第6話
たびたびルートを修正する。美内から送られてきた地図を見直しつつ四つん這いを続けていく。その間もちろん
まったく愉快でない冒険だ。そしてひどく暑い。それもまた男の気分をもみくしゃにする原因の一つだった。これほど暑くなければまだマシだったろう。顔の赤さを暑さのせいにできるという利点はあるものの、それを考慮しても、この暑さはおかしい。それに暑いからといって人の出入りが少なくなることはないのだなということも、次第に男には悟られた。住宅街を抜け、ひときわ大きな通りを進むことになったのだが、そこを歩く人は大勢いたのだ。特にバスが酷かった。一挙に大勢が降りてくるものだから、その場にちょうど居合わせたりすると、もう恥ずかしさどころではない。その団体がなんだかこちらを糾弾する弁護士軍団じみて見えてくるのだ。恥ずかしさを通り越して、もっと別の領域へ行ってしまうような気分を、男は何度か体感する羽目になった。ここを避けて通るわけにはいかなかった。避けようとすれば、集合場所は男と美内とで等距離にあらなければならないという条件が崩れる。遠回りをすればそのぶん美内が有利になるわけだから、その時点で勝利は難しい。目的地に行くのにもっとも時間のかからないルートを通らなければ、彼女より先にたどり着くことは難しいのだ。よって我慢が絶対の条件だった。バスが通るたび、また、停留所を目にするたびに緊張が走った。意気揚々となったり意気消沈となったり忙しかったが、一、二時間もすればもうそのようなことはあまりなくなり、さらに二、三時間たつと、それもまた通り越して、もう生きた心地の得られないまでになった。
高架橋を渡るときも問題だった。登るときも降りるときもそれぞれ別の意味で苦しかった。登るときは、つま先に得体の知れない重さが加わり、思わず引き攣りそうになったことが幾度も起こった。おそらく昨日のあの練習が響いているに違いない。つま先があのときのことを想起して、タバコをやめようと決意した人間が次の日には無意識のうちに煙草を胸ポケットに入れているような具合で、ついまた引き攣ってしまう。こればかりは男自身どうしようもなかった。つま先に負担をかけないよう、しかしながらつま先を使わないことにはうまく登ることができないわけだから、できるだけ負担を少なくするよう心掛けつつ、ひどく不格好な体勢で進まなくてはならなかった。ときたま他人が後ろから追いついてきたり前から横きっていったりした。視線に対しては幾分耐性がついてきたが、グループで移動する若者が少し離れたところに行った瞬間大笑いしていたのには耐えられなかった。このまま階段を滑り落ちて、獰猛な土佐犬か何かに食い殺されようと決心したくらいだった。
下りは下りでまたきつい。今度は手に負担がかかる。四本の支柱を使って尻を一段一段下ろす作業を続けているうちに、腕の筋肉は悲鳴をあげ始めた。脚のように丈夫にはできていないのだ。それに踵のかつてあったらしいところを浮かせながらだから、降りるときの姿勢は、まるでブリッジをしているみたいなものになった。それもまた若者の笑いものに晒された。写真に撮られなかっただけでも儲けものだと思いたかったが、男の脳裏にはいつまでもその笑い声が消えてなくならなかった。子供に指を思いきり指されて、純粋な声で「なにやってるの?」と聞かれたときも、死にたいという気もちを強くした。以前から生きた心地がしていないわけだから、死にさらに死を重ねようというのだ。子どもの声にはそういう力が具わっていた。それだけであればどれほどよかっただろう。これだけの場合、自分に対する気もちの変化だけで済むから。問題はそこに子供の親が加入してくる場合だった。女親がこちらをまるで異物と認識したみたいな目つきで睨み、それから子どもに優しげな眼差しで向き直り、「ああならないよう気をつけなさいよ」と注意しているところをしっかり聞いてしまったときは、新たに「怒り」という感情が沸き上がってきたものだった。この場合自分だけでなく相手にも気もちの変化による実際の行動の影響を与えようとしていることになる。現に、けっこう危ないところだった。もう少しで女親に掴みかかるところだった。無論、そうするには踵がどうしても足りないから、心意気だけで終わることは必定だったのだが。そのことがまた男には悔しかった。しまいにはあらゆる負の感情が入り混じったカオスな心へと変貌していくのが実感できるようになった。
