第8話

 橋を渡った先は進むごとに暗くなった。賑やかさから離れ、虫たちの声がよく聞こえるようになった。ぽつりぽつりと住宅地が見えはするが、人の往来はぴたりと途絶え、風がよく吹くようになった。まだ切り開かれていない山道に差しかかったのだ。たびたびバスが通るが、この辺りにだけはあまり人が乗り降りしないようだった。乗り降りするのはごくわずかな限られた地元民だけであり、先ほどのサラリーマンなどはこの先の橋をさらに渡ったところにある住宅街まで行くのだろう。この地帯だけが都会から切り離された孤独な島になっていた。いずれはここも開拓されるのだろうが、大方有力な地元民の猛反発でうまくいっていないのだろうということくらいは予想がついた。


 二車線から一車線になり、道幅自体が狭まる。さらにその道路沿いから離れていき、車が一台くらいしか通れなさそうなところへと進む。険しい山道だった。平坦な道ではなく、くねくねしながら上へと続く果てしない場所だった。だが美内から送られてきた地図によれば、この道を進むしかないみたいなので、もう少しの辛抱だということで耐えるしかない。今まで長い道を進んできただけあって、疲れはピークに達していた。そのため一気に駆け上がることなど当然できず、定期的に休まなければならなかった。


 空が暗くなったので、それにつられて気分すら暗くなる。もしも美内が来ていなかったらどうしようという思いが脳をよぎる。まさかそんなことは、だってあっちから提案してきたことじゃないかと必死にその思いなしを打ち消そうとするも、一旦出てきた疑念は否定するたびにその勢力を増していくようであった。今ではそれはもはや確信へと進化しきっていた。じゃあ俺はあいつに騙されたということになるのか。今までの苦労はなんだったのだろう。確かにゲーム自体は向こうが放棄するわけだから、こっちの勝利になるわけだが、その勝利は形式的で無意味なものだ。誰に勝利したのか、何に勝利したのかが不明確になる。なんの余韻もないまま、そこで一夜を過ごすか、または夜通しかけて自宅までまた戻らなくちゃならない。そんな体力はもう残されていないから、きっとこの不気味な山奥で一夜を過ごすことになるのだろう。夏だからまだ大丈夫だろうが、冬だったらかなりヤバかっただろうな。いや、夏でも油断はできない、未知の害虫が寝ている隙を見計らって襲いかかってくるだろうから。運が悪ければ肉食の大型の鳥か何かに心臓をつつかれて、そのままぽっくりと逝ってしまうかもしれない。だが、それも別に苦にはならないだろうなと男には思えた。ここまですでに、時間をかけて何度も何度も死んできたようなものだから、いざ本格的に死のうとしても、きっと潔く、何の抵抗もないまま、スッとあちら側の世界に行けるのだろう。むしろそうなることが自分の本当の幸せですら思えてきた。


 それともなにか、ここで寝てしまってもいいかもしれない。暗闇の中、道路の中央に寝そべるのだ。こんな場所に人がいるはずもないと車は思うから、きっと油断して俺を轢き殺すだろう。そうして俺は本当の意味で死ぬことができるのだ。二十年という月日は決して長くはなかったが、充実はしていたと思う。やり残したこともこれといってない。これからたくさんやりたいことができて、それを実際に知ることができないというのは残念なことだが、今見えていないことが逆に救いだ。知っていたら、それへの執着が死ぬという決心を妨害してきただろうから。その点俺は幸運だったのだろう。未練もなく死への憧憬を思い描くことができるのだから。男にはさまざまな死のパターンを想像することができた。鳥に心臓をつつかれること、車に轢かれることはとっくに出たものだが、そのほかにも、どこかの崖に夢遊病者みたいに笑いながら飛び降りる自分や、恐ろしい蜜蜂に攻撃されて全身を腫れあがらせたまま悶えつつ徐々に死を迎える自分を想像することができた。そのすべてが彼には現実味を帯びていた。どれもすぐに実行できそうなものばかりだった。だがどれがもっとも自分の人生において適切な最期なのか、そのところがわからなかったため、それが男の性急な死を思いとどまらせているといった状況だった。


 月を見る。綺麗だ。今日はよく晴れていて、雲もあまり浮かんでいない。星と共に鈍く光っている。だが、それがなんだ。あれが光っているからって、それが俺の助けになるのか。気分的に、月を見ていると確かに落ち着いてくる。詩人はこんなとき、気の利いた言葉を残すのだろう。だが俺にそんな余裕などありはしない。詩人というのは余裕から生まれるのだ。踵を失って、こんなくだらない状況に巻きこまれて、今にも死にそうになってひいひい言っている人が、月みたいに綺麗な言葉を残せるはずがないのだ。死にそうになっても余裕をもてているのが詩人というものだ。俺みたいな普通人じゃそうはいかない。死というものに囚われすぎてしまって、その圧倒的な衝撃とはある意味で突き放された幻想的な言葉を生みだすことなどできない。詩人をけなしているわけじゃないが、尊敬もできない。言葉を残すことが尊敬されるのじゃなく、こうして生きながらえていることそのものが尊敬されるべきなのだ。だから詩人が褒められ称えられるとき、その言葉を尊敬してはならないのだ、きっと。そうじゃなくて、死を見据えてもなお、そんな言葉を生みだすことのできる彼の知性、余裕に対して感心するのが本来の姿勢なのだ。俺はそう思いたい、でなければ、言葉をもたない者どもの死がまったくの無駄に終わってしまうだろうから。


 とすると、俺は自分の死を華々しくしたいという欲望があるのだろうかと男はふと思う。この期に及んでなんと贅沢な。くだらない人生だったのだから、くだらない死に方で間に合うはずなのだ。それがどうして詩人じみた願望をもっているのか、我ながら謎だった。俺は一体どうしたいのか。華々しく死にたいのか。そうであれば、どうしてこんなところにうずくまり、自然のうちにやってくる死を待っているのか。華々しくしたいのであれば、動いて、華々しく死ねる場所を積極的に求めるべきではないだろうか。そして今男の頭の中にある、そのようにして死ねる場所というのが、まさしく美内と約束したあの場所であった。そこでしか自分の死が考えられなかった。脳を回転させてさまざまな死に場所を妄想してきたが、そのどれもが、その場所の百分の一の魅力も有していなかった。それらを総合したところで釣り合うはずもなかった。その場所はいわば理想郷だった。そしてそこには必ず美内が存在していた。彼女失しの理想郷は理想郷ではないらしかった。これはどういうことだろうと男は思う。決して彼女に恋をしているわけではない。一度しか会ったことがないから、声くらいしか彼女と本格的に接したことがないようなものだ。けれども男は、どうやら美内という人間を死と同じくらい本質的に求めているらしかった。あるいはそれが自分をここまで歩いていかせた理由なのかもしれないと男には直感された。その思いに達すると、自分のこれまでの重荷が不意に無くなる感触があった。今ならどこまでだって行けるかもしれないと、男は格好悪いとは思いながらもそう思わざるを得なかった。詩人にはなれないが、活動することは誰にだって許されている。そうなればやることは一つだろう。男は笑みながら体を起こした。彼の眼には星も月ももはや見えていなかった。自分の場所すらおぼつかなかった。ただ、この道を登った先にある、そこだけは彼女も教えてくれなかった、未知なる集合地にのみ男の視線は注がれていた。

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