ヒメゴト

砂部岩延

 道沿いに並び立つ背の高い木の向こうに、見渡す限り新緑の地平が広がっていた。


 札幌で借りた格安レンタカーは見た目通りのボロさで、カーステレオもエアコンも壊れて動かなかった。

 ならばいっそと全ての窓を開け放って、風を切って走ることにした。

 暦の上ではもう春に違いない。北の大地に吹く風はまだ少し冷たかったが、どうせ文句を言う同乗者もいない気ままな一人旅だ。コートを着込んでマフラーでもしっかり巻いておけばどうということもない。時折、歯の根が咬み合わなくなるが、小刻みに膝でも揺らしていればそのうち温まる。

 道のりはいたって順調だ。


 旅に出よう。

 そう思い立ったのはつい先日のことだ。

 動機は実に明快で、テレビで見たタンチョウの真っ白な羽、黒い瞳、鮮やかな紅色の横顔に魅入られて、その日の晩には北海道行きの格安航空券を予約していた。

 ちょうど仕事が一段落して、前の現場との契約が切れたのもある。どうせ使い潰されるだけのしがない契約社員だ。現場の合間にゆっくりと羽を伸ばすのもいいだろう。

 タンチョウだけに。


 新千歳空港に降り立ったのが一昨日、バスで札幌まで移動して、駅近のレンタカー屋で余っていたボロのハッチバックを借りた。

「タンチョウはどこに行ったら会えるか」と尋ねたところ、東に向かえ、というありがたいお言葉を頂戴したので、あとはひたすら東へと突き進んでいる。「またこの手の客か」と言葉無くして語った彼の生暖かい笑顔が気になったと言えば気になった。


 タンチョウは主に道東の湿地帯に住むという。

 ツルと言えば渡り鳥のイメージだが、ここのは渡らない留鳥らしい。かと思えば、全く渡らないわけでもないそうで、朝鮮半島や大陸まで行き来するのも中にはいるとか。タンチョウもまた己の欲するところを求めて旅に出るのだろうか。急に親近感が湧いてきた。


 また、タンチョウは夫婦の絆が強いことでも有名らしい。

 つがいになると一方が死ぬまで同じ相手と添い遂げるという。晩飯のオカズ感覚で隠れてつまみ食いした挙句、さっさと男を乗り換えて消えるような人間の女とは雲泥の差だ。小さな出会いに歳月を積み重ねて生涯の愛とする、タンチョウのごとき情け深い女性が人間界にもいないものだろうか。


 三泊目にして釧路に行き着いた。

 ホテルと呼ぶにはややこじんまりした宿だったが、清掃は行き届いていており、サービスも良い、食事も旨い、オマケに温泉までついている。これで一泊、樋口一葉にお釣りが帰るとは安すぎる、何か曰くでもあるのだろうかと訝しんでいたが、翌朝、大黒顔の主人にタンチョウの事を訪ねて、ワケはすぐに分かった。


「この時期だと、一番確実なのは保護観察施設ですね。暖かくなって餌も増えてきたので、みんな湿地の奥に引っ込んじゃって、このへんまで出てこないんですよ」


 タンチョウの見頃は冬の十一月から、遅くとも三月くらいまでだという。

 寒さで不足しがちな餌を求めて人里まで出てくるのを、餌付けしたり眺めたりして愉しむものらしい。餌の豊富な春から秋にかけては巣に引っ込んで子育てに勤しむため、滅多にお目にかかれないとか。

 タンチョウも見られず、出歩くにはまだ肌寒いこんな中途半端な時期に、他にこれといって見どころもない辺鄙な村までわざわざやってくる間抜けはあなたくらいのものですよ、と言外に言われたようなものだ。レンタカー屋の店員はきっとこれを知っていたに違いない。


