第18話 再会

 不安の連続で今日まで来た。

 一心不乱で描いてきた。

 課題をこなすだけの生活を、もう二年。

 

 あれから、三年。

 

 環境が変ればじきに癒えると思った。

 忙殺されれば考えずに済むと期待した。

 その程度だと認識していた自分がいかに愚かだったかを思い知る三年間だった。

 夏休みには油彩画ゼミの合同展がある。

 テーマは「ポートレイト」。

 自然と振り返って、未織の存在の大きさを改めて感じて、まだ、痛む。

 未織のことを思うと、体中が、懸命に描いた手が、痛む。

 彼女の願いで書き上げた絵は、あれから一度も見返していない。

 見るのが怖かった。

 だけど、良い機会だから、合同展に出展しようと決めて――


 久しぶりに実家に帰ってきて、部屋の押入れを漁った。

 それは、真っ黒いゴミ袋に包まれている。

 まだ包みを開けられない。

 わざと雑に扱おうとしていた時期があって、中の状態も定かではなかった。

 どんな絵だったかは、思い返すことができる。

 でも、あれきり一度も見ていないわけだから、

 本当に覚えている通りの絵かは分からない。

 記憶のなかで美化されていて、実際はめちゃくちゃヘタだったらどうしよう。

 それは、ちょっと、死にたくなるかも。


「うーん……」


 もう、三年だ。

 もう、時効だ。

 合同展に未織を呼ぼうか。

 それを取っ掛かりにして、また、未織と親しく……なんて、都合がいいか。

 だけど、DMくらいは、出しておこう。伊藤が連絡先くらい知ってるだろうし。


「……その前に」


 この絵を見ないことには、始まらない。


「ちょっとしたタイムカプセルだな。……よし」


『よし』って、もう五回くらい言ってる気がする。

 情けないな、俺は。意気地なしめ。

 でも今度こそ、見る。

 思い切って包みを剥がす。


「……。あ」


 見えた。青い、色。

 一面青ざめている。

 キャンバスいっぱいに、未織の姿。

 まるで、今この瞬間にも吐息を感じられそうな、これは、躍動感なのだろうか。

 大学に入ってから描いたどの絵よりも活き活きしてる。

 課題でこんなに一生懸命描いたことなんかない。

 そもそもこれは、俺が描いた絵なのだろうか、本当に?


「……」


 目の前がちらちらと瞬いて、いくつもの断片的な記憶が生々しく甦る。

 油の香り。

 ガスの匂いまで、するような。

 あの日の、冬の、暑すぎる教室の。

 抱きしめた体温。重ねた唇の、熱と、感触。冷たかった指先。

 濃密な時間を過ごした。

 描く者と、描かれる者との時間。

 未織の真剣な眼差しに縛られていた。

 多分、身体を重ねるよりも深く、お互いを、感じあっていた。

 だめだ。

 好きだ。

 未織。

 俺は、まだ、全然、忘れてなんかいない。全然、諦めてもいない。

 苦しい。寂しい。

 会いたい。愛してる。

 絵なんか、見るんじゃなかった。

 閉じ込めておけばよかった。この気持ちごと。

 今なら訳を話してくれるかな?

 あの時、どうして別れなくちゃならなかったのか。

 全てに、答えてくれるかな――?



