第16話 Paints of Poison


 今日は始業式だけで学校は終わり。

 だから、放課後の美術室は存分に使える。


「寒いなぁ、さすがに。なんか教室中凍りついてるみたい」

「本当。冬休み、先生も来なかったのかな」

「来なかったんじゃないかな。三階だと、灯油切れると、交換も大変だしね。

 でも、もう授業も始まるし、存分に使わせてもらおう。

 どうせ交換するのは美術部員だし」


 オイルヒーターのスイッチを入れる。

 未だにエアコンも設置されていないなんて信じがたい。


「じゃあ、今年、一番乗りだ」

「美術部よりも先にね。キャンバスは無事かな、っと」


 美術部には、天井いっぱいまでのロッカーがある。

 一番上は、授業でも、美術部でも、一度も使っていない。

 そこへ、絵を隠して置いてある。

 家に置き場はないし、作業もできないし。

 ……というのは、未織への言い訳で、やろうと思えば家でもできるんだけど。

 姑息な先延ばしだと自分でも思うけど、反省はしていない。


「あった」


 久しぶりに見る。大まかに色を乗せただけの絵。

 まだ、何が描いてあるのかも分からない。

 先は長いように思えるけど、実際にはあと二ヶ月もかからないかもしれない。


「始めようか」

「うん」


 未織は服を脱いで、椅子に座る。

 未織の裸を前にしても、どぎまぎしなくなった。

 絵を描く間だけは、割り切れるようになった。

 なんか、悲しいことなのかな、これ?


