缶詰工場にて

上倉ゆうた

缶詰工場にて

 ここは――工場だろうか。

 蝸牛かたつむりの殻のような、獣のあごのような、注射器の化け物のような、太古の三葉虫のような、触手をくねらせるたこのような――。

 形は様々だが、装飾性皆無かいむという点では共通な機械たちが、視界を埋め尽くしている。往復し、上下し、伸縮し、回転し、うなりを上げ、一時の休息も許されずに働かされている。

 機械がり成す、鋼鉄のジャングル。

 その合間の狭い通路に横たわって、俺は天井をい回るパイプラインを見上げているのだった。

 起き上がると、体の節々がぎしぎしときしんだ。どうやら、かなり長い間この姿勢でいたらしい。つまり、眠っていたのか――こんな所で? なぜと記憶を探ろうとした俺は――。

 妙な違和感を覚えた。

 まるで、己の体内に空洞が開いているかのような。

 何かが、足りない感覚。


 そもそも――俺は誰だ?


 愕然がくぜんとしたのは、一瞬後だった。

 莫迦ばかな。俺が誰かなんて、俺自身が世界で一番よく知っているはずじゃないか。

 そら、試しに言ってみろ。自分の名前を、生年月日を、血液型を、出身地を、職業を、家族構成を趣味を好きな食べ物を嫌いな食べ物を初恋の相手を飼っていたらの話だがペットの名前を。

 何一つ――。

 ――思い出せなかった。

 必死に答えを掴もうとする手は、むなしく虚空をくばかり。俺の内部にがっぽりと空いた、記憶の穴を。

 足りない――。

 そう、足りないのは自分自身だった。

 遠近法が崩壊し、風景がすうっと遠ざかっていく。周囲に、見知っているものは何もない。お前など知らないと、世界から拒絶されている。すがるものは何もない。

 親からはぐれた迷子は、こんな気分なのか――否、迷子とて、自分がどこの誰かは分かっていよう。だが、俺にはそれすら分からない。すなわち、自分自身にさえ縋れないのだ。

 迷子なんて恵まれた立場じゃない――生まれてすぐ、それこそ母親の股から這い出した直後に捨てられた赤子。

 それが、今の俺だ。

 何か、何か一つでも覚えていないのか。うろうろと意味もなく歩き回りながら、俺は必死で記憶を検索した。神経細胞が焼き切れる寸前まで酷使させた脳からの返事は結局、ふぁいるガ壊レテイマス、読ミ出セマセン。

 苛立ち紛れに、壁際に積まれていた一斗缶を蹴飛ばす。そうだ、身元が分かるような物を持っていないだろうか。例えば運転免許証とか――慌てて服のポケットを探ったが、まるで俺を愚弄ぐろうするかのように、その中も空っぽだった。

 ぶち切れた俺は、足元に転がっていたスパナを引っ掴み、周囲の機械を手当たり次第にボコボコに――したところで、ようやく頭が冷えた。

 落ち着け、こんなことをしている場合じゃない。

 俺がどこの誰か、俺自身が分からないのであれば――そうだ、知っている奴に訊くしかない。

 まずは、人を探そう。そう決意し、俺はようやく、明確な目的意識を備えた第一歩を踏み出した。それは、薄氷を渡るかのような、ひどく心許無こころもとない感触だった。

 ランプを点灯させる制御版を尻目に、足元を這い回るコード類を乗り越え、けたたましいブザーに驚きながら、工場を彷徨さまよう。どうやら、かなり大規模なもののようだ。歩いても歩いても、立ち並ぶ機械の群れは途切れない。

 が、困ったことに、人影は一向に見当たらない。工程の大部分がオートメーション化されているらしい。誰かいないかと呼びかけても、返ってくるのは呪詛(じゅそ)のような機械のうめきばかり。

 誰か、誰かいないのか。この際、知人でなくてもいい。誰でもいいから、今は側にいて欲しい。

 それにしても――がちゃんがちゃんと、やかましく鋼鉄の歯をみ合わせる機械を見ながら、俺は思った。何を好き好んで自分は、こんな所で寝ていたのだろう。と言うか、よくこんな所で寝れたものだ。

 いや、あるいは、気絶していたのではないか。何かの拍子に転倒し、頭を強打でもして――そう言えば、何となく、頭に鈍い痛みがあるような気がする。

 そうだ、ひょっとしたら、記憶もその衝撃で――だとしたら、何て運の悪さだ。おい、神さんよ。俺が、何をしたと言うんだ。いや、何かしたとしても、覚えちゃいないが。

 俺の行く手を、ベルトコンベアーの川がさえぎる。その上を土座衛門どざえもんのように流されていく物体は――。

 ――缶詰? 

