第17話 冬の終わり


 一年後。

 冬の終わり。



「失礼します。松尾先生いますか?」


 職員室にも通いなれて久しく、馴染みの教師の顔もすぐに見つかった。

 松尾先生はいつにない笑顔を浮かべて俺を見た。

 それを見てようやく俺も現実感が沸いたように思う。


「香村君。聞いたよ。合格おめでとう」

「ありがとうございます。先生のご指導のおかげです。色々、お世話になりました」

「いやいや。嬉しいねぇ。このところ、美大を志す部員っていなかったから。

 ひょっとしたら伊藤がそうかと思ってたけど」

「俺もです。自分でも意外です」

「でも、よかった。せっかく受験が終わったんだから、羽を伸ばして。

 暇だったら、部室においで」

「ありがとうございます。それじゃあ、失礼しました」


 部室、か。

 随分行ってないな。

 これをきっかけに思って、久しぶりに足を向けた。


 

 油絵の具と石油の香り、そして冬の乾いた空気。

 冬の美術室の匂いはどうしても思い出させる。

 去年の冬、ここで未織と過ごした時間を。


「部長! お久しぶりです」

「お疲れ。ってか、部長はお前だろう」

「あれ、そうでしたっけ。俺って部長なんだっけ……」


 女所帯で苦労しているらしい、笹野が遠い目をした。

 そういえば今年の文化祭でも死にそうな顔をしていたっけ。


「今、人物デッサン?」

「そうです。先輩、松尾に聞きましたよ。合格おめでとうございます。

 美大なんて、すごいですよ。お疲れ様です」

「ありがとう。超疲れた。笹野も、美大だけはやめておけ」

「いや、そんな根性ないですから……」


 根性か。何も俺に根性があったわけじゃない。

 根性がないから没頭するものを求めてた。

 受験勉強は単なるはけ口だった。

 彼女を忘れるために。

 彼女を描いていた感覚を忘れるために、ただ手を動かしていた。

 考える隙もないくらいに四六時中だ。

 まさか本当に、合格するとは。


「伊藤は、今日は?」

「今日は人物デッサンなんで、来てません」

「まだ嫌なのか、モデル……」

「せっかくなんで、部長、モデルどうですか?」

「えっ?」


 ここで否を言うと伊藤のことを笑えないと思ったから、

 つい成り行きで挑んでしまった。

 それを、俺は三分後に後悔する。



「――なんだ、このポーズ」

「今日はセクシーポーズの日です」

「セクシーか、これ?いまどきの若者のセクシャリティがわからない」


 モデルをやるのも久々だ。変なポーズだけど。

 でも、みんな、真剣に描いてる。

 真剣な眼差しを受け止めて、なんだか気が引き締まる。

 未織もこうして俺を見てたのかな。

 ……懐かしい匂い。

 絵の具と、ガスの匂い。

 胸がうずく。

 やっぱり、来るんじゃなかったな。今まではずっと忘れていられたのに。

 未織は、今、どうしているんだろう。

 お互いを避けているうちに転校してしまって、以来何の音沙汰もない。

 未織のことを考えないようにただひたすら勉強して、絵を描いていた。

 気づけば、未織を責めようとしている自分が嫌で。

 そうして、未織を嫌いになってしまいそうで怖かった。

 ずっと、未織を好きでいたかった。

 だから、考えるのをやめようとした。

 納得づくだったのに。

 そういう約束だったのに。

 別れることが、前提だった。

 最初から、決まってたのに。

 俺は覚悟が足りなかったんだ。


「――十五分経過。モデル交代。お疲れ様です」

「なんか普段使ってない筋肉使った……。

 俺、ちょっと顔出すだけのつもりだったからそろそろ行くよ」

「ありがとうございました。また来てください」

「ありがとう。来年は、男子部員入るといいな」


 廊下へ出て、すぐに伊藤に出会う。

 受験が明けてからははじめて顔を合わせた。

「あれ、香村」

「あ、伊藤。逃げたんじゃなかったのか」

「違うよ。コンビニに買い物」

「なんだ」

「部活、ひさしぶりじゃん。あ、そっか、受験終わったのか。お疲れ様~」

「ありがと。でも、もう行くとこ」

「なんで? せっかくだから、描いてけば」

「受験終わったし、しばらく休む。どうせ、入ったら嫌でも描くんだし」

「そのための美大じゃないの?」

「……そうだな。でも、今日はやめとく」

「そっか。じゃ、またおいで」

「うん。じゃあ」


 伊藤と喋るのも、久しぶりだ。

 未織のことに触れられたくなくて、ずっと避けてたから。


「香村」

「……何?」


 今も。

 未織のことを探られるんじゃないかと思って、つい冷たく問い返してしまう。

 伊藤は接ぎ穂を失って首を横に振った。


「ううん……。なんでもない。ごめん。合格おめでと。

 せっかくの美大なんだから、頑張ってよね」

「うん、ありがと。じゃあ」


 後悔が少しだけ胸を突く。

 でも、蓋を開けたくない。

 未織のことを口にしたら、自分の形が全部崩れてしまいそうで怖かった。

 こんな調子で頑張れるのだろうか、俺は。

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