第2話 勝者なんていない
五時半を知らせる音楽が街中に鳴り渡ると、空には赤色が染み込んでいる。薄く伸びた雲は暗い灰色をしていて、これからくる夜への不安を色濃く映した。
時折聞こえてくるカラスの鳴き声が
だがそれと関連づけてよいほどに、適度に張り詰めた集中と、繰り返し湧き出る疑問で彼女の頭はいっぱいだった。なんで、どうして。そう思わずにはいられない状況に、イナホはただ身構えるしかなかった。
目の前にはひとりの
黒が残っているせいか灰色に見える髪に、曲がった腰。ゆったりとした紫色の服からは、シワの刻まれた細い腕が覗く。顔にも深いシワが寄っているが、その表情は真剣で、少しばかりおぞましくもある。
イナホはその老婆と向かい合ったきり、動けずにいた。目の前に、目的の場所があるというのに。
『ただ今から、
ハキハキとした味気ないアナウンスが、その場にいた者の関心を
イナホがいるのは、彼女の自宅からほど近いスーパーマーケットだ。その一角にある、まさに今放送された惣菜コーナーの手前にて、彼女は老婆と向かい合っていた。
(早く行かないと、放送を聞きつけた常連外の連中が集まってくる……っ。なのに、なんでこのバァさんは……!)
もう何度目になるだろう疑問を浮かべながら、老婆の奥へと目を向ける。惣菜コーナー。そこにはもう数人の主婦が陣取っており、シールを持つ店員の手に注意を向けている。
「よそ見したね……?」
(しまっ――)
耳元で、老婆がささやいた。途端、体が重力に引っ張られる。その急な変化をなんとか
そこには、入れた覚えのない二リットルの炭酸飲料ボトルが二本、綺麗に立てかけられていた。
「ババァ……ッ!」
ボトルを外に出しながら、呻くように声を上げる。もうこれで三度目にもなる。一度目はスナック菓子。二度目はマンガ雑誌。そして三度目は炭酸飲料。
友達でも呼んで家でダラダラしていろ、とでも言わんばかりの品揃えだ。
だが仮にそうだとしても、それはイナホにとっては縁遠い話である。彼女に、そんな金銭的余裕はない。だからこそ、高校が終わってすぐにこのスーパーへ駆け込んだのだ。このスーパーでの見切りの時間が今であると知っていたから。それが女子高生の体に染みつくほどに、彼女は貧乏だった。
しかし今日は様子が違っていた。この老婆だ。普段見かけない老婆がいようが、そんなことは当然問題ではない。問題は、その老婆がイナホの行動をことごとく妨害してくることだった。
理由は分からない。過去に接点があるわけでもなし。この老婆独特の嫌がらせなのだろうとしか受け取れない。まさか痴呆によるものでもあるまい。
だが、邪魔されたままで終わるイナホではなかった。
(足りない頭で考えろ……! どうしたらあのババァを抜ける? 活路はどこにある? あたしに、何ができる?)
この老婆は強い。
もうシンプルな疑問などどうでもよくなっていた。イナホの意識はもう、ただひとつのことへと収束していった。
(このババァに、勝ちたい……!)
