踵についての物語

水野 洸也

1章

第1話

 背がどれほど均一であるかによって踵に対する負担が変わってくる。肉体の縦の長さと横の広さが黄金的であればあるほど本来の能力を発揮するにいたる。そこから離れれば離れるほど踵への負担は平均以上に増加し、耐えられなくなった瞬間、破壊される。だがそれは踵がそなわっているからこそ起こるのであって、そもそもそれが「い」という場合、代わりに別の問題が降りかかってくる。男もまた、踵を失い多くの困難を身に浴びている人間の一人だった。


 男は踵を失くして以来、不便と深く付き合っていかなくてはならなかった。さしあたり歩き方を初めからかたちづくらなければならなかった。赤ん坊から二十の歳まで自然のうちに身につけてきた歩行はもはや不可能だった。体に油みたいに染みついたそれをべりべりと無理やり引きはがすことから始めなければならなかった。それは大変な痛みを要するものだった。それは擦り傷が一週間ほどで固まり、かさぶたになったそれを剥がす際の快感とはまったく違っていた。傷口はいつまでたっても固まらず、さらに一度これをべりべりと剥がした以後は癒えることがないだろう。その覚悟を決めることが男にはすでに難関だった。お師匠様は毎日のように励ましてくれたが、男は一向に自分の体に染みついた歩き方を引き剥がす、その勇気を得ることができなかった。


 だがそうするとおもてを出歩くことができない。歩くことのできない以上、おぶってもらうか、車に乗せてもらうか、あるいは踵を使わず四足歩行か何かでいろいろと工夫をしなくては一歩も進めない。おぶってもらうには周りの力が足りないし(父親は今年で六十、肩こりが激しく背中も全然広くない。お師匠様におぶってもらうのはそもそも論外だ)、車の免許を持っていないためわざわざ人に自分の欠点を打ち明けたうえで頼みこまなくてはならず、そんなへりくだった態度を意図的にこしらえることは彼にはできないのだし、あとは四足歩行しかないわけだが、それは彼のもっとも取りたくない選択肢であったから、踵を失ってからもう三週間、男は家から一歩たりとも飛びだしたことがなかった。幸い大学は夏季休暇に入っていたため学業面については問題ないのだが、この調子ではアルバイトもままならないため、すべての同僚にかけあって、自分のシフト分を肩代わりしてくれるよう、電話を入れなくてはならなかった。店長にも連絡を入れて、来月の一ヵ月分をすべて休みにしてくれるよう断った。人の足りていない職場だったため、店長の声は明らかに渋々していたが、踵を失ったのだということを話すと、すんなりと納得してくれた。店長は踵を失ったことがない。決意一つですぐ日常的な行動に何の支障も出ないほどにまで回復するのだということを知らない。交渉はうまくいった。同僚にしても、おおげさに心配してくれ、むしろ進んで仕事を引き受けてくれた。


「本当に大丈夫なの?」一人の同僚はせかせかした声をあげたものだった。


「まあ……なにせ踵が失くなったわけだから、違和感は半端ないんだけどねえ。でも、もう痛みとかはないから平気」


「私の友達もね、つい数ヵ月前くらいに両方の踵を取られちゃったんだけど。歩き方があんまりおかしいから、学校内じゃ笑われ者になったんだ。それで彼女、精神的なショックを受けちゃって……ほら、話したことあるよね? 美内って子」


「ああ。あの子」と男は言いながら、やけに体の細い、いつも本を手に抱えている、目つきの悪い女の子を頭の中に想起した。以前電話の女の子と一緒に都内で食事に行ったとき、友達もいいかしらと言って呼ばれたのが美内という子だった。そのときは確か、歩き方は正常だった気がすると、男は思いだす。自分もわかるが大変な不幸には違いない。そのうえ笑われ者になったとは。彼女はなかなか神経質そうだったから、周りの目がそんなだと、大層居づらいに違いない。電話の女の子の話によれば、美内は前期講義の後半三分の一をまったく出席せず、期末試験やレポートの提出すらほとんどできなかったようだ(ただ、ウェブ上でレポートを受けつけている講義もあったため、必要最低限はどうにか出せたらしかった)。そのレポートというのもひどい代物だったらしく、文法はめちゃくちゃで、誤字も数えきれないくらいあり、それを送りつけられた電話の女の子は、それを一から代わりに作り直さなければならないほどであった。わからないところは美内から直接問いただし、レポートの出来を少しでも工夫した。おかげでどうにか人様に見せられるだけのものになったよ、と電話の女の子は男に自慢した。どのくらい酷かったの、と訊くと、女の子の声は途端にげんなりしたものに変質した。


「そりゃもう、ヤバかったんだから」


 それだけしか言えないということは、それほど悲惨だったということなのだろう。男はこれ以上の質問をとり止めた。


「とにかくありがとね。仕事、代わりに引き受けてくれて」


「いやいいよ」と女の子は言う。「おかげでがっぽり稼げるしね。それに仕事っていったって、一年もたてば、それこそ呼吸みたいになんにも考えずにできるようになるわけだし」


「そっか、確か来月で二年目に入るんだっけ。僕はまだ三ヵ月だ」

「じゃ頑張ってね。早く治るといいね」

「うん」


 男はこの女の子が泣きごとを言っている場面に出くわしたことがなかった。彼女は常に快活で、どんなことにもくじけない健気な心をもっていた。もし彼女が踵を失ったのだとしても、次の日には決意をすることができて、また普段通りの生活を送れるようになるのだろうなと男は考えていた。


