2章

第4話

 朝起きると男はメールの返信が来ていないかがすぐ気になった。それが寝ているあいだもずっと頭を占めていたせいで、普段より一時間早く目覚めてしまった。目を開けた瞬間から、彼の脳内には都合のいい展開、つまり、美内は夜中、こちらのコンタクトに気づき、若干躊躇いつつも、まずはこちらと同じく気のない返事でも出しておこうという彼女のどぎまぎしたシーンが広がっていた。それが事実かどうかはともかくとして、彼にはそのイメージがずいぶん心地良いものに感じられた。得てして妄想というものは、自分にとって幸福なものとしてしか映らない。こんな都合よくいくかと諫める自分もまた存在している。けれども、ベッドからずり落ち、床に転がった携帯を拾い上げて、着信が一件あったことを知ると、男は途端に舞い上がる。


 それはメールの着信ではなく電話の着信だった。夜中にかかってきたらしい。履歴を見てみると、美内は夜中の三時ごろ、十秒ほど鳴らして切ったようだ。男は電話にまったく気づかなかったことを悔やんだ。そのとき出ていれば、またこちらからかけるという手間を省けただろうに。


 とにかく男は美内に電話してみることにした。電話は一分ほど接続できなかった。だが、それから向こうから応答があった。「はい」といういかにも眠たそうな声が流れてきた。それは少なくとも一般的な女の子の声ではないと男には思えた。どちらも寝起きらしいというのも関係しているのだろうが、それにしては異様に枯れきった声に聞こえた。中年男性のうがいのような気味の悪い音を彼女はそのあとで発していた。


「久しぶり」

「うん」

「元気にしてた?」

「まあまあかな」


 それにしてはずいぶん疲れているみたいだけど、という言葉を男は寸前で呑みこむ。彼女のその言い方は、そんな話なんてしたくない、という気もちが充分含まれていたからだ。男は「そっか」という返事で済ませる。こちらとしても、もし元気かと聞かれたら、きっとそのような返事しかできないだろうということを男は想像していた。


「……貴一くん、踵、失くしちゃったんだね」美内は若干の沈黙のあと、そう男に呼びかける。


「そう、なんだよね。だからずいぶん困っていて。バイトにも行けないし、ほかにもいろんなことに集中できないし」男は笑いを交えつつ答える。だがその笑いが、相手にとってなんだかうそぶいているように聞こえやしないかと男は心配になった。だからそのあとで、「本当なんだよ。冗談じゃなくて」と付け加える。


「そうなんだ」と美内はそれだけを返す。あくまで彼女は、自分から自身の問題を開示しようとはしない。それわかるー! などという本当にわかっているのかわからないのだかそれすらもわからない男と同年代の女の子のよく使う同調の言葉も彼女の口からは出ない。そのことは、男の言っていることが本当かどうか決めかねていることを示している。彼女はおそらく、だからこそ、自分のことをほとんど話そうとしてくれないのだ。男はそう結論づける。


 しかし自分の踵の消失を本当だと証明する手立ては限られている。証明できなければ話はまったく進展しない予感がある。男にはだから、口を閉ざす以外の方法をとれない。美内の判断に任せるしかないのだ。


「……どんな感じ?」美内は静かな声で訊く。その頃になると、もう彼女の以前の眠たさはなくなっていた。ガラガラした声もよほど和らいだ。しかしそれを差し引いても、携帯の画面に「美内」と出ていなければ、別人だと容易に信じてしまえそうなくらい、めちゃくちゃな声をしていた。


「そうだなあ」と男は慎重にこれまでのこと、主に昨日のことを思いだしながら話した。「まず立てないっていうのがつらいよね。それで、どうして自分が立てなくなっているのかがわからないことのほうが、もっとつらい。これまでちゃんと立てていたはずなんだよ。でもそれがどうしてか、うまくいかなくなってしまっている。医者とかは『君の踵が失くなったから』って言っているけれど、この言葉の意味もはっきりしちゃいない。君の踵ってなんだ? それって普通にみんな持ってるものなの? 俺の病気というのはそういうことなの? そういうことを考えちゃって。まあでも一番困るのは、日常生活が前みたいに送れなくなったことだね。現実的にそれが一番困ることだよ」


