狂い砂

太陽の夢



 世間の夏休みはまだ続く。最近では、一ヶ月より長く、最長で八、九月の間ずっと休暇である学校も存在するという。その理由が、留まることを知らぬ暑さであることは、誠二郎にもわかっていた。ただでさえ三○度近い気温、加えて誠二郎の部屋は風通しが悪く、こもった熱気の逃げ場がない。呼吸すら苦しいと感じられる部屋で、汗を流しながら横たわっていた。暑いのならば部屋を出ろ。母親にそう言われて一時間が経つ。ああ、その通りだ。部屋の外、廊下であればまだ涼しいだろう。しかしそうすることすら億劫で、結果、惰眠を貪っている。

 はて、今日は八月の何日だったか。部屋にカレンダーは無く、ケータイも手元に無い。さらに言えば自らの日にち感覚、曜日感覚すら失せている。ただ、祭りの日にちは覚えていた。八月一三日だ。あの日、誠二郎は彼女ヽヽと出会った。次いで一週間後、彼女に勧められ、異世界を知った。それは『本』の世界。そこで誠二郎は彼女と心を、身体を重ねた。それ以来誠二郎は、それなりに本を読んでいる。彼女が勧めるもの、自らが興味を持ったもの。いずれにせよ、新しい発見ばかりだ。

「ああ、そういえば、返却期限が今日までのものがあった」

 ずぼらゆえに忘れていた。机の上に積まれた三冊の本。これらを図書館に返却しなければいけない。

 先日の一件で、もっとたくさんの本を読みたい、そう思った誠二郎であったが、ひとつ問題があった。それは金銭面でのものだ。あまりお小遣いを渡されていない誠二郎は、一冊五、六○○円程度の本ですら、数が重なれば苦しいものがある。彼女から借りるのも限度がある。そんな折、彼女に図書館を勧められたのだ。図書館ならば、買うよりも安く借りることができ、読むことができる、と。古本屋に行くという手もあると言うが、最も近い古本屋へはかなり自転車を走らせねばならない。その点、図書館であれば近場にある。そういった理由から図書館を利用した。

 この暑い中図書館まで行き返却せねばならない。それは苦労であるはずだ。暑いし、面倒臭いし、暑いし。そういった倦怠感を押し退け身体を起こす。最近の誠二郎は、本に関することだけは真摯なのだ。

 汗にまみれたシャツを脱ぎ捨て、ハンガーにかかったシャツから適当なものを見繕う。下はこのままで良いか、とスポーツ物のハーフパンツ。三冊の本を手提げ鞄の中に入れ、部屋を出た。途端、ひんやりとした空気が流れ込む。部屋にこもっていないで、最初から外に出ていれば良かった。なぜ一時の面倒に気を許したのだろうか。ぎしぎしと軋む階段を下り、洗面所へと向かう。鏡を覗き込めば、そこには寝癖を立たせた、貧相な面持ちの冴えない男がいる。これからはもう少し、身なりに気を配ろうか。とりあえず、明日から。寝癖を直し、歯を磨く。ああ、忘れていた、と顔を洗い、次は居間へと向かった。そこには、いつもと変わらず、アイスキャンディーを咥えた兄がいる。

「今日もどこかに出かけるんか」

「うん。図書館に」

「ほぉか。まあ、あうとどあヽヽヽヽヽなのは良いこった」

 それだけ言うと、兄は誠二郎から視線を外した。

「行ってきます」

 そう一言だけ残し、居間を後にする。玄関へと向かう際、母とすれ違った。兄と交わしたようなやり取りを再度交わし、母は居間へ。玄関でサンダルを履いている時、

「お前も早く外に出ぇや。図体でっかいのがずっと家におったら邪魔でしゃーないわ」

「悪かったなぁ」

 などというやり取りが聞こえてきた。本当、誠二郎とその兄は、母に迷惑をかけっぱなしである。

 玄関のドアを開け放ち、目を焼かんばかりの日照りに遭う。今年の夏は、肌を焼くことになりそうだ、なんて思う。

 玄関にかけられたカレンダーを確認したら、今日は八月二四日であった。



 やけに冷房のかかった館内で、ひとつ身震いをする。無事に三冊の本を返却し終えた誠二郎は、しばらく涼んでいた。しかし、そろそろ涼しいを通り越して寒い。薄着で来たのが悪かったのか、それとも汗をしっかりと拭かなかったことが原因か。冷房の効いた館内は身体に毒である。帰ろう、と思い、ソファから立ち上がった時であった。

