第3話 一日目と七日目

 小さな物音に眼が覚めた。

 まだ太陽はのぼっていないようで、カーテンの閉まった部屋にはぼんやりとしたほの暗い闇がたまっている。鳴っていない目覚まし時計を探すまでもなく、起床の時間にはまだまだ早いだろう。

 寝なおそう、と布団を頭まですっぽりとかぶろうとしたところで、また物音が聞こえた。

 小さく遠慮がちな、でもさっきよりも大きく響いたその音は、部屋の外からのものではない。

 内側だ。だとすればベットに横になっている俺以外にこの部屋にいるのはひとりしかいなくて、寝返りをうってそちらを見る。


 眼があった。


 暗がりでもはっきりとその色が分かる、宝石の翡翠に似た色の両目が俺をとらえ、ゆっくりと細められると少し申し訳なさそうに苦笑いした。きっとさっきの音で俺が起きてしまったのではないかと気になって目をやってみれば案の定その通りで、しかもばっちりと眼まであってしまったからだろう。

「……、悪い。起こしたか?」と、まだ夜の気配を持つ空気を壊さないように低く押さえた声で訊ねてくる。

 あぁ、と声を出そうとして、でもまだ眠気の残っている意識が面倒くさがって首だけを縦に動かす。

 そうしてからしげしげと彼、――ジェイドを眺めた。

 入学した時から同室である彼のいまの格好は、見慣れたノウレッジ学園の制服ではなかった。

 同じ学園の制服を着ていればどうにか同年代の大人びているだけの青年に見えるのに、いま目の前に佇んでいるのは同級生ではなく、足元に革張りの旅行鞄を置き灰色のコートを羽織った年若い青年だ。寄宿舎の一室に佇んでいるには不似合いで、きっと夕間暮れに染まった汽車の窓辺が似合う。

 開けられた窓辺に物憂いげに頬杖をついて、目を細めて沈みゆく夕陽を見つめていればきっと、とても絵になる。

 ぼうっとジェイドの姿を見つめていた。いつもならまだ眠っている時間に目を醒ましたせいでもあり、様になっているジェイドの私服に見惚れてしまったからでもある。なかなか働いてくれない頭がしばらくしてようやく、あ、そういえば。と、思い出した。


 ――そういえば、今日だったか。


 今日は、ジェイドが実家に帰る日だ。


 ノウレッジ学園は全寮制で、いわゆる「伝統ある金持ち学園」である。

 貴族の次男や三男が無用な後継者争いをしないために放り込まれるのが常で、その分親達は我が子が不自由しないようにと多額の寄付を学園にしている。比較的自由度は高く、申請書類さえだせば簡単に外出許可がでるし、実家でなにかあったと電話があれば授業もそっちのけで実家に帰るものもざらだ。

 この学園にはおそらく、真に勉学に励んでいるものなどいないだろう。それは俺やジェイドも含めての話だ。

「……、今日だった?」ぼそり、と質問する。

 ジェイドからは少し前に、実家の用事で一週間ほど学園を留守にすると聞いていた。

「あぁ。後のことはよろしく頼む」コートのボタンを留めながら、ジェイドが言う。

 入学した時から同室なのだから当然ジェイドは俺と同い年で、つまりはノウレッジ学園の五年生だ。普通は卒業や今後の進路で忙しい七年生をのぞいた最年長である六年生が生徒を監督するのだけれど、どういうわけかジェイドがその任をまかされている。そのジェイドが帰省するのだから、いない間のジェイドの仕事は誰がするのかと色々と議論があった。結局、俺と寮母さん――といいつつ、男なのでここは寮父さんと呼ぶべきなのかもしれない――、がやる事になったのだ。

 眉をひそめる。――別に、俺が代わりにしなければならない仕事のことが、不安だったからではない。

 ジェイドが実家に帰るのは、俺が覚えている限りでも、これをあわせてさえ片手で数えるほどしかなかったからだ。

 夏休みも冬休みも、ジェイドは大抵ここにいる。家名を聞けばほとんどがどこに領地を持つ、あるいは中央でどんな役職を世襲している貴族の子息か分かるこの学園内で、ジェイドの家名はごくありふれた一般的なものだった。だから下世話な話、私生児、というものなのだろう。後継者争いに参加させないために長男以外の子どもを放り込むノウレッジ学園にはその手の子どもも数多く入学してくる。――そんなジェイドが珍しく帰省するというのだから、不安になるのは当然だ。