「湿原は天然記念物区域でして、しかも私有地なので、立ち入るには許可が要るんです。まァ運が良ければどこかそのへんで会えますよ」


 闊達に笑う主人の笑顔が憎らしかった。






 緑のサバンナに焼けた夕日が落ちていく。

 吹きさらしの展望台から橙に染まる地平を眺めながら、この光景が見れただけでも来た甲斐はあったと心の中で嘯いた。

 ジーンズの裾から這い上がる寒さに身震いが止まらない。


 一日がかりで湿原の回りをぐるりと巡ってみた。

 はたしてその甲斐あって、タンチョウには無事出会えた。

 湿原の彼方でうごめくごま塩の如き白黒の粒がそれだったに違いない。あいにく双眼鏡の持ち合わせなどなかったが、きっとそうに違いない。


 最寄りの保護観察施設にも足を運んだ。

 療養中のタンチョウを鉄格子越しに眺めて、動物園の気分を存分に堪能した。

 頼めばもっと間近で見られたのかもしれないが、傷病の身とあらばそれも忍びない。

 帰りがけに受付で施設のパンフレットをもらったのは、せめてもタンチョウを見たという実績が欲しかったのかもしれない。


——帰るか。


 一応の目的は達した。

 釈然としない気持ちもあったが、もとより思いつきの旅だ。上手くいかないことだってある。

 明日の朝一でホテルをチェックアウトして、札幌まで引き返そう。

 浮いた予算で夜の薄野にでも繰り出せば、空いた心の隙間も少しは埋まるに違いない。


 夕日が地平に没していく。辺りは急速に暗くなってきた。

 展望台から駐車場まで続く木道は木々に覆われていて足元が悪い。やや遅きに失した感はあるが、早いところ車に戻ることにした。


 いい加減棒のようになった足を突き動かして、藪の細道を下り始めた。

 木々に覆われた細道は思ったよりも暗かった。

 陽の高いうちはああも清々しく見えたものが、今では大変薄気味悪い。

 うかつな己を呪ったが、それもすぐにやめた。呪うという言葉も今は怖い。


 小道に人影はなかった。

 暗闇というのは、それだけで原始的な恐怖を喚起する。

 暗がりの向こうに居もしない何かを思い描き、何でもない模様が人の顔に見えたり、木々のざわめきが人の声に聞こえたりする。

 しかし、全ては幻想に過ぎない。そうだ、怖がることは何もない。


 耳朶を舐めるようなか細い泣き声が聞こえたのは、折しもちょうどその時だった。

 周囲十ヘクタールには響きそうな男の野太い悲鳴が木霊する。

 飛び上がると同時に声のした方を見る。

 視線の先で茂みが微かに揺れている。


 自慢ではないが信仰心は薄い方だ。

 実家の宗派なんかろくすっぽ知らないし、神社の作法だってうろ覚えだ、十字を切ろうにも上からだか横からだか分からない。今なら玄関先でチャイムを鳴らすうさんくさい宗教の勧誘にだって喜んですがってみせる。