「最後に残ったのは、おばあさんと、犬っころ一匹だけでした。おしまい」

 図書館の一角、絨毯が敷かれた、幼児用スペース。そこから、そんなフレーズが聞こえてきた。ふと気になり近づいてみれば、そこには、

『読み聞かせ

 時間 一○時から一一時まで

 内容 むかしばなし』

 といった立て看板があった。図書館ではこういった催しも行われているのか、と視線を向ける。集まった子どもたちの前で、本を持った女性が、抑揚を付け、感情を表し、声で『本』の世界を体現する。その世界に子どもたちは魅了され、目を輝かせていた。それを見て、懐かしいと思う。小学生の頃、授業でこうして読み聞かせの時間を設けることが何度かあった。確か、話が退屈でいつも寝てしまっていたけれど、今になって、もったいないことをした、と後悔する。

 して、本を持った女性が椅子から立ち、次の人へと交代する。交代した、のは。

「あ、」

 どこかで見たことのある顔、格好。

「ほいじゃあ、よろしくお願いします」

 聞いたことのある声、口調。それは紛れもなく、見間違えることもなく、いつか書店の前で出会った女子高生であった。

 漏れた声が大きかったのか、女子高生の耳に届いたようで、その視線が誠二郎の方へと向いた。一瞬、ポカンとしたが、すぐに誠二郎のことがわかったようで、小さくウインクをしてみせた。女子が見せた反応はそれきりで、読み聞かせが始まる。別に聞く理由も無いし、かと言えば彼女の読み聞かせが終わるのを待つ理由も無い。しかし、なぜか誠二郎はその場で彼女の声を聞いていた。

 むかしむかし、と決まり文句から始まった物語。内容は普遍的なもので、誠二郎でも知っているものだった。しかし、語り手ひとつで物語はここまで変わるものか。女子の声は次から次へと移ろい、まるで何人もの語り手がいるようである。しわがれた老婆の声、張り切る動物たちの声、下衆な悪党どもの声。気付けば誠二郎も、女子高生の語りに引き込まれていた。

「はい、おしまい」

 その一言で、誠二郎は現実へと引き戻される。控えめな拍手が鳴り、女子がどうだった、と聞けば、子どもたちは面白かった、楽しかったと簡単で、しかし、だからこそ素直なその気持ちを口にした。それを見て女子高生は、眩しい笑顔を見せる。喫茶店で彼女ヽヽが見せた花のような笑顔とは違い、こちらは太陽のような笑顔だ。

 手番を終えた女子高生は、次の人へと代わり、その場を抜け出す。その足は誠二郎へと向いていた。まさかこちらに来るのだろうか、という疑問はすぐに解け、予想通り女子高生は誠二郎の下へとやってきた。

「お久じゃね、お兄さん。また自動ドアに無視られたりされとらん?」

「そんなこと、滅多にあっても困ります。お久しぶりですね」

「ぶぅ、つまらん返し。もっと楽しく話そうよォ」

 楽しくも何も、赤の他人相手にそこまで親しげにできるだろうか。長らく人付き合いが無かった誠二郎がおかしいのではないだろう。この少女が人懐っこいのだ。

「お兄さん、暇ならうちと話そォ。図書館にいるなら、本とか好きなんじゃろ。うちもそこそこ好きじゃけぇ」

 歳相応の笑顔を湛え、フリースペースへと誠二郎を誘う。こんな冴えない男と何を話すと言うのか。誠二郎の頭の中は疑問でいっぱいになる。

「僕のこと、よく覚えていましたね」

 誠二郎の格好はあの日のものとは大きく違っている。その上寝癖も中途半端にしか直っていないし、そもそもあれは何日も前の話。しかもたった数分話しただけだ。いいや、話したと言えるのかさえも怪しい。