 実家に帰ったはいいがその途中で「不慮の事故」にあって他界、というのもノウレッジ学園ではままある事だから。

 コートのボタンをかけ終えたジェイドの手がすいっと静かに伸びてくると、くしゃり、と俺の頭をなでる。

「心配するな。土産、買ってきてやるからな?」

 ぐずる年の離れた弟をあやす兄のような優しい口振りだった。だからそんな顔をしないで笑って見送っておくれ。とでも言われている気分だ。

 子ども扱いするな。と返そうとも思ったけれど、土産を俺に渡すなら絶対に帰ってこなくちゃいけないからな、と思い直して、頷く。乞われるまま、口もとをゆるませて笑ってもみた。


 そうして、ジェイドのいない七日間がはじまる。



 がらごととと、と音を立てて郵便物が入っているワゴンを押す。

 ジェイドがやっていた仕事の一つで、不在の七日間、俺が代わりにやる事になった仕事だ。郵便配達。寄宿舎あての郵便は寮母さんがすでに部屋ごとに分けてくれているので、俺がやることは番号を確認して部屋の扉の郵便受けに放り込むこと。ただそれだけの簡単な作業、のはずだったのだが、すぐにつまずいた。

 ――304号室の次は、ふつうどう考えたって305号室のはずだけど……。

 立ち止まって真正面から見つめる扉にかかっているプレートの文字は、多分、806。多分、とつくのはそれもなんとなくそう思うだけで、はっきりと断言できないからだ。手作り感ばっちりの、どうしようもなくへたくそとしか言いようのない数字が手書きされている、派手派手しく目に痛いプレートだった。もともと部屋の扉に取り付けられているはずの白い板に黒文字のプレートがあればいいのだが、そっちははずされているようで見当たらない。

 寄宿舎内ではいま、手作りプレートを作ってもともとのプレートと交換して飾るのが流行っている。

 俺とジェイドはやっていない。この手の流行に乗るのが俺はどうにも苦手だし、ジェイドはそもそも流行に走るよりもわが道を行くタイプだ。俺達の部屋がある廊下では、個性豊かに飾り立てられている扉たちに混じった素っ気なさすぎる木目の扉が、逆に不思議なぐらいに浮いている。

 と、現実逃避しかかった意識を戻して、あらためて手作りプレートを見る。

 眉をひそめ、じぃっと見つめつづけても、806に見えるものは見える。

 ジェイド曰く、「ちゃんと確認してから入れるんだぞ。間違っていたら大問題だからな?」だというし――。

 住人に確認するしかないか。と、なんとなく自分の失敗を吹聴するような気恥ずかしさで尻込みする気持ちにため息をつきながら扉をノックすると、返事は意外なことに部屋の外――、つまり、俺がいる廊下から、正確にいえば階段のある右側から聞こえてきた。

 振り向くと、見慣れない生徒がふたり。学年章を見ると上級生だ。

「あれ? ジェイドじゃないのか?」不思議そうに声をかけてくる片方、縁のないめがねをかけた先輩に軽く頭をさげてから目を合わせて質問する。

「すいません。――……この部屋は、305号室ですか?」

 答えたのはめがねの先輩ではなくてその隣にいる、日焼けしてがっしりとした体格の先輩のほうだった。わざわざ目まで合わせて質問したのはこの日焼けした先輩が持つ活発的な雰囲気がちょっと苦手だったからなのだが、本人はまったくそんな俺の気持ちに気づく様子もなくけらりと笑って、プレートに顎をしゃくってみせる。

「あぁ、そうだぜ? ちゃんとプレートにも書いてあるだろ?」

 なんだよ数字も読めないのかよ。と、半分見下したからかい交じりの失笑に、あんな汚い文字は読めません。と言い返しかけたものの、寸前でこらえた。笑う先輩の横で同じように笑いかけたもののどうにか笑うのをこらえるめがねの先輩がさりげなく目配りしてきたからだ。やっぱり分からないよなぁ? と同意を求めてくるような目だった。どうやらこのプレートを作ったのは、日焼けした先輩のほうらしい。確かに、外見だけで決め付けるのはよくないだろうがまあ、大雑把そうな性格にみえる。