「……もう、付き合ってから半年たつね」

「うん」

「俺、もう、何回未織を描いたんだろう。

 絵の具もキャンバスもどれくらい消費したかな」

「たくさん、だね」

「たった一枚描くのが、こんなに大変だなんて知らなかった」

「うん……」

「でも、今、俺、描きたいんだ。未織を描きたい」

「かなた」

「もう少しだから。絶対、描きあげるから」

「うん……」


 未織のために、暖房は高めに設定してある。

 暑くなって、学ランを脱ぐ。

 シャツの袖をまくる。背中も汗でじっとりしている。


「今まで、なかったんだ。こんなに、描きたいと思ったこと。

 ……ただ、絵を描くのが好きで。

 本物に似せて描くのが楽しくて、それだけだったのに」

「うん」

「こんな気持ちなのかもって、思う」

「え?」

「昔の、絵描き。絵を描くことで寿命を縮めた画家。

 毒の絵の具を使っても、描くことをやめなかった……」

「あ……」

「俺は別に、命がけではないけど。ちょっと、わかったような気がして。

 って……なんか、語っちゃってごめん」

「ううん……」

「でも、ちょっと、描き終わったら同時に死にたい気分かも」


 自嘲すると、未織がいつになく眉を吊り上げて、怖い顔をした。


「だめ。そんなこと言っちゃ、だめ」

「ごめん、冗談だよ」

「冗談でも、だめ。死んだらだめだよ、かなた……」

「死なないよ。

 わかんない、事故とかで死んじゃうかもだけど。自分からは、死のうとしないよ」

「そうだよ。かなたは、長生きするの。おじいちゃんまで生きて、幸せになるの」

「じゃあ、そのとき、隣に居てくれる?」

「……」


 未織は沈黙した。

 わかってたけど、ヘコむなぁ。


「今日は、終わりにしようか」


 やっぱり、辛い。

 別れることを考えると、手が止まる。

 そうするともう、描けなくなる。

 集中力の集めなおしに、これでも結構苦労しているんだ。



 一月が終わる。

 二月になれば、テスト期間があって、それからすぐにテスト休みだ。

 そのまま春休みがやってきて、学年が変る。

 のんびり、今のままの感覚で過ごしていられるのも、今月まで。

 暑くて頭がぼんやりする。だけど、妙に、集中してる。

 絵の具の匂いと、ストーブのガスの匂い。

 中毒になりそうだ。

 冬なのに、シャツが汗まみれになる。

 息苦しい。

 美術室が、濁った空気で充満している。


「……」


 キャンバスの上に、もう、未織の姿が、はっきりと描かれている。

 青い色を背景にやや青みがかった色彩。

 死人みたいな肌色なのに、活き活きとした目をしている。

 それは、絵を描く間ずっと俺を見つめる、未織の真剣な眼差しだ。

 俺は全部、描き写せたかな。未織の全部を。

 ううん、無理だ、全部なんて。

 未織。


「うん」


 返事があって、驚く。

 口にしたつもりはなかったのに。

 胸の内だけで呼んだつもりだったのに。


「なんでだろう……。

 走馬灯みたいに今までの出来事を思い出してる。縁起でもないな」

「うん」


 もうすぐ、絵が、描き上がる。

 今まで何度「これ以上描けない」と思ったか。

 手を加えて、修正して、それを繰り返して。

 もう、これ以上、描けない。

 いや、まだ、何かある。まだ、何か……。


「未織」

「うん。かなた」


 もう、終わりにしたい。

 この絵を完成させたい。

 だけど、そしたら、もう未織とはさよならなのに。


「……」


 絵を描きたい自分と、未織と別れたくない自分。

 頭が二つに割れそうだ。


「未織……」

「うん……」


 油の匂いに頭がクラクラする。もう、腕が、上がらない。

 これ以上、手を加えるところがない。今の俺にはそう思える。

 だから、つまり――完成だ。

 完成、したんだ。

 どうしてだろう。

 未織と別れなくちゃいけないのに、達成感が気持ち良いなんて。

 この絵が描けて心底から喜んでる俺が居て、でもそいつを俺はぶん殴りたい。

 快感に指先まで力が抜けてしまって、しばらく身動きができなかった。


「……かなた?」

「できたよ」


 喉がカラカラだ。

 こんな言葉が未織へ伝わらなければ良いのにと思う。


「……見てもいい?」

「うん」


 半裸のまま、未織が絵を覗き込む。

 椅子を譲って、寒そうな肩に後ろから学ランかけた。


「……」

「まだ、乾かないから、気をつけて。絵の具、ついちゃう」


 今、未織があの絵をめちゃくちゃにしてくれればいいのにと願う。

 そうしたらまた、描き直せる。二人の時間を稼げるのに。


「ううん……」

 じっと、見つめている、深遠な眼差し。

 未織のよくする、遠くを見る瞳。

 絵の中のそれと未織は見つめあっている。

 未織は何を思ったのかな。

 俺は、未織の満足いくような絵を、描けたのかな。


「どう? ……描き直す?」


 問いかけながら、もう分かっていた。

 未織にそんな気はないこと、俺も同じ気持ちだということ。


「ううん。すごい。嬉しい。青に、吸い込まれそう。すごく、深くて」

「約束。青を、使うって」

「うん……覚えててくれたんだ。

 プルシアン・ブルー、インディゴ、ネイビー、

 それから、ブルー・ブラック……だよね?」

「うん。でも、もっと使ったよ」

「うん。ずっと、見てたもん。知ってるよ。ありがとう、かなた。

 がんばってたの、ずっと、見てたよ」


 未織が椅子を立つ。俺の頬に手を触れる。

 俺もそこに手を重ねる。


「未織……」

「うん……」

「未織、好きだよ」


 何か言いたくて、でもそれ以上の言葉が出てこない。


「うん。わたしも。好きだよ、かなた」

「なら、どうして……」

「ごめんね。どうしても、なの。約束、だったよね」

「未織」


 抱きしめる。未織の体が熱い。

 立っていられなくて、座り込む。

 もっと、体を近づけて、強く、抱きしめる。


「未織、好きだよ。俺、別れたくない。

 好きだよ。いやだ。未織。ずっと一緒にいたい」

「ごめんね。ありがとう」


 心臓の音が聞こえる。生きている、未織の音。

 生きているのに。そばにいるのに。こんなに、近いのに。

 いつも未織は、どこか、遠くに感じられる。


「大好きだよ、かなた。ずっと、ずっと。かなただけ、好きだから」

「俺だって、ずっと、未織だけ、好きだ」

「ありがとう。わたしのこと、好きになってくれて。

 ごめんね。わがまま言って、困らせて」


 いつの間にか溢れた涙を未織の指がすくっていた。

 約束をしたあの小指で。


「――大好きだよ」


 未織の手が背中に触れる。

 少し冷たい手が気持ち良い。

 髪の毛が首筋をくすぐる。

 お互いを押し付けあうみたいな抱擁に息が苦しくなる。

 教室はただでさえ息苦しいのに、息が続かなくなるくらいの長いキスをする。

 何度も、何度も――。

 それが、二人のお別れの挨拶だった。



 片づけをしながら、未織が着替えを済ませるのを待つ。

 こうしていると、昨日から何も変わってないみたいだ。

 明日も変らずに過ごすみたいだ。

 だけど、もう、こんな日は二度と来ないんだ。二度と……。


「ねえ、あのね。絵、かなたが持ってて」

「え? なんで……」


 思いがけない申し出に、不思議と腹は立たなかった。

 そもそも、絵を描いてと言われただけで、絵を頂戴とは言われていなかったので、今の今まで誰が所有するかについてはまるで考え無しだったのだ。


「いらなかったの?」

「ううん、そうじゃないの。わたしには、意味あることだから。

 最後まで、わがままばっかりで、ごめんね」

「もう、この際だし、なんでも聞くよ。わかった。

 絵は、俺がもらう。……帰ろうか」

「うん」



 いつもみたいに非常階段を使って校舎を出て、街灯の少ない道へ出る。

 静かだ。

 もう、言葉がない。

 何を言っても、引き止められない。完敗だ。


「……こうして手を繋いで、学校から帰るのも、今日が最後か」

「うん……」


 未織の手に少し、力がこもる。

 応えて、俺も、力をこめる。

 寂しいなんて言えないよな。


「未織と、付き合えて、よかったよ。すごい嬉しかった。毎日、楽しかった。

 こんなに嬉しいことが、人生にあるんだな、って。幸せだって、思った」

「……わたしも」

「人生って言ってもさ。俺まだ十七年しか生きてないし。

 この先、もっと嬉しいことも、もしかしたら、あるかもしれないし……」


 言いながら、なんて空しい慰めだろうと思う。

 先々で起こる『もっと嬉しいこと』に出会ったとき、

 俺はきっと、必ず『ここに未織が居れば』と考えずにはいられないだろう。

 未織が居れば、それは『もっともっと嬉しいこと』になるのだ、きっと。

 でもそんなことは今更言っても仕方がない。

 全ては未織の思惑通り、彼女の満足がいく結末へと事は運んだのだから。


「未織。ありがとう。さよなら」

「うん、ありがとう。さよなら、かなた」


 分かれ道に差し掛かる。

 繋いでいた手が、ほどけていく。

 未織の体温が名残惜しい。

 だけど、もう一度、掴むことはできない。

 だから代わりに拳を握る。

 彼女の体温が少しでもここに留まるように。

 ――さよなら、未織。

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