紡ぎ手

予兆




 誠二郎は、自身の聴力に人並み以上の自信があった。ゆえに、今の言葉を聞き間違いと受け取ることは難しく、それを容易とするならば自身の聴力が低下したという事実を受け入れなければならない。しかし、今この瞬間でさえ、雑踏が鳴らす足音を彩る雀の鳴き声や木々の葉が擦れる音を聞き逃すことはない。

 つまり、この、既に見慣れた女性が口にした言葉は、いかに理解し難くとも現実という形を伴ったものなのである。

「ええと、あなたは誰、でしょうか」

 この時、誠二郎の思考が停止したことを誰が責められようか。

 この女性との初対面を思い出す。祭りの日、誠二郎は喫茶店で運命の出会いを果たした。そう、運命である。彼女と出会ったからこそ、最近の誠二郎の日々は充実していた。出会わなければいつまでも過去を引きずり、部屋に閉じこもり、ひたすらに自己嫌悪を繰り返すだけの毎日だった。そこに色を与えた『本』という世界。その世界を教えてくれた女性。ゆえに彼女は運命の女性なのである。

 しかし、今の発言を鑑みるに、女性は誠二郎のことを忘れてしまったのだろうか。最後に会った時には、半ば喧嘩別れに近いものだったというのは記憶に新しい。まさか、それだけ嫌われてしまったのだろうか。

 女性は、誠二郎が何も言わないからか首を傾げた。しばらくして、再度その口を開く。

「あなたは、いつも私の話を聞いてくれていた男性では、ないのでしょうか」

 またも、誠二郎の思考は停止する。されど、一時ばかり。問いの意味を理解した誠二郎は、すぐさま答えた。

「そうです、僕です。大丈夫ですか、立てますか」

 女性の身体を支え、立ち上がる手伝いをする。その時に香った花の匂いは、誠二郎が生み出した幻想か。それとも、女性が元来持つ香りか。まとまらない思考は、雑念と煩悩、そして混乱に塗れていた。

「申し訳ありません、おかしな問い方でした。あれでは、まるで私が、記憶を失ってしまったかのように聞こえても不思議ではありません」

 立ち上がった女性は頭を下げた。前に垂れる長い前髪は、女性の表情をひた隠す。

「そういえば、体調はもうよろしいのでしょうか」

「体調、ですか」

 はて、なんのことか。首を傾げ、その意味を問いかけた時、誠二郎は思い出した。そういえば、前回の重苦しい空気の原因は誠二郎の不調にあった。正しくは、不調と偽ったがゆえ。あれは身体の不調ではなく、精神の不調だ。

 そうだ。誠二郎は彼女に嘘をついていた。それを思い出し、チクリと胸に何かが刺さる。針にしては小さく、棘にしては大きい、そんな痛みだ。

 なんて答えるか迷った末に、誠二郎は、嘘をついたことを謝罪することにした。

「申し訳ありません。あれは体調不良というわけではないのです。ただ、少しだけ、嫌なことを思い出しまして」

「寝不足、ではなかった、と」

「そういうことになります」

 今度は誠二郎が頭を下げ、女性を困惑させる。その顔を見るのが怖い。隣を行き交う人々の視線が針のむしろのように突き刺さる。羞恥はあったが、それ以上に女性の反応に恐れを抱いていた。

 なんと答えるのか。怒るだろうか、呆れるだろうか。もしかしたら、あの時怒っているように見えたのは、誠二郎の嘘を見抜いたからなのだろうか。

 そんな心配を他所に、女性は「顔を上げてください」と言う。

 女性がそう言うのだから、と半ば言い訳めいた文句を心に秘めつつ、誠二郎はゆっくりと顔を上げた。そこには、怒ったり呆れたりといった表情はなく、

「よかったです」

 心底、安心したとでも言いたげな笑顔であった。

 先程まで前髪に隠れていたはずの両目はよく見え、それはつまり、今の今まで彼女の顔を直視していなかったことを示していた。こうして、赦しの言葉を得て対面した彼女は、やはり何も変わらず、花のような笑顔を浮かべている。

「大事無いなら、それに越したことはありません。私も、つい強い言葉を投げかけてしまいました。どうか許してください」

「い、いえ。嘘をついたのは僕の方です。気にすることなんて、何も」

 そんな奇妙な仲直りを経て、二人はほんの数メートル先の喫茶店への道を歩く。照りつける日差しはどうにも眩しく、上を見て歩くことはできなさそうだけれど、その代わり、前と、互いの顔を見やることは容易であった。




