第7話

 幅広の二車線道路は、夕暮れにはそこを走る車の数がピークに達した。そのそれぞれが密かに自分を観察しているのだと思うとやりきれない気もちになる。だがもうあれからかなり時間がたってしまったので、その認識は変わりつつあった。見られていじけている自分を、もう一人の自分が観察できるようになったのだ。そのことを楽しむ余裕もできていた。もしくはそれは、ついに狂ってしまったことを意味しているのか。そのへんは男には自覚されない。しかし少なくとも、朝に比べると何次元も意識を更新していることはわかっていた。以前までの自分が誰か別の人間の人生みたいに感じられた。今、ここでこうして歩いている自分は自分でしかありえないが、それまでの自分、こうするまでに培われてきたかつての自分が、内部のものじゃなくて外からべたべたと貼りつけにされているような印象だった。それくらい過去はもはや重要ではなくなっていった。かろうじて思いだせるのは、自分の年齢やら、所属する大学やら、家族の一人ひとりやら、どうあがいても変えることのできない宿命づけられたもののみに限られていた。


 男は時間についてもあまり考えなくなった。今何時なのか、男にはたいした問題ではなかった。暗くなりつつあるな、もうそろそろ夕飯時なのだなということくらいは表層として浮かぶのだが、それがどうしたといった感じで、その後の具体的な行動にまで及ばないのだ。だから、自分がお腹を空かせているらしいことも充分把握できていたが、だからといって、たびたび見かけるコンビニやら牛丼屋やらに立ち寄ることも考えなかった。というか、そこまでするだけの持ち合わせすらあるかどうか怪しい。玄関を飛びだすとき、彼にはお金という理念が完全に欠如していたのである。


 無心になって這いつづける。それしか今はもうできることがない。坊さんであればこういう修行をすすんでするのだろうと男はうっすらと思う。十何時間も壁に向かって座禅し、そのまま日が暮れるまで動かないでいる。トイレなど、どうしようもないものは仕方がないものの、一日中そんな生活をすれば常人は耐えられないことだろう。なにかそれをするだけの思いきった心、そうしなければならない追いつめられた何かがないととても可能じゃない。男の場合、それは美内とのゲームだった。それだけが彼を求道的行動へといざなっていた。彼を締めあげる鎖は、ここにきてさらに力を増していた。もっと前に進みたいという思いが先行し、ともすれば体がそれに追いつかず転びそうになることもしばしばあった。しかし、それに対してなんら消極的な思いなど抱くこともなく、むしろそうなることに喜びすら感じているのが男の今の心境だった。


 手のひらには感覚がなかった。目をつぶっていたら、自分の手がどこに位置しているのかに迷った。だから男は、ある時点から前を向かず手元を見ていないといけなくなった。でないと、手が思わぬ方向に行ってしまうことになり、前ばかり見つめているよりも危険になるからだった。だが手元ばかり見つめているのも厄介だ。こちらに向かってくる人は、だいたいはこちらを狂人と判断し勝手に避けてくれるが、なかにはそうしてくれない人もいる。それに横断歩道に差しかかれば、赤か青かを判断するのは見上げなければできないことだ。車の行き来を感じとるだけで、今渡れるかどうかを決めるのは結構なギャンブルだろう。それに歩くのが遅いため、自分が横断歩道に到着した時点でどのくらい時間がたっているのかを見極めることも重要だった。渡る前に赤で、青になったときにちょうど渡りだせば、制限時間内にどうにか向こう側にたどり着けるものの、横断歩道に行きつく前に青であり、時間内に渡れそうにないなと判断したら、たとえ青であっても直前で止まるしかなかった。その見きわめは這っている途中、横断歩道に着く前に済ませなくてはならないから、その場合やはり前を向かなくてはならない。四つん這いの恐ろしさをいやでも感じさせる一つだった。


 大きな鉄橋まで来た。ここを渡りきれば、集合場所はもうすぐのはずだ。ここまでくると、道もいよいよ本気を出してきて、これまでどうにかくぐり抜けてきた難関ポイントを総合して試練してきた。数回の段差があったり、四つん這いではなかなか進めないような勾配の場所を準備してきたりする。道行く人たちの数もどんどん増やしていき、なかには大勢で一列になって行く手を無理やりはばんできたりもした。その場合はもう、こちらから止まるようにしていた。彼らに笑われてはたまらないので、起き上がり、柵に拠りかかり、休憩している人を装うようにした。若干不自然ではあるものの、四つん這いで歩いているのを晒すよりはどれほどマシかわかったものじゃない。特にこの橋は往来が盛んのようで、歩く時間よりも休憩している時間のほうが長くなるといった具合だった。その時間は男をじれったくさせた。もうすぐだというのに目的地が遥か遠くに感じられた。だが、着実に近づいていることの証左として、向こう側の陸地がだんだん見えだしていた。休憩しているふりをしながら、そちらに目を向けて意識を燃えあがらせたものだった。