 逃げたい。

 しかし、逃げるとなると重大な問題がある。

 すすり泣く茂みに背を向けることだ。

 それは可能か。無理に決まっている。


 固唾を飲んで、覚悟を決めた。

 恐怖とは未知だ。真実を突き止めることが不安を拭い去る唯一の方法だ。

 にじるように歩を進める。

 すすり泣く声は断続的に続いている。

 もしも無事に帰れたら、展望台にはトイレを置いてもらうように嘆願しよう。理由は聞かないでもらいたい。


 藪が手の届く先まで迫った。

 泣き声は止まない。

 意を決して、震える手で茂みをかき分けた。





 大黒顔の主人が営むホテルに滞在して、今日でちょうど一週間になる。

 貸し出し期間を延長したレンタカーに乗って、通い慣れた道を走る。

 目当ての建物で受付に顔を出すと、すぐに中へ通してくれた。

 建物の中を突っ切って、裏手へ出る。

 野原を大きく四角に囲ったフェンスの中に、一匹のタンチョウの姿があった。

 首をもたげて、こちらに視線を向ける。

 ぎこちない足取りで近くまでやってきると、横向きにへたりと座り込んだ。


「なつかれたもんですね」


 近くにいたツナギ姿の職員が声をかけてきた。


「とてもそうは思えないのですが」


 そっぽを向いて動かないタンチョウの横顔を情けなく眺めていると、職員が笑った。


「犬や猫のように考えちゃいけませんよ。ちゃんと命の恩人を分かってますって」


 はあ、と曖昧に返事をする。


「怪我の具合はどうですか」

「ひとまず、ってとこですかね。放すにはまだしばらくかかりそうです」


 二人でタンチョウの横顔を眺めた。


「できれば最後まで見て行きたかったのですが、残念です」

「もうお帰りですか」

「明日の朝には。思ったより長居をしてしまいました」


 そろそろ次の現場に移らないと懐も心もとない。


「こいつも寂しがるでしょうね」


 話の内容を知ってか知らずか、タンチョウの顔がこちらを向いた。


「まァ期待していて下さい。コイツが恩返しに行きますよ」

「そうか、お前、俺のところにお嫁に来てくれるか。俺は一重まぶたで切れ長のスレンダーな美人が好みなんだ」


 すると何を思ったか、タンチョウはよたよたと体を起こして、翼を大きくはためかせた。

 体を上下に揺らし、足踏みをして、甲高い声で続けて鳴く。

 職員が感嘆の声を上げた。


「人間相手に求愛のダンスなんて初めて見ましたよ。これは期待が持てそうだ」


 実に楽しそうな顔で笑った。

 どうやら来世はタンチョウに生まれた方が幸せになれそうだ。


 翌朝、予定通りにホテルをチェックアウトした。

 思わぬ出来事もあったが、結果としては良い旅であった。

 小さな命を救えた達成感が心をほんのりと温めていた。


 帰り道、立ち寄った道の駅で、財布を無くした事に気付くまでの、短い幸福だった。





 しとしとと長雨が降りしきっている。

 六月を前に早くも東京は梅雨入りをしていた。

 じっとりと肌にまとわりつく湿った空気が疲れた身に辛い。

 新しい現場は入ったばかりの契約社員を早くも殺しにかかっている。今日も今日とて終電帰りを余儀なくされた。


 傘を差して、家までの道のりを歩く。

 ロータリー前のファミレスは早くも店じまいを始めていた。

 駅から一本路地を入ればカラオケもネットカフェもない、閑静な住宅街が続く。

 途中のコンビニで菓子パンばかり五個も買う。

 仕事上がりは無性に甘いものが食べたくなる。


 歩いて五分ほどで、アパートに着いた。

 木造二階建てのボロアパートは家賃の安さくらいしか取り柄がない。隣のテレビの音は余さず聞こえるし、二階の廊下を誰かが歩くとぐらぐらと揺れる。大きな地震が来た日には、きっと積み木の家のように、横にパタリと倒れるに違いない。


 階段下のポストに突っ込まれたダイレクトメールと郵便物の束を引き出して、中身を確認しながら二階に上がる。

 階段上の電灯が点滅していた。

 先週、廊下奥の電灯を換えてもらったばかりだというのに。

 あちらを替えればこちらが切れる。いい加減、大家に連絡するのも面倒だ。さっさとLEDに替えればいいものを。


「あの」


 隣り近所十件先まで響きそうな、男の野太い悲鳴が木霊した。

 もちろん、自分の声だ。

 頭上にばかり気を取られて、廊下の暗がりに佇む人影に気付いていなかった。


 廊下には女性が立っていた。

 より正しくは、女性らしき誰かだ。

 頭のてっぺんからスニーカーのつま先までずぶ濡れで、顔には長い黒髪がべったりとまとわりついている。無地のTシャツにジーパンというありふれた姿だったが、濡れて張り付いた胸の膨らみだけが、彼女が女性であることをことさらに主張していた。


 強張った顔と引け腰のままで目の前の人物を凝視していると、彼女は腰を折って頭を下げた。


「驚かせてしまい、申し訳ありません」


 上げた顔にはさらに髪の毛が張り付いて、もはや紫色の口唇くらいしか見えない。二度目の悲鳴を飲み込めたのは奇跡に近い。


「あの。こちらを、お返ししようと思って」


 と、彼女が両手を前に差し出す。

 その手に握られていたのは、いつぞや失くした財布だった。

 どうして今頃といぶかしむ気持ちが態度に出たのか、彼女はまた腰を折った。


「先月、地元で拾いまして。ちょうど近くまで伺う用事があったものですから、直接と思ったのですが、予想外に時間がかかってしまいました。念のため中をあらためていただけると」


 差し出された財布をこわごわと受け取った。

 財布は記憶にあるより随分と薄汚れていた。裏と表には巨大なクリップで挟んだような線状の跡が二筋、くっきりと残っていた。

 中のカード類は記憶にあるままだった。どのみち失くした時点ですぐに止めたので実害は無いし、返ってきたところで意味はない。現金は小銭がいくらかと、濡れてよれよれになった福沢諭吉と野口英世がうろんな瞳でこちらを見ていた。すでに無くしたものと思えば、ちょっとした臨時収入の気分だ。

「わざわざどうも」と、ぎこちなく頭を下げる。

 彼女もまた腰を折った。


 正直に言って、不気味だった。

 北海道で見つけた財布をわざわざ東京くんだりまで届けに来る意味が分からなかった。中身のことで揉める可能性だってあった。さっさと警察まで持っていけば面倒もなく済む話だろう。

