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「え。あ、危ないですよ!」

 香苗が声を上げて制止しようとしたが、工藤光代は構わず土手を下っていった。カートの車輪にストッパーでブレーキをかけ、器用にゆっくりと雑草が生い茂る斜面を進んでいく。香苗と神上はその後ろから工藤光代を見守るように絶妙な距離感を保って土手を降りていった。結局、工藤光代はそのまま何の危なげもなく河原へと降り立った。カートの車輪には巻き込まれた雑草が絡まり、スラックスの裾は砂埃で汚れていた。香苗はその姿にはっとした。

「そっか。いつもこんなふうに土手を下っているから、服が汚れていたり、裾がほつれてしまっていたんですね。お金がなくて服が買えないわけじゃなかったんだ……。それにしても何故こんな危ない場所から……」

 少し先へ行けば河原へ降りるためのスロープが整備されているはずだ。いつも一人でこんな危ない場所を下っていたのかと思うと心配を通り越してぞっとする。

「恐らくここが、ご主人の亡くなった場所なんだろうね。工藤さんにとっては人生を変えてしまった特別な場所だ。目の前に辿り着いていながら、一度通り過ぎて戻ってくるということが、我慢ならなかったんだろう」

 夫がこの世を去った日、工藤光代はこの場所で何を見たのだろう。夫が川で溺れたという一報を聞きつけ、急いでこの場所へ向かっただろう。二年前、工藤光代はカートを押していたのだろうか。誰かにこの場所まで連れてきてもらったのだろうか。土手の上から河原に横たわる夫の姿を見ただろうか。人ごみに囲まれて、何が起きているのか理解ができなかっただろうか。居ても立っても居られず、この土手を下って夫の元へ駆けつけたのだろう。そのとき、夫はまだ生きていたのだろうか。既に冷たくなっていたのだろうか。工藤光代にとって、この場所はあの日、あの時間のままで止まってしまっているのではないだろうか。香苗は砂利を踏みしめながらよろよろと川へ歩いていく工藤光代の背中を、ただ追っていた。

「天野さん、どうする? 僕は工藤さんの所へ行くけど、ここにいるかい?」

 神上の声に香苗の思考がふと現実に舞い戻った。

「行くに決まってるじゃないですか。ここまで来たらわたしも最後まで見届け……いえ、工藤さんに、寄り添います」

 香苗はそう言って神上の後について工藤光代の元へ向かった。香苗が工藤光代の顔をふと覗き込んだとき、彼女は口元を震わせ、何事かを言いたげに目の前を流れていく川面を見つめていた。その横から神上が工藤光代の足元へ回り込み、前方の河原へとしゃがみこんだ。しばらくして神上の足元から一筋の煙が立ち上った。川面から吹く風に乗って、香苗の元にも白い煙が拡散して届いた。心地よい香りがする。白檀の香りだ。神上が立ち上がると、足元には束ねられた線香がそっと置かれているのが見えた。神上は工藤光代に向かってゆっくりと言った。

「あの、こういうの正しいのかどうか分かりませんけれど、一応やっておいた方がいいかと思いまして。よかったですか」

 神上の問いに、工藤光代は数回、小さく頷いてみせた。香苗だけが未だに状況が飲み込めないまま、どうしてよいかわからず心が右往左往していた。

「店長、そろそろ説明してくれてもいいんじゃないですか。今からここで、一体何をしようとしているのか。まさか、亡くなったご主人の幽霊を呼び出そうなんて話しじゃないですよね」

「その通りだよ」

「え! そんな非科学的な方法で解決できるような問題なのですか」

 香苗は神上の耳元に小声で囁いた。その言葉に神上は一瞬厳しい眼差しを見せた。

「天野さん。僕らがやってる接客とかサービスっていうのは、そもそも科学で説明できるものじゃないんだ。脳科学とか心理学とか、全て学問や理屈で答えが導き出せる仕事じゃない。それに、非科学的かもしれないけれど、それが科学的手法に対して劣っているなんてどうして言えるんだい?」

「それは、そうですけど……」

「工藤さんが抱えている悩みや問題は、言葉や理屈で解決できるものじゃない。僕はそう思ったから、今日工藤さんとここへ来た。これで工藤さんが救われて、変われるのなら、その過程が科学的とか非科学的とか、そんなこと些細な問題だ」

 神上の強い口調に香苗は気おされしてしまった。職場でも見せたことのない力強い表情だった。

「でも工藤さんのご主人を呼び出すなんて、本当にできるんでしょうか。どうやってそんなことを……」

「ここから先は工藤さん本人の問題なんだ。言っただろう。僕らができるのは背中を押してやるか、支えてあげることだけだって」

「神上店長、教えてください。これから、ここで何が起きるのか」

「何が起きるかは僕にも分からない。でも、そうだね、そろそろ僕の考えていることを話しておかないといけないね」

 神上はそう言って軽く腕を組むと、川の流れをゆっくりと目で追うように川面と対面し、語り始めた。

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