第2話 月を隠す

 たまたま、眼が合った。

 そんな動物的な理由である教員から頼まれた用事はなかなかに面倒なもので、授業が終わった放課後の数時間しか出来ないこともあって実に三日がかりの作業となった。

 生徒に頼む事じゃない。同じくその教員と眼があったせいで頼まれたらしい犠牲者がいなければ、もっとかかっただろう。


 その最後の日――……、つまりは、三日目の話である。


 「図書室の本棚の増設」という作業をするために必要な図書室の鍵を職員室にまで取りに行くのが彼――同じ犠牲者――の仕事なら、戸締りと鍵の返却は俺の仕事だったのだが、「俺がちゃんとやっておくから。安心してくれ」と、やけに張り切った口調の同級生に半分急かされるようにして校舎を出ると、夕間暮れは終わりを告げていて、あたりはすっかり夜の暗がりに沈んでいた。

 つい数十分前まではあかく染まっていた空も綺麗にすべて燃え尽きてしまったように暗い。

 それでも不思議と、いつもの夜空の黒色よりはあかるげな藍色である。

 そういえば今日は満月がどうの、と誰かが言っていた気がする。

 月の初めと終わりの二回、満月が訪れる確率は五年に一度ぐらいの事らしい。それを滅多に見られない月だといって見れば幸運を呼ぶ事ができるのだと、――……そう、今朝のニュースで言っていた。

 見ただけで幸運が呼べるなら、幸運とはずいぶんと安上がりなもんだ。

 その時に抱いた感想を呆れ半分に思い返して口もとをゆるめる。みじかく一笑してから、なんとなく空を見上げた。

 月は、見えない。図書室や理科室などの用途別の部屋が入っている特別実習棟の入り口から見る東の空はちょうど、寄宿舎の平べったい箱のシルエットに邪魔されて見ることができないのだ。……あぁ、見えないな。と、ぼそりと心の中でついた嘆息に、今度は意識して喉を鳴らした。

 安上がりでも、まあ、見るだけなら。それだけで運よく幸運を呼べたら「棚から牡丹餅」――というやつで。

 つい最近この国にやってきたらしい同級生がぽつりと呟いていた異国のことわざをなんとなく使ってから、全体的な意味合いも棚も分かるが牡丹餅ってなんだろうな。と首を傾げてみる。

 まあ、生まれも育ちもこの国で外の世界に一度も出た事のない俺が分かるはずもない。苦笑いひとつで考えるのを終わりにして首を振り、寄宿舎へと歩き出した。


 ノウレッジ学園の校舎と寄宿舎の距離は歩いて五分程度だ。

 同じ敷地内にあるので信号機や車の往来を気にする必要はない。

 気に留めなければならないのは学園の用事であっても遅くなりすぎれば、寄宿舎の玄関の横の部屋で険しく目を細めて出迎え、無言で「どうして遅くなったのか?」と詰問してくる寮母――、ここの場合は男なので、寮父と呼ぶべきか。そんな単語があればだが。――への言い訳と、授業に遅刻した時の言い訳だけだ。

 案の定、寄宿舎の玄関を開けると鋭い眼差しがはっきりと身体に突き刺さってきた。身体の中心がぎしりと耳に響くほどの軋みをあげるのを聞いた気がしたけれど、気づいていないふりをして通り過ぎる。眼が合ったところで困ることはないけれど。こっちはちゃんとした教師の要望で今まで居残っていただけなのだから。だが、面倒なことに変わりはない。

 朝の、全員が動き出して学校に行くための準備をはじめるせわしない時間帯とは少し違った、一日が終わった夜特有の少し開放的な喧騒の中を自室へと向かう。

 階段を上がって二階へ、廊下を右手に曲がるとよくよく個性のない木製の扉達が等間隔に並んでいる。

 せいぜい各扉にかけられたリーフやらよく分からない海賊の旗なんかが没個性の沼から足掻き這い出ようとしているぐらいだ。他の連中たちと一緒にされたくない、俺は俺だ、という部屋主の無言のアピールなのかもしれない。

