第3話

 その日の夜に男は大学ノートを引っぱりだしてきた。ノートを作るのは得意でないが、今日はどういう成果が得られたか、今後自分はどうすべきかを詳細に書き綴ろうと思ったのだ。決意が済むとすぐに行ないたくなるのが男の性質だったので、実行は早かった。しかし途端に何を書けばいいのかがわからなくなり、一行目からシャープペンシルの動きは止まった。


 ドアがノックされて食事が運ばれてくる。時計を見れば午後八時だった。皿には六つの餃子と中華スープ、それからスーパーで買ってきたらしい惣菜が並んでいた。たっぷり盛られた白飯もお盆に乗せられていた。男が珍しく机に向かっているのを見て、母親は普段より若干目を大きく開いていた。


「大学の宿題でも、思いだした?」


 母親の口から出てくるのはいつもいつも「大学」に尽きていた。またかと男はげんなりするも、食事を運んできてくれることには感謝しているので、そのことは口出ししなかった。男は首を振った。


「違う。まだうまく立てないから、その対策をノートに書こうかと思って」

「そう。やっと自力で歩く努力をし始めたんだね。本当に、松葉杖はいいの? 欲しいっていうんなら、買ってあげることはできそうだけれど」

「いらないよそんなの。そのうちこの病気は克服できそうだから。そうなれば松葉杖を使う人なんていなくなっちゃうし、そしたらその買い物はまったく無駄になるからね」

「わかった。少ししたらまた来るからね。大学の宿題、頑張ってね」


 母親はふくよかな笑みを浮かべて食事の乗ったお盆を机に置き、さっさと部屋から出て行った。本当に何の話も聞いていないんだなと男は思わず言いたくなる。だがそうする必要などどこにもない。言ったところでどうにもならないことを男は知っている。


 二十分くらいかけて食事を済ませると、またノートにかじりついた。なにはともあれ、今日どんなことをしたのかを、下手な文章でもいいから羅列していこうと思った。書いているうちにだんだん興に乗ってきて、筆の進み具合も良くなるだろう。最初は母親のこともあってたどたどしかったものの、書いているうちにじわじわと楽しくなってきて、何回背中を打ったのか、その正確な回数まで記述できるまでになった。その衝撃が与えそうな踵の観念への影響も、仮設にすぎないが書いてみた。あまりに馬鹿馬鹿しいのでその論文らしきものは破棄されたが、なんだか気もちが高揚してきて、あっというまに三ページほどが文字で埋め尽くされた。いよいよこれから明日からの計画立てだ。そう思った矢先、母親が今度はドアをノックもせず入ってきたため一挙に興醒めしてしまう。母親は無言でお盆を片づけて行ったものの、以降はまた筆の進みがのろくなった。脳も別人みたいに遅延するようになった。


 結局彼はシャープペンシルを手放した。というか今日は、自分が決意できたということに気を取られすぎてしまい、自分の力をすべてその描写に費やしてしまったのだ。母親が来ても来なくても結果は同じだったのかもしれない。今日はこれくらいにして、明日に備えて寝よう。男は椅子を動かして床に体ごと倒れた。昨日までであれば、つま先を用いて上手に倒れることができたのだが、今日は張りきって攣ってしまったので、それを危惧しての緊急の方法というわけだった。体をあまりに多くぶつけてきたので、男はもはやその痛みすら痛みとは思わないほどにまで達観していた。何事もなかったみたいにして、床の上で服を脱ぎはじめる。母親が食事と一緒に持ってきておいてくれた濡れタオルで体を隈なく拭く。毎度のことながら、踵の以前あった(と男には思われる)部分を拭く際に奇妙な感触を味わわなくてはならなかった。これは体を打つ痛みとは違って慣れるということとは無縁だった。ぽっかり空いた箇所は、どれだけ皮膚をこすっても何の感覚も与えられなかった。他人に拭かれていたら、自分がその箇所を拭かれているのだということにまったく気づかないに違いない。無論汚れとも無縁で、拭こうが拭くまいが事情は変わらなかった。ただ男は、便宜的に、流れとしてそこにも一応手をつけているに過ぎなかった。


 パジャマに着替えると、四つん這いになってドアの近くまで行き、蜜に群がるカブトムシみたいにして壁を這った。部屋の明かりが消えてしまうと男はほっと溜息をついた。だがそのあともベッドまで移動しなくてはならないという面倒な作業が待ち構えている。いよいよ寝ようというときになって多くの面倒な作業をやらなくてはならないというのは彼にとっては面白くない。言っても仕方のないことなので、心の中で、自分をこんな風にした神様に対して小言を漏らすことくらいしかできないのではあるが。


 ひとしきりの作業で眠気などもう少ししないとやってこないため、彼は手元の携帯を覗いてみる。電話帳を眺めていたら美内の連絡先が残っていた。彼女は今、何をしているのだろう。読書もせず、運動もしない。バイト先の子の話によれば、再起するための努力も放棄しているらしい。しかしそれを馬鹿にはできない。自分だってそうなりかけていたのだから。だがそうなると、俺にもできることがあるんじゃないか? 男はそんなことを考えはじめた。気づいたら彼女のメールアドレス宛に新規メールをちあげていた。いきなりいろいろなことを言うのも迷惑だと思い、『久しぶり。元気でやってる? こっちは踵を失ったとかで大変だ』という文面に留めた。同じ問題を抱えているということに反応してくれれば、ある程度のコミュニケーションは取れるだろう。詳しい話はそれからで構わない。送信できたことを確認すると、携帯を閉じ、床に適当に転がしておいた。目がチカチカしているのもあってなかなか寝つけなかったが、それでも時間が時間なので、心地良い眠りがやがて彼にもたらされた。

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