一杯一杯のコーヒー店
五月に降る雨
一杯目
都会の喧騒に飲み込まれやがて自分が消えてなくなってしまう。地元でやっていた趣味も、とてもじゃないが続けられそうにない。
夢を持って、意気揚々と都会に出て就職をして5年。あの頃のやる気や向上心など、とうに朽ち果ててしまった。今はただ平穏に、仕事でミスをしないようにだけ気を付ける日々。向上心何て持てるはずがない、現状維持で精いっぱいだ。
私の生まれ育った東北の田舎。どこもかしこもすべてがのんびりとしていた。同じ24時間でも、都会と田舎では時間の流れが違うのではないかとさえ思われる。
地元に帰りたい、いつも考えている。しかしそれさえも叶えられない現実が目の前に突き付けられている。
今の会社からの待遇、それも良いとは言えない。度重なる残業に、突然の休日出勤。断ろうものなら上司からひたすらに怒られる。
全てを投げだしたい。あの時の覇気はなんだったのだろうか。地元で就職をしてくれと、両親から頼み込まれても頑なに東京で就職することを曲げなかった自分。
確かに地元よりも給料は多少なりともいいかもしれない。ただそれでも、今のこの煩わしさを思えば地元で就職した方がよかったのかもしれない。
疲れた、と今日何度目かのため息をつく。時刻は夜の10時過ぎ。普段ならば7時前には終わるはずの仕事が今日も残業で伸びていた。残業手当は支払っている、と上の人はふんぞり返っているけれど、そんな雀の涙ほどのお金でディナーの時間を奪われるほどやるせないものもない。転職も考えたが、転職中の期間の不安さや現状に甘んじていることも含めて、結局転職はいまだにしていない。
会社から最寄り駅まで歩く道すがら、たくさんの会社員とすれ違う。今日は金曜日、お酒の入ったサラリーマンたちが顔を赤らめながら、いつもよりも幾分か軽い足取りで歩いている。もちろん硬い表情のまま、ビジネスバッグを抱えて速足で歩く人もいる。
私は前者になりたかった。今は完全に後者より。
飲み屋さんの明るい電気に、群がっている酔っぱらいの方たち。まるで虫のようだ。そんな自分もこの広い世界で、あんなちっぽけなオフィスと自宅だけが居場所なのだ。どちらが哀れなのかわからない。店の外に投げ出されているゴミの臭い、でこぼこのまま舗装されていない歩道。ガードレールに置き去りにされた鉄くず同然の自転車。都会の街中には、なんでこう綺麗な物が少ないのか。人間だって同じような物だ。
たとえ家に着いても誰もいない。つい先日まで同棲していた彼はもういないのだ。私はまだ彼のことを愛していた、彼が私を捨てたのだ。まだ気持ちの整理がついていない。ほとんどの彼の私物は、もうすでに持って行ってしまったが、歯ブラシやタオルなどの生活用品から、彼がここで生活していたことをまざまざと示してくる。いい加減片づけなければならない。次の休みの日に、部屋の掃除と一緒に片づけてしまおう。
とぼとぼと歩き続けていると、いつもの道と違う道を歩いていることに気付いた。私はどこに来てしまったのか。最寄り駅と会社への道はそんなに長くはないが少々道が入り組んでいる。もしかしたら曲がる道を間違えてしまったのかもしれない。ほとんど同じ道しか通っていないからか、何時も通っている道以外の道はほぼ知らないのだ。
とりあえず見覚えのある大きなビルを目印に駅の方向へ向かい直そうと歩き出す。少し歩いたところで、一つ気になるお店を見つけた。飲み屋ばかりが主張の強いこの街中で、そのお店だけぽつんと時代の波に飲まれずに佇んでいるように思えた。そのお店には小さな看板がついていて「カフェ 一杯一杯」と書かれていた。一杯一杯、とは店名なのか。思わずクスッとしてしまう。
一杯一杯のコーヒー店 五月に降る雨 @t5ksm1nbk
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
フォローしてこの作品の続きを読もう
ユーザー登録すれば作品や作者をフォローして、更新や新作情報を受け取れます。一杯一杯のコーヒー店の最新話を見逃さないよう今すぐカクヨムにユーザー登録しましょう。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
関連小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます