エピローグ

5-1

あの日体験した出来事が一体何を意味するのか、香苗は未だに納得のいく答えを出せずにいた。ただ、納得はできなかったが何かしらを理解した気持ちでいることは間違いがなかった。あの日、あの場所で何かが変わった。そして工藤光代の止まっていた時間は確かに動き出したのだ、と思う。ただ、変わらないことがあるとすれば、工藤光代は相変わらずラピッドバーグに姿を現しているということだ。ただし詐欺師としてではない。時折駅前にふらっと現れては店内を覗き込み、香苗の姿を見つけると店内に入ってくる。からからと軽い音を立てるカートはきれいに磨かれ、日当たりのよい窓際の席に腰かけて温かい紅茶を飲んで帰る。砂糖なし。スライスレモンを二枚。すっかり好みも覚えてしまった。その姿を見て香苗はふと思い出した。常連だった工藤光代の夫も、その席に好んで座っていたことを。

「これだけ来てるんだから、いい加減覚えてくれんかね。あたしゃ油っぽいものは食べないの。温かい紅茶を一杯。砂糖はなし。レモンを二枚おくれ」

 工藤光代のことを知らない新人アルバイトには手厳しい。口の悪さが少々目立つが、そう言ってにやりと笑う口元にはきれいな歯がすらっと並んでいる。最近になって入れ歯を新調したようだ。先週くらいのことだったろうか。石山が一度だけ神上を訪ねてお店にきたことがあった。神上はその日休日であった為、顔を知っている香苗が伝言を頼まれたのであった。

「いやあ。びっくりですよ。急に墓参りに来るようになりましてね。今じゃお墓もきれいになりまして。あ、とは言っても工藤さん高齢だから、草むしりやお墓磨きはわたしがお願いされるんですが」

 そう言って石山は後ろ頭を掻いた。神上にお礼を言いに来たとのことだったので「伝えておきます」とだけ言っておいた。きっと神上のことだから「僕は何もしていないよ」と言うに決まっている。きっかけをつくっただけ。背中を押しただけ。神上はそう言っていた。けれどそれが工藤光代にとってどれだけ心強い支えであったかを香苗はよく知っている。

 

 月が変わったある日、香苗が客席のテーブルを整えて回っていると、工藤光代の方から珍しく声を掛けてきた。

「ちょっとお姉ちゃん」

「はい、なんでしょうか」

 お姉ちゃん、とよそよそしく呼ばれることに些か距離感を感じてしまうほど、香苗にとって工藤光代は親しみのある常連客になっていた。そういえば、名前を名乗っていなかったな、とこの時になって香苗は気づいた。

「あのさ、あのハンサムなお兄ちゃん。最近見かけないけど元気にしてるかね」

 恐らく神上のことだろう。そう言えば香苗自身も今月になってまだ神上と顔を合わせていない。

「今日はお休みなんです。何かお伝えしておくことがありますでしょうか」

 香苗がそう言うと工藤光代は「そうかい」と寂しそうな表情を見せた。

「あんたがいるときは、あのお兄ちゃんもいるもんだと思ってたんだがね」

 そういうことだったか。と香苗は納得した。香苗を狙って来ていたわけではなかったということだ。

「そしたらさ。また来るけど、一応一言だけ伝えておいてもらえるかね」

 工藤光代はそう言って陶器のカップに残った紅茶をぐいと飲み干してから再び顔を上げた。

「本当に、ありがとう、ってね」

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