「更生プログラム・記録4」

 水を打ったように静まり返った室内で、Nは一人乾いた笑みを浮かべた。


「虐待に煙草が使われるのは、今じゃ特に珍しいことでもないですよね。押し当てるも良し、吸わせるも良し、飲みこませるも良し。そうそう、火のついた先っぽが押し当てられる時って、音が出るんですよ。じゅわっ、とかチリチリ、とか。痛い、とっても痛いんです」


 Nは袖をまくり、腕を上げた。

 腕の付け根にほど近く、よほど短い袖でなければ見えない場所に、それはあった。


「ここ、ここですよ。よく見えるでしょう? 煙草の痕ですね。僕の母親はイライラすると決まって僕に八つ当たりしました。殴る、蹴る、暴言、食事を抜くなんてざらにありましたね。しかも、上手いこと服の下に隠れるようにやるんですね。子どもは馬鹿です。いつかやめてくれるんじゃないかって希望をいつまでも持ち続けます。自分が痛いって叫ぶからいけないんだって思うようになります。だからね、抵抗しても無駄だって思うんですね。痛いのは嫌だけど、親が自分にしてくる嫌なことみんな、仕方ないことなんだって、慣れてきちゃうんですね。親も親で、相手が抵抗しないって分かってる。だから、つい、とっても痛いこと、やりたくなっちゃうんですね」


 くつくつと、抑えきれない嘲笑まじりに、Nはそこを指先で引っ張った。


「ここだけじゃないです。内股とか、足の裏とか。嫌なところだと乳首ですかね。めっちゃんこ痛いっすよ。でも、抵抗しないから、簡単につけられる。そうしていくとね、親も楽しくなってくるんでしょうね。障子に穴を空ける感覚みたいに、二度と元通りにならない状態にするのが。嬉しいんでしょうね、自分のものになったみたいで。ちょうど、自分の持ち物に名前を書くのと同じような感覚で。支配欲? っていうんでしょうか。でも、それならちょっと分かります。僕も彼女を手に入れたいって気持ちになりましたから」


 それまで滞りなく口を動かしていたために、Nの声はひどく興奮したように聞こえていたのだが、実はその逆で、感情は全く込められていなかったのだ。


「彼女は僕と同じだった」

 故に、彼の声はこれまでにないほど穏やかで、慈愛に満ちたものに聞こえた。


「彼女も僕と同じように諦めていた。でなきゃ、女の子があんなところに火傷の痕なんて許しますか? 大股開きで足を開かないと、あんなとこに煙草なんて押し当てられない。僕のように、偶然に遭遇しない限りは見えない場所なんです。あんな状態じゃ、好きな人ができてもセックスなんて出来ないでしょうね。傷を見られたくないから。仮に消えたとしても、そこに傷があったと言う事実は変わりない。好きな人に押し開かれた瞬間、親の楽しそうな顔が浮かんだら、それこそパニックだ。できるわけない。でも、それって、痕を付けた本人にとっては最高ですよね。だって、自分の手で愛娘の貞操は一生守られる。言い換えれば本人が奪ったも同然です。これ以上ない支配です。なぜ分かるかって? 僕の母親がそうだったからですよ」


 ねぇ、良い色になったね、女の子みたいに大きくなっちゃったね、これじゃあ女の子とセックスなんてできないね。プールにも行けないね。でも、あなたの裸を見るのはお母さんだけでいいんだから、問題ないよね。私だけのものだものね。


 KとAは胸を隠すように腕を組んだ。

 自分たちのストーカーとは種類が違うことを知り、それまで仲間然として頷いていた顔が梅干を食べたようにすぼまっている。


「だから僕は、彼女の恋人となるに相応しいと思うのです」


 椅子がひっくり返る大きな音がした。

 皆がその方向を見ると、それまで柔和な姿勢を保っていたYが、憤怒の形相で肩を怒らせていた。


「やめるんだっ」

 Tが立ち上がったのと、Yが机を押しのけNに詰め寄ったのがほぼ同時だった。

 だが血管の浮いた手は、すでに掛けられていた。

 胸倉を掴まれ、Yの歯を噛みしめる音が聞こえるほどに顔を寄せられたNは、しかし抵抗しなかった。


「お前など、お前など!」


 首を絞めている側だと言うのに、Yはひり出すような声しか出せなかった。明らかにさっきを伴っている。

 Nはのけぞった顔をYに向け直すことなく、腕さえだらりと脇に下げたままだ。


「僕はストーカーを続ける限り、彼女の恋人にはなれないと思いました。しかし自分一人で解決できる問題ではなく、ここへ来ました。僕は本気です。なので……、

 彼女との交際を認めてください、お義父さん」


 Yは言葉の体を成さない叫びを上げると、Nを突き飛ばした。机を蹴って道を開け、床にひっくり返ったNの上に馬乗りになると、ポケットから何か取り出した。

 それを見たKとAが後ずさりする。

 Yの手から小さな刃が顔を覗かせていた。チェーンで繋がっているのは車のキーだった。


「お父さんは鍵と一緒に小さなナイフを持っているの。それで私の髪を切ってしまうのよ」


 少女のように身を竦めてNが言う。その口角を歪ませた、卑しい笑みを浮かべて。

 Yが腕を振り上げた。

 そのとき、部屋の扉が勢いよく開かれた。男たちが数人なだれ込んでくる。先頭はずっと姿を見せなかったカウンセラーの片割れだった。


 しかしNとYはお互いの目しか見ていなかった。


「娘はやらん、ストーカーめ」


 鋭い刃が振り下ろされた。

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ストーカーは少女の絶対領域に夢を見る 道草屋 @michikusa

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