4章

第9話

 着いた先は神社だった。敷地は広く奥の奥まで闇が続いている。灯りなどほとんどなく、鳥居の両側に取りつけられた鈴のようなもののほか、境内に入るとなにも見えなくなった。


 辺りは木々に囲まれており、やけにひっそりしている。ここではあらゆる生き物が息をひそめるらしかった。ときたま遠くからバサバサッという音が聞こえるものの、この近くでは何の音もしない。そこで男もなるべく音を立てない移動を心がけた。周囲の環境に合わせて自分を変化させるというのは日本人である彼にとってすこぶるやり慣れた態度選択だった。もしくは男が日本人であるかどうかにかかわりなく、やしろという場所的性格が、そこに来る人間を覆い、結果、見事にやり込められてしまうのだろうか。男はそんなことを伸びきった頭で考えていた。


 しかしながら這うこと自体は今までのどこよりも簡単だった。段差もなく、敷石はよく手入れがされており、石ころ一つ転がっていない。石を手や膝にめり込ませるといった障害とは無縁だ。そのまま闇の中を進んでいくと、ほんのりとした明かりがやがて見えるようになる。その光は真正面から来ている。心もとないわずかな光ではあったが、賽銭箱やら拝殿やらがそれに照らされていた。もっと近寄ると人影もあらわになってきた。それが誰なのかはすぐさま見てとれた。「美内さん」と男は四つん這いで進みつつ声を出した。


 声は思っていたよりも小さく、あちらに届いているのかどうか怪しかった。その証拠として向こうは何の反応もなかった。そこでもう一度「美内さん」と、今度は気もち大きな声で言ってみた。すると初めて反応があった。明かりは上下左右にびくびく揺れた。声は聞こえていたのだろうが、こちらが何者なのかを図りかねていたのだろうと男は思った。こちらからあちらを見るときは光の助けを借りられるが、向こうからしてみたら、男は闇の一部と化しているのだから。存分に近づき、明かりが男の顔を満たすくらいまでになったところで明かりの落ち着かなさは止まる。「貴一くん」と向こうでも呼びかけてきた。


「負けた。早かったんだねえ」

「いや、私だって、ついさっき着いたばかりだったから」

「でも負けは負けだ」

「じゃあ私の勝ちってことで」


 美内は笑った。だがその笑いは疲労に押し込まれてずいぶんと力のないものだった。


 男が美内の顔を見るのは二度目ということになる。あのときもよほど痩せていたが、今回見たものはさらに痩せ細っていた。紫色の光のせいでなおさらそう見えた。拒食症なのかもしれないと疑いを挟んだほどだった。頬はげっそりと削げ落ちており、唇は不気味に変色している。目は窪んでおり、まるで老女のようだ。髪も彼女の老女らしさを一層きわだたせていた。大学生のはずなのに、艶というものがすっかり抜け落ちている。引きこもっているうちに自然とそうなっていったのだろう。ぼさぼさで、しかもそれが汗で湿っているのだからなおのこと悪い。だが男にはそれが醜いものとは思えなかった。むしろ彼女の肌やら髪やらに触ってみたいという欲望を感じた。自分としても正体不明の突発的な欲望ではあったが、欲望は欲望であり、またそれを制御できるほどの理性もあり余っていなかったので、結局それに従うしかなかった。髪に触れるとしょぼしょぼした感触に包まれた。すぐに離してしまったが、その感触はいつまでも忘れないだろうと男は確信していた。肩先までのそれは風に吹かれて竹林みたいに音を立てて揺れている。そういえば、ここにきて若干気温が下がったようだと男は思う。風が異様に冷たく感じられる。腕には鳥肌が現れていた。美内もまた、腕を抱えるようにして座りこんでいたので、きっと彼女も鳥肌なのだろうなと男は推測した。


 勝負には負けたが、悔しい気もちはまったくなかった。いや、元々勝つために頑張ってきたのだから、それなりには悔しかったのだろうが、だからといって、彼女に嫉妬したりだとか、そこまで発展することはなかったのだ。悔しい気もちはすぐに彼女を褒め称える気もちへと昇華した。彼女もまた勝利したことには特に誇りを感じていないらしく、お互いがお互いのことを褒め合っていた。気もちが和んだところで、ここに来るまでにどんな冒険をしてきたのかを語り合った。どちらもルール違反をしていないことがわかりほっとした。どんなことがあっても道具に頼ってはならず、あくまで自分の四肢だけを使ってここまで来ること。それを二人とも達成しただけでもすごいことだと男には思えた。そしてきっとこの「すごい」だけで充分なのだとも。


 どれだけしゃべり合っていたのかまるでわからない。なぜなら男は、ここに来るまでのあいだに時間という概念をすっかり消失してしまったからだ。今がたとえ午前十時だと気象予報士に告げられたとしても男にはその事実をすんなりと受け入れられる自信があった。時間とそれによってもたらされるはずの景色との連関を結ぶ努力を男は放棄していた。だいたい今はちょうど深夜零時ごろなのだろうなということを思い浮かべはするものの、それがなんだという気もちだったし、そのことをあえて美内に告げるほどのものでもないと思っていた。


 ほとんどすべてを語り終えたところで二人は黙った。話が途切れた瞬間ふっと体から力が抜けてしまったのだ。あとはどこを見ることもなく、ぼんやりした時間を過ごした。またその時間も、どれくらい費やされたのか、男には知るよしもなかった。ただ、月がだんだんと移動してきているなくらいのことしか考えていなかった。それはきっと向こうも同じことだろう。美内に目を向けてみると、彼女は目をつぶっていた。だが完全に寝ているというわけではなく、見られていることに気づくと男に顔を向けてきた。その顔には一切の表情が欠落していた。だがその欠落は、以前サラリーマンたちが向けてきたあの欠落とは異なり、欠落を充実感が支えているような、意味のよく通った無表情だった。それを見て男は満足した。そして自分もまたそういう顔をしているんだろうなと想像しながら目をそらし、再び月の微動な煌めきを追うことにした。


 夜が去り、そろそろ陽が明けようというところでお師匠様がやってきた。お師匠様は石段を悠々と登ってきて、威厳に満ちた足取りで賽銭箱まで歩いてきた。そしてその側らに座る男たちを無視して、頭を下げたり拍手したりして、挙句賽銭箱に硬貨を投げ入れた。それが五円玉であったことを男は見逃さなかった。投げ入れると、お師匠様はまた頭を下げたり拍手したりした。最後に鈴を大きく鳴らした。その音は鋭敏に男の耳に入ってきた。それは同時に、男を現実感覚へと引き戻す合図ともなった。


「達成したのだな」

「はい」


 お師匠様の声に合わせて男は立ち上がる。美内を見てみると、彼女もお師匠様の存在に気づいたらしい。彼女はお師匠様の容貌にいささか気後れしているようだった。彼女に手を伸ばして立ち上がらせる。しばらくして手を離すが、若干ふらつきながらも、それでもどうにか立つことができていた。


「帰るぞ」

「はい」

「美内さんを送ってやれ」

「わかりました」


 再び美内へと手を伸ばす。彼女の細々とした指にはほとんど力が入っていなかった。だから男の方から積極的に握らなければならなかった。しかしあんまり力を入れすぎると、そのままグシャリといってしまいそうで加減が難しい。その慎重な態度にお師匠様は薄ら笑いを浮かべている。


 社の柱の陰で何かの動く気配がしたが、男は一度それを目にとめてから、また視線をもとに戻し、以降はもう振り返らなかった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

踵についての物語 水野 洸也 @kohya_mizuno

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