短い夢

さわまこと

谺/山に還るもののまぼろし

 死人に口なしというけれど全く皮肉なもので、死んだ今になってことばが溢れて溢れてくる。声帯から気息とともに発語しているつもりでいたのが、しだいに表出させているはずの感情は奇妙に入り乱れ、やがて言語の体を失った。いまや何ともつかぬ獣のような叫びを挙げていると思しい。思しいものの、おそらく挙げたという知覚とは裏腹に、綾なす情念の混沌がおよそ人に感応できるはずのない周波数で響き渡っている。わたしの喉からは吐気のひとつもはじめから漏れてはおらず、どころか身体はとうに朽ち果てていた。


 聞くものがあれば風の唸りか葉擦れの囁きか、喧しい虫の声に仮託した恨み辛みの多重奏、さもなければ語るに悲しい来し方ともなるだろうか。空気の振動には違いないのだが、現出する姿としてはむしろ川の流れ、不定形の流動に似ている。さりとて泉源も河口もないので、あるいは止めどなく繰り返しているようにみえる発露と霧消とはどこか一点で繋がった循環構造なのかもしれない。いずれわたしが流れとして捉え、ことばと呼んでいるそれは、おそらく生きているときの魂に遺されたあらゆる感覚と感情を内包して湧き出すものであるから、本当のところは嘆くばかりでもない。紫の気に満ちた山中、夜通しの雨の止んだ晴天に下草が朝日を受け、纏った露は千々に砕けて潤んだ緑を彩る。白糸の名残は大気に瑞々しく、力の限りに葉を伸ばした羊歯の茂みを薄く煙らせている。かかるひとつひとつの景が、かたちもあらぬ胸に深く深く沁み入り、人の息も絶える世界に微かな響きとなって満ちる。すなわち陽光に身悶える地虫の蠢きさえも、取りも直さず歓びに打ち震えるわたしそのものだ。


 この身になにがあったのか、辿ろうと試みて諦めた。記憶の中に経と緯はもはや漫然と絡み合い、解かんとしてあれこれと手繰るうちに幾つもの柵が生まれて為す術がなくなってしまう。そうして行き詰まるが早いか意識だけが易々とその結び目をすり抜けていく。ひとつの交差から四方に延びていく。赴くに任せて辺りを彷徨うたびに、知覚の限界が拡がっているのが分かる。朽ちた身体が土にゆっくりと染み込んで境界線と化していくらしい。腕や脚は往時と変わらず存在している。そう感じる。もっとも、より遥かに伸びやかなかたちを得た。自他不二の心地である。いまやわたしを舫う纜は土塊に埋もれた小さな骨だけだった。


 恐れているのは、まさにその加速度的に進む意識の拡散によって、遠からぬうちにわたしの自我が失われてしまうことだ。このような姿形と成り果てても続く存在への固執、無への恐怖。


 幼時の原体験。誰しもが通り過ぎるありきたりな感傷に見舞われて、思えば黄昏の訪れるごとに辺りを包み込む深い闇にはいつも死や無を重ねていた。倒木の虚、枝葉の間隙ひとつに至るまで差し込んだ陰が徐々に色合いを変え、見失うまいと目を凝らしても輪郭は曖昧になるばかり。固く目を瞑って瞼の裏にまで忍び込もうとする闇を阻めば、いっそうその帳の向こうが恐ろしい。闇夜は死を思わせる無の静寂を纏う一方で、わたしを襲わんと息を殺して潜んでいるのではという矛盾した予感を孕む。恐怖が極まった瞬間、わたしは耐え切れずに薄目を開く。そうして闇に慣れた瞳に見出すものは眩いばかりの星々。鼻腔に澄んだ夜の匂い。


 そのようなことを思い出すとき、わたしはより一層強く烈しく、在り続けたいと願っていた。しかしそれはいつの願い、いつの記憶だったろうか。わたしの自我を、ひいては存在を繋ぎ止めていた記憶は。意識の中核を引き戻さんとする。強いて云えば、微かな蜘蛛の糸を手繰り寄せるに似ている。山腹の崖下の頭蓋ははや蛆蝿にさえ見放されていた。彼らは既に栄養を食い尽くしたのだろう。愕くほど長い時間を経て、おそらく今は土と苔とを構成するひとつひとつの粒子がわたしの細胞、原形頭。


 おそらくさらに時を経た。隧道に貫かれて鳩尾の辺りがすうと冷え、裾野に向かって延びた爪先は纏う下草を剥がれてじんわりと渇いていくよう。脛から下を人の手が土塊で覆っていく。切り拓かれればわたしは一握りの砂と礫に砕けて、彼らの生計の礎となろうか、未だ見ぬ海なるものに沈んで静寂するだろうか。けれどたとえば人が楽を奏でるには、つねにばらばらの音を幾通りにも繋ぎあわせて妙なる調べを生み出してきたのだから、わたしの統べられる営みもきっと美しい、すべてを抱いて、崩れていく。


 ――羽虫は湿った土を掻いている。探り当てた巣穴から、まどろみの底、夜更けの驟雨の夢へ。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る