3章

第5話

 記憶とは無差別に切り分けられたケーキの多くの集まりみたいなものだ。過去に起きた自分にまつわる出来事を思いだそうとするとき、その全体がそのまま思いだされることはない。そこで起きていたことの一つ一つを正しい順番で脳内に再現することも、なかなかできるものじゃない。断片が繋ぎ合わされて、かろうじて保たれた形で「再演」されることはあり得る。しかしそれは決してそのときの「再現」ではない。たとえ演目が同じであっても、そのときどきによって微妙にかたちは異なってくる。それと同じようなもので、そのときの出来事は、もはやそのままに再現することは不可能なのだ。出来事は瞬間的なものに凝縮されることになる。その出来事においてもっとも印象深い瞬間が取り出され、それが出来事全体を代弁する、要約する。一瞬という時間にすべてが凝縮されるわけだから、それは以前とは形の違うものであり、しかもより鮮烈に生まれ変わっている。だから人は、その出来事が起きたときはあまり意識しないのだが、あとでそのことを思いだそうとするとき、いやにくっきりと、まさに人生における一大事件じみたものとして自らの心に映るのである。それが過去に囚われる原因を作る。現在に生きることは、そういう記憶のからくりから自由になることなのかもしれない。


 男も今、そのことから自由になろうとしていた。そして美内もまた自由になろうとしているに違いないとも男には思えた。彼女はおそらく、踵を失いみんなから笑いものにされたことをいつまでも心に残している。けれどもそれが本当の記憶なのかどうか、男にもわからないし、たぶん美内自身にもわからない。彼女の頭には、漏れなく全員が同じ思考で以って彼女を笑いものにしている構図が浮かんできているだろう。だがそれは限りなく幻想である。確かに笑いものになったかもしれないが、全員が同じ心で彼女を見ていたわけではなかったはずだ。そのなかには笑いものにされている彼女に声をかけてあげようとした人がいるかもしれない。それはわからない、過去の出来事であり、再現は不可能になってしまったから。問題はその形の変わった記憶からいかに解き放たれるかということだ。そのためにこそ彼女は男に「ゲーム」をしようじゃないかとけしかけたのだ。お互いの気もちを共有するために。そして、まさに彼女自身、抱えている問題を解決しようとするために。その意味で男は巻きこまれた側ということになる。しかしこのチャンスが男自身にとっても有意義なものになることには間違いなかった。ゲームをやっていなければ、次にいつ外に出られていたかわかったものじゃないからだ。


 男は四つん這いになりながらそんなことを考えていた。玄関を開けるとまず日差しが飛びこんできた。ちょうど玄関の正面から日差しは差しこんできていた。男はだいたいいつも二階から太陽を眺めていたので、地上から眺めた際の太陽がこんなにも違うものなのかということにまず驚いた。太陽からは確かに、わずかながらではあるが離れたことになる。しかし、ここから見たときの太陽は、なんだか二階でのものよりも立派に見えた。それから発されている炎をより感じることができる、というか。ともかく男はそれに早速怯んでしまった。しかしすでに外に飛びだしてしまった以上、あと戻りすることは許されていない。ゲームに勝ちたいという思いもまた、男の前進をあと押ししていた。


 まだ他の人とすれ違うことはない。住宅街でそれはめったにないことなのかもしれない。もしくは男の、誰にも会いたくないという気もちが現前し、人を知らず知らずのうちに避けさせているのか。だがここから集合場所まではわりと距離があるため、その間一人も出会わずに進むというのは不可能に近い。男はそれを承知していた。それをふまえたうえで、それでもなるべく人に会いたくないという思いが男には願望としてあった。それが男を慎重にさせ、前進を非常にゆっくりとしたものにした。ここからであればまだ塀とかを使って人の視線から逃れることができる。だがもう少し進んでしまえば、自分は公共の場に放りだされてしまう。それが男には怖かった。ずっと引きこもっていたから、他人への耐性をほとんど失っていたのである。


 男は携帯を取りだしてメールを見た。そのなかには美内からちょうど九時半に送られてきた「出発!」という文字の書かれた一通が収まっていた。彼女のところにもこちらから送ったメールが届いているはずだ。文面からすると元気そうだが、美内さんは今ごろ、きちんと出発できているのだろうか。男にはそうとは思えなかった。彼女だってきっと玄関のところで思いとどまっているだろう。勝負はもう始まっている。この第一の難関を先に突破したほうが勝利により近づくことができるのだ。そしてその勝利はまた、自分自身にも打ち勝つということをも意味している。そう思うと男にはやってやるぞという心意気がおこりはじめた。心がまっさらになり、景色が一変したようであった。自分が何に怯えているのかがよくわからなくなった。そうだ、こうやって、手と足を順番に動かしていけば進めるのだから。ほらこうやって、いちに、いちに。男はあっさり道路に出ることができた。自分でも拍子抜けだった。どうしてこんな些細なことにいつまでも囚われていたのかが馬鹿らしくなってきた。男はこのことを自慢しようと美内にメールをしようとした。だが、出発の合図以外はよほどのトラブルが起こらない限りは禁止されていることを思いだしたので渋々携帯をポケットに戻した。


