ダ・ライフ
ヨコハマフラット
第1話 主人公などいない
夢の中ほど心地の好いものはない。自分が自分でないような感覚すらもない世界で、ひたすらに流れ行く時を見ているあの時間が、アサヒナは好きだった。
春も好きだ。まだ冷たさが微かに残る風を受けながら温かい陽光に身を晒していれば、どんな状況でだって眠りに落ちられる自信がある。
アサヒナは眠るのが何よりも好きだった。眠りの中だけは、誰の声もなんの音も聞こえない静寂があるから。眠りにつく前のあの喪失感が癖になるから。目覚めた時になら、聞こえる小さく高い鳥の声が美しいと感じられるから。様々な理由を足しても足りないくらい、眠りを愛していた。
だから強く揺すり起こされると、酷く不機嫌な声が出てしまう。
「グヴァァァ」
「……どんな感情だ、それ?」
一瞬だけ開いた目に、見慣れた顔が映り込む。ナカオだ。クラスメイトである。特に仲は良くなかったはずだ。
ああ、ダメだ。考える前に、眠気が――来ない。おかしい。いつもならすぐにでも第二波がやってくるはずなのに。おまけになんだか蒸し暑い気もする。
「いい加減目を覚ませよな、アサヒナ」
不審に思いつつ、閉じた目を再び開く。そこにはやはりナカオの姿があって、寝起きのアサヒナを少しだけ現実に引き戻す。
「――どうしたの、ナカオくん。そんな困ったような顔をして。僕に何か用でもあるの?」
眠気眼を擦りつつ訊ねる。正直ナカオは苦手な部類に入る人種だ。真面目で、アサヒナのような者には厳しいイメージがある。いわゆる委員長気質というやつだ。
現に今だって、こちらへの対応としてはあまり好ましくない表情をしている。大雑把な見方をすれば不機嫌とも取れる、眉をひそめた表情。
ナカオはハァと息を吐き出して言う。
「いくらなんでも寝過ぎじゃあないか?」
その声音・口調から、アサヒナは察する。
――マズいな、説教が始まりそうだ。
そういう面倒な空気を感じ取るのに関して、アサヒナは優れていた。ホームルームで担任が説教をしそうな時はいち早くトイレに立ち去り、生徒間でケンカが発生しそうな時も素早くトイレに立ち去る。
今回もトイレに立ち去ろうと、視線を出口へと向ける。
そこで気付く。
「あれ……誰もいない」
教室を見渡しても、そこには主人のいない机が整然と並んでいるだけだった。
「あとはアサヒナだけなんだよ。さぁ、さっさと机から立ち上がってくれ」
「一時限目、移動教室とかあったっけ? 今日は……えっと、数学じゃあなかったっけ」
月曜の時間割は大体記憶していた。一に数学、二に英語。三、四が家庭科、五に現代文。ちなみに六は美術である。億劫な性格のアサヒナが時間割を覚えているのは当然、この時間なら眠れる、という算段を立てるためである。
朝のホームルームも待たずに眠りに落ちたのだが、もうホームルームは終わっていたらしい。予想される雑音の中、一度も目を覚まさなかった自分に少しだけ感心する。
だがナカオは驚いたような顔でアサヒナの目をじっと見つめ、やがてゆっくりと口を開いた。
「まさかとは思うけどな、アサヒナ。お前――」
ナカオはそこで一度区切り、言わんとしていることが伝わるように、丁寧な早さと声量で、噛み砕くように言葉を口にした。
「――まだ学校があると思ってるのか?」
その言葉の意味を理解するのに、そう時間はかからなかった。
次第にはっきりと晴れてきた頭を精一杯回転させ、状況の把握に努める。
誰もいない教室、窓は廊下側校庭側どちらも施錠されている。薄手のレースカーテンを通る光は薄暗く、蛍光灯の光が際立つ。ロッカーに物は少なく、几帳面に磨かれた黒板には粉ひとつ付いてない。
誰の声も聞こえないまま、窓に打ち付ける雨の音だけがこの場を包んでいた。この教室だけでなく、おそらく他のクラスも同じような状態だと窺える。リノリウムを叩く足音すらも聞こえてこない。
導き出される結論は――。
「みんな、死んだのか……?」
「勝手に殺すな! 今日の日程が終わっただけだ!」
「だよね……って、え?」
ちょっと待てよ。それじゃあナカオの言葉の意味は……。
アサヒナがぼんやりと思考を巡らせていると、見兼ねたナカオが丁寧に説明してくる。
「だから、お前はずっと寝てたんだよ。朝のホームルーム前から今まで、誰が声をかけても揺すっても起きず、終いにはもうこんな時間だ!」
ナカオが勢いよく指差した時計を見ると、針は午後五時過ぎを指していた。
「クラス委員で教室の施錠をしなけりゃならんのだ。さぁ! 分かったらさっさと起きて帰れ」
「ま、待ってよ!」
ようやく思考が追いつくと、今度ははっきりと不機嫌をあらわにしたナカオに向かって息巻く。どうしても、これだけは言わないといけない。
「弁当を食べる時間だけちょうだい」
「帰れッ!」
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