 めがねの先輩はみじかく咳払いして、口を開く。

「うん。ここは305号室で、俺達が住人だけど、なにか?」

 その言葉に内心でほぅっと胸を撫で下ろした。このままだと笑いがおさまった時点であっさりとどこかに行ってしまって、郵便を渡すタイミングを見逃してしまいそうな、そんな嫌な予感がしていたのだ。

「……、郵便を届けに来ました」と、めがねの先輩に輪ゴムでくくられた郵便物を渡した。

 そうしてから、あ。本当にこの人達が305号室の住人かどうかなんてわからないじゃないか。と、一瞬ぞくりと背筋が冷える。が、封筒を受け取った先輩のそばで日焼けした先輩が鞄から鍵を取り出して鍵穴に差し込んでいるのを見て、よかった。間違ってなかったんだ。と、息をつく。

 めがねの先輩が輪ゴムをはずしてざっと郵便物を見た。ドアノブを回しながら日焼けした先輩が振り向く。

「なあ、俺宛の手紙は?」

「期待しているのはないぞ」

 返事に分かりやすくむすりと黒い顔をしかめて、先輩が俺を見てくる。険しい目は雄弁だ。他に郵便物はないのかよ? と言葉ない質問に、頷く。

「はい。305号室の郵便はこれだけです」寮母さんが間違っていないかぎり。

 鬱陶しそうに忌々しそうに、日焼けした先輩が舌打ちした。そうして俺を睨みつけていた眼がすぅっと鋭くすべって、横にあるワゴンに向けられた。まだまだ配達は序盤だ。なので配り終わっていない郵便物が輪ゴムされ綺麗に並べられているワゴンをとらえた眼が、不機嫌そうに細められた。

「おいおい、他のところに混じってないのか?」

 言うなり、ずんずんと靴音荒く近づいてワゴンの中に手を突っ込もうとしたので、慌ててその手を掴んで止めた。

 外見通りのがっしりとついた筋肉の硬さにちょっと気持ちが怯んだものの、腹に空気を溜めるようにして声を搾り出す。「ま、待ってください。配達し終わっていない郵便に触るのは、規則違反です!」

 規則なんて知ったことか。と、物騒な眼光が突きつけられたものの、負けじと睨み返す。

 ジェイドから頼まれた仕事なのだ。そのジェイドに言われているのだ、「ここには貴族の次男や三男がいるだろう? そいつらあての手紙に政治的なことが書かれていたとして、それを政敵の子どもがたまたま手に入れたら大問題だ。だから、郵便は絶対に間違ったいけない。学園のためにも、生徒のためにも」――、と。

 ジェイドがいつもやっているようにそつなくこなす事は出来なくても、問題を起こしてはいけない。ジェイドに、「俺の見る眼がなかった」と落胆させたくはなかった。

 ジェイドは、「サフィールなら大丈夫」と思って、俺に任せてくれたのだから。

「はいはい」と、軽い口調で俺と先輩の間に割り込んできたのは、めがねの先輩だった。注目! と声にする代わりに郵便物を持ったままの手を器用に一回高らかに打ち鳴らしてから、俺と日焼けした先輩を交互に見遣る。

 最後に俺に視線を落ち着かせてから、肩を上下に揺らして首を横に振った。

 そうして薄く口を開くと、低い声で話しはじめる。人に知られてはいけない秘密をこっそり暴露するような口振りで。

「悪いな、こいつさぁ、ずぅっと待ってる手紙があるらしくって。それでいらいらしてるんだよ」

 日焼けした先輩が見るからにいままでとは全然違う様子で嫌そうに顔をしかめてもまったく気にもせずに、先輩は言葉を続けた。「一週間前に町で女の子をナンパしたんだと。で、文通しようって話になって、送ったんだけど返事がまだ返ってこないんだ。で、毎日毎日、その手紙を待ち続けてる」