「踵があったっていうところには触ってみた?」


「いやそれがね。全然触れないんだよ。医者は、足の後ろの部分、ぽっかり空いた部分を『踵だった』って言うんだけど、そこに触れることがどうしてもできないんだよ。タオルとかで体を拭くじゃん? もちろんその部分にも触れることになる。でも、いくら強く擦っても、感覚というものが伝わってこないんだ。まるでなにもない空間で押し合い圧し合いしているみたいでさ。不思議な感覚だ。多分美内さんもわかってくれると思うんだけど」と男は相手に会話の主導権を渡そうとした。


「なるほどねえ」と美内はそれだけを言った。まだまだこちらを信用できないらしい。「ずいぶん苦労しているみたいで。私も同情する」


「美内さんだって、そうじゃないの?」


 美内は黙ってしまう。ここが畳みかけどころだと思い、男は矢継ぎ早に言葉を繋いでいく。


「俺、筧さんから聞いちゃったんだ。美内さんがそのことで苦労してるって。もちろん初めから知ってたってわけじゃなくて、自分が同じ病気にかかってから、同情的な意味で、彼女が話をしてくれたんだけど……。で、昨日の夜、突然そのことを思いだしてメールしたんだけど。気づいてくれたみたいで良かったよ」


「びっくりしたよ。いつぶりか知らない」

「まったくね。でもまあ、こう言っちゃ元も子もないけど、俺たちあんまり話したことなかったからね」

「そうだったかもね」


 ぎこちない会話が続き、そしてこのあとも続きそうな予感が、男にも、そしておそらく美内にも、あった。そのことがさらに会話を途絶えさせる一原因ともなり、男たちは黙るほかなくなってしまった。


 どうにかしなければ、この沈黙は苦しすぎる。男はそう思う。だがそう思うごとに、出てくるべき言葉は次々と奥に引っこんでいった。そもそも男はそれほど話が上手いというわけではないのだ。誰かが沈黙すれば、そのしんみりした空気を盛り上げられる能力があるはずもなく、自分もまた、その沈黙に呑みこまれていくタイプだった。相手を思いやれば思いやるほど、どのように言葉をかけていいのかがわからなくなってしまう。しまいには予想もつかないような言葉が彼の口から飛びでてくることになるのだが、それが幸運にも場の空気を温かくするのか、それとも冷たい空気を更に凍えさせるのかはその状況次第という感じだ。そして今、その段階に突入するという頃合いだった。男の頭にある話題が浮かんでくる。このまま何も言わないでいるのはあまりに億劫だったため、そのことを話してみようと決めこむ。