 そうして二人の仲が落ち着いたところで、誠二郎はひとつ、再び自覚する感情があった。それは恋である。

 仲直りしたばかりだと言うのに、誠二郎と女性は相も変わらず本の話で盛り上がる。その最中のことであった。お茶の勉強をしよう、なんて決意した割に、未だに茶の種類がわからず、いつもどおりアールグレイティーに口を付けていた時に思ったのだ。この女性はやはり美しい、と。

 熱に浮かされたか。しかし店内の冷房調整は完璧で、熱い茶も冷たい茶も楽しめる快適な空間であった。いやそうではなく、そう、誠二郎は至って冷静である。女性の魅力に翻弄されているという一点を除いて、という但し書きが前に来るが。

 女性がカップを手に取る所作はひとつひとつがたおやかで、茶の入ったカップの重さに指を揺れることもない。まるで花を支える茎のようであった。そんな指が、ページをめくるときはただ力強いだけではない、繊細で、多感なものに生まれ変わる。

 そうして読んだ本の感想が、女性の薄桃色の唇から、色を伴って紡ぎ出される。悲しい物語を語る際には青色、手に汗握るような物語を語る際には赤色、怖い物語を語る際には濃い緑色だ。しかし、その全てにおいて彼女の表情は笑顔である。楽しくて仕方ないと言わんばかりの、満面の笑みだ。

 そうした彼女を見て、改めて誠二郎は思う。

 彼女のことが好きだ。今までのように幼稚な、ただ漠然と覚える好意ではない。今ならば、彼女の全てを好きだと言える。

 さて、それを自覚したまではいい。だがひとつ問題があった。伝えるか否かである。

 誠二郎は高校を中退し、大学にも行かず、この歳になるまで家に引きこもっていた。最近でこそ外を出歩くが、無職であるという事実からは逃れられない。そんな男が好きだ、と伝えて成功するなどありえるだろうか。ゆえに、好意を伝える場合はまずその事実を詳らかにせねばなるまい。

 そう考えて、もうひとつの問題に至る。

 誠二郎と女性は、互いのことを何も知らないのである。いいや、知っていることなら多々ある。しかしそれはこうして、互いに向かい合い、言葉を交わし、目を合わせている間に得られる情報のみだ。

 例えば、誠二郎がニートであることを明かしていないように、女性が今何歳で、何をしているのか。それどころか名前すら知らない関係だ。毎日喫茶店に通っているということは、学校には通っていないのか。加えて働いてもいない、とすると、誠二郎と同じニートだろうか。いいや、それは有り得ない。ひとりでに首を振る。

「どうかされたのですか」

 そんな挙動不審を見かね、彼女が問う。「いえ、何も」と取り繕うも、女性の訝しげな視線は依然、向けられたままだった。

「まさか、やはり体調が優れないのでは」

「それはありません。大丈夫です」

「そ、そうですか」

 やや食い気味に否定すると、その圧に負けたのか女性は引き下がる。

 自分の気持に手早く整理を付けないと、こうして楽しく話すことすらままならない。とはいえ、気軽に踏み入ることもできない。女性においそれと個人情報を聞くなど、今の誠二郎にできようものか。

 そうやってしばらく悩んでいたのだが、先に時間が来てしまった。

「あら、もうこんな時間。すみません、今日はもう帰ります」

「え、もう、ですか」

 思わず返してしまったが、これまでより大分早い帰宅だ。具体的に言えば一時間ほど。日没までにはまだ時間があるというのに、なぜ。もしや、何か気分を害してしまったのだろうか。

「いえ、母にお小言を貰ってしまって。日が暮れる前には絶対に帰ってこい、と」

「あ、ああ、なるほど」

 そういうことならば、仕方ない。誠二郎のせいでないというならば安心だ。

「明日もまた、来ますか?」

「ええ、もちろん」

 そうして女性は喫茶店から出て行ってしまった。チリンと扉のベルが鳴り、その背中を見送ろうと女性の影を目で追った時だ。

 見てしまった。

 いつも、花のような笑顔を浮かべていた女性だ。これまでも去り際の女性を横目に見たことはあった。しかし、そのいずれも、こんな顔をしたことはなかった。去る時に、こんな、今にも泣いてしまいそうな表情なんて。

 混乱した。何か、言い知れぬ不安に身体が支配され、しばらく身体が固まって。その硬直から解けてすぐ、誠二郎は残った温いアールグレイティーを飲み干した。席を立とうと膝をテーブルにぶつけ、ガタンと大きな音が鳴る。転びそうになる身体を支え、ポケットから財布を取り出し勘定を済ませようとするも、なかなか目的の小銭を取り出せない。

