砂は再び



「なあ、兄ちゃん」

「なんじゃい、いきなり」

 その日もまた、誠二郎の兄は遅くに帰ってきた。夕飯は外で食べてきたようで、その旨は母に連絡していたのだろうか、思えば兄の分だけ夕食が無かった。兄は、誠二郎の呼びかけに答えつつも、自分の部屋へと戻る足を止めようとはしない。早く、聞かねばならぬ。

「兄ちゃんって、ホモなんか」

「は」

 階段を登る足はピタリと止まり、誠二郎の全身に鳥肌が立つ。今しがた、兄の口から漏れた『は』という一文字、一言。それは今までに聞いたこともないほど、低音で、低温。ゆっくりと振り返る兄の顔を見るのが恐ろしく、咄嗟に目を伏せる。まるで母に叱られている時のような気まずさに耐え切れなくなった頃。

「部屋ぁ、入れ。俺ん部屋な」

 そう言い、兄は止まっていた足をまた動かし、階段を登っていく。ぎぃぎぃと鳴る古びた階段は、一歩でも踏み外せばどこまでも落下していきそうな不安定さで。掴んだ手すりを離さないように、壊さないように。

 どうして兄は笑わないのだろう。もしくは怒らないのだろう。そんなわけあるか、と否定すれば、それで良い話。なのになぜ、部屋に招き入れようとするのか。母に聞かれてはまずい話しでもしようと言うのか。

 だとすれば、それは、どんな話か。

「どうした、入れ」

 兄の部屋の前で固まっていると、兄はドアを開け催促してきた。だが一歩でも、その部屋に足を踏み入れば逃げられない気がして、誠二郎は、ごめん、と呟いた。

「やっぱ、なんでもないわ。気にせんで」

「あ、おい、誠二郎」

 踵を返し、すぐ隣にある部屋に飛び込む誠二郎の背に、兄の声が届く。いつも尊大で、自分勝手でわがままで、自信たっぷりで、ガキ大将だった兄の声が、その時ばかりは弱々しく聞こえた。

 靴下やペットボトル、教科書にノートが散乱する自分の部屋で一人しゃがみ込み、頭を抱え、

「まさか、本当に」

 兄は、ホモなのでは。

 思っても絶対に口にしない。口にしてしまえば最後、それが本当になりそうで、でもついさっき、それを問うたばかりで、ならばもう口にしたということで、つまり本当になってしまって、自分の兄はホモということになって、なって、って、て、あ。

 こんこん。部屋の扉をノックする音が聞こえた。がちゃがちゃ。ドアノブを回す音が聞こえた。しかし鍵の掛かったドアは開くことがなく、やがて、やれやれとでも言うように気配は去っていった。

 今のは兄か、母か、どちらだろう。どちらだとしても、今は顔を合わせたくない。

 兄がホモなんて、そんなはずがない。頭では理解していても、なんとなく、直感が、兄の様々な対応が、それを否定させてくれない。兄はホモなのだと、強く囁いている。

「なんだよ、兄ちゃんはホモ、って頭悪すぎるわ」

 ついに滑り出てしまった言葉。たぶん、おそらく、きっと、ありえないはずなのだけど、兄は。


 ◆


 次の日はなんとなく、学校に行きたくなくて、生まれて始めて学校をサボった。次の日になって、母がうるさかったから嫌々学校に行った。周囲の声が気になって仕方なく、また誠二郎自身、やけに沈んでいたため級友たちも近寄っては来ない。いつも以上に長く感じられた放課後までの時間をどうにかやり過ごし、急いで帰宅し部屋に閉じこもった。次の日、うるさい母を、昨日は行ったから良いだろと押し切りサボった。次の日、学校に行った。次の日は土曜日、部屋に閉じこもった。日曜日、部屋に閉じこもった。次の日、学校をサボった。次の日、学校をサボった。次の日、学校をサボった。次の日、母にどやされ学校に行くも遅刻、教室に入ることはなく、保健室でテキトーに時間を潰し帰宅した。次の日、学校をサボり、また土曜日がやってきた。

 やがて、誠二郎は学校に行かなくなった。それまでに数度行った学校で、もしくはその近辺で、何度も噂を耳にした。

 誠二郎の兄はホモだ、間違いない。

 何が間違いないのか。普通おかしいだろう、そんなの。しかし常識など無意味。この手の噂は、いかにおもしろいか、ユニークかに尽きる。本人たちが笑ってバカにできる内容ならば是非など問わず、永劫に弄られ続けるネタとなる。

