「更生プログラム・記録3」

 気が付くと、彼女の手を取っていた。


「あっ」

 間抜けな声は僕のものだった。

 彼女の真っ黒な瞳の中に僕が映っていた。

 近くで見るとますます美しかった。絹のような髪、雪のように白く艶めかしい肌、薄らと汗を掻いていたのもまた一層色っぽく見えた。


 それらを観察していくうちに、徐々に頭が冷えていく。

 僕は声を上げて駆けだしそうになった。

 彼女が不審者と叫ぶであろうことに、ではない。

 神聖なものに触れてしまった、取り返しのつかないことをしでかしたのだという、ちょうど江戸時代のキリスト教信者がキリストの描かれた絵を踏んだ時のような、ひっくり返した盆の水がひたひたと足を濡らすのを微動だにせず見つめる恐怖故に、だ。

 離さなければらない手を、しかし僕は掴んだまま、その場を動けなかった。情けないことに、蛙の如く震えていたのだ。


「サエちゃん、こんにちは」

 飛び跳ねる体をなんとか押さえつけて顔を上げる。

 階段のてっぺんに、作務衣を来た坊主頭の男がいた。いかにも人の好さそうな顔をにこにことさせている。


「こんにちは、近藤さん」

 彼女は何事もないように振り返り、きっと笑顔で、会釈した。

 近藤と呼ばれた男と一瞬目が合う。眉が不意にひそめられた。警戒している証拠だ。客観的に見て、今の僕は女子中学生の拐かしかそれに準ずる危険人物で、あながち間違ってもいない。


 まずい。そうは思っても、今背中を見せれば自分から肯定するようなものである。

 男の手が僕を指し示そうとした、そのときだ。


「それじゃ、ばいばい」

 彼女は手を取られたまま体を反転させ、僕は引っ張られる形で後に続く。導かれるまま階段を下り、踊り場から細道へ入った。

 視界の隅で男が背を向けるのを見た。彼女が何も言わなければ、僕は確実に追い払われていたことだろう。


 軽快な足取りで彼女は駆ける。息が切れるほどではないが、気を抜けば足を取られて彼女もろとも倒れてしまうだろう。

 ローファーがアスファルトを蹴るタッタッという乾いた音と、スニーカーが地面をけるジッジッという摩擦音が、コンクリート塀の間でやたらと響く。


 どこまで行くのだろうか。家々の門が現れては次々と後ろに流れていく。彼女の顔は見えない。肩のあたりで切りそろえられた髪から、良い匂いがした。

 掴んでいたはずの手は、いつの間にか握り返されていた。汗ばんで吸い付いた肌が、そこから溶けていく気がして、強く握り返した。

 植え込みの花の、むせかえるような香りに胸が詰まる。夕日を受けた彼女の髪がきらきらと光る。

 全てを塗りつぶそうとする茜色と、それに比例してより一層深くなる影の黒色が入れ代わり立ち代わり世界を巡る。

 

 束の間の白昼夢を見ているような時間……。

 僕は、全く絶対領域について考えていなかった。見えないものより、目の前のものを目一杯目に焼き付けることに必死だった。


「手、離してくれる?」

 気が付くと、彼女は立ち止まり正面から僕を見上げていた。お互いの息が荒い。

 慌てて手を離すと、白肌には手指の跡がくっきりと残っていた。血の気の失せる音がはっきりと聞こえた。


「ご、ごめん」

すると彼女は、諦観と呆れの籠った顔で方を竦めてみせた。


「いいよ、慣れてるし」

 そう、あどけなく笑った子どもらしさの影で、何かがぬらりと蠢いた。


 その正体には、覚えがあった。

 彼女を覆う不透明な被膜。そこは外部からの接触を断たれ、内が分からのみ解放される怪物が隠されているのを、僕は知っていた。


「そういうのは、慣れちゃだめだ」

 

 僕は右腕の袖をまくり上げて、普段はわき腹に面している二の腕を太陽の下に晒した。

 漫画で描かれる銃創のようないびつな円形、皮膚のそこだけ肌の色が違う。


 それまで微かに伏せられていた、瞬きすればばさりと音がしそうなほど長いまつげが、ぱっくりと上下に割れた。


 彼女の脚とおそろいの、煙草の跡。

 それは虐げられた者の烙印だった。


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