 会計に立つ店員は、まるで落ち着けとでも言わんばかりの目で誠二郎を見ていたが、そうなれば余計焦る誠二郎が勘定を終えたのは、女性が去ってからそれなりに時間が経った後だった。

 扉を開けると、夏も終わりだというのに生暖かい風が頬を撫でた。

 そこに、女性の姿はもうない。

 誠二郎の額を流れる汗を乾かそうと、一際強い風が吹いた。




「あら、あらあら。珍しいお客さんじゃのォ」

 悪戯っぽく微笑む、制服姿の少女は、来客の姿を視界に収めるとそう言った。来客とは言わずもがな、誠二郎である。スポーツもののハーフパンツにダボついたシャツ一枚着ただけの誠二郎は、いかにも寝起きといった様相であった。

 相変わらず効きすぎた冷房。誠二郎はいつものことながら、こんな薄着で来るんじゃなかったと後悔した。

「そんで、今日はどうしたん、お兄さん」

 平日ゆえか、いつも少女が読み聞かせをしているらしい幼児スペースに、子供の姿はほとんど見られない。少女自身、単なる学校帰りらしい様子で本を読んでいるところだった。

「いや、もしかしたらここにいるかも、と」

「なぁに、年下の女の子探して歩き回ってたと。やーらしー」

 おどけて言う少女の姿に、誠二郎は少なからず心が救われた。別に、少女に何か用事があったわけではない。ただ単に、気晴らしに来ただけのこと。

 それもこれも、ここ数日が原因である。

 あの日、誠二郎が花に喩える女性が、いつもよりも早く帰った日。あの日を境にして、彼女は喫茶店に顔を出さなくなったのだ。今日でもう五日。恐らく今日もいないのだろうと、誠二郎は惰眠を貪り、起きた頃には夕方近く。最近の習慣として、毎日家を出ていたこともあって、散歩がてら図書館へと赴いた。

「なんじゃ、うちを求めてたー、ってわけじゃないのか。残念、お兄さんじゃったら、応えてあげても良ぃ思ってたんに」

「若い子が迂闊にそういうことを言うものではありませんよ」

 冗談なのか本気なのかよくわからない戯言をあしらいつつ、特に話すことも無いなとひとまず席に着く。少女が読んでいたのは、誠二郎も、一度は目にしたことのある児童文学だった。

「やっぱ、たまには絵本以外も読まんと。表現の幅が狭くなりよる」

 祖母の影響で朗読家を目指しているという少女は、聞いてもいないのにそんなことを教えてくる。その笑顔は、以前にも喩えた通り太陽のようだ。

 ふと、誠二郎はとあることを試したくなって、少女に声をかけた。

「幾つか質問があるのですが、よろしいでしょうか」

「ん、構わんけど、なんじゃ」

「学年と名前を、お聞きしても」

「中学三年、佐伯さえきみお。受験しようと思っちょる高校は文系特化の普通校。他には」

「進学先は別に聞いていませんが」

 にひひ、と少女は笑う。

「なァ、これなんじゃ。やっぱりお兄さん、そういう趣味があるんか」

「いえ、いえ、そうではなく」

 これはひとつの実験だ。誠二郎が、女性に対し個人情報を聞くことができるか、の。誠二郎は花のような女性のことを、何一つ知らない。話は弾んでも、そういったことに触れようとしなかったこともあるが、必要無かったからでもある。しかし、彼女に対し恋心を自覚し、それを伝えようとするならば、最低限名前くらいは知っておく必要がある。それを自然に聞くための練習をしようと考えたのだ。

 結論、目の前で笑う少女に対してならば、何も問題は無かった。しかし、あの女性を前にして同じことができるかと言えば、どうだろうか。誠二郎には、そんな光景を思い浮かべることができなかった。

「ありがとうございます」

「女子の名前聞いてお礼とか、やっぱお兄さん変な人じゃ」




 違う。これはそんな明るい未来を見据えてのことではない。どちらかと言えば、誠二郎にとって喜ばしくない未来からの逃避行動であった。

 もしも、このまま二度と彼女と出会えなかったら。そんな明日を、ここ数日ずっと考えてしまっていた。

 喫茶店に彼女は来なかった。昨日も来なかった。今日も来ていない、ならば明日も来ない。それが積み重なれば、いつまでも来ない、と、そんな未来を見てしまう。

 どうして、よりにもよって、誠二郎が恋をハッキリと自覚した今になって。

 現実は、本の世界のように上手くはいかない。



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三ノ月 @Romanc_e_ier

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