狂い砂



 そよ風が頬を撫で、滴り落ちる汗を冷やしていく。いいや、冷やすのは汗ではなく体、そして血だ。体の表面を流れる血こそが冷え、全身が涼んでいく。ふと目を閉じれば、様々な雑音が聞こえてくる。葉が揺れる音、グラウンドを幾つもの足音が削り、飛ぶ虫鳴く虫散り散りに、吹奏楽部の演奏も聞こえる。もちろん、風の音だって。

 ここは学校。誠二郎が通っていた学校。しかし、誠二郎はとうの昔にここを去ったのだ。であればなぜ、今更この光景を目にすることがあろうか。簡単なことである。

 これは、夢なのだから。

「夢とは、記憶を整理する際に見るもの」

 起きがけ、声にならない唸り声のような言葉を発し、それを再確認する。頭の後ろ辺りに感じるずっしりと重たい気配を押しやり、今しがた見た夢の続きを思い出す。続きと言っても、映ったのは単なる光景。であれば、正しくは続きではなく、その光景、場所で何があったかだ。何が、あったか。

 思い出したくはない、そんな思い出である。されど、そう思えば思うほど記憶は鮮明に蘇る。

 蘇るという表現は適切ではないか。なぜなら、一時足りとも忘れたことなど、ないのだから。ただ意識しないように務めていただけで、目が覚める度、部屋を出る度、兄と顔を合わせる度に思い出してしまう、地獄と形容するが近い日々。

 イジメ。

 それは気に入らない誰か個人を排斥しようとする意思の元に行われる絶対正義。自分が悪いなどとは露ほども思わず、あるいは思っていたとして、自分の方が強いから何をしても良いと勘違いして行う、悪辣外道が所業。誠二郎もその被害者であった。その結果、学校を途中で辞め、部屋に引きこもる怠惰な少年となった。今ではすっかり青年だ。いわゆるニートだ。多少なりとも外に出るようになったとはいえ、母親に迷惑をかけている事実は変わらない。さらに加えて、それが息子二人ともなれば心労のほどは計り知れない。

「そういえば、今年の母の日は何もしなかった」

 昔だって何かしていたわけではないのに、そんな些細なことでも気にしてしまうようになった。こうして誠二郎は、腐っていく。

 ギシギシと鳴るベッドは、まるで誠二郎を載せたくないと泣いているかのよう。なんてことだ。誠二郎は無機物にまで見放されている。それともこれは、一日中寝ていないで、外に行って来いと背中を押されているのか。どちらだとしても、あまり愉快な話ではない。

 やたらと重く感じた部屋の戸を押し開けると、ちょうど母親がノックしようとしていたところらしい。うわ、と驚いたような声を上げ、目を丸くしていた。

「おはよう」

「おはよう。じゃないよいきなり。起きてたんならさっさと飯食っちゃれ」

「うん」

 母は責めない。誠二郎のことも、その兄のことも。だらしなさが過ぎるとお小言が飛んでくるが、それだって一般家庭との差異は感じられない。思わず自分が引きこもっているニートだということを忘れそうになる、と誠二郎は思うのだが口にはしない。口にできない。

 そして今日もまた、無為に砂が落ちていく。


 ◆


「どうかされましたか」

「え」

 誠二郎が座る席、その目の前に腰掛ける女性は、前髪が目にかかるほどに伸び、季節感を無視したストールを羽織っていた。いいや、季節はすでに秋に移ろい始めている。残暑が厳しいとはいえ、その姿は季節に合っているのか。見ている側としては多少、暑苦しく感じるのだが。

 逸れた思考を正面に戻せば、女性が前髪の奥から、じっと誠二郎の瞳を覗いていた。その心の深奥まで見透かさんほどにまっすぐな視線は、その隠れた美貌も相まって誠二郎を戸惑わせるには十分であった。

「どうか、とは。僕、何かおかしかったでしょうか」

「いえ、おかしいというより、おかしくないのがおかしいのです」

 それはどういう、と誠二郎が問う前に、女性は語る。

「率直に申しまして、私はあなたのことを少々、変な人だと思っておりました。変な人、物好きと言えば近いでしょうか。そんなあなたが、今日はやけに静か。ええ、そうです。それが正しい反応だったのです。突如相席を申し出た相手への反応は、それこそが正解、なのですが。今更そんな反応をされるのは、どうしてなのか、と。どうかされたのか、と。ゆえに、先の問いです」