 噂は流れた時点でおしまい。否定しようがしまいが、関係など、ないのだ。

 そうして、学校をサボり始め何日経ったかもわからぬ頃に。

 部屋の扉をノックする音が、再び響いた。

 こんこん。ここ数日でようやく気づいた、母のノックとは違う音。粗雑なようで、やけに丁寧な叩き方は兄のものだ。兄が、扉一枚隔てた外で呼んでいる。

 なんとなく、誠二郎はその戸を開けた。鍵を捻り、赤から青に変わる。まるでトイレのように不格好な鍵を選んだのは兄だったか。がちゃり、戸は開き、兄の姿が現れる。

「よぉ、なんか久しぶりやんな」

 兄の声とは思えないほどに穏やかで、優しい声。だからこそ察してしまう、噂の真実。

「ちょっとした近所でも、俺んこと噂になっとるらしいわ。はは、人気者ってか」

「アホか、バカ兄貴。人気者じゃなくて、笑われてるだけや」

 久しぶりの兄弟の会話は、そんな軽口に始まり、

「噂は、本当なんか」

 誠二郎のその一言で、核心に迫る。

 兄はパタリと部屋の扉を閉じ、散らかった部屋の狭いスペースに腰を下ろす。やけに重たく、歳を感じさせる所作だ。誠二郎と対して歳は離れていないのに、まるで心が老成しているように思えた。

 あるいは、事実そうなのかもしれない。この噂が流れて一番疲弊しているのは誠二郎ではなく、兄自身であるはずなのだ。なのにどうしてこれまで、自分が一番の被害者などと思えようか。

「なあ、もう一度聞いてもええか」

「ああ」

 そして誠二郎は再度、面と向かってその問いを発した。

「兄ちゃんは、ホモなんか」

「ああ」

 迷いなど見えぬ、一瞬の拍も与えぬ即答。それを聞いて誠二郎は、

「そうか」

 ようやく、気が楽になった。

「怒らんのか」

「怒るより、ほっとした。下手に言い訳されるよりずっとええわ」

 ここで兄が釈明でもしようものならきっと、その顔を殴り抜いていた。そんな力みも消え失せ、ただ安堵の息だけがこぼれ落ちる。

「前、非童貞を自慢したことあったろ。あれな、別に女とヤったわけじゃねえんやわ」

「つまり、男とか」

「高校入って、一番仲良かった奴。ちょーっと女っぽいとこあってん、不意に惚れてた」

「マジであるんか、そういうの」

「実際に抱くくらいには、マジな話」

 その後も兄弟の奇妙な会話は続き、奇妙な団欒は続き、奇妙な仲直りは続き、そして。

 ほろ、と。兄の目から、涙がこぼれ落ちた。ほろ、ほろ、と涙は止まらず、嗚咽も混じり、兄の体は震えている。

 会話は一時止まり、兄の漏らす、声にならぬ声だけが部屋に響き渡り、やがて、ぽつりと。

「ごめん、なあ」

 俺のせいで。そう付け加えられた一言は、誠二郎の胸にも深く突き刺さる。

「たぶん、昔付き合ってた男が言いふらしたんやわ。こっぴどい別れた方したもんで、恨んでた。俺のこと、恨んでたんやわ」

「別に、兄ちゃんのせいやない」

 次の日、誠二郎は学校へ行った。


 ◆


「近寄んなや、ホモが感染る」

 バカ言うな。そんなわけがないだろう。そう思いつつも、わざわざ言ってやる理由もないし、言えば言ったでまたこの流れが加速するだけだ。すなわち、誠二郎を排斥しようとする流れ。

 久しぶりにまともに登校してみれば、机の中には罵詈雑言を書き連ねた紙くずが大量に入っていて、机の天板の板は大きく剥がされ、しかしパッと見では気づかないなど、嫌らしい嫌がらせが施されており、みれば椅子も、座ればチクチクとするような剥がされ方をしていた。

 歩けばクラスメイトは誠二郎を避け、通った道に面白がって消臭スプレーなんかを吹きかける。殺菌スプレーではないのがまた不思議なところだ。まあ、それこそポーズだけで、消臭だ殺菌だのというものは関係ないのだろう。

 そんな地味な、言い換えれば教師の目を盗んだ姑息な嫌がらせは長く続き、結局、卒業するまで消えることはなかった。

 教師の目を盗み、などとは言ったが、噂というものはどこからでも流れてしまうもの。きっと教師の耳にも入っていただろうに、誠二郎の身の回りの変化に対し何も言わなかった理由はなんだろうか。当事者たちで解決しろ、という大人のキレイ事か。

