「次の人、どうぞ」と待合室に声をかけた。


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※この続きは是非、7/1発売ルビー文庫『極道さんはパパで愛妻家』(著//

佐倉温)にてご覧ください!

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