第8話

 指定された場所は電車で一時間半。俺達の暮らす街から一番近い、海のある街だった。

「三十分三十七秒の早着とは中々やりますね」

 俺に投げかけられた最初の一言。久しぶり、とか、ごめんなさい、とか、その手の飾りがさして重要では無い事には俺も賛成。

「調子はどう?」

「曲の方は八割以上完成です。悩んで、曲描いて、時々泣いて、そんな一カ月でした」

「俺も、あれやこれや考えたり、ギター弾いたり、まあ色々……何もしてなかったかも」

「本当、迷惑かけちゃったと思います。けど、どうしても、この時間は必要だったんです」

「……何て言うか、俺は勝手に待ってただけだから」

「待っててくれた事も、来てくれた事も本当に嬉しいです。誤解しないで下さい。あたしは、皆を振り回して楽しんでるとか、そういうのは本当に無いです……ごめんなさい。本当に、申し訳無く思っているんです」

「全部、最初から決まってたんだって事にしておけばいいんだ、多分」

「格好付けようとしてます?」

「割と」

「六十七点ってとこですかね」


*  *  *


 駅前の広場はがらんとしていて、楕円型の広いバスロータリーに停まっているバスは一台もいなかった。その代わりというわけではないのだろうけれど黒いタクシーが二台停まっていて、運転手同士が雑談に夢中になっていた。駅に入る人もいなかったし、駅から出て行くのも俺達しかいなかった。

 九月も残すところもう数日で、静かな駅前を通りすぎる風は、僅かながら冷たさを帯び始めていた。かすかに潮の匂いがした。幾つか商店があったけれどシャッターを上げている店舗はコンビニだけだった。唯一の生き残り。逞しくも見えたし、哀れにも見えた。暇そうな顔をしたバイト店員がレジで雑誌を読んでいるのが外からでもよく見えた。きっと、本当に暇なのだろう。

 駅舎からロータリーを横切り、海に続く道を歩いた。フウは、白いワイシャツにジーンズ、サンダル。純粋そうな格好をしていた。グランドクローズを迎えて久しい様子の店のウインドウに俺達が並んで歩く姿が映し出された。きっと明確な理由なんか無いのだろうけれど俺の姿はひどくくすんで見えた。服装は似たようなものなのに。余計な事ばかり考えているせいかもしれない。

 十五分ほど歩いて一度左に折れると海沿いの道へ出た。フウは事前にルートを全て調べてきていたらしい。迷う事も無かったし、辺りを見回したりする事も無かった。

 ずっと、音楽の話をしながら歩いた。フウが今作っている曲。それに、俺がギターで葬送行進曲をコピーしようとした話。フウは、そのうちに機会があれば伴奏してあげます、と言って笑っていた。何だか、そんな機会はきっと無いです、とでも言いたそうだったから、俺も笑っておいた。

 道は海岸に沿って途切れる事なく続く堤防の脇をやや右にカーブしながら続いていた。すっかりシーズンオフだ。走ってくる車は殆どいなかった。海岸には、海の家の残骸が幾つか見える。サーファーらしき一団が固まっていた。俺達は堤防に座り、海と砂浜を視界に収めながらしばらく黙っていた。波が大きさを気まぐれに変えながら押し寄せて、還って行く。時間が流れている事も、上手く言葉に出来ないような幾つかの気持ちも、全部まとめて、溶けて行く。雲が、水平線と一つになりたがっているかのようだった。


* * *


逃げ出そうと決めたのは ひどく暗い夜だった

街灯が揃って 僕を馬鹿にしていた

夜空には幾つもの雲が 黙って浮かんでいて

僕は俯いて、まっすぐに歩き続けた


遠くまで行きたいと、地図も見ないままで思った

分かれ道、感覚で選ぶ。何処かにたどり着くと信じて

その途中で、君に出会った。僕はそこに意味を探す

最初から、意味なんかある筈も無いのに


重ねた掌に浮かぶ汗をそっとなぞる

いっそ飛べたらいいのに、と、真顔で呟いてみる

何処かへ いつか辿りつけるならきっと

怖い物はなくなるね 君は、そんな言葉にすらも

優しく頷いてくれた


重ねた夢に浮かぶウソ臭さを見ないふり

いっそ夢ならいいのに、と 笑顔はそのままで

何処かへ、いつか辿りつけるならきっと

怖い物はなくなるね 君は、そんな言葉はいらないと

静かに扉を開いてくれた


開いたそこに広がっていたのは

白黒の世界だった


* * *


「最近、ユウの置いて行ってくれた歌、結構忘れちゃってるんです。ユウ、どういう理由なのか録音が嫌いで、CDとかカセットとか、何も遺してくれなかったから」

「時間が経つ。その分忘れる。そうじゃないと、しんどくない?」

「時間なんか、止まっちゃえばいいのにってたまに思います」

 フウは海岸を見つめ続けていた。何かを探しているようにも見える。俺も、その仕草を真似てみた。何も見つからない事なんか、最初から分かりきっていたけれど。

「一か月前もね、実はわたし此処にいました。此処で、出会ったんです。今日までの一カ月が始まる、きっかけの出来事。きっと、出会うべくして出会ったんだと思います。それを見て、止まれなくなったんです、心の底から。運命、なんて言っても良いぐらい」