そう思うと、結論はすぐだった。簡単だ。この老婆に、純粋に勝っている部分で勝負をすればいい。純粋に勝っていると思える、一番大きなもの。
「覚悟しろよ、ババァ――ッ!」
それは疑うべくもなく、力だった。
イナホは女だが、向こうも女だ。高校生ともなれば、筋力は成人女性のそれと大差ない。六〇は超えているだろう老婆に、負ける道理はない。およそ五〇もの年齢差は、そのまま力の差となる。
イナホは買い物かごを床に置き、本能のままに老婆に飛びかかった。一撃必殺を狙い、老婆のみぞおちへと右足を叩き込む。
だが老婆はそれをするりと
惣菜コーナーまでの道が、これで開けた。しかしイナホの目的はもう、惣菜の半額セールなどではなくなっていた。
着地と同時に、左足で地面に弧を描く。
読んでいたのだ。老婆がイナホの蹴りを紙一重で躱すことを。そしてこの足払いが、
視線を持ち上げれば、足を曲げて高く飛び上がる老婆の姿を捉えられる。なかなかの跳躍力だ。躱したことに加え、この高さまで跳べるのは、同じくらいの年齢の老人ではまず無理な話だろう。それをこの老婆は軽々とやってのけた。
(すげぇよ、あんた。こんなときでもなければ
イナホは素直な気持ちで、この老婆を
老婆がいるのは空中。どんなに機敏に動けようが、空中では制限の中でしか動けない。つまり地対空こそ、力が物を言う領域なのだ。
「お返しだ、バァさん」
「!」
老婆が目を見開く。その視線の先はもちろんイナホである。正確には、イナホが両の手に持った、炭酸飲料のボトル。
それをイナホは、なんの
すかさず、飛び上がる。
老婆に迫る、二リットルボトル二本と女子高生。もはや結果は目に見えていた。
「くっ!」
向かってくるボトルを回避することもできず、老婆はその二本を手で受け止める。当然だ。それはまだ会計が済んでいない「商品」なのだから。躱したり弾いたりすれば、ボトルが衝撃に耐えられずに破裂する恐れがある。
そしてそれが投げ返されるよりも早く、イナホは動いていた。飛び上がり、老婆に向けて右足を突き出していた。
イナホの右足は老婆のみぞおちに吸い込まれていき――。
空を、切った。
標的を失い、イナホはバランスを崩しながら着地する。
(どういうことだ……? 確かにあたしの蹴りはババァを捉えたはずだ。どこにも逃げ場なんてなかったはずだ……。なのに、なんで――)
そのとき、首筋にひんやりとしたものを感じた。
「狙いは、よかったんだけどねぇ」
温かみのある優しい声音だったが、その声の主に思い当たると、背筋が寒くなる。得体の知れない恐ろしさに縛られて、イナホは
ゆっくりと、首を回して振り返る。きっとイナホ自身、自分がどんな表情でいるのかも分からないまま。
背後にあった老婆の顔は、温かく微笑んでいた。
「飲み物を粗末に扱ったらいけんよ?」
そう言って老婆が差し出したのは、先ほどイナホが投げた炭酸飲料のボトルだった。それでようやく、首筋に当てられていた物がそれだと分かる。受け取ると、ボトルに浮かんだ水分が腕を伝った。
どうやって。言いたいことはそれだけだったが、もう言葉が出ない。理解してしまったのだ。
(このバァさんには、勝てない)
体を向き直らせると、それだけで床にへたり込んでしまう。もう、闘志の欠片すら失われてしまった。
老婆は曲がった腰を矯正するように伸びをすると、惣菜コーナーへと歩き出した。イナホはそれを、黙って見ているしかできなかった。もう立ち上がる気力すらないような気がして、ぼんやりと。
「お姉さんや」
そんな意識の
そんな様子のイナホに構わず、老婆は手に持った何かを差し出してくる。それはイナホが目的としていた物、半額のシールが貼られた弁当であった。
「これでよかったかね? 別のがよければ、取ってきてあげるよ」
「……いや、これでいい」
言いたいことがあった。自分で邪魔をしたくせにどうして、とか、焼きそば弁当よりものり弁当の方がいい、だとか。
でも、今となってはどうでもいいことだ。
何事もなかったように立ち上がり、それを受け取る。不思議と、それを拒む気にはならなかった。むしろ
「老人の
そう言い、老婆はレジへ向かって歩を進める。その後ろ姿は、強く、凛々しく、何より温かかった。
年相応の
そしてその背を
「次は――絶対に勝つ」
届くわけもなかったが、老婆が小さく腕を上げた。
その様を一部始終見ていたのは、イナホと同じクラスのアサヒナだった。
「ちょっとよく分かんない」
ダ・ライフ ヨコハマフラット @pagasu
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