第7話

 曲の完成がメールで告げられたのが、昨日の午前中の事だ。一緒に芝生で寝転んだ日から数えてちょうど半月が経っていた。本日夜、公開。メールの本文はそれだけだった。

 午後六時過ぎに店に行くと既にフウは来ていて、他にも何人か先客がいた。マスターが言うには、いつの間にか増えていたフウのファン達、らしい。中年男性が一人、四十歳を少し超えているくらいの夫婦が一組。俺よりも少し年下くらいの男が一人に、中学生くらいの女の子が一人。

 俺が最後の招待客だったらしい。マスターが店の照明を落とした。扉に鍵をかけ、カーテンを引いた。ピアノの真上の照明だけが灯されて、演奏が始まった。

 緻密に組み合わされた音がびっしりと並べられていく。ある場所にはいかにも計算し尽くされたかのような音が置かれ、また別の個所には、感情的で激しい和音が叩きつけられる。それらが交互に入れ替わり、少しずつ近づいて来る。そして全ては、誰も抗う事の出来そうもない強制力をもって、静止へと向かっていった。

 一度は、静止したかに見えた。しかしそれは衰えきった鼓動のような、かすかな足掻きを見せ、再び、飛び立とうとする。かつてどのように飛んでいたのかを思い出そうとする。足掻きのリズムは加速していき、再び、嵐のような緻密な音の群が近づいてくる。音の密度が増し、やがて重力から遠ざかった。空が迫ってくる。世界がその在り方を変える。全てが取り戻される。あらゆる制約を捨て去り、全てを思い出した旋律は高く、遠くを飛んで行く。密集した音の群は次第にその隙間を広げていくけれど、以前の静止とは違う。誰にも邪魔されず、遥か彼方を目指して果てしなく広がる。何も迷う事は無い。ただ、飛ぶ。皆を幸せにする西風を目いっぱいに受け、遥か彼方を飛んで行く。全てを差別することなく祝福する壮大な和音が幾度も、幾度も重ねられ、物語は終局への階段を駆け上がっていった。

「なるべく、前向きな雰囲気を持って終わるように意識しました。そうじゃないと救われないと言うか……次に繋がらない終わりには意味が無いような、そんな気がするんです」

 演奏を終え、嬉しそうな、上気した顔で話すフウ。目が赤かった。

「今日演奏させていただいたのは、わたしが最初の物語と呼んでいる部分にあたります。全部で三つの物語があって、その最初……なんか、説明してると恥ずかしくなってきますね。次回からは説明は無しにします」

 ピアノを離れたフウは、順番に各テーブルを回って感想を求めたり、お礼を言ったり。今度は友達も連れてきて皆に流行らせる、だなんて、若い男は分かりやすく関心を買おうとしていた。感想、感想と迫るフウに、中学生の女の子はいくらか辟易しているような様子を見せていた。

「何にしたって、めでたい事に変わりはないね。これ奢り」

 マスターがアイスコーヒーを運んできてくれた。テーブルに置かれて、氷がカラリと音を立てた。礼を言って一口飲むと、苦くて、涼しい味がした。

「アイスコーヒー用の焙煎だっていう豆を仕入れてみてね。私個人としちゃ、アイスなんてのは邪道なんだが」

「メニューに加わるんですか?」

「変化は何にしたって必要だ。一か所に居続けるより楽だ。時々それは〝逃げ〟だなんて呼ばれたりもするが」

 すぐ隣のテーブルで大きな笑い声があがった。俺よりも少し年下くらいの男と、四十代の夫婦、それにフウがそこにいた。マスターがそこに加わっていった。俺も加わろうかと思ったけれど、やめた。なんとなく、だ。こんなの、理由なんか無い。

 グラスの中、氷が一つ溶け落ちた。同意のつもりだろうか。そんなもの必要無かったから一気に飲み干してやった。

「気に入ってもらえましたか?」

苦くなった口の中や、やけに落ち着かない気持ちを持て余していると、漸くフウがテーブルを移動してきた。

「完成出来たのって、割とタカダさんのおかげです。ありがとうございました」

 そんなことないよと言い、讃辞のみで構成された感想を言い、それから幾つかの話をした。話した内容なんか、今日の事で、昨日の事で、明日の事だ。俺は、なるべく早くギターの感覚を取り戻して一曲披露する事を約束した。フウは、出来るだけロマンティックにお願いします、と笑っていた。