 暗に、馬鹿だろう? と言いたげに落とされるため息に、日焼けした先輩が噛み付いた。ワゴンに伸ばしていた手を引っ込めて、めがねの先輩のほうへずいっと身体を近づける。

「だってよッ、すっげぇ意気投合したんだって! もうきてもおかしくないだろ!?」

 なぁ! と、がばりと振り向いて視線を向けられても困る。

 即座に頷かなかった俺を日焼けした先輩は鼻先に皺を寄せて睨み付けると、ふてくされるように唇を尖らせてまたワゴンを見た。また手を突っ込んでくるんじゃないかと身構えたくなったけれど、突き出されたのは腕ではなくて暴言だった。

「ジェイドのせいじゃないか?」

「「は?」」

 めがねの先輩と俺の声が重なる。きっと心の中も同じだっただろう。

 どうしてここで唐突に、ジェイドの名前が出てくる?

 日焼けした先輩は心外そうにますます顔をしかめた。どうして俺の言いたい事を分かってくれないんだ、と言わんばかりの顔をする。ちょっと唖然として途方にくれているようでもあるめがねの先輩をちらりと見てから、俺は口を開いた。同じ事を思ったなら質問してくれるんじゃないかと期待したのだけれど、この様子だと無理そうだから自分でするしかない。

「どうして、……ジェイドなんですか?」

「だってよ。手紙を出したのは一週間前だろ? でも、俺は直接ポストに入れたわけじゃねぇ。たまたま郵便を配達してたジェイドに頼んだんだよ。って事は、ジェイドが俺の手紙を抹殺したら、返事なんて……――、」


 自分の声に驚く。という経験を、俺はこの時はじめてしたかもしれない。

 少なくとも、声を出したと自覚するより先に声が出ることなんて滅多にない。

 思わず、何も考えずに無意識に叫んでいた。あぁ、怒っている。と、自分でもたじろぐほどの剣幕で。


「ジェイドはそんな事しません!」

 びりっと指先がひくつくように肌がぶわりと粟立つように、痙攣する。身体全体を打ち振るわせて飛び出してきたかのような叫び声に、ぶつけられた先輩のほうも面食らっていた。

「そーだな」と、めがねの先輩も頷いてくれる。「ジェイドはそういうタイプじゃない。それにたかだか一週間だろう? 向こうだって忙しいだけかもしれないじゃないか」



 806号室、もとい305号室で予想以上に時間を食ってしまったから、全体的な仕事の時間が夕食に食い込んでしまった。

 全部の郵便を配り終えてワゴンを寮母室に戻してから、夕食の時間ギリギリに食堂に駆け込む。食べるというよりは胃の中に流し込むような身体にはよろしくない食事方法でひとりのわびしい夕食を済ませて、部屋に戻った。じんわりと重たいような痛いような腹部の不調に顔をしかめながらベットではなく学習机の椅子に腰を下ろした。

 机の上には一通の手紙がおいてある。郵便配達に出かける前に俺宛だといって、寮母さんから受け取った封筒だ。

 十人が見れば十人とも綺麗な文字だと褒めるに違いない文字の羅列を見れば、差出人が誰かはすぐに分かった。兄からだ。地方の領主である父のもとで後継者として働いている兄は定期的に手紙をくれる。

 内容は決まっていて、短くまとめられた近況と年に数回しかあえない俺を気遣う長い文面。今回は来月に控えている文化祭の話もあるかもしれない。

 いつもならすぐに読むが、今日は他の用事があるのでやめた。

 宿題に数学のプリントが出ているのだ。ジェイドがいれば分からないところを質問してすぐに終わらせられるけれど、今日はそうはいかない。早めにとりかかることにした。

 兄からの手紙を引き出しの中に入れて、鞄の中からプリントを取り出す。

 数学の先生直筆のプリントはちょっと癖のある数字が記号と一緒に並んでいて、数学教師としては致命的に1と7が分かりにくい仕様となっている。1は斜めに傾いているうえに上のぴんと横に出ている線が長く、7は逆に短い。毎年勇気のある生徒が指摘しては改善を求める姿を目にするが、いっこうに治る気配がなかった。