「お師匠様は、この病気を俺自身のせいだって言っているんだ」


 一度口から出てしまった以上、続けるしかない。


「お前の気合が足りないからだって。お前は何かを打ち捨ててしまったのだろう、それも徹底的に。それが原因で、こうして踵が失われたのだ、お前にはこの言葉の意味がわからんだろうがな。普通人であれば踵が失くなるまで行き着かない。そうなる前に体がセーブしてくれる。だが、ある一定数のみ、セーブの効かない人間がいるものなのだ。それが発動しなければ、体はどんどん形を変えていく。お前や私がこうして人間という一般的に認められた形を持っているのも、そのセーブがあってこそなのだ。これがなければ体の構造は人によってさまざまになるだろう。その影響が踵に現れた、というわけなのだ。医学的証拠があるわけじゃあない、そもそもこの時代、踵の消失は病気とは定められていないからな。治療方法もまったくわかっておらん。だからこそ、お前の元気が足りないというのだ。元気がなければなにも成すことはできん。人はこれまで元気で世界を発展させてきたのだ。お前もまた、それさえ充分ならば、この問題を解決できるはずなのだ。お前はこうして脱力しているが、踵が失いからといってなんだ、お前はそれだけで崩れてしまうような人間なのか。お前が本当にこれを克服したいと思うのであれば、考えるのだ。どうしてこのようなことになってしまったのかを一生懸命思考するのだ。どうして、どうしてと、何度も問い直す。そうすることで道は開けてくるというものだ。決して他人事で言っているわけじゃないぞ。わしだって昔は、決してお師匠様と呼ばれるような立派な人物ではなかったのだからな。だが儂はお前とは違い、どうして自分がお師匠様でないのかを多く考えた。何度も何度も自分と世界に問いかけて、どうすればお師匠様になれるのかを分析した。お師匠様であり続けることのリスクと公益についても予測した。導きだされた成果にもとづいて努力もした。その結果がこれだ。どうだ反論できまい。世の中はすべて元気で動いておる。だからお前も元気をもつことだ。話はそれからだ。もう一ヵ月もすれば、儂はまた、以前の厳しいお師匠様に戻るぞ。今までの話はその予告にすぎない。優しいのはこれまでで、あとは自らが解決しなくてはならないのだ。……こんなことを、言っていた覚えがある」


 男は話しているうちに、果たして美内に語りかけているのか、それとも自分自身に向かって話された言葉なのかがわからなくなっていた。お師匠様は確かに男にそういう話をしたことがある。だがその大部分を男はほとんど忘れていたのだ。話しているときも、決してお師匠様の言葉が念頭にあったわけではなく、ただ自分がそのときに受けた印象を元に再構成したにすぎない。そしてその再構成という作業自体が男を別の視点に移すことになった。語っているうちにお師匠様の葉が真実に思われてきた。何を語ったのかは今では本当には思いだせないが、仮に自分の今言ったことの通りのことを言ったのだとしたら、信じたくなってしまう。というか、自分の語ったことである以上、信じるほか残されていないわけだ。語り終えたとき、男は一人で勝手に興奮していた。これまでの自分を反省し、またこれからどうするべきかをすでに考えはじめていた。美内の声で一旦は中断されたが、その思考様式が確立された以上、もう忘れないだろうということははっきりしていた。


「お師匠様が……」彼女の声は少し優しさを帯びているように感じられた。「私は実際には会ったことないけど、そういう人だったんだね」

「そうなんだ。変な人だけれど、でも間違いなく、お師匠様は俺のお師匠様だよ」

「わかった。私、正直貴一くんの話は信じてなかったけど、今なら信じられる気がする」


 その言葉を聞いて男は思わずため息が出る。「ありがとう。信じてくれて」


「で、話はそれだけ?」


「え?」男は変な声を出す。


「貴一くんは私にお師匠様のことを語りたいがために連絡を取ってきたの」

「い……や、別にそういうことじゃないんだけど」

「じゃあどうして?」


 そう言われて男はちょっとした混乱に陥る。自分でもどうして美内と連絡を取りたかったのかが不明だった。ただ、あのときはどうしても美内さんに連絡をしておかなければという思いで精一杯だったのだ。あるいはこれがお師匠様の言っていた「元気」の表れなのかもしれないが、それだけでは説明がつかない。美内に連絡を取らなければならなかった必然的な理由が彼にはすぐには思いつかない。


「わからない。でも、問題を共有しておきたかった、っていうのが大きかったのかもしれない。もちろん俺の抱えている問題を美内さんに知ってもらいたくて、同じように、美内さんの抱えている問題を、俺も共有したいなって……」言っていてなんだか恥ずかしくなってきたため、男の声はますます小さくなっていき、しまいには途切れてしまった。