 合同展の会場で懐かしい顔に声を掛けられた。伊藤春花だ。


「やっほー、久しぶり。合同展かー、すごいなー」

「あれ、スーツ。もしかして、就活?」

「そう。短大生のあたしは今年がそうなの。でもなー、三年次編入と悩んでるんだ」

「編入試験、受ければいいじゃん」

「やっぱそう思うー? そうしよっかなー」

「悩んでねーじゃん、結論出てるだろ、それ……」

「てへ。じゃ、中、一回りさせてもらうよ」

「どーぞ。あ、いらっしゃいませ」


 次の客へ対応しているうちに聞くタイミングを逃してしまった。

 伊藤に預けてたDM、未織に届いたかな。

 まあ、多分、駄目だったんだろうな。

 もう今日が最終日だ。

 未織は来てくれない……。そりゃ、そうか。


「香村、交代」

「お、了解。よろしく」


 受付を離れて、場内を覗き込む。

 伊藤が立ち尽く姿が見えた。

 あれは、そうだ。

 未織の肖像画の前だ。

 胸がさわぐ。

 あの絵を見られることは、伊藤と嫌でも未織の話題をかわすことになるから。


「これだけ、絵、古いだろ」

「びっくり。なんか、生きてるみたい。

 生々しいって、いうか……ううん、執念深い?」

「言葉を選べよ」


 伊藤は変わらないな。マイペースというか、独特と言うか。

 でも、その変わらなさはちょっと安心する。


「まあ、確かに言う通りなんだけどさ。必死で描いたんだよ」

「すごい。未織、すごい、綺麗だよ」


 言葉を交わしながら、伊藤は視線を逸らさなかった。

 まっすぐ、未織を見ていた。

 少しだけ、そうして見てもらえることが嬉しくて、

 やっぱり展示してよかったと思う。

 誰かに見てもらって、感想や意見を聞くたびに、少しだけ気持ちが軽くなるのだ。


「てか、裸だし。えろ」

「えろくねーよ。つまみ出すぞ」

「いや、冗談だけどさ。でも、綺麗なのは本当。

 なんか、あれだね、あー、わぁ、改めて言葉にすると恥ずかしいけど――

 美しい、っていうか」

「なんだよ、失言のフォローか」

「ばれたか。って、本当だよ。……いつ描いたの、これ」

「笑っちゃうけど、高二のとき」

「いつの間に?」

「色んな隙に。未織に言われてたんだ。

 付き合うときに。この絵が描き上がるまで、付き合うって」


 あの約束を誰かに打ち明けるのも、これが初めてだった。


「ひどい話だよな」


 そう言って笑う。

 その笑いは、自嘲にはならなかったから驚いた。

 ふしぎと穏やかに笑えたのは、伊藤が絵を褒めてくれたからかな。


「未織……」

「……伊藤?」


 伊藤が泣いてる。

 涙をすぐに手で拭って、だけど瞳はまだ濡れていた。

 取り繕うように笑おうとして、失敗して、伊藤はまた涙を拭う。

 それだけでもう、何か不吉な暗示に思えて、胸が冷えた。


「ごめん。香村、今、平気? それとも、時間と場所、改める?」

「なんだよ。気になるだろ。今で、いいよ」

「落ち着いて聞け……ないかも。ていうか、あたしが落ち着いてないし」

「座れよ、そこ」

「うん……。あたしもね、卒業してから聞いたんだけど。未織の両親から」


 聞きたくない。でも、聞いてもうすっきりしたい。


「あの子が、転校してすぐ、亡くなったって。

 病気、何か、持ってたんだって。知ってたのかな、未織。だから、絵を……」

「……そんな」


 会えなくなっても、嫌われても、いつか――

 いつか偶然再会したときに、笑って話ができる、って。

 それが本当は全部、自分の都合の良い想像だとは知っていた。

 でも、どこかで生きてると思ってた。


「なるべく、誰にも言わないでほしい、って、そう、言われてて……。

 だから、今更になっちゃったけど。ごめん」

「俺、全然、気づかなかった」

「未織が、誰にも言わないようにしてたの。誰にも言わずに」

「どうして……」


 思い出すのは、あの真剣な眼差し。

 あのとき、未織は、どんな気持ちで、描かれていたんだろう。


「香村に、描いてもらって、それで……納得したんだ、きっと」


 気が済んだとでも言うのだろうか、未織は。


「香村、この絵、大事にしてね。未織の、愛された証だよ」

「……教えてくれて、ありがとう。伊藤も、頑張って」

「うん。頑張る。香村も」

「うん」


 力を失くして椅子に座った。すべての物音が遠ざかっていく。


「未織」


 耳の奥で聞こえるのは記憶の中の、未織の返事。

 もう二度と聞けない声。

 拳を握ると、いつも彼女の体温がまだ残っているような気がした。

 お互いに幼い頭で考えて、幼い選択をしたのだと思う。

 彼女が言ってくれなければ、俺にとって絵を描くことは、人生の上をさらりと滑るだけの存在だった。打ち込むことを知らないままに通り過ぎて来ただろう。

 彼女がそこまで考えていたかは分からない。

 だけど確かに、俺は未織に、これを貰ったんだ。

 愛してる。愛されていた。

 別れてからも、ずっと。


「好きだよ、未織」


 あの日のまま時を止めて、彼女は俺を見つめている。

 額の中、冬を閉じ込めたような青ざめた世界の中で、まだ息づいている。

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額装少女 詠野万知子 @liculuco

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