交差点


 鳥がね、飛んでいたんです。白い鳥で、二羽か、三羽。ありきたりかもしれないですけど、ああ、あたしも飛んでいきたいなあなんて思って、ずっと目で追ってたんです。風が鳴いていました。海が、あたし達には絶対に分からない、遠い世界の言葉で何かを呟いていて、あたしが牢獄だと思っていた空は、全部まとめて赦してくれるように優しく光っていました。

 鳥たちは皆、ただ目の前の風を真っ直ぐな目で見つめて、羽根を広げて飛んでいました。空と海が混ざり合う方角へ向けて、風を切り分ける彼らの行く先を、あたしはずっと見ていたんです。勿論、彼らはすぐに何処かへ行っちゃいましたけど、そんなの関係無かった。見ているうちに、思ったんです。今ならわたしも、飛べるって。馬鹿馬鹿しいけど、心の奥から本気で思って、それから分かったんです。もうすぐ風が吹くって。

 風が吹く、風が吹くって念じながらじっと海と、その向こうを見てました。すごく良い感じで、ハルシオンで、泣きたくなるぐらいで、たまらなくて……日が暮れて、頭の上全部が星空になって、それで思ったんです。行かなきゃって。


*  *  *


「わたしはその風に呼ばれてる……分かるんです、わたしには。だから……ごめんなさい。分かっているんです。面倒見てもらって、迷惑かけてばっかりなのにこんな事言っちゃいけないって。でも、もしこの風をやり過ごしちゃったら……きっとわたしは壊れたままなんです。ごめんなさい……一カ月、ずっと、ずっと誰にも会わないで考え続けたんです。わたしだけが知っている場所で、わたしだけの時間。考えて、考え続けて決めたんです」

 俺は止まり木としてやるべき事をしていただけだ。俺がそうしたいから、そうした。面倒を見るとか、そんな押し付けがましさは必要無い。俺が考え、役割に基づいて動いた。ただそれだけの話だ。そういう意味の事を、伝えられる範囲で伝えた。さざ波のようなお礼が一つ戻ってきた。それからため息。海と、その向こうにある何処かに目を向けたままのフウは、これまでに見てきたどんな表情よりも綺麗で、複雑で、悲しそうだった。

 何かが終わり、そして始まろうとしていた。風が一つ、海から俺達に向かって飛び込んできた。「大丈夫、何も怖くない」。小さな、小さな声でフウが呟くのが聞こえた。

「わたし、遠くに行く事になります。ここらへんでマグニチュード7の地震とかあっても、あっちは大変ね、とか言っていられるくらい遠く……多分、機会を逃して今の場所にこのまま住んでたら、また逃げられなくなります。もしかしたらそのうち、壊れている事にすら気づかなくなっちゃうかも……牢獄を当たり前にしちゃ駄目なんです……絶対」

「マスターとか、吉村さんには?」

「まだ話してないです。けど、わたしにとってそうする事が必要だって、分かってもらえると思います」

 止まり木は、用が済めば外される。俺は「分かった」とだけ返事をした。自分でおかしくなるくらいに状況に納得していた。役割は、こうして終わるのだ。俺は生活を立て直し、今度こそ動き始めないといけない。マスターはもしかしたら店からピアノを撤去するかもしれない。吉村さんはこの事に対してどんな気持ちを抱くのだろう?

「タカダさんは、ユウはどうしていなくなったんだと思います?」

 海を睨んでいたフウが俺の方へと向き直り、そう言った。何を言うべきか少し迷った。何を言えば、もっとも正解に近付ける? すぐに思い直した。こんなの、正解なんか何処にも無い設問の一つだ。

「きっと、そうする事が必要だったんだと思う、その人にとって」

「……わたしが行くのと同じですね」

 俺は頷く。同じだ。俺が決意と諦めと自虐を繰り返すのも同じだし、マスターが色々な事にこだわり続けるのも同じだ。はっきりとした理由も無く、それでも必要な物事なんか世界中に溢れている。世界の大半がそうだと言い切ったって良い。

 言い訳がましく俺は思う。この世界に無駄なんか何一つ無いのだ。悲しい事も、嬉しい事も、つらい事も関係無い。怠惰も諦めも前進も停滞も全部、そこに必要だからやってくる。俺達はただそれに、順番に出くわすだけだ。