 これが、この工場で作られている製品だろうか。

 一つ、手にとってみる。缶は銀色の素地がき出しで、商品名も何も書かれていない。プルトップを引いて、開封してみる。ぱかりという小気味良い音と共に、かぐわしい香りが立ち込めた。

 中身は、何かの肉のようだ。調理済みで、このまま食べられそうだ。そう言えば、少し空腹を感じていたところだった。無断は気が引けるが、緊急事態だ。一つぐらい許してもらおう。

 そう思って、缶の中身を頬張ろうとした時だった。

 どくん。

 ――俺の心臓が、跳ね上がった。

 どうしたというのだろう――缶を持つ手が、動かない。

 しげしげと缶の中身を見つめる。程よく脂が乗っていて、とても美味そうだ。

なのに――急に、食べたくなくなった。

 相変わらず、腹は減っている。にも関わらず、どうしても口に入れられない。舌が、胃袋が、全身の細胞が拒絶している。遂には、持っていることすらできなくなり――結局、側にあったゴミ箱に放り込んでしまった。

 多分、あれはドッグフードか何かだったんだ。本能が気付いて、ストップを掛けたんだろう。危ない危ない。そりゃあ、いくら美味そうでも、食べたら人間失格だよな。

 そう自分に言い聞かせて、俺は体の奥底から沸き上がってくる震えを誤魔化した。

 ――その時だった。

 視界の隅で、何かが動いた。

 機械の単調な動きとは異なる、明らかに意思を備えた動き。はっと振り返る。

 墓石のような機械の陰に――いた。

 二十代前半と思しき、若い女だった。

 なかなか良い女だ。とろんとした垂れ目と、ぷっくりした唇、セットに手間が掛かりそうな髪形は、いかにも男にびを売るのに慣れていそうな感じだ。あるいは、売る振りをして食い物にするのが、か。

 人だ――ようやく見つけた。

 いざ見つかると、困ってしまう。何と声を掛ければいいのだろう。俺のこと知りませんかとくのか――変に思われないだろうか。

 だが、その心配は要らなかった。少なくとも、心配は。

 ぷしゅーっ、突如パイプの亀裂から噴出した蒸気に驚いて、俺は思わずベルトコンベアー上の缶詰を、床にぶちまけてしまう。けたたましい金属音に女がはっと顔を上げ――俺と目が合った。

 ど、どうも――という、俺の間抜けな挨拶に対する、彼女の返事は。

 絹を裂くような悲鳴だった。

 唖然あぜんとする俺にくるりと背を向け、転がるような勢いで逃げていく。その後ろ姿を見て、初めて気付いた。女が、一糸纏いっしまとわぬ全裸であることに。細身ながらも、なまめかしい曲線を描く体。それを覆う白磁のようになめらかな肌は、周囲の無骨な機械とはあまりに対照的だった。

 あれじゃ、逃げたくなるのも無理はないが――しかし、何だってこんな場所でフルヌード? ともあれ、ようやく見つけた人間に逃げられては困る。俺は必死で、待ってくれと呼びかける。

 だが、女は振り返りもしない。追おうにも、ベルトコンベアーが両者の間を分断していて――まごまごする内に、その姿は見えなくなってしまう。俺はまた、機械のジャングルに一人取り残される。

 落胆らくたんは、すぐに怒りに変わった。こっちは困っているんだぞ。裸を見られるくらい何だ。相も変わらず、冷たい女め――。

 ――相も変わらず?

 自然に湧き上がってきたその表現に、はっとしたのは一瞬後だった。

 俺は――あの女を知っているのか?

