現代のモラトリアムに懶惰になり、精神的に沈潜していた「僕」は、とある拍子に、線路の遮断機で生きた「足」を手に入れる。唐突な展開で始まるこの物語は、「僕」と「足」が異質ながらも密な交流を持つことによって進行し、次第に退廃的で、かつ淫靡な関係に発展する。何処か方向を間違えながらも、「僕」はその中で精神的に蘇生する。
圧巻なのは終盤なのだが、敢えてぼかして書くと、「面倒臭い」とだけで彼はある計画を放棄し、「いつだって、どこへでも行けるのだから」と半ば自棄になったとも受け取れるような楽観論に飛躍する場面。
ここで思い出さずにはいられないのは、坂口安吾の『白痴』である。白痴の主人公もそのクライマックスで、精神的な高揚とその反動となる堕落を経験する。彼もまた全てに「面倒くさく」なり、「太陽の光がそそぐ」ことを望む。但し、安吾には『堕落論』で主張するような「堕落によって救われる」事が前提としてあり、それに即して考えれば、この物語の「僕」は楽観論的な自暴自棄に走ったのではなく、「足」との徹底的な堕落によって漸くその人間性を取り戻す事ができたのではないか。「いつだって、どこへでも行けるのだから」という思考は単なる逃走ではなく、一種の悟りに近いものではないか。その観点から考えれば、この結末も「僕」にとってのハッピー・エンドなのだろう。
この主人公、かなり既視感がありました。
自分だけは特別だと思い込み、周りを見下すが誇れるような才能があるわけでなく、物事を自分の都合の良い様に解釈する。
主人公のこういった態度は極端かもしれませんが、少なからず経験がある人はいるのではないでしょうか。
だからこそ、主人公の浅はかさが痛いほど理解できてしまいました。
何者にもなれないから他人を心の中で貶す。
そういった意味では少女は他者を見下す自分が嫌になり、何者かになるために自殺という手段をとったのかもしれません。
主人公とああいった関係になったのは主人公に同じものを感じたから、自分と同じような性癖をもつ人間だったからなのではないかと思います。
そして、それは少女なりのメッセージだったのかもしれません。
最後の最後で飛び込まなかった彼は絶対に何者にもなれないでしょうし、あそこから動くことは出来ないでしょう。
ああはなるものか、と思わせてくれるお話でした。
(自殺幇助する意図は御座いません)