「へえ」


 美内はそれだけを言った。


 しかし、この「へえ」は決してそっけないものではなかった。普通「へえ」は、まるで興味のない場合、すぐにでもこんな話を終わらせたいという潜在的な思いを乗せて言われるため、だいたいの場合において、これを聞いた人はちょっとした苛立ち、気分の乱れ、あるいは怒りのようなものすら感じるはずだ。だが美内のこのときの「へえ」は、男の感情をなんら乱しはしなかった。むしろ男を一種快楽的な方向へと導いた。美内の嘆息からはこちらの話に感心したという思いが込められているようだった。それで男は、こんな自分でも女の子を感心させられるんだなあという誇りを感じ、それで心地良くなったのである。また、照れながらとはいえ、自分でもわからなかった自身の本当の思いが口から出てくれたことに対する感動も、男の心地良さの原因になっていたのかもしれない。いずれにせよこのときから、二人を隔てていた壁が取り払われたような気がした。以前までのぎこちなさも、まだ確信には至っていないものの、失くなったようであった。


「へえって。そんなに俺の話が馬鹿らしかった?」男は冗談めかして言う。


「いや、別にそんなことじゃなくて。ただ、良いなあって思っただけ」

「なるほどねえ」


 男と美内は話の流れから自然に笑い合った。


「じゃあこれで貴一くんの目的は達成したわけだよね」


「まあそういうことになるね」男は少しの物足りなさを感じつつ言った。


 美内は何かを考えているようだ。「なんだよ」と男が話しかけてもしばらくは無反応だった。だが電話を切るような態度でもなさそうだったので、男は待つことにする。何か思うことがあってそれを必死に言葉にしようとしているのかもしれない。男にも多かれ少なかれそういう経験があるので、向こうの気もちはなんとなくわかる。


「ねえ、私たち、合流してみない?」美内は突然明るい声で言う。


 最初、男にはこの言葉の意味が読み取れなかった。「合流」という単語が果たしてどういうものを指しているのかがいまいちはっきりしない。「どういうこと?」と質問してみる。すると美内は待ってましたと言わんばかりに説明をしはじめる。


「つまりね、私たち、現実に集まってみない、っていうこと。場所は公平になるように、私の家と、貴一くんの家、同じくらい離れたところがいいよね、うん。そういう場所、公園かどこかがあったらいいんだけど。で、同じ時間に家を出発して、どっちが先にそこにたどり着けるかっていう、ゲーム? みたいなもの」


「ちょっと待って」男はあまりに美内が興奮して話しだすので、そのスピードに追いつけていなかった。このときの男の頭には、初めて彼女を見た際の光景が思い描かれていた。つまり、あの病弱そうでおよそエンタメとは縁のなさそうな人が、こうして楽しそうに「ゲーム」をしようなどと口にしているということ、そのギャップに、男はしてやられていたのである。この思いなしが男の口をしばらく留めさせた。少しして「なに?」という美内のためらいがちな声が届くまで、男の意識は過去に完全にもっていかれていた。


「いきなり何を言いだすのかと思って」と男はなんとか自分の考えていることを言葉にしていく。「なに、ゲームって? いったい俺たち、何をこれから始めようっていうの?」


「ゲームはゲームだよ」と美内は当然のことのように言う。「競争って言ってもいいのかもしれないけど。でもどちらにしても、私がやりたいことは同じ。つまり、私と貴一くんで、どっちが先にゴールにたどり着けるかっていうゲーム」


「いきなりで全然わからないんだけど、美内さんは、どうしてもそれをやりたいわけ?」


 そのあと少し会話が途絶える。美内さんはおそらく、これが電話内での会話であるにもかかわらず、あたかも二人が対面しているかのように、頷きを返していたのだろう、と男はうっすらと想像する。それからちょっとして「うん」という小さな声が聞こえてきた。


「場所はあとで指定するから。なるべく公平になるように選ぶから、その辺は安心して」


「うん。それはいいんだけどね」と男はなんだか自分がどこか別の世界に移住してしまったかのような気分に満たされつつ続ける。「どうして俺とゲームをしようと思ったのか、そもそものところを聞きたいんだけど」