 精神の深淵しんえんから、泡のように確信が沸き上がってくる。そうだ――あの後ろ姿、見覚えがある――俺を置いて、遠ざかっていく背中――待ってくれと叫んでも、振り返ってくれない――。

 知っている。俺は確かに、あの女を知っている。

 ならば、あの女も知っているはずだ。俺が誰なのか。

 追わなければ、あの女を。俺は、先程までに倍する決意をみなぎらせ、女が逃げた方向を目指す。

 ――逃がさない、今度は絶対に。

 自然と、ベルトコンベアーをさかのぼる形になる。その合間に設置された機械を通過する度、缶詰が原料に戻っていくのが分かった。

 缶に詰められる前に、味付けされる前に、切り分けられる前に。

 一体、何の肉だろう。分からないのは、記憶がないせいか。それとも、誰でもこんなものなのか。ただ、切り分けられても、あれだけの大きさがあるということは――少なくとも、鶏肉ではなさそうだ。

 やがて、ベルトコンベアーの出発点らしき場所に辿り着いた。そこには、一際大きな――それこそ、家程もある筒型の機械が設置されていた。その下部に開く穴に、ベルトコンベアーは引き込まれていた。

 俺は思わず、寒気が走った。暗くて奥の見えないそれは――何だか、あの世への入口のようで。いや、それを言うなら、この工場はまさに地獄そのものだ。缶詰の原料どもにとっては。

 人間という名の鬼どもに、缶詰にされて食われる――ただひたすら、餌をむさぼり食うだけの怠惰たいだな日々を送っていた、それが当然のむくいなのか。

 ごろごろごろ。通路の向こうから、何かを転がすような音が近付いて来る。

 鉱山で使われるようなトロッコだった。何やら白っぽい物が満載まんさいされている。あれが加工前の原料だろうか。引いているのは、作業服に身を包んだ、おそらくは男。

 ここの工員だろうか。少なくとも、こんな所を全裸でうろついている女よりは、話は聞いてもらいやすかろう。そう思うのに、何故なぜか俺は――咄嗟とっさに柱の陰に身を隠していた。

 工員は俺に気付かず、通り過ぎていく。トロッコが重いのか、酷い猫背で、妙によろよろとした足取りだ。その顔は、影になってよく見えない。

 どくん、どくん。再び心臓が暴れだす。くそっ、今度は何だ。自分の心臓に苛立つ。何がそんなに不安なんだ。何にせよ、隠れてじっとしているじゃないか。これ以上どうしろと。

 まさか――目も閉じていろと?

 トロッコが、機械の前に寄せられる(どくん)。工員が、積載せきさい物に手を伸ばす。(どくん、どくん)。ずるぅりと穴倉から這い出す蛇のように(どくん、どくん、どくん)トロッコから降ろされたそれと(どくん!)。


 目が合った。


 そう、それには目があった。

 鼻もある。

 耳もある。

 口もある。

 手もある足もある指もある手足共に五本あるそれどころか名前も戸籍も職業も財産も人権もあるに違いない早い話が――。

 人間だった。

 中年の男だ。衣服は全て脱がされ、みすぼらしい裸をあらわにしている。

 工員に両足を抱えられ、万歳するような姿勢で引きられていく。そんな仕打ちをされても、男はぼうっと虚脱した表情でされるがままだ。その目は俺を見ているようで、何も映していない。

 工員に蹴飛ばされ、男が機械に転がり込む。たちまち、機械が唸りを上げ始める。餌を与えられた猛獣のように。時折、しゃきんしゃきんという金属音や、ざくざくぶしゅうっという名状しがたい音も混じり――。

 僅か数分後、機械は下部の穴から、肉塊を吐き出し始める。あたかも、排泄物はいせつぶつのように。それはベルトコンベアーに乗せられ、工場の奥へと運ばれていく。

 考えたくないのに、脳が勝手に再構成してしまう。自分が辿たどってきた道筋を。そうだ、あの肉はこの後、もっと細かく切り刻まれ、調理され――。

 ――缶に詰められるのだ。

 何故、あれを食べられなかったのか、俺は悟った。ドッグフード――ある意味では、その通りだったのだ。

 人間が食べてはいけないもの、という意味では。

 腹の奥底で何かがはじけ、絶叫となって喉から吹き出した。次の原料を降ろそうとしていた工員が、ぎょっと振り返る。その顔を見た途端、俺は絶叫すら上げられなくなった。

 人間ではなかった。

 魚か蛙を、強引に人間の型に押し込んだかのようだった。おかげで両目は顔の両端まで引き離され、あげくに口は耳まで裂けている。頭部は完全に無毛で、顎の下にはぱくぱくと開閉する裂け目が――。

 それがえらであると悟った瞬間、俺の脚は闇雲な逃走を開始した。嫌だ、こんな所には、一秒たりとも居られない。本能の奴隷と化して、曲がりくねった通路を走る、走る、逃げる、逃げる。

 途中、まるで刑務所のような、鉄格子の並ぶ区画を走り抜けた。中には、大勢の人間たちが、ぼんやりとたたずんでいた。あの男と同じように、全裸でうつろな目をして。いずれ彼らも、缶詰にされる運命なのだ――。

 ひょっとして――いや、そうに違いない。あの謎の女は、ここから逃げ出したのだ。彼女は、他の連中のように自失状態にはおちいっていなかったが――理由は分からないが、個人差はあるらしい。

 待てよ――。

 もしや、俺も? 