 対して、俺の部屋の扉にはなにもない。

 俺は別に飾り付けたいと思った事はないし、同室のサフィールに関しても似たようなものなのだろう。いや、俺がやりたがらないから「やりたい」といったら迷惑になると遠慮している可能性もなくはないが。俺としては別に積極的に飾り付けに反対という立場ではないので、サフィールが「やりたい」と主張すれば好きにすればいいと答えるはずだ。そしてこんな消極的な感じで結局、卒業するまでこの扉がずっと無愛想のままだろうとも分かっている。

 鞄から無愛想な扉に似合いのキーホルダーのない銀色の鍵を取り出す。鍵穴に差し込んで回し、扉を開けた。

 目を細めたのは、部屋が明るかったからではない。むしろ暗かった。照明がつけられていない部屋の暗い床に、長方形の淡く白い光が落ちていて、その光の中に薄く滲んだ影が染み入るように浮かんでいた。

 影を辿って目を動かすと、バサリと布のはためく音がした。大きく開け放たれた窓からふきこむ風にレースのカーテンが大きく裾を広げて踊っている。影は、サフィールだった。窓辺に片手を添えていた彼は物静かに青みがかった眼差しをむけてくる。


「――……、月が綺麗ですね」


 喉が上下に動く。つばを飲み込む音がやけに遠くに、なのに自分の身体の内側から聞こえる。

 部屋の暗がりに足を踏み込んで扉を閉めると、部屋はますます暗くなった。唯一の光源ともいえる月明かりに照らされているサフィールの輪郭は柔らかい白銀に縁取られていて、風にそよぐ髪の一本一本は高級な銀糸のようでさえあった。

 ふらりと足が動いた。よろめくような不安定さで近づく。

 あぁ、俺も。とでも、開いた唇は言いかけたのかもしれない。

 向けられていた眼差しがふいにそれなければ、……口走っていただろう。

 床に落ちる月明かりに俺の足が踏み入る前に、サフィールの眼は窓の外へと放り出された。俺からそれた。

 まるで夢遊病者のようだった足が止まり、ふと甘く切ない夢から眼が覚めたような喪失感を伴った唐突感に面食らって目を瞬かせる俺に、サフィールは口を開く。ぽつりと、独り言のように。

「本当、今日の月は綺麗だよ」

 すっと、音もなく。――、身体の中の熱が引いていく。

 そうして身体が重みを取り戻す。現実の重みが、夢から覚めた身体にのしかかってくる。――あぁ、そうか。そうだったか。本当になんでもなく、ただ月が綺麗というだけでいったのか。それはそうか。月が綺麗ですね。なんて、サフィールが別の意味で使えるはずもない言葉だ。

 気づけば噛み締めていた奥歯を離して口を開くと、じんっとしびれた感覚が残った。

「――……そうだな。今日は満月だからな」

 自覚はある。つっけんどんな言い方だろう。人がいいほうだとは思っていないが、ここまではっきりと不機嫌が声に出ることもそう滅多にない。ましてや、どんな些細な出来事でもすぐに自分のせいで悪いのも自分なのだと考える被害妄想と悲観主義者のサフィールの前では、絶対にしてはならない言い方だ。

 なのに態度に出たのは、理性で止めようもなく俺が腹を立てているからだった。

 きょとんとサフィールが目を丸くして首を傾げる。

「? どうしたんだ?」

 単純に俺を心配して、怪訝そうに気遣う声。俺がさっきの他愛ない、ただ月が綺麗だという目の前に広がる風景を口にした言葉に馬鹿のように浮かれて、けれどすぐさま現実を突きつけられて撃沈したから自己嫌悪の裏返しで不機嫌なのだとはちっとも思っていないサフィールの声。

