缶詰工場にて
上倉ゆうた
缶詰工場にて
ここは――工場だろうか。
形は様々だが、装飾性
機械が
その合間の狭い通路に横たわって、俺は天井を
起き上がると、体の節々がぎしぎしと
妙な違和感を覚えた。
まるで、己の体内に空洞が開いているかのような。
何かが、足りない感覚。
そもそも――俺は誰だ?
そら、試しに言ってみろ。自分の名前を、生年月日を、血液型を、出身地を、職業を、家族構成を趣味を好きな食べ物を嫌いな食べ物を初恋の相手を飼っていたらの話だがペットの名前を。
何一つ――。
――思い出せなかった。
必死に答えを掴もうとする手は、
足りない――。
そう、足りないのは自分自身だった。
遠近法が崩壊し、風景がすうっと遠ざかっていく。周囲に、見知っているものは何もない。お前など知らないと、世界から拒絶されている。
親からはぐれた迷子は、こんな気分なのか――否、迷子とて、自分がどこの誰かは分かっていよう。だが、俺にはそれすら分からない。
迷子なんて恵まれた立場じゃない――生まれてすぐ、それこそ母親の股から這い出した直後に捨てられた赤子。
それが、今の俺だ。
何か、何か一つでも覚えていないのか。うろうろと意味もなく歩き回りながら、俺は必死で記憶を検索した。神経細胞が焼き切れる寸前まで酷使させた脳からの返事は結局、ふぁいるガ壊レテイマス、読ミ出セマセン。
苛立ち紛れに、壁際に積まれていた一斗缶を蹴飛ばす。そうだ、身元が分かるような物を持っていないだろうか。例えば運転免許証とか――慌てて服のポケットを探ったが、まるで俺を
ぶち切れた俺は、足元に転がっていたスパナを引っ掴み、周囲の機械を手当たり次第にボコボコに――したところで、ようやく頭が冷えた。
落ち着け、こんなことをしている場合じゃない。
俺がどこの誰か、俺自身が分からないのであれば――そうだ、知っている奴に訊くしかない。
まずは、人を探そう。そう決意し、俺はようやく、明確な目的意識を備えた第一歩を踏み出した。それは、薄氷を渡るかのような、ひどく
ランプを点灯させる制御版を尻目に、足元を這い回るコード類を乗り越え、けたたましいブザーに驚きながら、工場を
が、困ったことに、人影は一向に見当たらない。工程の大部分がオートメーション化されているらしい。誰かいないかと呼びかけても、返ってくるのは呪詛(じゅそ)のような機械の
誰か、誰かいないのか。この際、知人でなくてもいい。誰でもいいから、今は側にいて欲しい。
それにしても――がちゃんがちゃんと、
いや、あるいは、気絶していたのではないか。何かの拍子に転倒し、頭を強打でもして――そう言えば、何となく、頭に鈍い痛みがあるような気がする。
そうだ、ひょっとしたら、記憶もその衝撃で――だとしたら、何て運の悪さだ。おい、神さんよ。俺が、何をしたと言うんだ。いや、何かしたとしても、覚えちゃいないが。
俺の行く手を、ベルトコンベアーの川が
――缶詰?
これが、この工場で作られている製品だろうか。
一つ、手にとってみる。缶は銀色の素地が
中身は、何かの肉のようだ。調理済みで、このまま食べられそうだ。そう言えば、少し空腹を感じていたところだった。無断は気が引けるが、緊急事態だ。一つぐらい許してもらおう。
そう思って、缶の中身を頬張ろうとした時だった。
どくん。
――俺の心臓が、跳ね上がった。
どうしたというのだろう――缶を持つ手が、動かない。
しげしげと缶の中身を見つめる。程よく脂が乗っていて、とても美味そうだ。
なのに――急に、食べたくなくなった。
相変わらず、腹は減っている。にも関わらず、どうしても口に入れられない。舌が、胃袋が、全身の細胞が拒絶している。遂には、持っていることすらできなくなり――結局、側にあったゴミ箱に放り込んでしまった。
多分、あれはドッグフードか何かだったんだ。本能が気付いて、ストップを掛けたんだろう。危ない危ない。そりゃあ、いくら美味そうでも、食べたら人間失格だよな。
そう自分に言い聞かせて、俺は体の奥底から沸き上がってくる震えを誤魔化した。
――その時だった。
視界の隅で、何かが動いた。
機械の単調な動きとは異なる、明らかに意思を備えた動き。はっと振り返る。
墓石のような機械の陰に――いた。
二十代前半と思しき、若い女だった。
なかなか良い女だ。とろんとした垂れ目と、ぷっくりした唇、セットに手間が掛かりそうな髪形は、いかにも男に
人だ――ようやく見つけた。
いざ見つかると、困ってしまう。何と声を掛ければいいのだろう。俺のこと知りませんかと
だが、その心配は要らなかった。少なくとも、その心配は。
ぷしゅーっ、突如パイプの亀裂から噴出した蒸気に驚いて、俺は思わずベルトコンベアー上の缶詰を、床にぶちまけてしまう。けたたましい金属音に女がはっと顔を上げ――俺と目が合った。
ど、どうも――という、俺の間抜けな挨拶に対する、彼女の返事は。
絹を裂くような悲鳴だった。
あれじゃ、逃げたくなるのも無理はないが――しかし、何だってこんな場所でフルヌード? ともあれ、ようやく見つけた人間に逃げられては困る。俺は必死で、待ってくれと呼びかける。
だが、女は振り返りもしない。追おうにも、ベルトコンベアーが両者の間を分断していて――まごまごする内に、その姿は見えなくなってしまう。俺はまた、機械のジャングルに一人取り残される。
――相も変わらず?