 あの女と同様、迫り来る死の運命にあらがうべく、この工場からの脱出を試みて――。

 ――いる途中、何らかの理由で記憶を失ったのか。

 せっかく記憶の手掛かりを掴んだかもしれないのに、ちっとも喜べなかった。当然だ。だって、もしこの推測が当たっていたら――。

 ぺたぺた、ぴちゃぴちゃ――背後から近付いてくる妙に湿っぽい音が、足音であることに思い至って、俺は愕然と振り返る。

 半魚人だ。しかも、今度は複数。最初に遭遇そうぐうした奴が、仲間を呼んだらしい。どいつも酷い猫背で――トロッコが重かった訳ではなく、元々ああいう骨格なのだ――ぴょんぴょんと飛び跳ねるように迫ってくる。

 俺も元は、あの牢屋――貯蔵庫と呼ぶべきか――の中にいた。

 だとしたら、この状況は。

 ――絶体絶命ではないか。

 捕まったら、俺もあの機械に放り込まれる。程よく脂が乗った、美味しい美味しい缶詰にされる。そして、さめのようにぞろりと牙が並んだあの口で。

 食われる。

 嫌だ。そんなのは、絶対に嫌だ。嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ。

 まさしく、鮫に追われる小魚のような、原始的な恐怖に突き動かされて、俺は逃げる。いや、最初から食われる立場である小魚なら、多分ここまで怖くはない。

 これは人間のみが味わい得る、食物連鎖の頂点から転落する恐怖だ。

 何なんだ、何なんだ、ここは。

 半魚人が、人間を缶詰にする工場。

 有り得ない、そんなもの。少なくとも、この世には。

 そう、この世には――つまり、ここはあの世なのか。

 地獄なのか。

 そんな、どうして。それじゃあ、俺はすでに死んでいるのか。死んでなお、つぐなえないような罪を犯したというのか。

 神も記憶も、何も応えてはくれない。

 曲がりくねった通路を、必死で走る。背後からは、まわしい足音が相変わらず――しまった、前からもいびつな影が。はさまれた。隠れて、やり過ごさなくては。どこへ、どこへ。

 しめた、トイレがある。個室に入って、奴らがいなくなるのを待とう。

 そして、無我夢中で転がり込んだ俺を。

 どんよりにごった、魚の目が出迎えた。

 彼我ひがの距離は、1メートルにも満たなかった。

 俺は悲鳴を上げる。突然のことに驚いたのか、その半魚人も、元々飛び出し気味の目をさらに見開いて、俺を凝視している。

 俺が来るなと両手を突き出すと、そいつも我が身をかばうように両手を突き出す。

 俺がよろよろと後退り、壁にへばり付くと、そいつも――。

 まるで、トレースするかのように――。

 俺の動きを、正確に真似て――。

 壁に、へばり付いた――。

 ――――。

 俺は、ようやく気付いた。

 トイレには、自分しかいないことに。

 自分が見ているものが――。


 鏡に映った、おのれの姿であることに。


 そうだ――どうして、疑問に思わなかった。なぜあの女は、悲鳴を上げて逃げ出したのか。同じ脱走仲間なら、助けてと縋り付いてきそうなものではないか。

 A.逃げていたのは、俺からだったから。

 なぁんだそうだったのかはははそりゃあ逃げるのも無理はないけけけいきなりこんな奴が現れたらくくく目ン玉なんてこんなに飛び出してへへへ口なんて耳まで裂けてひひひこのツラでどうもなんて言われたらそりゃあもうくけけひゃははうひゃひゃひゃひゃ――。