「牢獄の中で響く特製の旋律……なんて売り文句でもつけておきますので、ファン一号として目一杯宣伝しておいてくださいね。早速第二弾にとりかかるつもりですから、ばっちりお願いします。上手くいくかどうかは分からないけど」

 最後に、それまでより幾分声を落としてそう言い、フウは席を立った。ピアノの方へ向かい、譜面立てに並べたままだった手製らしい楽譜を回収。ピアノ前で静かに一礼。気付いた一人が拍手を始め、それはすぐに店中に広がった。そしてフウは店を出て行った。

 この一連の流れの一体何処にきっかけがあったのやら。何度点検してもおかしな場所は見当たらない。フウは楽曲を演奏出来たことに満足していた様子だったし、それを受け取った俺達はみんな、何の裏も無い拍手を送ったはずだ。少なくとも俺は送った。マスターも、この催しを成功だと判断していた。おかしな事は何も無かった筈だ。そうであるにも関わらず、何かがきっかけとなり、問題が起きた。

 演奏会の三日後、フウは消えた。


*  *  *


『わけあってしばらくいなくなります。お願いです。秘密にしておいて下さい。ちゃんと戻ってきます』

 このメールを受け取った俺が結構無様に混乱した事は、多分説明するまでも無いだろう。吐き気がしてくるほどに、前日までのフウとのやりとりを点検した。自分がとるべき方向性を思案し続けた。

 考えている途中で吉村さんからの連絡があった。通院日なのにフウが来ないけれど何か知らないか、と。知らないと言うしかない。本当に、知らない、と言うしかなかったのかどうかをまた別に点検せざるを得なくなった。完全に俺が中立ならば、俺は事実をありのままに伝えるべきだったのかもしれない。フウが〝立ち直る〟ためにはどちらが適切だったのだろう。考えた。分かる筈も無かった。  

 フウに、もう少し詳しく教えてくれとメールを送った。返事は無かった。マスターから電話があった。無視しようかどうか少し迷って、結局は出て、知りませんと答えた。

 フウ、どうして俺に知らせた? 俺にどうして欲しい? しばらく考えて、柔らかい表現を探したけれど見つからなくて、そのままメール送信。返信はやっぱり無かった。


*  *  *


 目新しさなんか一つも見当たらない日々が続いた。マスターや吉村さんからは、何かあれば連絡をと言われていたけれど、報告出来る事なんか何も無かった。

 思いつく場所は全部探した。家の近くの公園には殆ど毎日見に行ったし、街中、路上ライブを一緒に観た場所へも行った。相変わらず、CDを売るストリートミュージシャンがいた。初めて聴いたその時よりも、幾分声が枯れていた。頭に来るほど明るいコード進行の曲が演奏されていた。

 電車に乗って県立公園へも行った。公園中歩き回って、芝生の上で寝転んでみた。前に来た時とは違う、湿気のつらい、曇り空の日だった。遠くから雷鳴が聞こえ、その後で、世界の終わりのような豪雨に襲われた。それでも、何も変わらなかった。 

 一日に一時間ぐらいギターを弾く習慣が身についた。こんなの、ただの気晴らしでしかない。ちゃんとフウが戻ってきたら披露して、褒めてもらおう。そんな事を冗談半分で思ってみたけれど気持ち悪いだけだった。何曲か暗譜して、途中でつっかえる事無く弾けるようになると、それはそれで楽しかった。葬送行進曲をアコースティックギターアレンジにしてみようと思い立って、五線譜のノートを文具店で購入してみた。目の前を休む事なく通り過ぎていく時間に中身を詰める作業だ。どれだけ詰めても埋めるべき隙間が埋まることなんかなかった。

 喫茶店へは行かなくなった。行って、フウ関連の話題に出くわしてしまった時、つい余計な事を言ってしまいそうだったからだ。

 日が経つにつれ、〝秘密は守られるべきだ〟が俺の中の主流意見になっていた。俺は中立ではない。マスターや吉村さんの安堵を捨て、フウの願いを叶える事を選択した。それが何をもたらすとか、何を失うとか、その辺りは関係無かったのだ。問題は俺がどうしたいか……得意の言い訳。特技? こんなのただの悪癖だ。

 二週間くらいが経って、マスターから呼ばれた。身近な人が不意にいなくなって二週間。多分、これは結構長い時間だ。マスターがどんな気持ちで過ごしたのかは、あまり考えたくない。