「全部、何もかも上手くいくといいですね」

「きっと上手くいくよ。やるだけやればきっと、待っている風が吹く」

「また会えると思います?」

「会える」

「ちゃんと就職してくださいね」

「ちゃんと戻って来いよ。それから、フウの事知らない人が少数派になるくらい有名になってくれ、ちゃんと待ってるから」

「大丈夫です。音楽とか曲作りは、絶対にわたしの役割なんです。それも、一生モノの。異論は言わせません、絶対、誰にも」

「ファンクラブ会員第一号としても異論無いよ」 

「では、これをもって、タカダシンゴ殿のミカムラフウ非常勤止まり木業務を解任致します。ありがとうございました」

「俺も、ありがとう。楽しかったし、頑張らなきゃって思えたのは多分……フウのおかげだから」

「戻ってきますから、必ず。だから、行ってきます」

「行ってらっしゃい……またな」

役割の終わり。世界中に溢れる沢山の出来事や無数のきっかけ達と同じように、きっとこれは、新しい何かの始まりになる。風が吹いていた。俺にもそれが分かった。


*  *  *


 フウから楽譜が届いた。全部で五十枚くらいの束で、あまり綺麗ではない字で『ハルシオン――白黒の世界の始点、終点――』と表題がつけられていた。左隅には小さな字で〝宣伝用資料〟と朱書き付き。全部で三つの物語。びっしりと書き込まれた音符と、あちこちに残る消しゴム跡。眺めていると、それだけで何だか優しい気持ちになれた。

 音源は添付されていなかった。ギターに新しい弦を張り、五線譜に描かれた音符をひとつずつなぞってみた。音が部屋の中に生まれて、消えていく。暗譜して、ギターで演奏しても様になるように編曲出来たらマスターの店で演奏してもいいかもしれない。これは、いつかそのうち、の話。出来ればフウが戻ってきたその時がいい。演奏を披露する約束がまだ果たされていない。きっと果たす。果たされる。何せ〝いつか〟というやつは、いつでも世界中に溢れていて、じっとその時を待っているのだ。

 履歴書を前の倍、用意した。求人雑誌を確認して、妥協点の少なそうな場所から順番に送った。そのうちの二社から面接を実施する旨の通達が来た。おそらく、そう遠くない未来、次の役割が俺に与えられる事になるのだろう。塵にだって役割はちゃんとある。上手くいく筈だ。最初からそうと決まっていたかのように。

 ひとつの区切りとして、葬送行進曲。CDの音に合わせて弾けば、ギター一本でもそれなりに聞こえる。鐘の音のような和音の響きがやってくる。思い出を一つ一つ眺めながら微笑んでいるかのようなトリオが通り過ぎ、また、鐘が鳴る。遠ざかっていく。次なる場所を目指して、そこにあるであろう平穏な日々へ向けて、淡々と歩を進めていく。


始点


 メモ紙の切れ端。インクがにじんでいて、あちこち擦れている、見るからに可哀想な紙切れ。丸めて、キッチンで燃やした。煙がぼんやりと、成仏しかけの魂のように漂って、消えた。痛かったけれど、それでも、思っていた程では無かった。

 時間は沢山ある。もう大丈夫って思えたら、帰る。いつ、どんな時にそう思えるのかなんか分かるわけもない。けれど、不安は無い。立ち止まる理由も。

 ピアノの蓋を開き、思いつく限りの曲を弾いた。旅立ち前で、夜明け前。真っ黒だった空に白が混ぜ込まれ始めた。やがてそこに青が加わる。世界が小さく生まれ変わる。すぐに壁が叩かれる。無視だ。弾きたい曲はいくらでもあった。

 部屋は今日で引き払うように手続きを済ませていた。もう、ピアノとわたし以外殆ど何も残っていない。数日分の衣類や小物を鞄に詰めて、あとは全部合わせて、昔住んでいた家へ送りつけた。今は、父親が一人で住んでいる筈。荷物を見て、何を思うことやら。冗談半分、当面の生活費として送金してもらった金額を記入した領収書をつけてやった。毎度ありがとうございます、なんて。

 お別れの日になっても相変わらず〝きをつけ〟を崩さないままのピアノも、数時間すれば業者が取りに来る。これは、おじいちゃんの家へ。うっかり捨てたりしない人に預かってもらわなきゃいけない。わたしの曲の楽譜はタカダさん。昔に弾いたクラシックのピアノ譜は、先生のところへ。何だか、形見分けみたいだ。縁起でもない。わたしはちゃんと帰ってくる。

「さあ、行こう。そして、還る場所へ」

 口ずさむと、気分が軽くなった。西風はちゃんと吹いている。だから大丈夫。何も怖くない。還るべき場所は、記されているから。


 行ってきます。また、いつか必ず。


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HALCYON 北原 亜稀人 @kitaharakito_neyers

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