 俺は、人間じゃなかった。

 この工場で働く、半魚人だったんだ。

 嘘だ――。

 そんなの嘘だ――。

 嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ――。

 嘘だあああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ――――。

 ――あ。

 恐怖と絶望のビッグバンは、突如とつじょ終わりを告げ。

 俺の中に、穏やかな宇宙が広がった。

 そう、それはまさに、俺と言う宇宙の再創造だった。

 俺はゆっくりと立ち上がり、トイレの窓を全開にした。

 その外に広がる雄大な景色を、じっくりと眺める。

 水没した高層ビル群、かつて東京と呼ばれた都の成れの果て。

 そう――そうだった。俺はようやく、全てを思い出した。何てことだ。こんなことまで忘れていたとは。

 世界は――。


 世界は、とっくに生まれ変わっていたのだ。


 *


 以前の世界は、お世辞にも居心地がいいとは言えなかった。どこもかしこも、うじゃうじゃと人間どもが群れていて、どいつもこいつも、似たような視線を向けてくる。

 外見で人を判断しちゃいけません。学校の教師の教えを、子供の頃は俺も無邪気に信じていた。そして、みんなも同様に信じているのだと信じていた。誰もが自由で平等、素晴らしきこの世界。

 その、薄っぺらい化けの皮ががれ始めたのは、俺が思春期を迎えた頃だ。

 クラスでも評判の二枚目だった俺の顔が、日に日にゆがみ始めた。両目が眼窩がんかから飛び出し、顔の両端に寄っていく。頭髪は抜け落ち、顎の下には奇妙なしわが刻まれていく。

 インスマス症候群――医者から告げられた病名は、聞いたこともないものだった。先天性の遺伝病であり、治療法はないという。俺は生きながら地獄に落とされた。それでも、変わるのが自分だけなら、まだ耐えられた。

 耐えられなかったのは、他人の変化だ。

 親しみから、哀れみへ。哀れみから、困惑へ。困惑から、嫌悪へ。

 俺の顔の変化に正比例して、それを見る奴らの顔も変わっていった。

 そしてついには、顔を合わせることさえしなくなった。

 俺は人間の、世界の正体を知った。悲しみを通り越して、馬鹿馬鹿しくなった。浅い、底が浅いにも程がある。付き合っていられるか、こんな茶番に。俺はもう一生、誰とも関わらずに生きていこうと決めた。

 その頃からだった。奇妙な夢を見るようになったのは。

 暗い海中をただよう俺。深みから、俺を呼ぶ声が聞こえる――目覚めてからも、その夢は俺のどこかに深く残った。自宅の窓から海を見つめながら、俺はぼんやり思った。

 あの深みの向こう――そこにこそ、俺が本来いるべき世界があるのではないか。そこには海底の都市が広がり、俺と同じ顔をした人々が暮らしている。そして、彼らは俺を優しく迎え入れてくれるのだ――。

 幻想だ、現実逃避だ。そう突っぱねる俺をなだめるように、夢は繰り返し、その度にあの深みへの憧れはつのり――。

 行きたい、あそこへ。

 そう願ったまさにその瞬間、あれが始まったのは、果たして偶然だったろうか。

 すなわち――世界の転生が。

 マグニチュード9超の地震が街を瓦礫がれきの山に変え、次いで高さ数百メートルの津波がそれを洗い流した。ラジオから入る断片的な情報によると、どうやら世界中で同じことが起きているらしい。

 現時点で、すでに人類の総人口の二割が失われているとも。

 災厄はさらに続いた。あの日以来、人間達は精神に失調をきたし始めた。意味もなく争いを繰り広げ、刃で、銃弾で、核兵器で、人類の総人口はさらに減った。

 そして、タイミングをうかがっていたかのように、彼らが海からやって来た。そう、あの半魚人たちだ。無力な猿に戻ってしまった人類は、彼らが操る巨大な オウム貝や、テケリリと鳴く不定形の化け物に狩り立てられた。

 廃墟で息をひそめていた俺の元へも、彼らはやって来た。ここまでかと覚悟を決めた俺に、しかし彼らは思いもかけない言葉をかけた。

 迎えに来た、と。

 IaIaとかPn’Ngluiとか、聞いたこともない言葉なのに、なぜか俺には彼らの語る内容が理解できた。

 我らは、深淵の民。

 海底の聖都R’lyehにて眠る神、大いなるCthulhuの眷属けんぞくである。

 しかし、Cthulhuが眠れる神であったのは、すでに過去のこと。幾星霜いくせいそうにも及ぶ我らの祈りに応え、遂にかの神はお目覚めになった。R’lyehを海より浮上させ――地震と津波はその余波だった――、我らに啓示けいじを下した。