 どうでもいい、もう誠二郎はこの学校を去るのだから。

 立ち入り禁止にも関わらず、誠二郎は学校の屋上にいた。誰もいない、風の吹き抜ける開けた空間に一人。今日を最後に誠二郎は、学校に来ないと決めた。不登校、となれば教師が家を訪ねたり、または教師に催促されたクラスメイトが訪ねてきたりと面倒だから、中退という形で校長にも話をつけた。元々高校、義務教育でなし、辞めようと思えば辞められる。

 入学した当初は、よもや高校を中退するなどとは考えたこともなかった。噂が流れ始めた当初だって、ここまでするとは思わなかった。

 でも、もうだめだ。

 先週の放課後のことだった。意地を張っていただけの誠二郎は、少しでも教室にいる時間を減らそうと急いで帰り支度をしていて、そこに例の関西出身の級友が話しかけてきた。

「なあ、ちょっとええか」

 俺の後ろを三メートル空けてついてこい、なんていう級友の後を追い、辿り着いた先は人気のない校舎裏。何か話があるのだろう、と思ってはいたが、次に吐き出された言葉に、誠二郎は、すべてを。

「すまんかった」

 謝罪。兄もそうだったが、なぜ謝るのだろうか。別におまえは悪く無いだろう。クラスメイトがイジメとも呼べる行為を繰り返す中、この友人だけは何もしなかった。だから、何も悪くなんてないのに。

 兄も、こいつも、悪くなんて無いのに。

「すまんかった」

 再度頭を下げ謝る級友に、誠二郎はなんて答えたら良いのかわからず硬直する。

「俺が、あんな風にみんなの前で聞かなきゃよかったんや。ほんま、すまん」

 だから、頭を、下げるな。

 その時点で、半ば折れかけていた誠二郎の心はポッキリと折れた。ずっと強くあろうと強がって、立ち続けてきた誠二郎だったが、もう限界だった。

 随分前から、誠二郎の心の中はぐちゃぐちゃで、兄に罪の意識を覚えさせないためにと学校に通い、でも、もうだめだ。

 そうして誠二郎は、高校を中退。後に兄も、弟を追うように大学を辞め引きこもるようになった。それが誠二郎を想ってのためなのか、それとも自らも居心地が悪くなったからなのかは、聞いたことがないからわからない。

 それでも、そうして、兄弟二人して母親に迷惑をかけることになったことだけは、間違いない。


 ◆


 照りつける日差しは、九月のものにしてはまだ眩しく、されど夏と呼ぶにもやや寂しい。今はまだ青々としている草花も、そろそろ赤黄に染まり季節は移るのだろう。

 いつもの道、いつもの街並み。ついこの間祭りをしていたと思ったが、そんな気配は微塵も感じられない。こつこつと石畳を叩く音は、喫茶店に近づくに連れ増えていく。それだけ都会が広がっている、それだけ人がいるということだが、未だに人の目に慣れることはない。あれ以来、随分と恐れるようになってしまった。大分改善されたとはいえ、かつてのクラスメイトに似た姿を見つけると萎縮してしまう。

 きっと、誠二郎があの夏に、あの校舎に置いてきたものは、社会で生きるにおいて大事なものだった。もう遅いけれど、今とは違う未来を歩めたらなんて思ってしまう。

 いつもの喫茶店が近づくに連れ、段々と気分が沈んでいく。先日が気まずい別れ方をしたためか、どうにも緊張が収まらない。大丈夫だろうか。誠二郎は、あの女性と再び、以前のように話せるだろうか。

 そうして、あともう少しで例の喫茶店というところで、見知った人影を見た。

 その人影はふわりと現れ、ずっしりとした鞄を肩にかけ、


 がくん。


 何かにつまずいたのだろうか、唐突に膝を崩し、その場に倒れた。

「だ、大丈夫ですか」

 見間違えるはずもない、その人物は件の女性である。相当に鞄が重かったようで、バランスを取ることもなく地面へと一直線だった。見れば、女性の足元には微かな段差がある。普通ならばこの程度、つまずくはずもないのだが。

 して、女性は。

「あ、ありがとうございます。私は大丈夫ですので、ええ、はい」

「本当に大丈夫なのですか。その鞄、いつものように本が大量に入っているのでしょう。喫茶店までは僕が持ちますよ」

 そう声をかけ、瞬間、女性は驚いたように顔を上げた。

 そして、


「ええと、あなたは誰、でしょうか」


 前髪に隠れる表情は読み取れず、瞳の光も見ることは叶わず。

 時計を象徴する砂は再度、こぼれ始める。





             ー狂い砂 了ー

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