 にじみ出る警戒心に、彼女は微かに俯いた。


「それじゃあ、私はこれで」


 そう言って、横を通り過ぎていこうとする。


「あの」


 寂しげな後ろ姿に、思わず声をかけていた。


「良かったら、上がって行きませんか。だいぶ濡れているようですし」


 彼女の思惑がどうあれ、財布を届けてくれたことは紛れも無い事実だ。全身濡れ鼠のままで帰すというのも寝覚めが悪い。せめて壱万壱千円分くらいの歓待

 彼女はしばし戸惑っていたようだが、「いいんですか」と、小声で尋ねる。

 答える代わりに、鞄から鍵を出して家の戸を開けた。


 彼女はその日の晩、うちに泊まった。

 その日どころか、一週間たっても彼女はまだうちにいた。

 熱を出して倒れたのだ。

 長雨に当たったせいか、体はひどく冷えていて、顔色は真っ青、口唇は紫で、慌ててタオルを貸して風呂も沸かしたが、翌朝には四十度の熱を出していた。

 無理に起き上がろうとする彼女を押しとどめて、慣れない看病に奔走すること二日、なんとか起き上がれるようになった彼女を近所の内科まで連れて行ったのが三日目の昼、医者は過労と風邪だと言っていた。


 家は近いのかと尋ねたが言いづらそうにしていたので、それ以上は聞かず、そのままうちで休ませることにした。

 度々ご迷惑をおかけしますと彼女は力なく呟いたので、今は気にせずしっかり休めと答えた。

 それから彼女は今日までずっと、家のベッドで横になっている。


 始めの三日は仕事を休んだが、いつまでも休んではいられない。

 四日目から留守を任せることにした。

 多少の不安を抱えつつ家に帰ってみると、印鑑通帳一式と彼女の姿が消えていた。

 ……ということはなく、毎日玄関までわざわざ出迎えに来てくれた。


 そして昨夜、ようやく平熱まで下がった。

 今日あたり何か話があるに違いない。

 微かな緊張を胸に、仕事から帰って玄関の戸を開ける。

 最初に目にしたのは、三和土の向こうに三つ指ついて頭を下げた彼女の綺麗なつむじだった。





 かいつまんで言えば、彼女には帰る家が無いという。

 東京に来た用事がまさにそれで、つい先だって家族を亡くし、他に身寄りがなく、遠い縁戚を頼って、着の身着のままやってきたという。

 これからどうするつもりかと尋ねれば、


「お世話になったお礼をさせて下さい。ただ、手持ちがほとんどありませんので、身の回りのお世話くらいでしょうか。もしお邪魔であれば、かねての通り親戚の家を訪ねて、後日何がしかのお礼に参ります」