自然に湧き上がってきたその表現に、はっとしたのは一瞬後だった。
俺は――あの女を知っているのか?
精神の
知っている。俺は確かに、あの女を知っている。
ならば、あの女も知っているはずだ。俺が誰なのか。
追わなければ、あの女を。俺は、先程までに倍する決意を
――逃がさない、今度は絶対に。
自然と、ベルトコンベアーを
缶に詰められる前に、味付けされる前に、切り分けられる前に。
一体、何の肉だろう。分からないのは、記憶がないせいか。それとも、誰でもこんなものなのか。ただ、切り分けられても、あれだけの大きさがあるということは――少なくとも、鶏肉ではなさそうだ。
やがて、ベルトコンベアーの出発点らしき場所に辿り着いた。そこには、一際大きな――それこそ、家程もある筒型の機械が設置されていた。その下部に開く穴に、ベルトコンベアーは引き込まれていた。
俺は思わず、寒気が走った。暗くて奥の見えないそれは――何だか、あの世への入口のようで。いや、それを言うなら、この工場はまさに地獄そのものだ。缶詰の原料どもにとっては。
人間という名の鬼どもに、缶詰にされて食われる――ただひたすら、餌を
ごろごろごろ。通路の向こうから、何かを転がすような音が近付いて来る。
鉱山で使われるようなトロッコだった。何やら白っぽい物が
ここの工員だろうか。少なくとも、こんな所を全裸でうろついている女よりは、話は聞いてもらい
工員は俺に気付かず、通り過ぎていく。トロッコが重いのか、酷い猫背で、妙によろよろとした足取りだ。その顔は、影になってよく見えない。
どくん、どくん。再び心臓が暴れだす。くそっ、今度は何だ。自分の心臓に苛立つ。何がそんなに不安なんだ。何にせよ、隠れてじっとしているじゃないか。これ以上どうしろと。
まさか――目も閉じていろと?
トロッコが、機械の前に寄せられる(どくん)。工員が、
目が合った。
そう、それには目があった。
鼻もある。
耳もある。
口もある。
手もある足もある指もある手足共に五本あるそれどころか名前も戸籍も職業も財産も人権もあるに違いない早い話が――。
人間だった。
中年の男だ。衣服は全て脱がされ、みすぼらしい裸を
工員に両足を抱えられ、万歳するような姿勢で引き
工員に蹴飛ばされ、男が機械に転がり込む。たちまち、機械が唸りを上げ始める。餌を与えられた猛獣のように。時折、しゃきんしゃきんという金属音や、ざくざくぶしゅうっという名状し
僅か数分後、機械は下部の穴から、肉塊を吐き出し始める。あたかも、
考えたくないのに、脳が勝手に再構成してしまう。自分が
――缶に詰められるのだ。
何故、あれを食べられなかったのか、俺は悟った。ドッグフード――ある意味では、その通りだったのだ。
人間が食べてはいけないもの、という意味では。
腹の奥底で何かが
人間ではなかった。
魚か蛙を、強引に人間の型に押し込んだかのようだった。おかげで両目は顔の両端まで引き離され、あげくに口は耳まで裂けている。頭部は完全に無毛で、顎の下にはぱくぱくと開閉する裂け目が――。
それが
途中、まるで刑務所のような、鉄格子の並ぶ区画を走り抜けた。中には、大勢の人間たちが、ぼんやりと
ひょっとして――いや、そうに違いない。あの謎の女は、ここから逃げ出したのだ。彼女は、他の連中のように自失状態には
待てよ――。
もしや、俺も?
