2 きみはなにもいわない

家までの道のりを、あまり覚えていない。人間の脳は優秀だ。道程を考えなくても、家に帰ろうと思えば身体がそこへと帰るように命令を出している。

そんなことに感心している自分に、少し笑えた。

鍵を開け少し重い扉を開くと、ぶわっと生ぬるい空気が押し寄せてきて、汗にぬれた額を撫でた。どうやらベランダの窓を閉め忘れたらしい。

よほど慌てていたんだな、私。

――だって、一ヶ月ぶりに君に会えると思ったら、慌てもするよ。

短い廊下を通ってリビング兼寝室に入り、昼ごろ大急ぎで支度をした跡がそのままになったテーブルをぼんやりと眺める。大学生になる頃に親に買ってもらった化粧ポーチ、君が不思議そうに眺めるのがおかしくて笑いながら買った化粧道具の数々、付き合って一年目の記念日に君に貰ったおそろいのマグカップの片割れに飲み残したカフェオレ、テーブルのすぐそばに置いたベッドには、スウェットと一緒に投げ出された何着かの服。

くっ、と、喉が鳴った。

あ、やっと泣ける。そう思うと、次から次から涙が頬に流れ落ち、鼻水まで流れ始めたところで私はベッドに突っ伏して枕に顔を押し付けた。

――ねぇ君のことすきだよ。なんで?すきなひとってだれなの?私は君がこんなにすきなの。わかれるなんていや。すきなの。だいすきなの。わたしのなにがいけなかった?おしえてよ、ねぇ。わかれるなんていわないで。はなれたくないよ。

君の前で飲み込んで抑えつけた言葉が洪水となって喉もとを締め付けてくる、涙腺を壊していく、頭を殴りつけてくる、肩を震わせる。

何時間も泣いていたように感じたが、実際は十分ほど激しく泣いただけで、だんだんと呼吸も落ち着いてきた。枕もとのティッシュを手繰り寄せ鼻をかみ、上半身をゆっくり起こして壁に頭を預けてみる。隣人は留守なのか、静かだ。いや、この部屋も静かだ。住宅街にあるアパートだから、車や電車の音はさほど聞こえない。その代わりに、子ども達がふざけ合いさけぶ声や、じーじーとなにか虫の鳴き声のようなものが遠くから聞こえてくる。ベランダのほうを見て、幾分か和らいだ陽射しで夕方にさしかかっていることを知る。

ふと、携帯電話を手に取る。マナーモードにしたままの携帯電話の電池は残り半分ほどだ。新規の着信を報せる数字は特に表示されていない。

ふと思いつきで、SNSのアプリケーションを開いてみる。君とのやり取りが有る。

現実だ。

つい何時間か前に送られてきたメッセージ。私が送った返事のスタンプ。このときの君と私はもうどこにもいないのに、文字だけでそこに存在していて、残酷な現実を提示してくる。

君からの新しい言葉は何もない。期待していた、心の何処かが萎れていく。しわしわ、くしゃくしゃ、もうもとの形には戻ることが出来なくなる。

メッセージはタップ数回で抹消できるのに、君の別れの言葉は無かったことに出来ない。

せめて君との思い出にでも浸ろう。

しかし、今日の君からの別れの言葉、謝罪の言葉、困った顔、もしくは面倒くさがっている顔、それらが混ざりあって、君との全てを包み込んでいる。

――あぁだめだ。もう純粋な思い出じゃない。

心の奥が苦しくなるって表現があるけれど、得体の知れない身体の何処かに、たしかに踏みつけられているような、握られているような、塞がれているような圧迫感がある。

正体不明な恐ろしいものに潰されてしまう。こういうときはどうしたらいい?

君に会いたい。迷惑だろうがなんだろうが会いたい。

そうだ、そもそもどうしてこんなことに、なった?

もう一度確かめる権利が、私には、あるよね?

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