第17話 冬の終わり
一年後。
冬の終わり。
*
「失礼します。松尾先生いますか?」
職員室にも通いなれて久しく、馴染みの教師の顔もすぐに見つかった。
松尾先生はいつにない笑顔を浮かべて俺を見た。
それを見てようやく俺も現実感が沸いたように思う。
「香村君。聞いたよ。合格おめでとう」
「ありがとうございます。先生のご指導のおかげです。色々、お世話になりました」
「いやいや。嬉しいねぇ。このところ、美大を志す部員っていなかったから。
ひょっとしたら伊藤がそうかと思ってたけど」
「俺もです。自分でも意外です」
「でも、よかった。せっかく受験が終わったんだから、羽を伸ばして。
暇だったら、部室においで」
「ありがとうございます。それじゃあ、失礼しました」
部室、か。
随分行ってないな。
これをきっかけに思って、久しぶりに足を向けた。
油絵の具と石油の香り、そして冬の乾いた空気。
冬の美術室の匂いはどうしても思い出させる。
去年の冬、ここで未織と過ごした時間を。
「部長! お久しぶりです」
「お疲れ。ってか、部長はお前だろう」
「あれ、そうでしたっけ。俺って部長なんだっけ……」
女所帯で苦労しているらしい、笹野が遠い目をした。
そういえば今年の文化祭でも死にそうな顔をしていたっけ。
「今、人物デッサン?」
「そうです。先輩、松尾に聞きましたよ。合格おめでとうございます。
美大なんて、すごいですよ。お疲れ様です」
「ありがとう。超疲れた。笹野も、美大だけはやめておけ」
「いや、そんな根性ないですから……」
根性か。何も俺に根性があったわけじゃない。
根性がないから没頭するものを求めてた。
受験勉強は単なるはけ口だった。
彼女を忘れるために。
彼女を描いていた感覚を忘れるために、ただ手を動かしていた。
考える隙もないくらいに四六時中だ。
まさか本当に、合格するとは。
「伊藤は、今日は?」
「今日は人物デッサンなんで、来てません」
「まだ嫌なのか、モデル……」
「せっかくなんで、部長、モデルどうですか?」
「えっ?」
ここで否を言うと伊藤のことを笑えないと思ったから、
つい成り行きで挑んでしまった。
それを、俺は三分後に後悔する。
*
「――なんだ、このポーズ」
「今日はセクシーポーズの日です」
「セクシーか、これ?いまどきの若者のセクシャリティがわからない」
モデルをやるのも久々だ。変なポーズだけど。
でも、みんな、真剣に描いてる。
真剣な眼差しを受け止めて、なんだか気が引き締まる。
未織もこうして俺を見てたのかな。
……懐かしい匂い。
絵の具と、ガスの匂い。
胸がうずく。
やっぱり、来るんじゃなかったな。今まではずっと忘れていられたのに。
未織は、今、どうしているんだろう。
お互いを避けているうちに転校してしまって、以来何の音沙汰もない。
未織のことを考えないようにただひたすら勉強して、絵を描いていた。
気づけば、未織を責めようとしている自分が嫌で。
そうして、未織を嫌いになってしまいそうで怖かった。
ずっと、未織を好きでいたかった。
だから、考えるのをやめようとした。
納得づくだったのに。
そういう約束だったのに。
別れることが、前提だった。
最初から、決まってたのに。
俺は覚悟が足りなかったんだ。
「――十五分経過。モデル交代。お疲れ様です」
「なんか普段使ってない筋肉使った……。
俺、ちょっと顔出すだけのつもりだったからそろそろ行くよ」
「ありがとうございました。また来てください」
「ありがとう。来年は、男子部員入るといいな」
廊下へ出て、すぐに伊藤に出会う。
受験が明けてからははじめて顔を合わせた。
「あれ、香村」
「あ、伊藤。逃げたんじゃなかったのか」
「違うよ。コンビニに買い物」
「なんだ」
「部活、ひさしぶりじゃん。あ、そっか、受験終わったのか。お疲れ様~」
「ありがと。でも、もう行くとこ」
「なんで? せっかくだから、描いてけば」
「受験終わったし、しばらく休む。どうせ、入ったら嫌でも描くんだし」
「そのための美大じゃないの?」
「……そうだな。でも、今日はやめとく」
「そっか。じゃ、またおいで」
「うん。じゃあ」
伊藤と喋るのも、久しぶりだ。
未織のことに触れられたくなくて、ずっと避けてたから。
「香村」
「……何?」
今も。
未織のことを探られるんじゃないかと思って、つい冷たく問い返してしまう。
伊藤は接ぎ穂を失って首を横に振った。
「ううん……。なんでもない。ごめん。合格おめでと。
せっかくの美大なんだから、頑張ってよね」
「うん、ありがと。じゃあ」
後悔が少しだけ胸を突く。
でも、蓋を開けたくない。
未織のことを口にしたら、自分の形が全部崩れてしまいそうで怖かった。
こんな調子で頑張れるのだろうか、俺は。
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