第2話 勝者なんていない

 五時半を知らせる音楽が街中に鳴り渡ると、空には赤色が染み込んでいる。薄く伸びた雲は暗い灰色をしていて、これからくる夜への不安を色濃く映した。

 時折聞こえてくるカラスの鳴き声が郷愁きょうしゅうの念のようにも響くが、それはイナホの耳には届いていなかった。室内にいたからだ。

 だがそれと関連づけてよいほどに、適度に張り詰めた集中と、繰り返し湧き出る疑問で彼女の頭はいっぱいだった。なんで、どうして。そう思わずにはいられない状況に、イナホはただ身構えるしかなかった。

 目の前にはひとりの老婆ろうばよわいにして七〇ほどだろうか。老人の外見年齢なんてものに知識を持ってはいないが、杖を持っていないところを見るに、老人の中でもまだ若い方なのだろうと予測がつく。

 黒が残っているせいか灰色に見える髪に、曲がった腰。ゆったりとした紫色の服からは、シワの刻まれた細い腕が覗く。顔にも深いシワが寄っているが、その表情は真剣で、少しばかりおぞましくもある。

 イナホはその老婆と向かい合ったきり、動けずにいた。目の前に、目的の場所があるというのに。

『ただ今から、惣菜そうざいコーナーにて、半額セールを開始致します。皆様、ふるって、お買い求めください』

 ハキハキとした味気ないアナウンスが、その場にいた者の関心をきつける。

 イナホがいるのは、彼女の自宅からほど近いスーパーマーケットだ。その一角にある、まさに今放送された惣菜コーナーの手前にて、彼女は老婆と向かい合っていた。

(早く行かないと、放送を聞きつけた常連外の連中が集まってくる……っ。なのに、なんでこのバァさんは……!)

 もう何度目になるだろう疑問を浮かべながら、老婆の奥へと目を向ける。惣菜コーナー。そこにはもう数人の主婦が陣取っており、シールを持つ店員の手に注意を向けている。

「よそ見したね……?」

(しまっ――)

 耳元で、老婆がささやいた。途端、体が重力に引っ張られる。その急な変化をなんとかこらえて、買い物かごの中を覗く。

 そこには、入れた覚えのない二リットルの炭酸飲料ボトルが二本、綺麗に立てかけられていた。

「ババァ……ッ!」

 ボトルを外に出しながら、呻くように声を上げる。もうこれで三度目にもなる。一度目はスナック菓子。二度目はマンガ雑誌。そして三度目は炭酸飲料。

 友達でも呼んで家でダラダラしていろ、とでも言わんばかりの品揃えだ。

 だが仮にそうだとしても、それはイナホにとっては縁遠い話である。彼女に、そんな金銭的余裕はない。だからこそ、高校が終わってすぐにこのスーパーへ駆け込んだのだ。このスーパーでの見切りの時間が今であると知っていたから。それが女子高生の体に染みつくほどに、彼女は貧乏だった。

 しかし今日は様子が違っていた。この老婆だ。普段見かけない老婆がいようが、そんなことは当然問題ではない。問題は、その老婆がイナホの行動をことごとく妨害してくることだった。

 理由は分からない。過去に接点があるわけでもなし。この老婆独特の嫌がらせなのだろうとしか受け取れない。まさか痴呆によるものでもあるまい。

 だが、邪魔されたままで終わるイナホではなかった。

(足りない頭で考えろ……! どうしたらあのババァを抜ける? 活路はどこにある? あたしに、何ができる?)

 この老婆は強い。彼我ひがの差わずか三メートルほどだったとはいえ、ほんの少し視線をずらしただけで事をしてみせた。一瞬の油断で、きっと全てを失う。

 もうシンプルな疑問などどうでもよくなっていた。イナホの意識はもう、ただひとつのことへと収束していった。

(このババァに、勝ちたい……!)

 そう思うと、結論はすぐだった。簡単だ。この老婆に、純粋に勝っている部分で勝負をすればいい。純粋に勝っていると思える、一番大きなもの。

「覚悟しろよ、ババァ――ッ!」

 それは疑うべくもなく、力だった。

 イナホは女だが、向こうも女だ。高校生ともなれば、筋力は成人女性のそれと大差ない。六〇は超えているだろう老婆に、負ける道理はない。およそ五〇もの年齢差は、そのまま力の差となる。