 実は王族の隠し子だから学校側もそうそう指導も出来なければやめさせられもしないのだ、とまことしやかに囁かれていて、ジェイドはその噂に馬鹿馬鹿しげに失笑していたか。

「字の汚さをのぞけば教え方のうまい先生だから辞めさせるのももったいないんだろ」というのがジェイドの持論だった。

 1と7を丁寧に確認して、問題を解いていく。

 一人きりの部屋に、プリントを始める前に先を尖らせた鉛筆の先端が紙で擦れる音がかぼそく響く。

 ――が、一問、二問と解いているうちに、手は自然と止まってしまった。止まっているのに気づいたのは、少し遅れてからだった。ふと我に返る心地で目を瞬かせて終わっていないプリントを見下ろして、また鉛筆を動かす。意識してプリントを見つめる。でないと、さっきみたいにまたふらりと別のことを考え出しそうな気がしたのだ。

 脳裏を過ぎる、ではない。頭のどこかに染みのように浮き上がっていて、ふと目を向ければ当たり前のように視界に飛び込んでくるような、それ。

 放課後のあの手紙の一件の事だ。

 ジェイドがやっていないのは確かだ。

 なのにちゃんと、あの日焼けした先輩が納得するような反論ができなかった。


「ジェイドはそんな事しません!」


 それが、俺の中での絶対的な答えだった。

 数式と同じく、絶対に二つ以上あるはずのなく異論をさしはさむ余地もない答え。でも、日焼けした先輩の中ではそうではなかった。あの人の中ではジェイドが手紙の一件で小細工したかどうかは国語の文章題のように、いくつものニュアンスの違った答えが存在しているようだった。

 悪意があるか、ないか。それとも本当に関わっていないのか。

 先輩にも相手側の人にも落ち度がないと思いたければ、ジェイドの悪意はあったことに越したことはなくて、先輩は俺の剣幕に驚いてめがねの先輩の意見にたじろぎながらもジェイド悪人説を支持したがっていた。

 たっぷりと余裕を持っていたはずの郵便配達の作業が夕食にまで食い込んだのはそのせいだ。

 日焼けした先輩は強引ながら、ジェイド悪人説の証拠を提示してきた。だって、ポストに手紙を出したのはあいつだから。というものだ。対して俺は、絶対的な結論をかかげて反論した。でもそれに証拠なんてない。

 そんなもの必要ないというのが俺の意見であり、信条だからだ。

 ジェイドはそんな事しない、太陽が東から昇って西に沈んでいく理由には宇宙規模の盛大な理由があるわけだが、いちいちのぼる太陽を見てそれを説明する人間はそうそういない。それと同じだ。自然の摂理を研究しようとする一部の学者には必要なことでも、普通に生きている限り太陽は「東から上って西に沈むのが当た前。反対なんてあり得ない」でいいのだ。

 ジェイドが人の手紙に悪意をもってなにかをするはずがない、というのも俺にとっては自然の摂理と同じなのだ。

 でも、学者ばりの証拠説明を求めてる先輩には――、それで通じるはずもない。

 気づけばまた、手が止まっていた。プリントをはじめて五問目。答えを書くところには鉛筆でうっすらと意味不明な曲線がかかれていた。考え事をしている最中に無意識に手が動いたのだろう。

 ため息をついて鉛筆の尻についている消しゴムで曲線を消す。

 くるりと鉛筆の先をプリントに戻して、また宿題再開。


 ――次に考え事から意識が戻ってきたのは、数分後だった。


 さっきよりも深く心底重たい息をついて、七問目までようやく埋まったプリントの上に、まったく先が丸くなっていない鉛筆を放り出す。数式がただの数字と記号の羅列に見えてきた。これじゃあ時間がかかるだけで全然先に進まない。


 気分転換がてら、机の引き出しに入れておいた兄の手紙を手にとって封を切り、中の便箋を取り出す。

 内容は思っていた通りのもので、文化祭のことについても触れられている。

 どうにかその日は休みがとれそうだ、会える日を楽しみにしているから風邪を引かないように。お前は特に腹を壊しやすいのだから無理をせず、ちゃんと布団をかぶって寝なさい。という文面で締めくくられていた。

 まったく兄らしい手紙だった。つい顔がほころむのを自覚しながら、ふと気づいた。

 ――そう、手紙にはその出した人の思いがこもっている。

 中にはもちろん悪意しかないような手紙も、ただ不特定多数に送ることを目的にしたハガキもあるだろう。でも封筒に関していえば、中の便箋に綴られている思いはその人があて先の誰かに向けて伝えたい気持ちだ。兄が俺のことを心配してくれるように、今日配達した寄宿舎あての手紙にはきっと、家族が家族を大事に思い気遣い心配する気持ちがあふれている。

