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「あの日、僕らがここで出合った釣り人の男性が言っていただろう。工藤さんがここへ食べ物を置いて行くことについて。河原にゴミを捨てて行けば、亡くなったご主人がひょっこり現れるんじゃないかと思っているのかもしれないって。あの考えが出発地点だった。つまり工藤さんにとって、亡くなったご主人はお墓の中には宿っていない。今もまだ、この川にいるんだってね」

「それで一度もお墓参りに訪れなかったんですね」

 香苗の言葉に神上は小さく頷いて話しを続けた。

「そして二つ目のキーワード。それは翠光の森で石山さんが教えてくれた。工藤さんの出身地だ」

 香苗はあの日、翠光の森で石山から聞いた話しを思い出していた。二人は元々九州の出身で、ご主人の仕事の都合でこちらへ引っ越してきた、という内容だったろうか。

「九州が何か関係あるんですか」

「九州のある地方に伝わる、古い民間伝承だよ」

「民間伝承?」

 都市部で生まれ育った香苗には距離感の遠い言葉だった。ふと想像したのは地方のお祭りや儀式、言い伝えみたいなものだろうか。

「僕は大学で文化人類学を専攻していてね。地方の民間伝承を主に研究してたんだ。それでちょっと引っかかることがあって、休日に大学の図書館に行って文献を調べてきた」

「文化人類学……」

「工藤さん、あなたが育った九州の南部には水の事故で亡くなったご遺体を引き取る際、水に向かって声をかける風習があるそうですね」

 神上の言葉に工藤光代は小さく頷いた。

「声をかけるって、どういうことですか」

「亡くなった場所に向かって、一緒に帰ろう、と一声かけるんだそうだ。そうしないと亡くなった人の魂が水の中に囚われてしまって成仏できないと考えられているみたいだね」

「そうか、工藤さんは亡くなったご主人をこの川に迎えに来ていたんですね。けれど、声をかけようにも工藤さんは……」

「うん。だから工藤さんは考えたんだ。どうすれば声を出さずにご主人にその意図を伝えることができるのか。それでご主人が好きだった食べ物を持っていくことで気持ちを伝えようとしたんだろうね。家に帰って、一緒に食べよう、って」

「それも、上手くいかなったということですか」

「何を持って上手くいったとするかは工藤さん自身の心の問題だろうけどね。ただ、この方法ではご主人が帰ってきた感じがしなかったんだろう。けれど、他に良い方法が思いつかなかった。選んだお店が悪かったのか、メニューが悪かったのか。あれこれ試しているうちに、お金もどんどんなくなっていった」

「それで嘘をついてまで商品を手に入れるようになってしまったと……」

「説明しても理解してもらえないと思ったんだろうね」

「それじゃあ、わたしたちが代わりにご主人を呼んであげればいいってことですね」

「いや。それじゃあダメだ。これは工藤さん自身の問題だからね」

「ええ……、じゃあ、わたしたちは一体何をすれば」

 香苗がそう言うと、神上は河原を見つめ続ける工藤光代にそっと歩み寄り、その小さな肩に優しく手を置いた。

「言っただろう。僕らができることは、工藤さんの支えになること。背中を押してやること。それだけだ」

 工藤光代は困惑した表情で神上を見ていた。香苗には工藤光代のその顔が、不安の中に少しだけ嬉しさが混じっているように感じられた。神上は優しい口調でゆっくりと、工藤光代に語り掛けた。

「工藤さん。今までずっと、あなたの思いを理解してあげられず、本当に申し訳ありませんでした」

 神上の言葉に、工藤光代はゆっくりと首を横に振った。

「大丈夫です。ご主人は今もずっと、ここであなたが呼んでくれるのを待っていますよ」

 工藤光代は川面を見つめたまま動かない。夫が亡くなったときのことを思い出しているのだろうか。少しだけ、肩が震えているように見えた。神上は工藤の背中にそっと手を当てて、何も言わずに待った。工藤光代の口元が微かに動いた気がした。声にならない声が、少しずつ、その震える唇から漏れようとしているのが、強烈に香苗の元へと伝わった。香苗の拳に自然と力がこもる。何をしてよいか分からない自分がもどかしかったが、邪魔をしてはいけない空気が、場に張りつめていた。聞こえるのは、川のせせらぎだけ。白檀の心地よい香りが三人の周りに異界を作り出しているように感じた。神上がまた、ゆっくりと口を開く。

「工藤さん、あなたはとても優しい人です。嘘をついてまで、皆に嫌われてまで、ずっとここにご主人を迎えに来ていたんだ。でもね、きっとご主人はそんな工藤さんを見たくはないと思うんです。ご主人は新しもの好きだったって、ここで出会った人が教えてくれました。ですから、古いしきたりみたいなものはあまり気にしない人だと思います。けれど工藤さんがここに足を運んでいる限り、ご主人はずっとここで、あなたが声をかけてくれるのを待っていると思います。そうしないと、あなたがこの場所から、あの時間から動き出すことができないとこを、ご主人も分かっていると思うから」

 工藤光代の震える頬を涙が伝っていた。

「あ……、あぁ……」

 先ほどまで空気が漏れているだけのようだった工藤光代の唇から、僅かだが音が生まれたように聞こえた。それはまだ何の意味も持たないただの音であったが、確かに空気を震わせて、何事かを伝えようとする意思を宿し始めたことを、香苗は確信した。

「工藤さん、もう自分を責めるのは終わりにしませんか。古くからの習慣を大切にしてきたあなたが、自分の最も大切な人に、礼をつくすことができなかった。それで、ご主人が怒っているんじゃないかとか、恨んでいるんじゃないかとか、ずっと悩んで、苦しんできたんでしょう」

 工藤光代は肩を震わせて何度も頷いた。

「僕はね、神主でも霊能者でもない。でもね、ご主人はあなたのことを怒ってもいないし、恨んでもいませんよ」

「ああぁ……」

 工藤光代の嗚咽に、確かな音が伴った。

「だって、あなたが愛した人じゃないですか」

 神上が両手で工藤光代の肩をそっと押し、触れていた手を離した、その一瞬だった。

「帰ろう、あんた……」

 工藤光代の口から、はっきりと、そう聞こえた。歯のほとんどを失い、入れ歯もしていない彼女が一切の淀みもなく、鮮明な言葉を紡ぐことが果たして可能であったのか。だが、始めて聞く工藤光代の声は、優しくも鮮烈に香苗の鼓膜に響いて離れることはなかった。そしてその声を一際大きくうねりを上げた川面のせせらぎが、一陣の風と共に包んで水の中へと吸い込んでいった。一瞬の出来事に香苗は、何が起こったのか考える糸口さえも掴めずに立ち尽くしていた。目の前には川面に向かって手を合わせる工藤光代と、傍らで微笑む神上の姿。足元には燃え尽きた線香の灰だけが、心地よい白檀の香りを僅かに漂わせていた。

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