 この星を、我らの手に取り戻せと。

 さらに、彼らは続けた。深淵の民にはかつて、陸に上がり、人との間に子を成した一派がいたという。人の間にもCthulhuの教えを広め、その目覚めの日を、一日でも早めるために。

 まさか――おののく俺に、彼らはうなずいた。

 そう、俺こそ、その一派の子孫だと言うのだ。インスマス症候群とは、俺の中を流れる深淵の民の血が、顕在化けんざいかしつつある結果だったのだ。

 そう分かると、鱗に覆われた彼らの姿が、急に親しいものに思えてきた。

 あたかも、久し振りに会った、郷里の人々のように。

 水掻きの付いた手を俺に差し伸べながら、彼らは言った。人に混じって暮らすのは辛かったろう。だが、それももう終わりだ。さあ、我らと共に行こう。Cthulhuの加護の下、神代かみよの時代を築こう。

 何の貢献こうけんもしていない自分が、そんな恩恵おんけいあずかっていいのか。そう言う俺に、彼らはゲロゲロと――笑っているのだと、その時の俺には分かるようになっていた。

 そんなことはない。お前はいつも祈念していたはずだ。ここは自分が属すべき世界ではない、今の自分は本来の自分ではないと。その強い思いが、Cthulhuを数億年の眠りから覚ます呼び声になったのだ。

 ああ、そうだったのか。俺は全てを悟った。あの受難の日々は無駄ではなかった。何もかも、必要な試練だったのだ。新しい世界と、新しい自分を迎えるための。

 あの夢が、今こそ現実になった。

 法悦ほうえつの涙を流しながら、俺は彼らの手を取った。誇り高き、深淵の民の血がたぎるのを感じる。ここからだ、ここから俺の真の生が始まるのだ。ああ、Cthulhuの祝福が聞こえる――Ph'Nglui Mglw'Nafh Cthulhu R'Lyeh Wgah'Nagl Fhtagn!


 *


 そうだ、そうだった――世界は、俺は、とっくに生まれ変わっていたのだ。

 大丈夫か、工場長――トイレの外から、部下達が心配そうに声をかける。上司がいきなり錯乱さくらんして走り出したのだ。そりゃあ、心配もするだろう。

 そう、ここは俺の工場だ。自分が人だと思っていた頃――今となっては苦笑すべき思い出だ――、ここで働いていた経験を買われたのだ。新参者の俺にこんな大役を任せてくれた彼らには、本当に感謝している。

 かつてはツナ缶を作っていたが、設備に改良を加え、今では人を原料にしてR’lyehへの食料供給を担っている。地球を汚すしか能がなかったあの連中も、我々のかてになれて本望というものだろう。

 すまない、ちょっと混乱していただけだと、俺は部下たちに応え――。

 個室のドアを蹴破った。

 ――こいつのせいでね。

 中では、あの女が蒼白そうはくになっていた。

 ほとんどの人間はCthulhuの思念波のせいで廃人になっているが、こいつのように、まれ自我じがを保っている者もいる。おかげで、処理場に運ぶ途中、隠し持っていた鉄パイプで殴られ、記憶を失う羽目になったのだ。

 ――また逃げられたら面倒だ。すぐに処理してくれ。

 部下たちに引かれていく女の悲鳴を聞きながら、俺は複雑な気分だった。

 あいつ、とうとう気付かなかったか。

 俺が、かつての恋人であることに。

 付き合い始めた当初は、まるで犬みたいにべったりだったくせに、インスマス症候群が現れ始めた途端とたん、そそくさと逃げて行った。まさに、以前の世界の象徴のような女。

 それでも――貯蔵庫の中にその姿を見つけた時、思わず動揺したのは、やはり何らかの感情が残っていた証だろうか。

 Ia Cthulhu Fhtagn――祝詞のりとを唱え、以前の世界の名残なごりを振り払う。

 そうだ、あの女で作った缶詰を分けてもらおうか。二度と俺から逃げられないように、俺の血肉にしてやるのだ。

 以前の俺は、缶詰の中の住人だった。

 今度は、あいつが缶詰の中に入るのだ。

 自分の表現が可笑おかしくて、俺は自然に笑みをこぼしていた。

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缶詰工場にて 上倉ゆうた @ykamikura

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