 ジェイドの姿が脳裏を過ぎった。俺に笑いかけているジェイドだ。

 そうしてから、想像力を駆使して精一杯考えてみようとした。いま俺が手にしている兄からの手紙を、封筒ごと二つに引き裂こうとしているジェイドを――……、おぞましく気持ち悪いものを想像した時の腹の奥がじくりと痛んで冷える感覚があるだけだった。眉をひそめる。想像できなかったのだ。思いもよらない、とはこういう事をいうのだろう。

 想像の中でさえ、ジェイドはこの手紙を引き裂けない。俺の兄の思いを、傷つけられない。

「――……、先輩にそういえばよかったのか」

 ぽつりと呟く。

 人の思いをないがしろにして平然としていられるような人間ではないのだ、ジェイドは。日焼けした先輩が主張する悪人にはなれないし、事故的に手紙を紛失して先輩に言えずに放置するような人間でもない。ジェイドは、人の思いを大事にする人間だから。

 でもこれは精神論みたいなもので物的証拠じゃない。とは、分かっている。じゃあどうして手紙は届かないんだ、と質問されればまだ返せる言葉はない。

 それでも少しだけ、自分の中の絶対的な答えを支えるだけの根拠を見つけられた気分で、俺は便箋を封筒にもどした。そこでぴたりと手が止まる。目は兄の綺麗な文字で書かれたノウレッジ学園の住所を見ていた。

 1と7がある住所だ。

 隣のプリントに視線を移動させる。

 数学教師お手製の、いつも通り1と7の区別がつきにくいプリント。でも、今日の放課後に俺を悩ませた「806」よりははるかに見やすい数列達。


 ――……つまりは、そういう事じゃないのか?


 あの堂々と掲げられたプレートが日焼けした先輩を納得させられる反論の根拠なのではないか。5と6、3と8さえ見間違うようなとんでもない数字を書く人なのだから、1と7なんて――……。

 いてもたってもいられなくなった。でも、椅子を押し倒す勢いで立ち上がった俺の頭を、「まあまあ落ち着け」と宥めるように寄宿舎内に放送が流れる。消灯時間十分前を知らせるいつもの放送。さすがにこの時間に部屋を出て先輩達の部屋に行くのが失礼なのは分かっている。

 息をついて、椅子に座った。

 明日、明日だ。明日のうちに先輩を納得させられれば、ジェイドは自分にかけられたあらぬ誤解を知らないままでいられる。俺がジェイドの誤解をすぐさま解けなかったことも分からない。

 そこまで考えて、そうだな、と内心で思う。

 反論できなかったのがどうしてここまで、頭にこべりついていたのか。

 どれだけジェイドがやっていないと信じて当たり前だと思っていても、口に出してそれを証明できない自分がまるで、先輩の言っている事を認めているかのように感じられたからだ。

 今は、ちがう。

 首を横にふり、とりあえずプリントを終わらせよう、と鉛筆を手に取った。

 さっきよりもするりと数字が頭の中に入ってくるようで、黙々と問題を解いていく。


 プリントが終わったのは結局、就寝時間を三十分過ぎた頃だった。部屋の灯りは消えていて、机のスタンドライトだけが机と周囲を照らしている。

 シャワーを浴びてから寝たかったけれど、もうすでに建物全体が眠っているかのような静けさの部屋で音を立てるのは忍びなくて、寝巻きに着替えてベットにもぐりこんだ。

 目を閉じると、自分の呼吸する音と心臓の音だけが聞こえた。他には何もない。誰もいない。

 すこし寂しい、と思う。怖い、ともなんとなく思う。いつもならジェイドが眠っているはずのベットのほうに寝返りをうつ。目を開けて、空っぽのベットを見たくなかった。頑なに、じっと目を閉じ続ける。


 これがあと、六日も続くのか。

 1と7は違う。でも、一日目と七日目は案外似たり寄ったりかもしれない。きっと七日目になっても、俺はこの静けさに慣れはしないだろう。

 日焼けした先輩への反論はできるだけ優しくしよう。と、思った。


(終)

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