 右に進路を取り、そろそろと進んでいく。まだ人の姿はない。意外なほど静かである。左右は塀に囲まれており、もしかするとみんな、家に閉じこもっているのかもしれない。この暑さだ、なにも好き好んで外出することはないのだ。夕暮れであればもう少し人の数は多くなるだろうが、日中は四十度近くまで上がるらしい。散歩するにしては暑すぎるし、人がいないのも納得だ。男も暑いのは嫌なので、塀の陰に隠れながら進んだ。


 このようにしてこそこそと四つん這いで移動する姿を他の誰かに見られたら、俺はどうなるんだろう。男はそのことを考えずにはいられなかった。無論、どれだけ考えたところで、向こうの思想など知ったこっちゃないから、その多くは的外れのものとなろう。だが、想像が一旦頭に結ばれると、それは急速に勢力を増して、意識を支配しだす。それが自分にとって不快なものであればあるほど支配の度合いは高まる。それが未来に絶対に起こり得るものと勝手に結論づけられる。男の汗はこの暑さによるものだけではなかった、むしろ想像の副作用によるものであることが男自身にも悟られた。男は急に不安になり始めた。先ほどまでの意気揚々とした勇気はどこへ行ってしまったのだろう、男は自身に裏切られた気もちになる。後ろを振り向くと、犬を連れた奥さんが犬を散歩させながらこちらをじっと眺めていた。ちょうどT字路を左に横ぎるところだった。男が彼女と視線を合わせた途端、男の思考回路はぷつりと切れた。そして意外なことに、犬がここらではあまり見られない土佐犬であったことに、意識の大半が注がれた。


 土佐犬は飼い主が立ち止まっていることに不満であるようだ。おそらく赤ん坊の頃から育てられておらず、最近どこかから引き取られてきたものなのだろう。土佐犬は十メートルほど離れたこちらからでもよく聞こえるくらいの声量で、「うううう……」と唸っていた。自分の思う通りに散歩ができず、しかし飼い主は飼い主であるから逆らうことができず、そういう声を出すしかないといった感じだ。しきりに辺りを嗅ぎ回ったり、前足を上げたり下げたりしている。キョロキョロと辺りを見回していき、彼もまたこちらに気づいたとき、男の意識ははっと元に戻った。意識が戻ると途端に恥ずかしくなってきた。自分が猫であればどれほどよかっただろうかという思いなしが頭に飛来した。自分でも耳が真っ赤になっていることがわかった。けれども、自分がこうしていることの事情を話す時間も余裕もないのだし、話せたとしても信じてくれはしないだろう。踵を失うということは、医師の話によれば、まだ全国的にも世界的にも稀らしいから。あんなおばさんが踵を失うということの意味を知っているはずがない。土佐犬ともなればなおさらだ。男はそう判断して、きっと前に向き直り、さっさとここからとんずらしようとした。後ろから二匹の視線がじわじわと伝わってくる。それは太陽よりも暑い視線に思えた。早くそれから逃れたかった。だが次の曲がり角までずいぶん距離があった。両手両膝を懸命に動かそうとも、一般人が走るのよりも何段階も遅いことは明らかだった。男はじれったい気もちに満たされていた。どうしてこんなに遠いんだと道路に訴えたかった。体が火照っていた。こんなんではとてもやっていられない。


 男は再度後ろを振り向いた。その頃にはおばさんも土佐犬も姿を消していた。


 しばらく視線を後ろにやったまま、動くことができなかった。今のが幻だとは思いたくなかったが、頭は勝手にそう判断しようとしていた。おばさんと土佐犬がこちらを見つめる情景が浮かんでは消えていた。そのイメージの連鎖に耐えることができなくなり、男はよく中年男性が小便をする際に漏らすような苦悶とも快感とも捉えがたいくぐもった声を出して、塀に背中をもたせかけた。脈拍数が百二十から六十、七十になるまで待つことにした。こんな状態で歩けば、きっと俺は道半ばで倒れて死んでしまうだろうということが男には判断されたからだった。


 果たしてこんな調子で、無事に集合場所までたどり着けるのだろうか。わからない。十中八九、不可能だ。でも帰るわけにはいかない。美内との約束、ただそれだけが男を拘束していた。その鎖は彼を乱暴にきりきりと締めあげていた。後ろに戻れるほどのたゆみもなかった。その場に留まることすら許されていない。なぜならその鎖は、なにもしていなくとも自動で勝手に長さを縮めているからだった。それはいわば男の、体よりも先行する心の状態であった。気もちだけは前に進もうとしてまなかった。男にとってそれは意外なことだった。普通逆だろう、気もちは弱々しいけれど、体は自動的に前に進む、というような。このような体験は生まれて初めてかもしれないと男には思えた。この心理状態をどう説明すればよいのか、心理学を専攻しているにもかかわらず、彼には突き止めることができなかった。結局この問題は置き去りにしておくしかなかった。とにかく自分は、本心的に美内に勝ちたいということなのだ。そして彼女への勝利に何かしらの意味を見いだしたいのだ。それだけは確実なのだ。そして玄関でのときと同じく、美内もまたそのようにして頑張っているのだということが男を勇気づけていった。男はそれでもしばらくは動けなかったが、三十秒ほどたってから、「よし」と小さく自分に一声かけて、背中を塀から引き剥がした。時間のたった鉄板みたいにほんのりと熱いアスファルトに手と膝をつけて、赤ん坊の如くよちよちと、しかしながら着実に、目的地に向けて這いはじめた。

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