あの女と同様、迫り来る死の運命に
――いる途中、何らかの理由で記憶を失ったのか。
せっかく記憶の手掛かりを掴んだかもしれないのに、ちっとも喜べなかった。当然だ。だって、もしこの推測が当たっていたら――。
ぺたぺた、ぴちゃぴちゃ――背後から近付いてくる妙に湿っぽい音が、足音であることに思い至って、俺は愕然と振り返る。
半魚人だ。しかも、今度は複数。最初に
俺も元は、あの牢屋――貯蔵庫と呼ぶべきか――の中にいた。
だとしたら、この状況は。
――絶体絶命ではないか。
捕まったら、俺もあの機械に放り込まれる。程よく脂が乗った、美味しい美味しい缶詰にされる。そして、
食われる。
嫌だ。そんなのは、絶対に嫌だ。嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ。
まさしく、鮫に追われる小魚のような、原始的な恐怖に突き動かされて、俺は逃げる。いや、最初から食われる立場である小魚なら、多分ここまで怖くはない。
これは人間のみが味わい得る、食物連鎖の頂点から転落する恐怖だ。
何なんだ、何なんだ、ここは。
半魚人が、人間を缶詰にする工場。
有り得ない、そんなもの。少なくとも、この世には。
そう、この世には――つまり、ここはあの世なのか。
地獄なのか。
そんな、どうして。それじゃあ、俺はすでに死んでいるのか。死んでなお、
神も記憶も、何も応えてはくれない。
曲がりくねった通路を、必死で走る。背後からは、
しめた、トイレがある。個室に入って、奴らがいなくなるのを待とう。
そして、無我夢中で転がり込んだ俺を。
どんより
俺は悲鳴を上げる。突然のことに驚いたのか、その半魚人も、元々飛び出し気味の目をさらに見開いて、俺を凝視している。
俺が来るなと両手を突き出すと、そいつも我が身を
俺がよろよろと後退り、壁にへばり付くと、そいつも――。
まるで、トレースするかのように――。
俺の動きを、正確に真似て――。
壁に、へばり付いた――。
――――。
俺は、ようやく気付いた。
トイレには、自分しかいないことに。
自分が見ているものが――。
鏡に映った、
そうだ――どうして、疑問に思わなかった。なぜあの女は、悲鳴を上げて逃げ出したのか。同じ脱走仲間なら、助けてと縋り付いてきそうなものではないか。
A.逃げていたのは、俺からだったから。
なぁんだそうだったのかはははそりゃあ逃げるのも無理はないけけけいきなりこんな奴が現れたらくくく目ン玉なんてこんなに飛び出してへへへ口なんて耳まで裂けてひひひこのツラでどうもなんて言われたらそりゃあもうくけけひゃははうひゃひゃひゃひゃ――。
俺は、人間じゃなかった。
この工場で働く、半魚人だったんだ。
嘘だ――。
そんなの嘘だ――。
嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ――。
嘘だあああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ――――。
――あ。
恐怖と絶望のビッグバンは、
俺の中に、穏やかな宇宙が広がった。
そう、それはまさに、俺と言う宇宙の再創造だった。
俺はゆっくりと立ち上がり、トイレの窓を全開にした。
その外に広がる雄大な景色を、じっくりと眺める。
水没した高層ビル群、かつて東京と呼ばれた都の成れの果て。
そう――そうだった。俺はようやく、全てを思い出した。何てことだ。こんなことまで忘れていたとは。
世界は――。
世界は、とっくに生まれ変わっていたのだ。
*
以前の世界は、お世辞にも居心地がいいとは言えなかった。どこもかしこも、うじゃうじゃと人間どもが群れていて、どいつもこいつも、似たような視線を向けてくる。
外見で人を判断しちゃいけません。学校の教師の教えを、子供の頃は俺も無邪気に信じていた。そして、みんなも同様に信じているのだと信じていた。誰もが自由で平等、素晴らしきこの世界。
その、薄っぺらい化けの皮が
クラスでも評判の二枚目だった俺の顔が、日に日に
インスマス症候群――医者から告げられた病名は、聞いたこともないものだった。先天性の遺伝病であり、治療法はないという。俺は生きながら地獄に落とされた。それでも、変わるのが自分だけなら、まだ耐えられた。
耐えられなかったのは、他人の変化だ。
親しみから、哀れみへ。哀れみから、困惑へ。困惑から、嫌悪へ。