 なるほど。一つ頷く。幾つか首を捻るところはあれど、そのような問いが出た理由は理解できた。つまりは、誠二郎が常とは異なった態度であるということだ。思えば今朝から、呆ける時間が多いと自覚する。それは、あの夢が原因なのだろうか。久方ぶりに見た夢、されどいつまで経ってもついて回る粘着的な記憶。

 それを彼女に語るのは容易い。しかし、男の意地とでも言おうか。結局誠二郎は、口を閉ざすことにした。

「いえ、どうもありません。お恥ずかしい話、昨夜遅くまで起きていたもので。寝不足が祟っているようです」

「あら。でしたら早くお帰りになって、お休みになられた方が良いのでは」

「そこまでのことでは。あなたと話すことのできる貴重な時間なんです。比べれば睡眠よりも重く受け止めるべき時間なのは明白、でしょう」

 途端、女性の顔が曇ったように見えた。前髪に隠れた両の目、そこへさらなる影が落とされ、鋭く光る。まるで柔肌を切らんとするページのようである。

「比べれば自明。ええ、そのとおりでしょうとも。大事にすべきなのは私との逢瀬ではなく、貴方自身の体です。私はこれで帰りますので、貴方も、くれぐれもご自愛なさいますよう。ゆっくりおやすみなさいませ」

 何か気に障ることを言っただろうか。そう確認する間も与えてもらえず、女性は立ち上がり、やはり重そうな鞄に体を引っ張られつつ店を出て行く。やや苛烈とも取れる発言は、本当に誠二郎のことを慮ってのことなのだろうか。それとも。

「ああ、なによりも」

 誠二郎は女性に対し、嘘をついてしまった。昨晩は、気分で日付が変わる前には寝て、起きたのが一〇時近くという、惰眠と呼べるほどの時間眠ったのに。睡眠不足なぞ、あろうものか。

 一人取り残された喫茶店を包む静寂、あるいは、クラシックだと聞かされた音楽。

もしや、誠二郎は間違えたのだろうか。何を。読解、思考、選択、発言。いったい、どこで。考えてもわからぬこの状況は、過去を想起させる。思えばあの時も、いくら考えたって答えなど出なかった。


 ◆


「やあ誠二郎。おまえホモとちゃうんか」

 級友の唐突な問いに、いつもの冗談かと誠二郎は軽く受け流す。

「もしそうだとしたら、今頃この教室の男子を五、六人食うとる」

 そしてまた、いつもならば、ここで級友は笑いながら、はは、せやな、なんて言うのだ。しかしその日は少々毛色が違い。

「ああ、まあ、おう。せやな、悪かった」

 歯切れの悪い応答は、勢い余るが如しな級友には似合わず、違和を感じるには十分すぎる差異だった。ふんふんと頷きながら、首を傾げながら、タップダンスでも踊るかのように誠二郎の席を去っていく。

「なんだ、今の」

 ふと周囲を見れば、いつも以上に視線が集中している気がする。普段であれば、たった今話しかけてきた関西出身の級友や、その他多くの友人と集まって、それが騒がしいといった意味での視線を向けられる。それは慣れたものだ。だが、今感じているのは、どこか。

 居心地が、悪く。

 ひそひそ、ひそひそ。いいや、違う。そんな曖昧で抽象的なものでなく。

「なあ聞いたか」「聞いた聞いた」「何を」「おまえ知らんのか」「あいつの」「まっさかー」「聞こえるってば」「見に行こうぜ」「兄貴が」「関係なくない」「あ、おまえ、もうそろそろ昼休み終わんべや」「っていうかもう卒業してるわ」「なんか嫌だ」「ほれ、おまえも掘られるぞ」「隠さなきゃ」「カミナリ様とヘソじゃないんだから」「放課後どこ行こうか」「駅前の新しい」「見ろよこの時計」「うわこっち見た」「バイト、休みもらえん」「奮発したったわ」「えっとな」「うん」「あいつの兄貴が」