 真ん中を越えたあとは下り坂と同じ試練が待っていた。うつ伏せの姿勢ではもううまく進めそうになかった。進もうとすれば腕に相当の負担がかかり、ともすればすってんころりんとなってしまうことうけ合いだ。だがほかに方法も思いつかず、無理してそう進んでいた。体を仰向けにして足を前にして進む方法を、男はかつて高架橋で実践していたはずなのだが、それを思いだすことすら男は放棄していた。その報いはすぐにやってきた。バランスを崩し、手を滑らせる。するとそれにつられて全身の力が抜け、物的法則に逆らえなくなる。男は橋の残り半分を、自らの体を転がして進む羽目になった。途中他の人にぶつからなかったことが奇跡のようだった。ごろごろと回転し、徐々に回転数が少なくなり、停止してしまったあとは、もうなにもしたくなくなってしまった。仰向けになってただ空を眺めていたかった。体の節々が痛いが、あの長い距離を一気に突破できたこと、また、転がることがすがすがしく、多少スリリングでもあったので、男の気分はむしろ晴れやかだった。


「大丈夫ですか?」と誰かが声をかけてくる。どうやら会社帰りのサラリーマンのようだ。バスを使ってこの辺まで来て、あとは家まで歩いているといった感じだろう。頭は夏らしく短く刈られており、眼鏡をかけている。体は決して貧弱ではなく、腕まくりしたワイシャツは、汗で体の線を浮き彫りにしていた。上半身は隆々としており、もうちょっと顔が良質なら男の自分でも惚れていたかもしれないと男は思った。


 狂人にこうして声をかけられるだけの勇気は認めてもいいし、他の人から、たとえ形式的なものであっても心配されるということに悪い心地はしなかったが、今はそれにきちんと答えられるだけの余裕はなかった。もしあったとしても、頭がその余裕についていけない、ということになるはずだ。男の頭は最初から一切のコミュニケーションを拒否していた。会話を成立させることができないくらい、男の頭脳は正常な状態を逸していたのである。


「大丈夫です。たぶん」と言って男は自分で立ち上がってみせる。四つん這いよりもきちんと二本の脚で立ち上がったほうが説得力が増すだろうと思い、街路樹に助けられながら立ってみせた。それから相手ににこりと笑ってみせた。サラリーマンはそれでも心配そうな態度を崩さなかった。どう声をかけていいかがわからず、戸惑っているようでもあった。本人は大丈夫だと言っているが、橋を転がって渡ってきたところをみるとどう考えても大丈夫ではない。助けてやるべきだろう、人間として。だがあとあとのことを考えると面倒でもある。この男は明らかに精神的におかしい人だ、何を言われるかわかったものじゃない。下手なことを言えば、急に怒りだしてこちらを殴りつけてくるかもしれない。それは困る。僕は明日も会社があるのだから。この子とは違って、僕には正常な日常というものがあるのだ。ここは無視していくべきだろう。しかしそれではあまりにも薄情というものではないか? 僕は果たしてどうすべきか……。そういったサラリーマンの葛藤が男には見え透くようであった。この一日を通して、動物的な、本能的な、そういう雰囲気を嗅ぎわけることのできる能力を発達させてきてしまったらしい。


「本当に大丈夫ですから。なにも心配いりません」


 男は声を強くして言った。サラリーマンはそれでもなかなか動かなかった。だんだんと人が集まりはじめているようでもある。ちょっと面倒なことになりそうだ。「とにかく、警察に電話を……」と言って携帯を取りだしたサラリーマンを男は止めようとする。


「大丈夫だから! 俺は大学生です。ほら学生証。なにも悪いことしていないですから、もういいでしょ」


 男は財布から学生証を取りだした。街灯に照らされたそれは、男自身、そこに写っている写真が誰のものかの判別がつかなかった。過去の自分であることはわかるものの、それは確かに現在の自分と別人であるため、その結びつけがうまくいかないのだ。サラリーマンもまた、学生証にうつる写真と本人とをしきりに見比べていた。


「本当に、そうなのかい? きみ、ここに写っている顔と、だいぶ違っているじゃないか」

「きっと光の加減とかですよ」

「いやしかし。頬の辺りなんかまるで違う。もっとふくよかであっていいはずじゃないか」


 男はだんだん億劫になってきた。何を言っても信じてはくれないだろうと思い学生証をしまった。そして周りに集まっていた何人かに微笑みかけて手を振った。彼らはみな一様に同じような表情を浮かべていた。それは心配しているようでもさげすんでいるようでもなかった。どの部類にも属しない、まっさらな、まさに人間らしい呆然とした顔つきだった。それを見られただけで満足だった。男は木から手を離し、四つん這いになった。そして再び目的地に向けて体を引っぱりはじめた。後ろを振り返ることはしない。おそらく彼らは俺を眺めつづけているだろう。警察かどこかに電話を入れたかもしれない。もしそうだとすれば、警察がやってくる前にたどり着かなければ。男は最後の力を振り絞るようにして四肢をみなぎらせた。美内はどこまで来ているのだろう? 唯一の気がかりな点といったらそのくらいのものだった。

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