俺の顔の変化に正比例して、それを見る奴らの顔も変わっていった。
そしてついには、顔を合わせることさえしなくなった。
俺は人間の、世界の正体を知った。悲しみを通り越して、馬鹿馬鹿しくなった。浅い、底が浅いにも程がある。付き合っていられるか、こんな茶番に。俺はもう一生、誰とも関わらずに生きていこうと決めた。
その頃からだった。奇妙な夢を見るようになったのは。
暗い海中を
あの深みの向こう――そこにこそ、俺が本来いるべき世界があるのではないか。そこには海底の都市が広がり、俺と同じ顔をした人々が暮らしている。そして、彼らは俺を優しく迎え入れてくれるのだ――。
幻想だ、現実逃避だ。そう突っぱねる俺を
行きたい、あそこへ。
そう願ったまさにその瞬間、あれが始まったのは、果たして偶然だったろうか。
マグニチュード9超の地震が街を
現時点で、すでに人類の総人口の二割が失われているとも。
災厄はさらに続いた。あの日以来、人間達は精神に失調をきたし始めた。意味もなく争いを繰り広げ、刃で、銃弾で、核兵器で、人類の総人口はさらに減った。
そして、タイミングを
廃墟で息を
迎えに来た、と。
IaIaとかPn’Ngluiとか、聞いたこともない言葉なのに、なぜか俺には彼らの語る内容が理解できた。
我らは、深淵の民。
海底の聖都R’lyehにて眠る神、大いなるCthulhuの
しかし、Cthulhuが眠れる神であったのは、すでに過去のこと。
この星を、我らの手に取り戻せと。
さらに、彼らは続けた。深淵の民にはかつて、陸に上がり、人との間に子を成した一派がいたという。人の間にもCthulhuの教えを広め、その目覚めの日を、一日でも早めるために。
まさか――
そう、俺こそ、その一派の子孫だと言うのだ。インスマス症候群とは、俺の中を流れる深淵の民の血が、
そう分かると、鱗に覆われた彼らの姿が、急に親しいものに思えてきた。
あたかも、久し振りに会った、郷里の人々のように。
水掻きの付いた手を俺に差し伸べながら、彼らは言った。人に混じって暮らすのは辛かったろう。だが、それももう終わりだ。さあ、我らと共に行こう。Cthulhuの加護の下、
何の
そんなことはない。お前はいつも祈念していたはずだ。ここは自分が属すべき世界ではない、今の自分は本来の自分ではないと。その強い思いが、Cthulhuを数億年の眠りから覚ます呼び声になったのだ。
ああ、そうだったのか。俺は全てを悟った。あの受難の日々は無駄ではなかった。何もかも、必要な試練だったのだ。新しい世界と、新しい自分を迎えるための。
あの夢が、今こそ現実になった。
*
そうだ、そうだった――世界は、俺は、とっくに生まれ変わっていたのだ。
大丈夫か、工場長――トイレの外から、部下達が心配そうに声をかける。上司がいきなり
そう、ここは俺の工場だ。自分が人だと思っていた頃――今となっては苦笑すべき思い出だ――、ここで働いていた経験を買われたのだ。新参者の俺にこんな大役を任せてくれた彼らには、本当に感謝している。
かつてはツナ缶を作っていたが、設備に改良を加え、今では人を原料にしてR’lyehへの食料供給を担っている。地球を汚すしか能がなかったあの連中も、我々の
すまない、ちょっと混乱していただけだと、俺は部下たちに応え――。
個室のドアを蹴破った。
――こいつのせいでね。
中では、あの女が
ほとんどの人間はCthulhuの思念波のせいで廃人になっているが、こいつのように、
――また逃げられたら面倒だ。すぐに処理してくれ。
部下たちに引かれていく女の悲鳴を聞きながら、俺は複雑な気分だった。
あいつ、とうとう気付かなかったか。
俺が、かつての恋人であることに。
付き合い始めた当初は、まるで犬みたいにべったりだったくせに、インスマス症候群が現れ始めた
それでも――貯蔵庫の中にその姿を見つけた時、思わず動揺したのは、やはり何らかの感情が残っていた証だろうか。
Ia Cthulhu Fhtagn――
そうだ、あの女で作った缶詰を分けてもらおうか。二度と俺から逃げられないように、俺の血肉にしてやるのだ。
以前の俺は、缶詰の中の住人だった。
今度は、あいつが缶詰の中に入るのだ。
自分の表現が
缶詰工場にて 上倉ゆうた @ykamikura
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