「あはは。自動ドアが開かないって困ってるのが面白くて、今でも思い出し笑いするんよ。強烈な印象じゃったし。それに、そんなこと言ったらお兄さんだって、うちのこと覚えとったよ」

 誠二郎の場合は、この少女があの時と同じ格好、セーラー服姿でいるからというのも大きい。

「あなたは、何度もこうして読み聞かせに参加しているのですか」

「うん。良い練習になるけぇ、無理言って参加させてもらってた。でも今じゃ、あっちからお願いされるくらい」

「練習とは、どういう意味なのでしょう」

「まんま、朗読の練習。うちね、夢があるんよ。朗読家になるって夢。そのための練習じゃね」

 指を立て、恥ずかしがることなく夢という言葉を口にする。少女は再び太陽のような笑顔を見せた。少女ほどの歳で、将来の夢に向けて具体的な行動を起こしているのを見ると、何もしてない、何もしてこなかった自分が恥ずかしくなる。誠二郎は何も言わず、ただ少女の話を聞き続ける。

「昔っからお祖母ちゃんっ子で、何度も何度も本を読んでもらってた。そうするとね、やっぱり好きになるんよ、そういうのが。読んでももちろん面白い、けどお祖母ちゃんに読んでもらうと倍面白くなる。憧れて、うちもこうなりたいって言い出すまで、時間、かからんかったよ」

 唐突な身の上話を聞かされ、だからどうした、と言う事もできただろう。しかし誠二郎は、そんな少女の話に聞き入っていた。どうにもこういった話は気になって仕方がない。少女にしても語りたがりなのだろう。相槌ばかりの誠二郎にも構わず問いかけてくる。

「ね、うちの語りどう思ったん。聞いてたんじゃろ」

「良かったです。声の使い分けとか。知っている話なのに、まったく別の話を聞かされているような気分でした」

「うんうん、お兄さんってばお上手」

 ぱちぱちぱち。少女の性格を現したかのような、元気で軽快な拍手だった。ここで面白い返しができれば満点だったのだろうが、生憎と誠二郎はそういうものは苦手である。どうも、なんて気の利かなくてつまらない言葉しか出てこなかった。

「ところで、お兄さんは夢とかあるん」

「いいえ、まったく」

 即答だった。当たり前だった。誠二郎には、将来なんてものは見えない。一年後、自分がどこでどうしているのか。いろんな未来を思い浮かべようとしても、結局は家で親のすねを齧っている姿しか想像できないのだ。そんな誠二郎が、どんな夢を思い描けようか。

「大人じゃねぇ。夢とかダッサいて思ったりしちゃうんかな」

「そんなことはありません。むしろ、明確な夢があって、それに向かってしっかり努力できるのは素晴らしいと思います。ええ、尊敬すらしますとも」

 自然と顔は下がり、声が暗くなる。

「ええ、尊敬、しますとも」



 お兄さんにもいろいろあるんじゃろうねえ。そんな少女の言葉に救われた。一回りほど年下であろう少女に気を遣われるなどどうかしている。そう思いつつも、誠二郎にはそれほどの愚かさがちょうどいいのかもしれない、とも思う。

「また話そォねえ」

 別れ際に見せた少女の笑みは微かに曇っていた。それを曇らせたのは誠二郎だ。たまに外に出てみるとすぐこれだ。憂鬱になり、他人にそれを伝播させ、同情を誘ってしまう。そうしたいと心のどこかで思ってしまう。未だに昔のことを引きずっているのだろうか。引きずっているのだろう。兄のことを許しても、周囲との関係を諦めても、やはり思い出してしまうのだ。

 ふと見上げれば、木の葉の隙間から光が漏れていた。とても夏らしい光景で、同時に嫌になる光景で。ああ、そうだ。あの時も夏だった。

 今日はもう帰ろう。誠二郎の足は前へと進む。しかし視線は落とされ、どれだけ歩いても前に進んでいる気がしない。まるで誠二郎の人生そのものを表すかのようだ。

 夏が嫌いだ。祭りが嫌いだ。


 それでも、本は好きでいたい。

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