 行ってみると、店は平常営業こそしていたものの、BGMも無い静まり返った状況で、他のお客は誰もいなかった。ピアノの蓋は閉じられ、艶のあるカバーが掛けられていた。

「嫌になるね。ピアノが無いと売上にも響く。常連さんは相変わらず来てくれるが、とても、楽しむことを学べなんて状況じゃない」

 当然と言うべきかどうか、マスターのところにもフウからの連絡は来ていなかった。フウはしっかりと、その姿を隠し続けていた。

「タカダくん、面倒かけてきてすまなかったな」

 マスターが、まるで何度も練習した台詞ででもあるかのように言った。何かが終わったみたいに。或いは、何かを終わらせるみたいに。

「時間がいつまでもあるわけじゃない。タカダくんだって、やらなきゃいけない事があるだろう。就職活動だって、最近は何も聞かないけど止まっちゃってるんじゃないか?」

 そろそろ棚の上で埃をかぶっている頃だ。もしかしたら、黴が繁殖を始めているかもしれない。けれど俺は決めたのだ。終わるまでは棚上げにしておく、と。終わりが何処にあるのかなんて知らないし、どうなれば終わりなのかなんて、考えない。

「役割は果たされなきゃいけない。けれど、世の中いかにも役割らしい顔つきをして寄ってくる余計な事が山ほどある。それもまた無意味では無かろうが……ずっとそれに付き合っているわけにもいかんだろう。あの子から何か頼まれているんだろう? 何にしても区別はきちんとしないといかん」

 俺の性格上、そう頻繁にある事じゃない。けれど、確かにこの時俺は反感を覚えた。そうですね、とは言いたくなかった。余計な事? それを俺が認められるわけない。

「そんなの区別なんか出来ませんよ、たぶん、全部終わったあとになってから分かることだと思います」

「理解や納得ってのは無理矢理にでもするもんだよ。何処かから勝手にやって来るもんじゃない。大体皆、妥協して、譲歩して、それで前に進む。だから皆、〝仕方無い〟とか言う。手詰まりになって譲歩しなきゃいけない時なんて、人生の中には数えきれないくらいある」

「だからって、じゃあ今日から無関係です、なんて無理ですよ」

「何故?」

 強い目が、こちらを見ていた。表情は柔らかな笑顔だ。けれど、目線を外せない。強い目。言葉なんか、紙くずみたいに簡単に吹き飛ぶ。

「何故止められない? フウとタカダくんは、私が知らないだけで、そういう明確な関係なのか?」

「そういうわけではないです……けど……」

「ないのならどうして? そこにあるのは友情か? それとも、同情? もしくは、明確な関係になりたい、という思いがそこにはあるのかもしれないが……すまないね、私もこんな事は言いたくないが……大人としての忠告だよ」

「俺は出来る事はしようって決めただけです。そんな、ああだこうだって考えてないですから」

「これは本当にタカダくんがすべき事なのか? 時間を無駄にして、遠回りして、後悔するのはタカダくんなんだよ」

「一段落したらちゃんと元の場所に戻るつもりです。仕事を探して、生活を立て直します」

「あの子の事を思ってくれるのは有難いがね。タカダくんはフウを言い訳にしているだけだ。悪いが私にはそうとしか見えんよ」

「そんな事……」

 そんな事分かっている。もしくは、そんな事無い。言えなかった。言いかけて飲み込んだ。分かってなんかいないし、その通りである可能性の方が高かった。けれど、そんなの関係なかったのだ。


*  *  *

 

 俺に出来る事なんか、フウの戻りを待ちながら、狭すぎる世界の中でじっと待っている事だけだ。そもそも俺は間違っていたのだ。止まり木は、主人を探して勝手にうろつきまわったりしない。止まり木が止まり木以上のものになれない以上、それは最初から定められていた事だ。そんな着想に辿り着いた事は或いは喜ぶべき事なのかもしれないけれど、それを進歩と呼ぶ気には、到底なれそうになかった。

 家の中、エアコンをつけていると、物凄く罰あたりな事をしているような気分になってきたから止めてみた。世界中のあらゆる存在に自分が否定されているような気になった。

 気晴らしに掃除をしたら、ゴミ袋三つ分の無駄が部屋にあった事が確認された。前の恋人に貰った小物の類も全部捨てたし、社会人時代に使っていた鞄を漁ったら、本来此処にあってはいけない筈の顧客リストやらが数枚出てきた。細かくちぎって捨てた。