 なにか悪いことでもしたか? と向けられる青い眼が遠慮がちに訊ねてくるのを、俺は手のひらで払いのけた。

 サフィールに落ち度など、ないのに。つい。弄ばれたわけでも、傷つけられたわけでもないのに。――、つい。

「なんでもない」

 言って、月明かりの外側の暗がりにある自分の机に、鞄と借りた文庫本を放り投げた。

 本だけうまく机の上に乗らずにぱさりとページを広げて床に落ちる。舌打ちして拾い上げようとする前に、横合いから細い手が伸びてきた。本を拾ったサフィールがすこし不可解そうに首を捻って表紙を見下ろしているのは、本のタイトルが読めなかったからだろう。

 同級生が時たま独り言として使う異国の言葉に興味を示した俺に、彼が「これは結構面白い」と昨日貸してくれた本だ。そのまますらすらと読めはしないので、辞典片手に四苦八苦している最中だった。

「日本語だ。――、異国の言葉だな」

 言っても分からないだろうな。と心の中で付け加えながら、本を受け取る。

 そうして本を机に置くついでに身体ごとサフィールから顔を隠して、俯きちいさく、笑った。自分に嗤った。

 一瞬、本当に一瞬だけ――、月のおかげだと思ってしまった。五年に一度の、滅多に見られない幸運を呼ぶ月のおかげ。なにかとんでもない奇跡のような幸運が起こったのではないかと。あるいは、月明かりに縁取られたサフィールがとても尊く特別なものに見えたからだろうか。ずっと一緒に生活してきた同室の、ちょっと頼りないサフィールではなく、この一瞬を逃せは手からすり抜けていってしまいそうな儚くて脆いなにかに。

 また笑うと、今度は苦笑いになった。

 ひっそりと、息を搾り出すような声でサフィールが俺を呼ぶ。

 ひとつ呼吸を落としてから、意識して口元に笑みを浮かべて振り向いた。まだ心の奥には熱が引いたあとの冷たさが残っていて、いつもの俺を演じるような気持ちでないとサフィールと顔を合わせられなかった。いつもの俺。サフィールの被害妄想と悲観主義に付き合って、別に誰もお前を憎んでいないし恨んでもいないと証明するのがいつもの俺だ。今日は他の誰でもなく、サフィールのなんでもない言葉に勝手に一喜一憂した俺がサフィールを傷つけてしまったわけだから、演技をするのは気まずくもあるけれど。

 それでもいつものように笑って見せた俺を見て、サフィールはすこしほっとしたように顔をゆるめた。そうして口をひらく。

「あのさ。月見に誘われてるんだけど、――……一緒に行かないか?」

 目を瞬かせた。演技ではなく、本心からだ。

 思わず、言葉を選ぼうと考えるより前に開いた口から質問が飛び出す。

「お前が? ……、俺のところには来てないぞ」

 失礼極まりない言い方だとは思うが、仕方ない。

 サフィールもそのあたりの事は客観的に自覚しているのか、物憂いげに目を細める事も悲しげに顔を伏せることもなく、こくり、とあっさりした仕草で応じてくる。

 サフィールの友人関係は、友人は普通にいるが親友はごく少ない。ましてや学園内に多少なりとも存在する派閥争いのようなものに加担したり暗躍するほど権力欲も向上心もありはしないので、この手のイベントとも縁遠い。誘われることが皆無、ではないが、誘われたとしてもそれは同室の俺とセットの場合が多い。ようするに、俺はサフィールの保護者的ポディションなのだろう。

 その俺を介さずに、月見に誘うとは。

 サフィールが差し出してきたのは白い封筒だった。淡い月明かりに照らされると、真っ白のなんのアクセントもない封筒は自ら発光しているようにも見えた。受け取りつつサフィールを見遣ると、中を見てくれ、と言葉なく顎をしゃくってきたので、すでに丁寧にペーパーナイフで切られた封筒の端から、二つ折りに折りたたまれた同じく白い紙を抜き出す。便箋ではなく、しっかりとした硬さのメッセージカードだ。広げると、折り線の下半分の真ん中に文字が綴られている。