 それから男は自室のベッドにどっかりと寝転んだ。全身を弛緩させて、踵がかつて存在していたであろう箇所に思いを馳せた。そこからはもう何も感じないし、如何様いかようにも考えることができないほどに空白だった。普通何かを考えるときは、その考える対象がきちんと在るということが前提だ。考える主体が考える対象に近づく。接触する。接触の仕方は万人さまざまだ。どれだけ強く当たれたか、また、どれほど有効にぶつかることができたかによって、対象から得られる反応は変わってくる。主体は、対象から何かしらの収穫を得て、再び元あった場所へと帰還する。対象にぶつかる前の自分と、ぶつかったあとの自分とでは、対象から何かしらを得られたという点において、たとえわずかではあっても、その姿かたちが異なってくる。そういう「ぶつかり稽古」を通して、自分というものが形成され、固有が獲得される。だが、失われた踵において、この方法は通用しない。まず、ぶつかるべき対象がまったく消失してしまっているため、せっかく自分がそこに赴いても、辺りには何ものも見つからないといったありさまだった。どれほど念入りに捜索しても、あるのはただ、だだっ広い無為の空間のみ。やがて自分は自らがそこにいることに不安を覚えてくる。ぶつかることのできないストレスが溜まってくる。というかむしろ、自分がその失われたそれに取り込まれそうな予感すら覚える。こちら側から向こうを取り込まなければならないはずが、力関係の逆転してしまったような恐怖感だ。そうしてそこを離れざるを得ない。男もそうやって踵について考えようとしたのだけれど、すぐにまた意識を正常に取り戻す。そのあとも何度か踵のかつてあった場所について思考を巡らせようとしたのだが、そのどれもが失敗に決着した。


 するとどうやら、踵は完全にその存在を抹消してしまったらしい。男にはただそれだけが知覚できた。たとえば、机の上にあったはずのリモコンが、今はもうない。だが、リモコン自体は必ずどこかにあるはずで、リモコンが確かに「在る」、もしくは「在った」という可能性は残る。そのことが、「机の上のリモコン」という事実性を消し去らない。これは、リモコンがかつて載っていた机、机の置かれた部屋、部屋を所有する人間、それらすべての存在自体が抹消されない限り、いつまでも残る性質のものだ。たとえ「机の上のリモコン」が実践されていなかったとしても、かつて「机の上のリモコン」が実際に起こったことなのかもしれないという推測が、それに関連した事物によって引きだされている限り、「机の上のリモコン」という一つの出来事は可能的に存在しつづけるのだ。しかし、踵について言えば、それに関連したものがいくら残っていようと、それがかつてあって、将来もきっと存在するだろうという期待は、そもそもの初めから打ち砕かれねばならなかった。男の踵は、もはや最初から「無い」のと同義だった。初めから存在しないものを、人は考えることができない。そのようにして、自分の踵についての思考は次の瞬間には切断されてしまうのだ。誰か他の踵についてはわかる。たとえば先ほどの電話の女の子の踵だ。彼女を支える踵というのはどのような形をしているのだろうとか、その思いなしから彼女の脚全体を欲望的に思考することも可能だろう。考えたことが繋がり、広がっていくのだ。だが、男自身の踵にそんな方法は通じなかった。美内の踵にしても事情は同じだった。同じ女の子の踵であるにもかかわらず、電話の女の子のそれについては成功するのに対して、美内のかつてもっていた(あるいは初めからもっていなかった)それについては、どれほどトライしてみたところで、どうにもうまくいかないのが常だった。「踵」という一般的な名詞自体については思考できる。だが、それを自分や美内のそれと連結させて考えることができない。なんとも不思議な現象だった。男の頭には、自分のそれと美内のそれ、他にも多くの失った者がいるのだろうが、とにかく彼ら全員を含めた人たち、以外の踵についての概念しか詰め込まれていなかった。踵、と聞いて、思い浮かぶのは誰か他の人の踵だった。自分の踵、と聞いたところで、男の頭にはこの言葉がもたらすどんな具体的なかたちすら脳内に思い描けなかった。踵を失うとはそれほどの脅威なのである。


 だから男自身、自分がうまいこと歩けないということが大変不思議なことだった。今の今まで自分がどのように生活してきたのかがわからなかった。いつもの通り歩こうとする。当然うまくいかず、二歩目を繰りだす前に勢いよく後ろにぶっ倒れる。だが男にはその理由というものがまったく思い当たらないのだ。何かが足りないというのはわかる。医者からは「それは君の踵が失くなったからだよ」という話を聞いているため、きっとそれが原因なのだろうなと一応は理解できる。けれども、それが一体どういうことなのか、「君の踵」というのが果たして自分のどこを指して言われているものなのかが、きっと了解できなかった。この「想像できない苦しみ」というのを男はずっと煩ってきた。美内の精神がおかしくなるのも無理ないなと思える。確かに笑いものになるのはつらいことだ。しかしそれ以上に、自分がどうして笑われているのか、その原因は何なのかがわからないことにもっとも苦悩したに違いない。電話の女の子の話によれば、彼女はまだ静養中だそうだ。今ではそのことに終始悩まされており、読書の習慣すら現在は打ち捨てていると言う。あらゆるコミュニケーションの手段を断ち、連絡といえば彼女の両親からの間接的な、そして大いに客観的な報告のみだった。肉声などもってのほかで、ここ一ヵ月耳にしていないそうである。男は心配になった。それはもちろん美内自身に対する心配もあるのだけれど、自分もまたそうなりはしないかという心配だった。このままではこの路線を辿ること必至だった。なんとかしなければならないと男が決意らしきものを自らに生じさせたのはこのときにおいてであった。

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