 次なる気分転換として、古くなった調味料や、インスタント食品の買い置きを一新した。包丁やまな板も新しい物に変えた。

 葬送行進曲のアコースティックギターアレンジを淡々と進めた。繰り返し、繰り返し再生し、音を探し、五線譜に書き落とす。音符が一つ、二つ、と書きこまれていく度に、世界が、じわり、と動く。何度か、試しに演奏してみる。俺みたいな下手くその弾くギター一本ではかなり無理があった。音は似ていても、響きは広がらない。ペン、ペン、と安っぽい類似品が部屋の中にまき散らされただけだった。

 家で思いつく限りの事をやってしまった後は外に出た。すり鉢の底、不動産屋の店頭広告に良さそうな物件があった。アルバイトを繰り返して貯金をして、引っ越す事を最初の目標に据えるのも悪くないかもしれない。自分がいかに進歩していないかを思い知った瞬間だった。引っ越しをする。街を変える。見たことも無い世界がそこにはある。多分、数日間は楽しめるだろう。却下だ。

 駅周辺に幾つかある喫茶店を順番に回ってみた。マスターとのやり取りを考えると、当面近寄りがたかった。美味いコーヒーが飲める場所を探しておく必要があったのだ。かなり丹念に回ったつもりだけれど、まともな喫茶店は一つも無かった。チェーン店のコーヒーが一番美味かった。いらっしゃいませ、ありがとうございました。紙袋には入れますか? 美味い、不味いの領域とは別の部分で、得体の知れない嫌悪感を手にしただけだった。もしかすると俺は社会不適合者なのかもしれない。

 そんな流れの日々をしばらく繰り返した。考え事をして、うんざりして、街を徘徊して一日が終わる、そんな日々。どれもこれも、見分けなんかつきそうがなかったし、多分、その必要性も無い。何かがやってくる事も無かった。何かを成し遂げる事も無かった。夜が来る度に自分の存在が無意味に思えて仕方なかったし、冗談抜きに死にたくなった。自分が息をしている事に明確な嫌悪感を覚えたし、何の異常も無くやってくる空腹は苛立ちの元でしか無かった。息苦しかった。雨が降ったり、快晴だったり、曇りだったりした。俺は、自分が持っていたあらゆる余裕を全て使い切っていた。それが何処からともなく補充されるような事は一度だって無かった。日々の中で起こる些細な事は全て、俺を追い詰めるために仕組まれているとしか思えなかった。

 学生時代の友人から、結婚を報せるメールが届いた。無視した。

 無視したメールがいつまでも残っているのが心苦しくて、そのままそれを削除した。

 ギターの弦が切れた。放置した。

 部屋中の本をリサイクルショップに持ち込んだら、千五百円になった。

 壁掛け時計の電池が切れた。それでも時間は嫌になるくらい明確に流れていた。

 誰も彼もが憎くなってきた。皆死ねばいいのに、と思った。

 俺は世界の塵だ。久々に思った。こんなの、思い出す必要も無いぐらい に当たり前の事だ。ちょっと、調子に乗っていたのかもしれない。

 世界は完璧な牢獄だ。そう言えばこれはかつてフウが言っていた言葉だ。真理。

 吉村さんから謝罪の手紙が来た。〝迷惑をかけてしまって申し訳ありません。このような失敗を繰り返さぬよう努力する所存です。本当にごめんなさい〟。破って、捨てた。

 クレジットカードを使って、手持ちの衣類を全て新しくしてみた。ちゃんとリボ払いにした。問題は先送り。それの何が悪い?

 大雨の日、わざとらしく雨に濡れてみた。何一つ流れていかなかった。

 葬送行進曲、第三楽章をリピートで聴き続けた。

 自分がおかしな道に踏み込んでいると自覚してみた。どうやら必要な事だったらしい。気分が随分楽になった。出来る事が何も無い。だからと言ってそれを探したいとも思わない。いつかやってくるその日を言い訳に、逃げている。間違っていると分かっていながら、より間違った方向へ針路をとっている。だって、まだ何も終わっていないのだ。

 俺は八月が終わるまでにこれらの考えをまとめ上げ、九月の中旬までその修正と確認を続けた。それは正しいとか間違っているとかの次元を超えた、俺を一か所に留まらせ続ける壮大な言い訳だった。

 一通のメールが来た。時刻と場所、短い謝罪がそこには記されていた。

 俺は止まり木だ。必要とされる時に、ただ黙ってそこにあれば良い。それはフウに関する一件において俺の確固たる役割だった。見た事も無い誰だかの代わりだろうと何だろうと、俺は自分の役割を自分なりに解釈し、それを最後まできちんと務めあげなければいけないと感じている。役割はいつでも、果たされるか放棄されるかのどちらかしかないのだ。

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