それでもこれを続けなければならない自分の人生についても頻繁に考えるようになった。俺は一体どんな悪いことをしたからこんな目に会っているのか? 俺でなくても別の人間であり得たはずなのだ。それがどうして俺なのだ。自問自答をくり返すうち、神についても思いを馳せるようになった。一体神とは何なのか。人を救う存在ではないのか。日本に神はいないのか。どうしていないと証明できるのだ。いないという証明は、同時にいるという可能性をも示してはいないだろうか。そして、俺を救ってくれない神というものは、同時に、俺を救ってくれる神というものがあるかもしれないということを意味してはいないだろうか。この場合七福神なぞは役に立たないだろう。あれはもっと全体的な幸福を運ぶだけで、個人の問題を解決できるほど実務能力に長けているわけではないのだ。都内の院長みたいに、てきぱきと個人的な問題に対処してくれる神はいないだろうか。そういう神は予約がいっぱいで、俺の番が回ってくるまで時間がかかるのだろうか。だとすれば俺の番はいつになる? 今日なのか、それとも一週間後か。その日付の書かれた受付書類はどこで発行できる? 近場であればあるほど良い、なにせ俺は踵を失っているわけだから。なに、書類なんてものはない? 俺の踵が治ったときが順番の回ってきたときだ? そんなものは言われなくともそうだろう。いちいち言われるほどのことじゃない。待てということなのか? だが俺に待っている時間はない。美内とのゲームは今も進行中なのだ。それに勝たなければ俺は……。
ここで男は思考を中断させる。俺は美内とのバトルに何を期待しているのか。このゲームは俺の踵の治ることを約束してくれるのだろうか。そうでなければどうして、こんなわけのわからないゲームを続けているのか。だいたいもし、日常でどう過ごそうが順番の回ってくる早さが変わらないのだとしたら、そのときが来るまでじっとしていればいいじゃないか。そのことにもっと早く思い至るべきだったんだ。そうすれば美内にわざわざ連絡を入れることもなかったのに。
だがそこまで考えたところで、男は考えすぎたことを自ら後悔した。あんまり自分勝手に過ぎるじゃないか。美内はきっと、自分自身のためを思ってのこともあるだろうが、こちらのことも考えてそういう提案をしてきたのだ。俺はそれに頷いたのだ、今更彼女を裏切れないという義理もある。それに、もしここでゲームを放棄してしまったら、美内はどうなるだろう? 俺は楽になれるだろうか? むしろ美内に対する心配で心が占められはしないだろうか? 俺が放棄すれば美内は間違いなく落ちこむだろう。そうなったとき、男には彼女を救う手立てを思いつけなかった。であるならばこれを続けるしかない、ということもある。だが、それ以上にゲームを続けなければならない理由がある気がした。それははっきりとしているのだが、あまりにはっきりとしているためにむしろ男には見えにくくなっているものらしかった。それを突き止めようと努力すればするほど怯えて隠れてしまう性質をもったものだった。だから男には、それを無理に突き止めようとせず、ただ闇雲にそれを信仰し、従うほかなかった。そういう気もちで以って今までこうして進んできた面もあるかもしれない。そしてそれは、きっと目的地にたどり着いたときにこちらにもちゃんと見えるようになるだろうという予想が男にはあった。その予想自体はこの時点ですでに男にはしっかりと把握できていた。今はそれを信じるしかなさそうだ。男はこれだけのことを考えたあとで、街路樹の並んだ通りを見据えつつ、自分の意志が固くなったことを再確認した。
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