 すると美内は「え」という困ったような声を出した。「気になる?」


「うん。できれば教えてくれると助かるんだけど」


「実は私にもよくわからなくて」と美内は以前と同じ、沈んだ冷たい調子に声を戻して話す。「ただ、きっかけになったのは、貴一くんのお師匠様についての話だったんだと思う。それを聞いて、なんだか私も頑張らなくちゃなって思ったんだ。貴一くんまで巻きこむ必要はなかったんじゃないかって今になって考えるんだけど……。でも、こうして話すよりも、直接会って話をするほうがいろんなことがわかるんじゃないかっていう気もしてる。あ、もう病気が本当かどうかは疑ってないからね! こんなに詳しく話せるんだから本当には違いないよ。でも、まだ疑っている私もいる。だから直接確認してみたい。そういう理由もあるんだと思う。でも一番は、自分で頑張ってみたいっていうこと。そのためには仲間がいたほうが心強い。きっと貴一くんだって、自分で頑張ってみたいんじゃないかって思ってる。勝手な想像だけどね。お師匠様のその話をちゃんと覚えていて、私に伝えてきてくれたってことは、貴一くんも、そうなりたいっていう気もちがあるってことに繋がるから……。ごめんね、私ばかり話してて」


「いやいいよ。続けて」


「うん。で、あんまり自分でもよくわからないんだけど、大体はそういうところ。これまで私、ずっと引きこもってた。踵がないことがこんなにつらいことなのかって一人で悩んでた。でも、貴一くんと問題を共有できたことで、すごく救われた気がするんだ。もちろん筧さんが話を聞いてくれたり、レポートも手伝ってくれたりしなかったら、もっと酷いことになっていただろうけど……。やっぱり根本的な解決のためには、こうするしかないんだと思う。自分で動いてみること。私、頑張るから……だから貴一くんも、頑張って」


「うん……わかった。じゃあ俺も、頑張ってみるよ」


 変な空白がそのあとに生じる。だがそれは決して空白ではなかった。そこは親密な空気で満ち満ちていたのだ。それを男は感じることができたし、おそらく美内も感じていることだろうと想像することもできた。見知らぬ人間同士が集まったときの沈黙は息苦しいものだが、親しくなった者同士のそれは、沈黙に潜む意味を変えてしまう。短時間ではあるが、その現象が連続して二人の内に起こったという次第であった。それから美内のほうから電話を切った。ツー、ツー、という音を確認したあとで、男も電話を切った。


 ベッドを背もたれにして脚を伸ばす。携帯の画面を、それがスリープモードに移行するまで見つめる。美内との会話は、男にとってまるで夢の出来事のようであった。話しているあいだは無我夢中だったので、そのせいもあるのかもしれない。彼女の話す声が脳内で響いていたが、それは小説の登場人物の一人のセリフに感じられた。自分がもう一人いて、彼に美内との会話を任せっきりにしていたように思えてならなかった。彼女と会話をしたという感触が、ついさっきの出来事であるにもかかわらず、ほとんど残っていなかったのだ。男はそのままの態勢で目をつぶった。とても眠れはしないだろうということがわかっていたのだが、そうするほかにやることがなかった。


 特別な解放感のようなものが男を満たしていた。かたちを変えたものとはいえ、美内とのコミュニケーションに成功したのだ、その達成感も大きい。だがこの解放感はそれだけに留まらない気もしていた。もっと大きな世界に向けて自分が解き放たれたような思いがあったのだ。それはもちろん踵のあるなしに留まらないものだった。もっとこう、踵も含む自分という内面に潜むものが外側に顔を出したというか、一皮剝けられたような、そのような感じだった。その気もちを名づけることは男には難しかった。彼にはただ、それに受動的に包まれていることしかできなかった。それは時間をも忘れさせるものだった。はっとして時計を見てみると時刻はもう七時を回っていた。一階からはテレビのわずかな音声やら父親母親のひそひそとした話し声が聞こえてきていた。這いつくばりつつ窓の近くまで行き、戸を開ける。眩しすぎる日差しが男を出迎える。朝なのだ。

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