 なぜだろう。意識を向けた途端、滑り込んでくる圧倒的な情報量。昼休みの教室は、こんなにも騒がしい場所だったのか。いつもは騒ぐ側だった誠二郎がそのことに気づいたのは、つまり誠二郎が騒いでいないことを意味し、さらにそれは、いつも勝手に誠二郎の周りに集まっていた友人たちが、誠二郎から距離を取っているということである。

 別に年がら年中一緒にいるわけではないが、今日のそれは、そう、恣意的なものを感じた。

 そして、それを自覚してからはさらに耳に言葉が滑り込んでくる。意識を逸らすためにと、鞄の中から漫画を取り出し読もうとしても、内容が頭に入ってこない。吹き出しの中の文字が次々とこぼれ落ち、意味のない記号へと成り代わる。漫画に集中できないのはなぜか。簡単なこと。耳だ。耳が、教室中の会話を聞き漏らさんと立っているのだ。そして、その会話を掴んだ。

「あいつの兄貴が、ホモやったて」

 ピタリと、すべての音が止んだ。そう感じた。実際には、会話はどこも途切れていない。依然雑音のような言葉の応酬のど真ん中に位置し、だが誠二郎だけは時間が切り取られたかのように何も聞こえない。

 意識が停止した。思考が停止した。全身が硬直し、漫画のページを繰る手が止まった。

 ホモ。って、なんだっけ。

 誠二郎の兄は、二年前までこの高校に在籍していた。今は大学に行き、今まで以上に自由な時間を謳歌しているはずだ。彼女がいるという話を聞いたことはないが、仲の良い女子ならば、何度か一緒にいるのを見たことがある。なんたらとかいうサークルに所属しているそうだから、そのメンバーかもしれない。

 ホモ。って、なんだっけ。

 家に帰ってくれば図々しく飯を乞い、それでよく母にお小言を頂いていた。兄は何度も謝るのだが、母のツリ目は下がることがなく、結果誠二郎まで被害を被るのだ。母の機嫌が悪くては家事もままならない。それで困るのは兄だけではなく自分もだ、と説き伏せ、土下座させ、なんてことを何度繰り返したかわからない。そして母は、土下座を見る度こう言うのだ。実の母親に、土下座なんてするんじゃない。と。そうしてようやく、やれやれといった感じではあるが、母は気を持ち直す。

 ホモ。って、なんだっけ。

「おい誠二郎。おまえ、なんじゃこの漫画は」

「は」

 いつの間に来ていたのだろう。次の授業を担当する教師が、誠二郎の席まで来て、机の上に出ている漫画を指してそう言った。チャイムが聞こえた覚えはない。クラスメイトが席に着いた音も、教師がここまで歩いてきた、その足音も聞こえなかった。

 伏していた顔を上げると、そこには誠二郎を見下ろす教師の顔がある。

「なに驚いた顔してんだ、ボケ。学校に要らんもん持ってくんなや。それとも何か、家で処分するのがめんどくさくて、教師に回収させようってか」

「いや、あの」

「とりあえず、こいつぁ没収。ほれ、他にも要らんもん持ってきてるのはおらんか。荷物検査するぞ」

 唐突に始まった抜き打ちのそれに、クラスからブーイングが巻き起こる。それは教師に向けられているようで、その実、キッカケとなった誠二郎へと向けられているように思えた。

 なにしてんだ、このバカ。

 言葉ではない声でそう言われているような気がして、それまで仲の良かった級友ですらも、そう言っているような気がして。なぜ、どうして。きっと困り果てた顔をしているのだろう自分の顔が、不自然に歪んでいく自覚があった。

 ぴくぴくと目の下が動く。その度に視界がぶれ、全身から冷たい汗が吹き出す。寒気が止まらない。なんだこれ、自分が悪いのか。漫画を持っていた、しかし今は虚空を掴む手が徐々に、されど硬く握られて、ぎりぎり、ぎりぎりと。

 どこか遠くから、誠二郎を笑う声が聞こえる。バカがいるぞ。そうやって、愚かしい誠二郎をあざ笑う声が。

「おまえ、何笑ってんだ」

 しかし、教師の声によって知る。その笑い声は他者のものではなく。

「はは、あははははははははははははははははははははは、ははははははははははははははははははは、あははははははははははは、」

 誠二郎、自身のものであると。

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