挽歌/実らなかったもののこと

ひととき外界の空気を取り込み、産声を上げようとした鼓動が、母親の腕に抱かれる前に止まった。慌ただしい処置のさまと、やがて下された医師の告知とが、遠い出来事に感じられる。雲間から差した秋の陽がたちまち翳り、薄闇の中、木枯らしがにわかに冬を告げるようだった。

記入を請われた二枚の用紙、一方は死産届、他方は出生届だ。ひとつの生が始まるとともに終わったこと、両方を同時に証さなければならない。出生届の「子の氏名」の枠に手を止め、最後まで埋められず、空欄を残して手渡した。固く目を閉じた小さな体を前に、さまざま浮かべていたはずの名前のかけらは、呼びかける声ごと消え失せた。柔らかな衣の代わりに炎に包まれ、嬰児の細い骨は燃え尽きて残りもしない。斎場の煙さえも薄暮の風に紛れてしまった。

失意が快復を妨げて長く臥せていた妻を連れ帰り、互いの肩を噛んで泣き、知る限りの慰めを使い果たした。実とは成ればいずれ熟するものとして疑わず、睦みながら未来を語らってきた分の沈黙を持て余した。

それきり心身を患った妻は、謝罪と叱責と緘黙とを日々の営みに代え、依存と拒絶を繰り返す。施設での療養に対する進言を、はね除けてでも寄り添い続けるには、私は弱かった。彼女に向き合えるときのためにと、半ば目を背けるばかりに働いた。待遇と時間の融通を勝ち得かけたころ、生家が彼女を引き取り、慇懃な離縁の連絡がもたらされたのだった。

独りの部屋の窓から、どこかで遊ぶ子どもの声が届くと、呼び得ない空欄の名前を浮かべて苦しんだ。私は確かに愛する人を労って助け、お前を慈しんでやりたかった。ただ幾度か、妻が母に変わること、彼女の関心を奪われることへの憂いから、お前が生まれなければと考えてしまった。実はどこかに命を定める大きな存在が本当にあって、私の幼い恋慕にも似た欲求が、妻と子を、彼らに弁明する機会をも失わせたのではないかと畏れた。

たとえ詫びて許されても、かつての陽だまりのような関係とは程遠い。願わくば忘れられたい、それが敵わないなら、私は彼女の前から姿を消し、過去の記憶となるべきだろう。そうして私は、己を省みる長い夜を明かし、日々の務めを果たすことに慣れていった。

いくつかの勤務地と居所を転々とし、新たな職場に慣れつつあったその日、偶然にも早く職場を出ると、目抜き通りはまだ賑わい、別の街と錯覚するほどだった。常ならまっすぐ向かうだけの帰路を逸れ、建物に入って書店を眺める。雑貨の棚の横で、店員が小さな紙片を差し出してきた。反射的に受け取ってから理解した。使いそうに見えたとは考えにくいが、香水のテスターである。売り場に並んだ紙箱には果物の絵が配してある。香りの瑞々しさに、突き返すのも忍びなく、上着のポケットにそっと落とした。帰って着替えると、鮮やかな香りは失せて、花のようなそれに変わっていた。

配属先の同僚である女性と昼食を取る機会があり、折に触れて聞いてみた。柑橘類は香水を着けたとき、初めに香るものとしてよく使われるが、30分ほどしか続かないのだという。すぐ消えるものに何の意味が、と不意に口にしてから、その響きに胸を衝かれた。

彼女は微笑し、考えながらゆっくりと答えた。さあ、でも、最初に届くのが好きな香りだと心が軽くなりますし、それが変わっていくのは楽しいですよ。私にとっては、ただ消えるというより、次に繋がっていくための香りです。見るものや食べるもの、会う人がずっと同じままではないように。ひとつのものが続くだけではなく、移ろうことにも意味があるのだと思います。

ちょっと大げさかもしれませんけれど、と笑う彼女が私の過去を知るよしもないが、その返答は不思議と心を和らげてくれた。長らく胸を圧し、途切れそうに細い呼吸を強いていた力が弛んで、微かな香りの跡の中で、息を継ぐことができた気分だった。

互いに口数は少ないながら穏やかな会話をし、食事を終えて窓の外に目をやると、朝からの小雨が弱まっている。雨が上がったときの香りも好きと呟き、またお話したいですね、止んだら帰りましょうか、と再び笑った彼女の横顔を、雲間から射した光が照らした。

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短い夢 さわまこと @Makoto_Sawa

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