 と、この耳が確かなら、このままここに居たいようなことを言う。

 その親戚の家には置いてもらえそうなのかと聞けば「どうにかお願いしてみます」と曖昧に答える。


 どうにもうさんくさい。

 目の前の彼女は居ずまい正しく、育ちの良さは疑いようもない。

 背はすらりと高く、肩揃えの黒い髪は血の気の戻った桜色の頬から白い首筋にさらりと流れる。

 すっきり通った鼻筋と、艶のある口唇と、瞳は切れ長の一重で、眼尻からまぶたのあたりにかけて、ほんのり紅が差している。

 現代の基準に照らせば万人受けする顔立ちではないが、一重まぶたに色気あり、と常日頃から熱く語ってきた我が身にとっては、まさにあつらえたような美女だ。


 こんな美女がわざわざ北の島から東京くんだりまで財布を届けにやってきて、ぜひここに置いてくれなどという。

 そんな出来事が事実、起こりうるのだろうか。

 先人は言った。考えうることは全て起こりうる。ありえないということはありえない。

 しかし、それを素直に信じられるほど、純真無垢でいられる歳でもない。


 しかし、とも思う。

 三十路を過ぎたしがない契約社員の身、恋人もなく、養うべき家族もなく、少しの友人とたまに酒を飲んで、愚痴を言い合い、くだを巻き、独りで生きて、独りで死ぬ。

 この人生のどこかに、何か守るべきものがあるだろうか。

 視線を伏せて待つ彼女に尋ねる。


「何か重大な問題を抱えてはいないか」

「何も持たない、ということ以外には何も」

「莫大な財産や、あるいは借金がないか」

「今、手持ちの物以外には何も持たず、また人から借りているものもありません」

「誰かに追われているということは」

「故郷の友人が私を訪ねることはあっても、他に私を探す人は誰も」


 淀みない瞳で彼女は言い切った。

 語った言葉の全てが真実とは限らないが、それを嘘だと思いたくない自分がいる。ならば答えは決まったようなものだ。

 最後にひとつ、重要なことがある。


「俺には下心があるが、それでも構わないだろうか」


 彼女は一瞬、驚いた顔をしてから、嬉しそうに笑った。




 はらはらと舞い散る銀杏の下で、屋台が焼き芋の甘い香りを漂わせていた。

 改札から出た足を、一度は止めかけたが、思い直して歩き出す。かわりに途中のスーパーに立ち寄って、味噌を買っていった。

 アパートの下でポストをのぞくが中身は空だった。

 階段を上がる途中、醤油の焼ける香ばしい匂いが胃をくすぐる。匂いは部屋の換気扇から漂っていた。

 鍵を取り出してドアを開ける。


「おかえりなさい」


 狭いキッチンから彼女が振り向いて迎えてくれた。

「ただいま」と、買い物袋を手渡す。


「ありがとう、ちょうど切らしちゃって」


 袋を受け取りながら、彼女がくすりと笑う。手を伸ばして髪に触れる。


「素敵な髪飾り。誰にもらったの」


 と、指につまんだ銀杏の葉を見せてくる。

 そういえばスーパーのレジでも同じような笑いを含んだ視線を向けられていたのを思い出した。


「銀杏並木の妖精さんに」

「へえ、妬ける」


 あっさりと流された。


 栞でも作ろう、と銀杏の葉をエプロンのポケットにしまって、彼女はキッチンに戻る。


「もうすぐ食べられるから、早く着替えちゃって。うがいと手洗いもちゃんとね」


 味噌の封を切ってお玉ですくい、湯気の立つ片手鍋の中に溶いていく。

 狭い廊下兼キッチンをすれ違うと、言われるまま荷物を置いて、部屋着に着替えて、洗面所でうがい手洗いをして、また部屋に戻る。

 小さなローテーブルには晩ごはんの支度が出来上がっていた。

 向いの席に座って、それぞれ手を合わせる。


「いただきます」


 味噌汁をすすると、じんわり温かい液体が喉を通って胃に落ちる。美味しいと呟くと、向こうで彼女が満足げな顔をしていた。


「仕事の方はどう」

「しばらくは定時で帰れそう。再来月はまた忙しくなるけど」

「無理なら無理って言わないとダメよ」

「もう懲りたよ」


 先々月、納期前に無理をして体調を崩した。彼女は親身に看病してくれたが、元気になるや、こんこんと叱られた。以来、定時以降に仕事を残さないよう気をつけている。現場の評価はむしろ上がった。


「ごちそうさまでした」

「おそまつさま。今、お茶淹れるね」


 空いた食器を持って席を立つ。半分持ってあとに続くと、流しのタライの中に置く。

 キッチンはすでに彼女の城だ。

 鍋、フライパン、その他様々な調理器具と調味料が彼女の扱いやすいように配置されている。かつてはカップラーメン用の薬缶と片手鍋くらいしかなかったのが、賑やかになったものだ。