 手書きだ。見覚えもある。

 職員室で特別実習棟のある部屋の鍵を借りる時に書くノートに綴られた字によく似ている、優等生的で模範的な文字面。

 月が綺麗ですね。

 続けて、今日の日付とあと三十分後の時刻。そして、図書室にて。の言葉。

 たった三行のメッセージカードから読み取れることは少ない。けれど、理解できることはできる。

 ため息をついた。いつもならサフィールに気づかれないように落とすそれを、今回は分かりやすくはっきりと肩を上下に揺らしながらついて、メッセージカードを戻した封筒をサフィールに返す。思っていた通り、俺のため息に興味というよりは不安を抱いたらしいサフィールが眉をひそめて見つめてくる。

 なにをいうかは決まっている。罪悪感のかけらも沸かない、率直な事実だ。

「サフィール。悪いが、図書室で月は見れないぞ」

 サフィールが目をまるくする。

「え?」

「図書室から月を見ようとすると、寄宿舎が邪魔になって見えない。――……、夕暮れならまだしもな」

 図書室のある特別実習棟の位置からは、月は見えない。これは事実。なにせ今日は図書室の本の整理をして帰って来たのだから。校舎を出た時に空を見上げても、月は見えなかった。夕暮れ時はすべてを燃やし尽くそうとするように校舎の壁も床も、窓から見上げる空もなにもかもが赤く染まっていたけれど。

 サフィールが戸惑いがちに封筒に目を落とす。

「……、じゃあ。これ」

「場所を間違えたんじゃないのか? さすがにこれだけじゃ、どこでやるかは分からないな」

 素知らぬ顔で嘘をついた。本当は、「月が綺麗ですね」の意味が月見をしようという安直な意味でないのは分かっている。借りた本を片手にめくっていた辞典の、最初のほうのページに書かれていたその意味は、月が見えなくてもいい事だ。けれど、サフィールに教えるつもりはなかった。

 俺を馬鹿みたいに浮かれさせた罰だ、と、きっと今頃サフィールが来るかこないかと図書室でやきもきしながら待っているだろう同級生に心の中で笑ってやる。

 教員の頼みごとで居残っているのなら、他の誰かに咎められても言い逃れが出来る。しかも放課後というには遅い時間帯なので生徒はほぼいない。まさしく彼が使っていた「棚から牡丹餅」で、人目を忍んで告白するのにうってつけの場所を見つけたのだ。棚の増設に三日間かかったこと、戸締りをする俺をさっさと追い出したまでは計画通りだったに違いない。

 けれど、最後のメインイベントであるサフィールは、図書館には行かない。

 見るからにがっかりと肩を落とすサフィールにも笑みを向けた。こっちは演技ではなく、ようやくいつも通りに本心から優しげに微笑むことが出来た。

「まあ、別にいいだろう。誰が来るか分からない月見なんて行っても疲れるだけだぞ? だったら、俺が付き合ってやるから、ここですればいい」

 言って、窓辺に歩み寄る。顎を持ち上げて目を空へ上向けると、その月らしくない目の奥まで射抜いてくるような透き通った明るさに無意識に、ほおぅ、と息をついた。

「ブルームーンだな」

「え?」

 驚き半分戸惑い半分の声を出して、サフィールが俺の隣で同じように月を見上げた。ただその目は月見というよりはなにかを思わず確認しようとする眼差しで、月を凝視したかと思えばすぐさま月から俺の顔へと、困ったようにしかめた顔をむけてくる。すぼめられた唇が言いにくげに、指摘してきた。

「月は青くないけど、」

 ――……、そういうと思った。

 俺はほがらかに喉を鳴らし、まるく円を描いて輝くありふれた白い満月にむかって、頷く。

「そうだな」

 本当は一ヶ月の間に二度満月が見れる事が滅多にないから、同じく滅多に見れない青い月にちなんでそう呼ばれているのだが、その事はサフィールには言わないでおく。

 月が綺麗ですね、と同じだ。

 月が見えなくても、愛していると告げる事はできる。青くない月をブルームーンと呼ぶように。

 でも意味を隠してしまえばそれは、ただ場違いな言葉として忘れ去られるだけだろう。

 ひっそりと笑って、俺は幸運を呼ぶ月から目をそらした。


(終)

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