 イナホは買い物かごを床に置き、本能のままに老婆に飛びかかった。一撃必殺を狙い、老婆のみぞおちへと右足を叩き込む。

 だが老婆はそれをするりとかわす。若者に道を譲るように半身になって。

 惣菜コーナーまでの道が、これで開けた。しかしイナホの目的はもう、惣菜の半額セールなどではなくなっていた。

 着地と同時に、左足で地面に弧を描く。

 読んでいたのだ。老婆がイナホの蹴りを紙一重で躱すことを。そしてこの足払いが、跳躍ちょうやくによって躱されることを。

 視線を持ち上げれば、足を曲げて高く飛び上がる老婆の姿を捉えられる。なかなかの跳躍力だ。躱したことに加え、この高さまで跳べるのは、同じくらいの年齢の老人ではまず無理な話だろう。それをこの老婆は軽々とやってのけた。

(すげぇよ、あんた。こんなときでもなければ師事しじしたいくらいだ。あたしの予想を、こうも見事に為してくれるんだから)

 イナホは素直な気持ちで、この老婆を称賛しょうさんする。同時に、自分の勝利を確信していた。

 老婆がいるのは空中。どんなに機敏に動けようが、空中では制限の中でしか動けない。つまり地対空こそ、力が物を言う領域なのだ。

「お返しだ、バァさん」

「!」

 老婆が目を見開く。その視線の先はもちろんイナホである。正確には、イナホが両の手に持った、炭酸飲料のボトル。

 それをイナホは、なんの躊躇ためらいもなく、老婆に向けて投げつけた。

 すかさず、飛び上がる。

 老婆に迫る、二リットルボトル二本と女子高生。もはや結果は目に見えていた。

「くっ!」

 向かってくるボトルを回避することもできず、老婆はその二本を手で受け止める。当然だ。それはまだ会計が済んでいない「商品」なのだから。躱したり弾いたりすれば、ボトルが衝撃に耐えられずに破裂する恐れがある。

 そしてそれが投げ返されるよりも早く、イナホは動いていた。飛び上がり、老婆に向けて右足を突き出していた。

 イナホの右足は老婆のみぞおちに吸い込まれていき――。

 空を、切った。

 標的を失い、イナホはバランスを崩しながら着地する。

(どういうことだ……? 確かにあたしの蹴りはババァを捉えたはずだ。どこにも逃げ場なんてなかったはずだ……。なのに、なんで――)

 そのとき、首筋にひんやりとしたものを感じた。

「狙いは、よかったんだけどねぇ」

 温かみのある優しい声音だったが、その声の主に思い当たると、背筋が寒くなる。得体の知れない恐ろしさに縛られて、イナホは咄嗟とっさには動けなかった。

 ゆっくりと、首を回して振り返る。きっとイナホ自身、自分がどんな表情でいるのかも分からないまま。

 背後にあった老婆の顔は、温かく微笑んでいた。

「飲み物を粗末に扱ったらいけんよ?」

 そう言って老婆が差し出したのは、先ほどイナホが投げた炭酸飲料のボトルだった。それでようやく、首筋に当てられていた物がそれだと分かる。受け取ると、ボトルに浮かんだ水分が腕を伝った。

 どうやって。言いたいことはそれだけだったが、もう言葉が出ない。理解してしまったのだ。

(このバァさんには、勝てない)

 体を向き直らせると、それだけで床にへたり込んでしまう。もう、闘志の欠片すら失われてしまった。

 老婆は曲がった腰を矯正するように伸びをすると、惣菜コーナーへと歩き出した。イナホはそれを、黙って見ているしかできなかった。もう立ち上がる気力すらないような気がして、ぼんやりと。

「お姉さんや」

 そんな意識の間隙かんげきうようにして、またあの老婆の声が聞こえた。いつの間にかまた近くへと迫っていて、少しおおげさなくらい驚いてしまう。

 そんな様子のイナホに構わず、老婆は手に持った何かを差し出してくる。それはイナホが目的としていた物、半額のシールが貼られた弁当であった。

「これでよかったかね? 別のがよければ、取ってきてあげるよ」

「……いや、これでいい」

 言いたいことがあった。自分で邪魔をしたくせにどうして、とか、焼きそば弁当よりものり弁当の方がいい、だとか。

 でも、今となってはどうでもいいことだ。

 何事もなかったように立ち上がり、それを受け取る。不思議と、それを拒む気にはならなかった。むしろ清々すがすがしいくらいだ。

「老人の享楽きょうらくにつき合わせて悪かったね、ありがとうよ」

 そう言い、老婆はレジへ向かって歩を進める。その後ろ姿は、強く、凛々しく、何より温かかった。

 年相応の含蓄がんちくがそこから見える気がして、イナホは頬を伝うしずくぬぐった。

 そしてその背をにらみ、誰にともなくちかった。

「次は――絶対に勝つ」

 届くわけもなかったが、老婆が小さく腕を上げた。



 その様を一部始終見ていたのは、イナホと同じクラスのアサヒナだった。

「ちょっとよく分かんない」

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ダ・ライフ ヨコハマフラット @pagasu

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