 食器棚から湯のみを二つ手にして戻る。後から彼女が急須と、小皿に乗った黄金色の焼き菓子を持ってくる。


「サツマイモが安かったから、スイートポテトを作ってみたの」


 添えられた小さなフォークで突き刺して一口で頬張る。イモの自然な甘味と控えめなバターの香りがほどよい。


「うまい」

「もうちょっと味わって食べて」


 と呆れながら、空になった小皿を持って、新たに二つ乗せて戻ってくる。

 彼女も自分の小皿からフォークで控えめに切り取って口に運ぶと「まあまあかな」と呟いた。

 茶をすすって胃を休めながら、そういえばと口を開く。


「そろそろ冬服を揃えないと。今週末でも買いに行こう」

「えー、いいよ。こないだ買ってもらったばかりだし」

「秋物で冬は厳しいだろう」

「寒いのは平気よ」

「また風邪でもひかれたら困る」


 と言うと、口を尖らせた。


「あ、そうだ」


 と手を打って、彼女は部屋の押入れから四角い箱を引き出した。

 竹編みの行李だ。

 蓋を上げて脇に寄せると、中には色とりどりの布地と毛糸のかたまりが入っている。


「ほら見て、新作」


 ローテーブルの脇に並べられたのは布製の巾着やら長財布などの小物だ。昔ながらの和柄にカラフルな生地が組み合わされて、新鮮だがどこか懐かしい。


「この青いのがいいな」

「お目が高いですねー、それ自信作。持ってってもいいよ」

「使いみちが思い当たらない」

「お弁当入れたらマチがないから傾くかな。同じ生地で作ろうか」

「今のがダメになったら頼むよ」


 彼女は嬉しそうに頷くと、行李からまた別のものを取り出す。


「こっちが本命。ちょっと合わせてみて」


 手渡されたそれを広げてみる。白地にアイボリーのボーダーが入った毛糸のセーターだった。


「よく出来てるでしょ。それに、ほら」


 もう一着、同じデザインでひと回り小さいのを広げて見せる。


「街で見かけて、いいなって思って」


 と、楽しそうに姿見の前で合わせる。デザインのことを言っているのか、二着一揃いのことを言っているのか。判断が難しい。

 二人の共同生活は順調だ。

 だからこそ募る不安もある。


 彼女は礼がしたいと言った。

 たかが一週間ベッドを貸したのが恩というなら、半年ものあいだ家事全般で世話になって、ゆうに二十四倍は返してもらっている。どんな悪徳高利貸しか。


 いつまでも居てくれたら、そう思い始めている自分がいる。

 もうじきいなくなるに決まっている、と腐る自分もいる。

 彼女はあまり自分のことを話さない。辛いことがあったのか、後ろめたいことがあるのか。

 彼女の下心とやらが自分と同じなら良いと期待しながら、いつかきっと手ひどい目に会うに違いないと疑っている。

 矛盾する心にまんじりとする。


 黙り込んでいると、やがて彼女の顔から笑顔が萎んだ。

 ローテーブルの前まで戻って腰を下ろすと、わざとらしく肩をすくめた。


「ちょっとはしゃぎすぎたね」


 と、ぎこちない笑みを浮かべて、手にしたセーターを視界から隠すように丸めた。

 その表情を見て、唐突に悟った。

 ああ、もう手遅れらしい、と。


 そう思った時には、すわと立ち上がっていた。

 手にしたセーターを大きく頭上に振りかぶる。

 怯えて目を見開く彼女の前で、セーターの袖を引っ掴むと、下から一気に突き通した。右腕、左腕、最後は下から頭を突っ込んで、一息に引きずり下ろす。サイズはぴったりだ。

 ローテーブルをまわって彼女の隣に腰を下ろすと、唖然とする彼女に詰め寄った。


「君はいつまでここにいてくれる」


 目を白黒させながら、彼女が答える。


「邪魔だと言われるまでは」


「ずっとか」と尋ねると、顎を引くように頷く。

 少し考えて、また尋ねる。


「俺は近い将来、子どものいる家庭を築きたいんだ。君はどう思う」


 彼女は遠慮がちに、


「子どもはたくさん欲しい。できれば男の子と女の子と両方」

「マイホームは必要だろうか」

「賃貸でも十分」

「今の暮らしに不満はあるか」


 すると彼女は手にしたセーターを握りしめて、


「ある」


 と、期待のこもった眼差しを向けた。

 ならば十分だ。

 これ以上に知るべきことも、求めるべきこともない。

 彼女の両手に手を添えると、意を決して、最後の言葉を口にした。





 新緑の平原になごり雪が光っている。

 開けた窓から春にはまだ少し冷たい空気が吹き込む。


「ほら、窓閉めなさい。お祖父ちゃんも寒いって」


 前の助手席から叱咤する母の言葉も聞かず、子どもたちは三列シートの最後尾ではしゃいでいる。


「いいじゃないか。子どもは元気がいい」

「年寄りの冷や水ってな」


 運転席からのからかうような声に鼻を鳴らした。


「でも雪が残ってなくてよかったよ。この時期に車なんて不安だったが」

「お義母さんが言うんだから大丈夫よ」


 という嫁の言葉に立案者として少し傷つく。隣で笑う声がなおのこと腹立たしい。


「タンチョウを見るだけなら真冬が良いのだけど、それじゃつまらないものね」

「タンチョウってなあに」

「ツルだよ、知らないの」

「ツルのおんがえし」


 子どもたちが口々に騒ぐ。


「助けてあげるととてもいいことがあるんだ。だから優しくな」

「はーい」


 と、口をそろえる孫達を見て、隣の彼女がにこりと笑った。

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