第2話

 まず寝たきりの生活をどうにかしなくてはと思った。踵を失って以来、彼は外出はおろか、部屋の外にすらほとんど出た経験がなかった。その間、食事は母親によって部屋に持ち込まれていた。母親は息子の寝たきりの生活について何も言わなかったが、ときどき、気でも触れたみたいにして「大学は、きっと大丈夫なんだろうね?」とやんわりと諭すことがあった。男はそれに対して明確な答えを引きだすことができなかった。この病気自体よくわからないものなのだ。それに男自身、自分がどうして歩けないのか、本当のところは全然わからないでいる。医師や周囲の反応からかろうじて理解している程度だ。自らでそれを理解しない限りは病気を克服することはできない。だから彼は「決意」が済むまでは、母親のこの言葉に「多分、大丈夫」ということくらいしか返すことができなかったのだ。


 それももう今日で終わりにしようと男は自分に誓った。男は体を起こしベッドから立ち上がろうとした。もちろん最初はうまくいかなかった。体のバランスが既知のものとは異なっているため、姿勢は崩れ、あっというまに床に転げ落ちる。そのままずっと永遠に寝転んでいたいという欲望を感ずる。だが美内という女の子に対する憐憫の情と、自分はそうなりたくないという反抗心、そして、なんといってもお師匠様にどんな顔を向けられるかという羞恥心から、この欲望から目を背けようとした。


 まず第一に、歩くことは考えないことにした。いきなりそういう高度な技を目指すというのは早計だ。それよりも、立っている状態を長く維持できるようになりさえすればいい。体の新しいバランスを認識し、その新たな法則を、脳を介して全身に伝達し、統率をとり、従わせる。歩くのはそれからだ、と男は考えた。そこで彼は、いもむしみたいに体を這わせ、滑るように移動し、本棚のところまで行った。いもむしから離れて四つん這いになり、棚を抱えこむようにして体を密着させた。それの助けを借りながらどうにかこうにか立ち上がってみる。ここまでは以前に何度か試していたから、普通にこなすことができた。完全に立ち尽くすまでは面倒な作業だが、一度立ってしまえば、あとは本棚に全体重を預けつつ、つま先を垂直に立てて姿勢を維持できる。


 問題はここからだった。手を離して自力でバランスを取らなくてはならない。脚を事故で負傷した人みたいに、松葉杖を用いるなどしたり、あるいは車椅子を利用して、踵の失い足を支援する方法もあるにはある。だが男はその方法に頼りたくなかった。それはほとんど最終的な手段であって、彼の目指すものではなかった。道具に頼るというのは彼の思う成功ではなかった。自力で対峙することができてこそ、真にこの問題を解決することに繋がるのだと信じて疑わなかった。そしてもしこの試みが成功すれば、お師匠様も自分を認めてくれるかもしれないという浮ついた心も同時に有していた。子供のころからお師匠様にお世話になっているわけだが、彼はいまだに男を未熟者として前提づけている。新しい技を教わろうとしても、まだ早い、まだ早いと言って、受けつけてくれないのだ。男が踵を失った際、それはさすがにお師匠様だけあって、第一番に男のところに駆けつけて、あれこれ世話してくれた。修行しているときには決して見られない優しさを男は垣間見た。だが、それは仮初のもの、一時的なものだ。もしもこの問題が永遠に解決されなければ、お師匠様はまたあの以前のお師匠様に戻るだろう。そして無事に解決したとしても、お師匠様は以前のお師匠様であり続けるだろう。果たして俺は、お師匠様のその不動ぶりに耐え抜けるだろうか? 男が心配しているのはまさにこの点だった。そして耐え抜くためには、今のままでは絶対にいけない。自分がこの期間に強くならなければならない。強くなるということは踵の問題を自分の力で解決するということだ。いわばこれは、お師匠様からの試練なのだ。男はそう思うことにした。そうすると体の内側から俄然力が湧いてくるのを感じた。男は勢いに任せて両手を本棚から離した。彼の頭には自分が二本の脚でしっかりと地を掴むイメージしか思い浮かばなかった。だがそれはすぐに打ち砕かれた。視界が本棚から天井に急速に移っていき、あっと気づいたときには遅く、後ろにぶっ倒れていた。


 やはり難しいのだ、気合いだけでどうにかなるものではない。それでも男はなんとかなるんじゃないかと思いつづけ、しばらくはこの猪突猛進の方法を試していた。両手を離す瞬間、つま先に思いきり力を込め、踏ん張るのだ。しかし、踏ん張りはどうしても、手という支柱を失った途端に弱々しくなり、へなへなし、全身はぐらついて、やがて床に背中を打ちつけてしまうのだ。一体何がいけないのだろうと男は必死に考えるも、元々頭脳のさほど明晰でないのも相まってか、解決方法を見いだせなかった。気合だけではいけないと思いつつも、それ以外の方法をすら、案じ、試すことにまで至らなかったのである。男はそのうち疲れてきた。つま先も、変に力を入れすぎたせいか、びりびりした痛みが伴ってきた。ついにあきらめなければならないときがやってきた。手を離し、つま先に力を入れようとすると、計十本の筋がぴんと張ってしまい、まったく動かなくなってしまったのだ。男は倒れた衝撃よりもこの引きった指先の方をどうにかしなくてはならなかった。ある方向に動かすと、足の引き攣りは消える。しかし、いざ力を入れようとすると、まるで死角から待ち構える伏兵みたいにして、一斉に足が攣りだすのだ。こんな状態ではもう試すことはできない。窓からは赤い光が差しこんでいた。かれこれ三時間以上も続けていたことになる。それでも何の進展も見られなかったことを顧みて、男は自分のふがいなさをしみじみと感じた。

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