5-2

その日は来客数も少なく、お店が暇だからという理由で香苗は早あがりを命じられた。給料が減ってしまうのは残念だが予定より早く帰宅できるというのは案外気分がいい。私服に着替えて更衣室から出ると目の前に菊池がいた。違和感で時計を見ると午後八時を少し過ぎたところだった。

「あれ。菊池さん? どうしたんですか、こんな時間に」

 主婦の菊池がこんな時間にお店に来ることは珍しい。菊池は香苗を見つけると「よかったあ、ナイスタイミング」と言って香苗に小さな紙袋を差し出した。

「これさ、香苗ちゃんから神上店長に渡してくれる?」

「はあ」

 状況が全く掴めない、紙袋の中を覗き込むとキレイに包まれた小さな箱と色紙らしき物が見えた。

「で。何ですか? これ」

「何って、お店の皆からの寄せ書きと、贈り物」

「誕生日か何かですか? なんでわたしが渡すんですか?」

 矢継ぎ早に質問する香苗に対して、菊池は怪訝な表情を見せた。

「なんでって、店長急に異動になっちゃったから。ちゃんとお礼を言うタイミングがなかったじゃない? それで皆にお願いして色紙を書いたのね。だから……」

「異動ってどういうことですか!」

 菊池の言葉に食って入った香苗に菊池は「はあ?」と困惑を隠せない様子だった。

「え? 神上店長、先月で異動になったじゃない。あ、聞いた話しだと異動っていうか退職って噂もあるみたいだけど。え? なんで香苗ちゃん知らないの?」

「なんで教えてくれなかったんですか……」

「いや、なんでって……香苗ちゃんに店長の話しは……ねえ」

 菊池の言葉を最後まで聞くことなく、香苗は荷物を掴んで店を飛び出した。駅前の大通りまで走って、交差点の真上を覆う巨大なデッキに続く階段を駆け上がる。家路を急ぐ人ごみをすり抜けて、デッキの端に勢いよく手をついて冷たい手摺に額を当てた。苦しい。そっと顔をあげると眼下にバスロータリーが見える。神上と乗った、あの川へと向かうバスがテールランプを引っ張って滑り出して行った。社員が一人異動になっただけだ。今までもあったことだ。珍しいことじゃない。けれど、こんな気持ちになったのは初めてだ。この感情の正体を香苗はきっと、知っている。

「……帰って、きてよ」

 車のランプが規則正しく流れる眼下の川面に向かって、香苗は胸の奥に溜まった言葉を吐き出した。

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神上店長の文化人類学 梅屋 啓 @kei_umeya

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